鎌倉幕府

鎌倉幕府の滅亡と御恩と奉公の崩壊

2020年4月17日

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宮下悠史

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鎌倉幕府の滅亡を紹介します。

幕末と呼ばれる時代に江戸幕府が大政奉還をしたり、戦国時代に織田信長が足利義昭を追放した室町幕府の滅亡などは、インパクトがあり知っている人も多い事でしょう。

それに対して、鎌倉幕府の滅亡と言うと、どうしてもインパクト不足があり、最後の執権が誰かとか、最後の鎌倉幕府の征夷大将軍は誰なのか?などについては、知っている人も少ないのではないでしょうか?

さらに、鎌倉幕府を滅ぼした人って誰なの?という人も少なくないです。

鎌倉幕府を攻め滅ぼした人物は、元は鎌倉幕府の御家人である新田義貞ですが、足利尊氏や楠木正成などに比べると知名度は下がります。

新田義貞の名前を知っている人でも、鎌倉幕府が滅亡してから、何をしていたのか分からない人も多い事でしょう。

鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐天皇が天皇中心の政治である建武の新政を始めますが、短期間で失敗に終わったのも、原因だと考えています。

尚、鎌倉時代に中国を支配したモンゴル帝国の元が、日本に攻めて来る元寇がありました。

これが引き金となり鎌倉幕府は大きく財政が悪化した事は間違いないです。

鎌倉幕府と御家人である武士との、「御恩と奉公」の崩壊とも言えるでしょう。

今回は、源頼朝が築き北条氏が実権を握った、鎌倉幕府がどの様にして、滅亡したのかを紹介します。

尚、鎌倉幕府が滅亡した年は、1333年です。

日本史の勉強で年表を覚える場合は「いちみさんざん(1333)北条氏滅亡」の、語呂合わせが記憶しやすいとされています。

上記の画像ですが、鎌倉幕府終焉の地とも呼ばれている「腹切りやぐら」です。

ここにおいて、北条高時が切腹して鎌倉幕府が滅亡したとする伝説もあります。

御恩と奉公

鎌倉幕府と御家人である武士たちは「御恩と奉公」により、結ばれた仲でした。

将軍は、御家人の武士に領地を与えて、武士は鎌倉幕府に何かあった時には、命がけで助けに行く考えです。

「いざ鎌倉へ」という言葉は、鎌倉幕府に対しての忠誠心を現わしている言葉とも言えるでしょう。

鎌倉幕府ですが、平清盛に敗れた源頼朝が伊豆に配流されましたが、妻である北条政子の実家の力なども借り、平家を滅ぼしています。

ここから鎌倉幕府が始まるのですが、わずか3代で実権を北条氏に奪い取られています。

鎌倉幕府の征夷大将軍は、京都の公家や頼朝の遠い親戚などを招いて、征夷大将軍にしていました。

しかし、実権は北条氏が執権と言う形を取り握っていたわけです。

鎌倉幕府も時代と共に変化が起きますし、財政の方も少しずつ悪化していました。

そのような時に、起きたのが元寇です。

元寇により鎌倉幕府の財政がパンク寸前になる?

