キングダムの裏話

キングダムの秦の外交官である蔡沢の史実での活躍は、どんなものだったのでしょうか?

史記の范雎・蔡沢列伝

蔡沢についてですが、キングダムでは非常に知恵に凄みがある外交官の爺さんと言った感じで登場します。
実際に史記においても「范雎・蔡沢列伝」と言うのがあって実在した人物であることは間違いありません。
ただし、「范雎・蔡沢列伝」の大半は范雎に関する記述で蔡沢に関する記述は少ししかありません。
蔡沢は秦で出世する事になるのですが、出世に関しては范雎がいなければ出世は出来なかった可能性も高いです。
范雎に関しても、紹介したいと思います。

蔡沢を推挙した范雎はどんな人?

蔡沢を推挙した范雎は、秦王政のおじいちゃんである昭王の時代の人です。
最初は魏にいたのですが、内通を疑われてしまい当時の魏の宰相である魏斉に拷問を受けてしまいます。
その拷問の内容がひどく便所に捨てられて、皆に小便を掛けられたとされています。
ひどい仕打ちですよね。
それが無実の罪だったので、范雎としては魏斉に対して深い恨みを持ったようです。
この時に、助けてくれたのが鄭安平と言う人物で、鄭安平が秦の王稽と范雎を引き合わせました。
その後、王稽が秦の昭王と范雎を面会させて、昭王が范雎を気に入り大臣として、最終的には范雎が宰相となりました。
鄭安平と王稽のお陰で范雎は出世する事が出来たという事です。
もちろん、范雎は宰相になった後、魏に対して、魏斉の首をよこせと脅しつけています。
その後、魏斉は逃亡するわけですが、結局、逃げ切れない事を悟り自殺してしまいました。
人の恨みは買わない方がいいという教訓ではないかと思います。

遠交近攻政策

范雎は秦では、改革を行っています。
まず、范雎が秦に入った頃は、「魏ぜん」という人物が牛耳っていました。
政治の実権は「魏ぜん」と姉である太后が握っていて昭王はお飾りだったようです。
これを范雎がよくないと進言して昭王がそれを感じ取り、「魏ぜん」と太后を政治の中枢から外しました。
それで、代わりに宰相になったのが范雎だという事です。
范雎の政策として「遠交近攻策」を述べたと言われています。今までの秦は遠くの斉などの国を攻めていた事もあったようです。
それを完全にやめて斉などの遠くの国とは同盟を結び、近くの魏や韓を攻めるという政策です。
もちろん、同盟を結んだ斉には、攻める国の後方を脅かして欲しいという狙いがあったようです。
これらの進言があり秦は領土を大きく広げました。
もちろん、領土を広げるのに対して、名将・白起などの活躍があったことは言うまでもないでしょう。

范雎の光と影

范雎は武人としては、活躍はしていませんが、宰相として秦の方向性を決める上で重要な働きをなした人物です。
長平の戦いで白起将軍が趙軍40万人を生き埋めにするわけですが、この戦いでも裏では范雎が活躍したとされています。
趙の孝成王は秦軍が攻めて来た時に最初は、廉頗を将軍にして防がせていました。
しかし、廉頗はこの時、年老いていましたが、既に名将として広まっていました。
廉頗では秦軍は勝つのが難しいと考えた范雎は、趙に流言を流します。
「廉頗は年老いた、秦軍が恐れるのは趙括が将軍になる事だ」という噂を流したわけです。
趙の孝成王は見事に引っ掛かってしまい廉頗を解任して、趙括を将軍にしました。
ちなみに、趙括と言うのは、キングダムで言う初代三大天趙奢の息子です。
ちなみに、趙奢は、趙括は口は立つが実戦では役に立たないから用いてはいけないと遺言したとされています。
趙括が将軍に任命されたところで、昭王や范雎も秦の将軍を変更します。
白起将軍に変えたわけです。
当たり前ですが、白起に趙括が勝てるわけもなく、趙軍は大敗して40万の兵士を失いました。趙は完全に滅亡寸前のわけです。
ここまでの、范雎は非常に輝いていました。
しかし、この辺りから暗い影を落とすようになっていきます。
ここで白起は一気に趙を亡ぼしてしまおうと考えたようです。
しかし、趙の方でも范雎に講和の使者を送っています。この時に、使者になったのが蘇代という人物です。
蘇代は巧みに白起が功績を立てすぎると范雎の位を脅かすと言ったわけです。
ここで范雎も白起の下に立つのは、嫌だったようで昭王に趙と講和をするように進言しました。
これは白起の方としては許せない行動で、趙を滅亡させるチャンスにも関わらず悔しい思いをしたようです。
これより、白起と范雎は不和になったとされています。
その後、白起は出陣命令が出ても聞かないなども事もあり流罪になって死んでしまうわけです。
詳しくは書きませんが、白起も無実の罪で死んだわけです。
范雎は、自分を宰相の位になるのに、貢献してくれた鄭安平と王稽に恩返しをしています。
鄭安平は将軍となり王稽は、河東の太守になりました。しかし、王稽は諸侯と内通した事もあり処刑されています。鄭安平も趙に敗れて2万人と共に趙に降伏しています。
范雎が推挙した二人が失敗したわけです。
秦では、「失敗した場合は推挙した人物も罪になる」という法律があります。つまり、范雎が推挙した「鄭安平と王稽」が失敗した時点で、普通であれば范雎は死刑なわけです。
しかし、この時に既に白起将軍は死んでいますし、宰相が死んでしまう事を恐れた昭王は范雎は無罪として、罪に問いませんでした。
さらに、范雎の罪をとやかく言う奴は「死刑」にするとまで言ったとされています。
よほど、信頼が厚かったことが分かります。
しかし、范雎としては、心穏やかではありません。
范雎の心が穏やかでない事を知って、范雎の前に現れたのが蔡沢だという事です。

