キングダムの裏話

秦が趙の「ぎょう」を奪い取る話と西門豹の活躍

秦の「ぎょう」の攻略と西門豹

※業という字に似ている地名なのですが、漢字にするとエラーが出てしまうので「ぎょう」と記載させて頂きます。

この記事を書いている時点では、キングダムでは秦の軍事の最高司令官である昌平君が奇策を使って「ぎょう」を攻略しようとする所です。
この時に、李牧は東側の太行山脈の防備を固めていて、そこから正攻法で攻めるには困難を極めると昌平君は判断しました。

そこで、奇策を使って趙の首都である邯鄲の南側の趙の第二の都市とも言える「ぎょう」を攻略しようと言う話です。結論から言ってしまうと、「ぎょう」は秦によって奪われてしまいます。
史実だと王翦が初めて登場する戦いとなります。意外に思うかも知れませんが、史実ではここで初めて王翦が登場するわけです。
この時に、王翦、楊端和、桓騎らと共に「ぎょう」を陥落させたと言う記述があります。

キングダムの雰囲気で言うと、「ぎょう」という地は長年に渡って趙の第2の土地として栄えていたような感じがするのではないでしょうか?
しかし、実際には、3年ほど前に魏から趙へ与えられたようです。

与えたのか、魏が秦の攻撃から守る自信が無くて手放したのか、割譲したのかは分かりませんが、史書によると、239年に魏が趙に「ぎょう」を与えたという記述があります。
秦が「ぎょう」を陥落させるのが236年の事なので趙の支配下だった時期は3年しかない事になります。

「ぎょう」をどのように陥落させたのか?

趙の「ぎょう」をどのように陥落させたのかですが、史書の記述によると閼与や9城を落としてから軍を5分の1にして精兵だけを残して、「ぎょう」を陥落させたという記述があります。

どのようにして落としたかなどの詳しい記述はありません。
王翦、楊端和、桓騎は歴史書に書かれていますし、参戦した事は間違いないでしょう。
しかし、信、蒙恬、王賁などが参戦したと言う記述は見た事がありません。

キングダムの作者は「ぎょう」をどうやって陥落させるのか楽しみでもあります。もしかして、最初から精兵だけを送り込んで戦いを挑む事も考えられます。
もう一つが「ぎょう」が陥落する236年に趙は燕を攻めたと言う記述があります。その隙をついて、秦が「ぎょう」を攻めたと言う話です。
韓非子という書物があるのですが、それによると236年に燕を攻めたのが、ほう煖(ほうけん)であると言われています。ほう煖が燕を破り貍と陽城を取り南下して「ぎょう」を救援に行ったけど、間に合わなかったと言う話です。
ちなみに、これが「ほう煖」に関する史書の最後の記述になります。最後に「ほう煖」がどのようになるのかは分かりませんが、何かドラマチックな事をしてくれるような展開だと思いました。

ちなみに、「ぎょう」を秦が奪った後に、趙がまた奪い返したという記述はありません。ここが趙滅亡の布石の一つになるんじゃないかと思っています。

「ぎょう」と西門豹

西門豹と言う人物を紹介しようと思いました。
西門豹が活躍したのは、戦国時代の初期の頃です。まだ、秦よりも魏の方が強大な力を持っていた頃です。この戦国時代の初期に西門豹が「ぎょう」の県令になりました。

当時の「ぎょう」はなぜか発展しない土地であり、魏の文侯に命じられて西門豹が県令になりました。なぜ土地が発展しなかったかと言うと、黄河の神を鎮めると言う事で、大老や巫女、その弟子、役人などが住民から莫大な費用を取っていたからです。この当時は、黄河に川の神様がいたと住民は信じていました。その話を聞いて、西門豹はその黄河の神を鎮める行事に参加したわけです。
ただし、西門豹は自分の部下に絶対に自分の命令は聞くように忠告しています。聞かない部下は首をはねると言って脅してもいたようです。話を戻しますが、黄河の神様に美人の女性を届ける決まりがありました。届けると言っても、美人の女性を黄河に沈めるという儀式です。

この時に、西門豹は黄河の神に届ける女性がブサイクすぎると文句を着けます。巫女や地域の大老には「もっと、いい女を届けるから、もう少し待っていてくださいと。黄河の神に言って来てくれ」と難題を突き付けます。
巫女や大老がどうしていいか分からないで困っていると、自分の部下の兵隊を使って、無理やり黄河に流してしまいました。

そして、西門豹自身は巫女や大老が全然返って来ないと言う事で、関係者を次々に黄河に流してしまうわけです。夕方になっても、誰も返って来ないので、仕方なく全員に帰宅させました。それ以来、黄河の神に祈る儀式は無くなったそうです。
その後、西門豹は黄河の水を使って治水を始めました。村人などはなぜこんなことをするのか分からずに文句を言ったと言います。

しかし、西門豹の方は、そんな事は別に分からなくてもいい100年後には凄い事になっているような事を言ったとされています。
その後、「ぎょう」は大発展したという記述があるのです。趙と言うよりも、「ぎょう」は魏に取って重要な地であったのかも知れません。尚、漢の時代になってから西門豹の治水した場所を取り壊して新しい灌漑作業をしようと漢の役人は考えたと言われています。
しかし、住民は西門豹様が作った灌漑だからと嫌がったという話もあるのです。住民にも慕われていた事が分かる記述です。

西門豹の最後

西門豹は、かなり清廉潔白の人だったようです。
しかし、主君である魏の文侯の取り巻きの人達が賄賂を要求しても、一切、渡さなかったと言います。しかし、この事が後に西門豹が魏を去る要因になるわけです。

西門豹は魏の文侯の取り巻きの連中に賄賂を渡さなかったために、かなり悪く言われてしまい、魏の文侯は解任を考えたと言う話があるのです。
つまり、一生懸命仕事をして実績のあるのに、賄賂を贈らないために失脚しそうになったのです。解任はされなかったのですが、西門豹は次はせっせと文侯の取り巻きの連中に賄賂を贈るようにしました。

そうすると、業務報告に行ったときに、魏の文侯は大絶賛したわけです。これに違和感を持ったのか、西門豹は魏を突然去ってしまいます。
この後の、西門豹がどうなったのかは史実には記載がないので分かりません。尚、三国志で有名な曹操は西門豹にかなり敬意を持っていたようで、自分の墓を西門豹祠の西に作れと指示しています。

さらに、曹操の作った魏(戦国時代の魏とは別の国)は、初期の頃は「ぎょう」を拠点にしていました。戦略的に重要な地でもあったのでしょう。
中国の戦国時代では邯鄲の方が重要な地になっていますが、後の世では「ぎょう」の方が重要な土地になっています。

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