社会の歪みが起きて来た時代に、鎌倉幕府は元寇というモンゴル帝国との対外戦争が起きています。

この時の、執権は北条時宗でした。

NHK大河ドラマにもなった人物なので、知っている人も多いはずです。

鎌倉幕府は、御家人たちの力により、文永の役、弘安の役の2度の元寇で、世界最強とも言える元軍を打ち破っています。

この時に、台風による神風が原因だとか、元軍の中で疫病が発生した事が原因だとか言われています。

他にも、元軍と旧南宋兵と朝鮮の高麗兵の連携が悪かったなど、様々な説もあります。

しかし、近年の研究では、鎌倉武士の奮戦が日本を救ったとする説も有力となってきました。

日本軍が実力で元軍を粉砕した説です。

元の皇帝であるフビライハンは、3度目の元寇も企画したようですが、国内の反乱などもあり断念しています。

それでも、鎌倉幕府としては、3度目の元寇に備えて九州沿岸の防備を固めたりしたわけです。

これらの費用が幕府に取って重荷となっていきます。

元寇は確かに、勝利しましたが、防衛戦争だった為に、元から領土を奪う事も出来ませんでした。

さらに、賠償金が支払われたわけでもないので、元寇により鎌倉幕府の財政が大きく揺らいだわけです。

鎌倉幕府の「御恩と奉公」の関係で考えれば、御家人に対して恩賞を与える必要がありましたが、少ない恩賞しか与える事が出来ませんでした。

これにより不満を持つ武士が増えたわけです。

竹崎季長のように直接直談判して、恩賞を勝ち取った武士もいますが、多くの武士は不満顔でした。

元寇により社会不安が増大してしまう事になります。

鎌倉幕府も財政がパンク寸前に陥ってしまいました。

個人的な見解ですが、元寇により鎌倉幕府は滅亡を100年早めたのではないかと考えています。

尚、元寇の時の執権である北条時宗は、元寇が終るとすぐに亡くなっています。

元寇のストレスがよっぽど大きかったのではないか?と私は考えています。

北条高時は暴君だったのか?