蔡沢と出処進退

蔡沢と言うのは、最初から貴族だったり名門の出身だったわけではありません。盗賊にみぐるみを剥がされたり、他国では相手にされなかった事実もあります。
その、蔡沢が范雎に行った事が「今のうちに引退しなさい」と言う事です。
つまり、今、引退をしないと後でひどい目に合うという事を范雎に説き伏せました。
戦国時代初期の秦で改革を断行して大きな成果を上げた人物で商鞅と言う人物がいました。
しかし、商鞅を用いた孝公が亡くなると時代の秦の恵王は商鞅に謀反の疑いをかけて死刑にしています。
楚でも呉起が宰相として楚を強くしましたが、呉起を信任した悼王が亡くなると、呉起は貴族たちに殺されています。さらに、越王句践は自分が覇者になると、覇者になる事に大きく貢献した文種を殺しています。つまり、天下を取ったり、次の代になると粛清されるから、そうなる前に身を引きなさいと蔡沢は范雎に言ったわけです。
その言葉に思う事があったのか、范雎は引退を決意します。
代わりに、蔡沢を推薦しました。
これで、蔡沢はようやく秦に使える事になるわけです。昭王の時代に蔡沢は、宰相の位につくわけですが、周りの人に陥れられるのを恐れたのか1年もしないうちに、宰相の位を辞退しています。
呂不韋よりも先に秦で出世しているわけですから、キングダムでは、呂不韋四柱に数えられながらも、呂不韋からは「先生」と呼ばれているのも分かる気がします。

蔡沢は実際には何をしたのか?

蔡沢は、実際には何をしたのでしょうか?
キングダムでは斉を関わり合いが深く、春申君・李牧の合従軍から斉を合従軍から抜けさせたり、斉王を秦に連れて来て面会するなど、かなり活躍をしています。
そして、斉王と秦王の面会が終わると、こと切れたかのように寝てしまった?ようです。。
しかし、実際に史記などでは、合従軍から蔡沢が斉を外したという記述は見つかりませんし、蔡沢が秦王と斉王の面会を主催したような記述は見つかりませんでした。
もちろん、李牧を秦に連れてきた記述もありません。
ただし、燕の太子丹は人質として秦に連れてきた事実はあります。
この太子丹が後に、秦から無断で抜け出し、秦王政を殺すべく刺客を送り込むわけですが、ここはキングダムでもやると思うので、記事にしたいと思っています。
しかし、蔡沢はかなりの知恵者のようなので、燕や斉などの東方において活躍したことは間違いないでしょう。
歴史に残っていないような、功績も数多くあるのではないかと思います。

メニュー

キングダムの秦の外交官である蔡沢の史実での活躍は、どんなものだったのでしょうか?

Copyright (c) 2016 キングダムの裏話 All rights reserved.