鎌倉幕府滅亡の責任は、北条高時が暴君であった為に滅びたとする説もあります。

北条高時は、田楽と闘犬に明け暮れていたとか、暗君として描かれる事もあります。

しかし、北条高時の実情を伝える資料は少なく、本当に暴君であったのかもイマイチ分かりません。

尚、中国ほどは酷くはありませんが、歴史は勝者を中心に描かれます。

そのため、北条高時が暴君であった為に、国が滅んだとしてしまう事が多いわけです。

さらに、そうした方が次の実力者が政治がやりやすいなどの実情もあるのでしょう。

しかし、北条高時に鎌倉幕府の滅亡を押し付けてしまうのは、個人的にどうかな?と考えてしまいます。

確かに、闘犬や田楽を好んだかも知れませんが、あくまで度が過ぎた程ではなかった可能性もあります。

北条高時は、巡り合わせが悪い執権であり、鎌倉幕府の滅亡の原因を押し付けてしまうのは、気の毒過ぎると感じました。

尚、鎌倉幕府の最後の将軍は、京から連れて来た守邦親王です。

しかし、守邦親王は傀儡であり実権は北条氏が握っています。

後醍醐天皇が討幕の令旨を発行しますが、対象が北条高時になっていて守邦親王ではありません。

そのため、守邦親王は既に傀儡で力を全く持たない事は周知の事実だったのでしょう。

後醍醐天皇と両統迭立

1318年に後醍醐天皇が即位しています。

後醍醐天皇は、昔のような天皇中心の政治を作り出そうと目指したわけです。

つまり、鎌倉幕府を倒して、自分が日本全体の政治を行おうと画策します。

一般的には、後醍醐天皇は、両統迭立の制度に不満があったとされています。

当時の天皇家には、大覚寺統と持明院統の二つのグループがあり交互に天皇を即位する事になっていました。

両統迭立に対して、後醍醐天皇は不満を持ち、自分の子孫が天皇を続ければいいと考えていたようです。

さらに、鎌倉幕府の財政の悪化を知り鎌倉幕府を滅亡させて、自分が治天の君になろうと思っていました。

武士を中心とした政治から、公家や貴族などの天皇と側近を中心とした政治に戻そうと考えたのでしょう。

しかし、この動きは天皇の監視役である六波羅探題により露見してしまい、後醍醐天皇の側近である日野資朝が処分されています。

これを正中の変と呼びます。

ただし、後醍醐天皇は「朕は無関係だ」としらを切り問題にはされませんでした。

その後も、後醍醐天皇は幕府の転覆をはかり、東大寺などの寺社勢力を味方に付けるべく動いているわけです。

後醍醐天皇が幕府を滅亡させようとする動きに対して、側近の吉田定房は諫めています。

それでも後醍醐天皇が聞き入れないと、吉田定房は六波羅探題に密告しました。

これにより追い詰められた後醍醐天皇は挙兵に及びます。

後醍醐天皇が挙兵

後醍醐天皇は、六波羅探題に察知されると京を脱出して、笠置山に籠城しています。

ここにおいて笠置山の戦いは始まったわけです。

さらに、後に名将として崇められる楠木正成も、後醍醐天皇側として挙兵しています。

楠木正成は、護良親王を擁していましたが、500の兵士しかいませんでした。

それに対して、鎌倉幕府側の軍勢は20万いたとか、30万いたとも言われています。

太平記などにも書かれているのですが、幕府側の人数に関しては、誇張と言えるでしょう。

鎌倉時代の人口はせいぜい750万位しかいなかったとも言われています。

老若男女合わせて750万しかいないのに、30万も軍勢を出すのは明らかにおかしいですし、500の兵士に30万の軍勢をぶつけるのは、不自然過ぎます。

しかし、赤坂城の戦いで幕府側の兵力が、楠木正成の10倍以上は軽くいたのは、間違いないでしょう。

赤坂城の戦いで楠木正成は、なりふり構わずに防衛をしています。

城の上から丸太を落としたり、熱湯を浴びせる、兵士に見せかけた藁人形を配置する、偽の塀を用意して敵を倒すなど、様々な事をしたようです。

さらに、山岳ゲリラ戦法を使い幕府軍を精神的に追い詰めていくわけです。

当時の武士は正々堂々と正面から戦うような美学を持っていたらしく、奇策を立てる事は邪道とされる風潮がありました。

しかし、そのルールを破り、なりふり構わずに勝ちに行ったのが、楠木正成です

この辺りは、源平の戦いで最大の軍功を挙げた、源義経と似ている所があります。

笠置山の後醍醐天皇は千種忠顕、四条隆資らと共に奮戦します。

しかし、後醍醐天皇の軍勢は3000なのに対して、鎌倉幕府の軍勢は7万5千いたとも言われています。

尚、笠置山の戦いで幕府側の司令官として、後に室町幕府を開く足利尊氏が参戦しています。

正確に言えば、この当時は足利高氏と名乗っていました。

足利尊氏は戦上手でもあり、結局、後醍醐天皇は捕らえられてしまいます。

鎌倉幕府の首脳部も、天皇である後醍醐を処刑するわけにも行かなかったようで、隠岐に配流させる事にしました。

後醍醐天皇が敗れた事を知った、楠木正成は城に火を放ち逃走しています。

千早城の戦いで討幕の機運が高まる

楠木正成は、後に赤坂城を奪還しています。

さらに、河内や和泉の国など近畿地方に勢力を広げていきました。

これを見た幕府は、またもや大軍を楠木正成に差し向けたわけです。

楠木正成は、千早城を築城して幕府軍と雌雄を決しようとします。

千早城は、山城であり斜面も急ですし、難攻不落と言ってよい城です。

余談ですが、現在でも千早城の跡地が残っていて、階段で登る事が出来ますが、かなり急ですし登るだけで疲れます。

守るためだけの、城と言った様な感じでした。

さらに、城を守るのは名将楠木正成という事もあり、幕府軍は大苦戦します。

もちろん、楠木正成は幕府の大軍をゲリラ戦法を使い翻弄しています。

護良親王も各地に、鎌倉幕府を滅亡させる為の檄を送っています。

後醍醐天皇も隠岐を脱出して、討幕の為に挙兵をしました。

この様に討幕は、盛り上がりを見せて行ったわけです。

実際に、千早城を攻略出来ない幕府軍を見て、幕府の限界を悟り討幕に舵を切る武士が増えてきました。

最初に後醍醐天皇や楠木正成が挙兵した時に、戦いには勝ちましたが、十分な恩賞を得られない武士が数多くいたのでしょう。

鎌倉幕府と御家人は、御恩と奉公で成り立っているわけですから、恩賞を貰えなければ、必然と鎌倉幕府への忠誠心は薄れていくわけです。

足利尊氏が寝返る

足利尊氏は、鎌倉幕府の有力な御家人でした。

身分も高いですし、家柄も最高級と言ってよい人物です。

足利尊氏は、鎌倉幕府から後醍醐天皇を倒すように、命令されて出兵しています。

しかし、足利尊氏は、後醍醐天皇に寝返ってしまうわけです。

この時に、足利尊氏は後醍醐天皇から討幕の綸旨(りんじ)を受けていたとも言われています。

足利尊氏からして見れば、恩賞も十分にもらえないし、鎌倉幕府を見限って寝返ったのかも知れません。

それか足利尊氏自体も、配下の武士団に恩賞を与える事が出来ずに、苦肉の策で後醍醐天皇方に寝返った可能性もあるはずです。

鎌倉幕府と言う、沈む船から降りたとも考えられます。

足利尊氏は、京都を守備する六波羅探題に攻撃を掛けると1日で破った記録があります。

六波羅探題を打ち破った事で、京都から幕府の勢力を駆逐したわけです。

新田義貞が鎌倉に向けて進軍

足利尊氏が後醍醐天皇に寝返った後には、新田義貞が関東で挙兵しています。

新田義貞は、挙兵した時は、僅か150人しかいなかったともされています。

しかし、続々と関東の武士が集結して20万の大軍に膨れ上がったとも言われているのです。

新田義貞の後ろには、足利尊氏がいたとも言われています。

一説によれば、足利尊氏の嫡男である千寿王(後の足利義詮)が呼び掛けると、次々に関東の武士が終結したする話もあります。

千寿王は、新田義貞に合流しました。

ただし、太平記には20万と書いてありますが、誇張かなとも感じています。

これらの軍を率いて、幕府軍と小手指の戦いが起きています。

幕府軍は、桜田貞国(北条貞国)を司令官として、迎え討たせると1日に30回も激戦を繰り広げたとされています。

これにより幕府軍は500の死者を出し、新田軍は300の死者が出たとも言われています。

この戦いで幕府軍は、本陣を後退させています。

久米川の戦いで新田義貞は、桜田貞国に奇襲を仕掛けていますが、見破られてしまいました。

しかし、新田義貞も、敵の作戦を見破り本陣を急襲して勝利を収めています。

鎌倉幕府の軍勢は、分倍河原まで撤退しました。

この様に立て続けに、幕府軍に勝利した事で、新田義貞にも気のゆるみが出てしまったようです。

この時に、鎌倉幕府は桜田貞国への援軍として、北条泰家(北条高時の弟)に10万の兵を授けて合流しています。

この動きに気が付かずに、新田義貞は攻撃を仕掛けてしまいますが、大いに苦戦してしまうわけです。

新田義貞は軍を一旦退けて退却する事も、考えたと言われています。

しかし、この時に相模の武士である、大多和義勝ら6千が新田義貞の援軍に現れたと言われています。

大多和義勝は、幕府とは親しい間柄であったにも、関わらず幕府を見捨ててしまいました。

これにより新田義貞は、再び幕府軍と対決する事になります。

尚、大多和義勝の行動に関しては、裏で足利尊氏らが糸を引っ張っていたとも言われています。

ここで新田義貞は策略を使い、大多和義勝が幕府の援軍に来たと流言を流しています。

これを信じた幕府軍に、大多和義勝をぶつけたわけです。

幕府軍は援軍が来たと思っていたわけですが、騙されて新田義貞の軍に奇襲を浴びてしまいました。

分倍河原の戦いで、幕府軍は壊滅的な打撃を被ってしまったわけです。

さらに、新田義貞は進撃して、関戸の戦いで北条泰家を再び破っています。

北条泰家は、配下の横溝八郎、安保入道父子の奮戦もあり、命からがら鎌倉に落ちのびています。

これらの勝利により鎌倉幕府滅亡が、完全に見えて来たわけです。

尚、新田義貞の元には、兵士がさらに集結して60万を超える大軍になったとする話が太平記にあります。

60万の軍勢については、個人的にはありえないと思いました。

鎌倉時代や室町時代の人口を考えると、現実的な数値ではないでしょう。

余談ですが、鎌倉幕府も最後の方になってくると、北条一門で執権になろうとする人がいなかったとされています。

鎌倉幕府は財政難でもありましたし、責任重大な執権をやりたがる人がいなかったようです。

そこで、赤橋守時(北条守時)が執権となっていますが、実権は元執権である北条高時や重臣の長崎高資が握っていました。

鎌倉時代の末期の方は、鎌倉幕府の滅亡が内部からも見えていたのでしょう。

鎌倉の攻略に大苦戦

新田義貞は、鎌倉に進撃して、鎌倉幕府滅亡への一歩手前まで来ていました。

大軍を擁していますし、楽勝だと思ったのかも知れません。

しかし、ここにきて鎌倉幕府も意地を見せるわけです。

鎌倉幕府滅亡へのカウントダウンに入っているわけですが、蝋燭の最後の灯のように反撃してきます。

尚、鎌倉幕府の本拠地は天然の要塞になっていて、一説には徳川家康が関東に来た時に、鎌倉を本拠地にしたかったという話もあります。

ただし、商業的な問題や鎌倉幕府の本拠地を中心に据える事は、豊臣秀吉に警戒をされると考えて、江戸に住んだ話が残っています。

話を戻しますが、鎌倉の最終決戦での兵力差は、鎌倉幕府軍が1万5千に対して、新田義貞は60万だとする話が太平記にあります

これは先に述べたように、「ありえない」と思った方がよいでしょう。

しかし、実際の幕府側の兵力や新田義貞の兵力は分かっていません。

この時に新田義貞は軍勢を、巨福呂坂に、極楽寺坂、化粧坂の3つに分けて進軍させる作戦を取りました。

巨福呂坂の戦い

巨福呂坂は、執権である赤橋守時(北条守時)が守備していました。

北条守時の妹である登子は、後醍醐天皇に寝返ってしまった足利尊氏の妻だったわけです。

北条守時は、北条高時に疑われる事を恐れて、必死の奮戦をしたと言われています。

自ら軍勢を指揮して、新田義貞軍の堀口貞満、大島守之らと激戦を繰り広げています。

一昼夜で65回も戦闘を行ったなどの話もあり、鎌倉幕府の滅亡を回避するために必死で奮闘しました。

しかし、結局は北条守時は被害が大きくなってしまった事もあり自刃しています。

それでも、残った兵が総崩れになる事もなく、地形を優位に味方に付けた事で巨福呂坂を守り切っています。

尚、巨福呂坂は小袋坂と書かれている事もあります。

極楽寺坂の戦い

極楽寺坂では、幕府軍の大仏貞直(北条貞直)が守備していました、

新田義貞は、大館宗氏を大将に任命して攻撃を仕掛けています。

大館宗氏は、一度は幕府軍を破り極楽寺坂を突破したとも言われていますが、幕府軍の逆襲により討ち取られています。

本間山城左衛門の突撃により、大館宗氏は討ち取られてしまいました。

これは予想外の事であったのでしょう。

総大将の新田義貞は、化粧坂を攻撃していましたが、大館宗氏の死を聞いて極楽寺坂に向かったとする話もあります。

楽勝のはずが大苦戦に陥り、大将が討ち取られてしまったわけです。

しかし、大館宗氏の子である大舘氏明が指揮を執り総崩れにはなりませんでした。

大仏貞直が奮戦した事は間違いないですが、これが鎌倉幕府の滅亡を回避するには、至らなかったわけです。

局地戦で勝利を収めた程度のものだったのでしょう。

化粧坂の戦い

極楽寺坂でも激戦が繰り広げられています。

金沢貞将(北条貞将)を幕府は守備に任命しています。

これに対して、新田義貞自らが指揮を執り脇屋義助と共に進軍したわけです。

しかし、ここでも新田義貞の軍勢は苦戦してしまい、化粧坂を突破する事が出来ませんでした。

さらに、極楽寺坂で大館宗氏の死を聞くと、新田義貞は化粧坂の指揮を脇屋義助に任せて自分は、極楽寺坂に向かっています。

この様に鎌倉幕府の軍勢を前にして、大軍を擁しながら大苦戦をしてしまったわけです。

鎌倉幕府は、ここで破れてしまえば滅亡は決まってしまいますし、必死で戦ったのでしょう。

新田義貞の3つに分けた軍勢の全てが苦戦してしまいました。

新田義貞の奇策が鎌倉幕府を滅亡させた

正攻法では鎌倉を陥落させるのが難しいと、新田義貞は考えたようです。

さらに、これだけの人数を擁しながら、落とせないとなると、鎌倉幕府になびく連中がいる事も恐れたのかも知れません。

新田義貞は奇策を実行する事にします。

孫武の書いた孫子の兵法書に「敵の意表を突く」と言うのがありますが、これを実行する事にしました。

稲村ヶ崎から攻める事にしたわけです。

稲村ヶ崎は、普段は水に浸かっていて、人間が移動できるような場所ではなかったとされています。

しかし、大潮の時に水が引いた時を狙って、一気に移動して鎌倉を攻撃する作戦に出ます。

太平記では新田義貞が、刀を海に投げ入れると、塩が引いたとありますが、これはもちろん創作と考えた方がよいでしょう。

個人的には部下が進言したか、地元民に聞いたかのどちらかだと思われます。

稲村ヶ崎の奇襲は大成功に収めて、鎌倉の市街地に新田義貞の軍勢が乱入したわけです。

鎌倉幕府の軍勢は、意表を突かれた形になり、大混乱を引き起こしたとされています。

この時に、奮戦していた幕府方の大仏貞直、金沢貞将らも討死しました。

ここにおいて、鎌倉幕府は滅亡の一歩手前まで来てしまいます。

尚、鎌倉の戦いでも記述は、梅松論や他の資料にも見えますが、新田義貞が極楽寺坂を突破して鎌倉幕府を滅亡に追い込んだ話もあり、真実は分からない部分があるのが実情です。

鎌倉幕府最後の奮戦と滅亡

鎌倉幕府の首脳陣は、新田義貞が鎌倉に乱入すると、東勝寺に避難しています。

東勝寺に北条高時らが移り最終決戦を挑んだわけです。

これを東勝寺合戦と呼びます。

この時の鎌倉幕府の軍勢は870人ほどしかいなかったともされています。

鎌倉幕府に対して忠義が熱い長崎高重は、「敵を蹴散らしてくる」と宣言して、150騎を率いて新田義貞の軍勢に突撃を掛けたと言われています。

この時に、長崎高重は新田義貞を討ち取る事を狙ったとも言われていますが、失敗に終わり傷だらけになって帰って来ました。

長崎高重は、新田義貞を討ち取る事は出来ませんでしたが、敵に対して大損害を与えたとも言われています。

長崎高重は、酒を所望して飲み干すと、北条高時に切腹の見本を見せるといい、切腹して果てています。

さらに、北条高時の周りの武士も切腹を順番に初めて、北条高時自身も切腹しました。

次々に自害し870人全員が自害したとする記録も残っているわけです。

鎌倉幕府が滅亡する時の、壮絶なる最後だったのでしょう。

尚、東勝寺の近辺に「腹切りやぐら」と呼ばれている場所があります。

一説によれば、ここで鎌倉武士が腹を切り、鎌倉幕府が滅亡したと考える人もいます。

しかし、実際にはどのような事なのかは、はっきりと分かってはいないようです。

鎌倉幕府滅亡後も、もちろん歴史は続きます。

鎌倉幕府が滅亡した、翌年である1334年には、後醍醐天皇を中心とする建武の新政が始まります。

しかし、後醍醐天皇の政治に不満を持つ者も多く、短期間で終わってしまいました。

後醍醐天皇の為に、楠木正成や新田義貞などは戦いますが、最終的に足利尊氏に敗れています。

そして、足利尊氏が室町幕府を開いています。

後醍醐天皇も南朝を作り、南北朝時代もありましたが、最終的に室町幕府の将軍が最高権力者となりました。

尚、室町幕府が乱れて来ると、応仁の乱などもあり、戦国時代に突入しています。

最後に、勝ち残った徳川家康が江戸幕府を開きそれが終焉すると、現代となります。

鎌倉幕府の滅亡がピックアップされないのが残念

鎌倉幕府の滅亡を見て来たわけですが、鎌倉幕府勢もかなり奮戦して激闘が続いています。

その割には、影が薄い感じがするのが残念に感じました。

鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞が、次の幕府を作ったりすれば、もっと注目されたのではないかと感じています。

しかし、歴史は新田義貞を選ばずに、足利尊氏を選んだわけです。

鎌倉幕府最後の戦いが、ピックアップされないのが、自分は残念に感じています。

現在にも続く御恩と奉公

鎌倉幕府の政治は、武士団との御恩と奉公という考え方が強かったようです。

御恩と奉公に関しては、現在にも通じている考えだなと感じました。

多くの人は会社に行って働くわけですが、給料を貰えるから言っている人も多いかと思います。

もちろん、自分は夢の為に頑張って仕事をしているだ!と言う人もいるかも知れませんが、給料なしでは誰も働かないでしょう。

会社も景気が悪くなれば、減給をしたり昇給カット、ボーナスを出さないと言う事をするわけです。

もちろん、十分な給料が貰えなければ、社員も忠誠心が無くなってしまいますし、その点は鎌倉時代と同じだなと感じました。

それを考えれば、社長と言うのは責任重大だと思いますし、やっているだけでストレスが強いのかも知れません。

ただし、従業員の方も、足利尊氏辺りを見習った方がいいのかな?と思える部分も感じています。

自分の知り合いでも、40歳になっても18歳の新入社員の方と大して変わらない給料で働き続けている人もいるわけです。

彼は毎晩、遅くまで働いていますし、無料残業も大量にやっているみたいでした。

それを考えれば、御恩と奉公のバランス感覚は、今の時代は社員も持った方がいいのかな?とも感じました。

社長には社長の問題があり、従業員には従業員の問題があるのでしょう。

ちなみに、自分も過去にはブラック企業で働き、無料残業も大量にやりましたが、現在の自分にはそのような根性もなく、ブラック企業であれば、直ぐに会社を辞めたいと思っておりますw

お前みたいな奴が最初に滅びろ!と言われてもおかしくない人なのかも知れません・・・。

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