戦国武将

吉田郡山城の戦いで毛利元就が尼子晴久の3万の大軍を破る

吉田郡山城の戦いの最新研究の結果を紹介します。

吉田郡山城は、毛利元就の居城ですが、ここで1540年に尼子晴久(詮久)を迎え討った事が分かっています。

吉田郡山城の戦いは、最近では航空レーザー測量なども行って地形調査をしています。

そのため、資料では見えない吉田郡山城の戦いの実態が分かってきました。

1540年の段階では、毛利元就は大内方に属する国人領主でしかなく、兵力は2400しかいなかったとされています。

それに対して、中国地方の東部を治め8カ国も領有する尼子詮久は、3万の兵力で吉田郡山城を攻め立てたわけです。

城攻めには、10倍の兵力が必要ともされていますが、尼子氏は10倍以上の戦力がいました。

ここでは、どの様にして毛利元就が、尼子晴久の軍勢を撃退したのかのお話しです。

尚、吉田郡山城の戦いは、郡山合戦とも呼ばれています。

しかし、奥州でも伊達政宗と蘆名義広が戦った郡山合戦があります。

分別するために、ここでは郡山合戦ではなく、吉田郡山城の戦いで統一して書く事にします。

吉田郡山城の戦いを通説で、郡山合戦と呼んだリするのは、籠城戦ではなく、大半が城の外で戦った事にも由来しています。

上記の画像ですが、現在の吉田郡山城の一部です。

これからも分かるように、戦国時代は山城として敵の侵入を防ぐ事を目的として作られています。

 

毛利元就は国人領主でしかなかった

戦国大名と言えば、守護大名や守護代が戦国大名になるケースが多くありました。

戦国武将で有名な織田信長の織田家は、守護の代わりに国を任されている守護代の家柄です。

正式な守護に変わり、守護代が実権を持ち戦国大名になったパターンです。

上杉謙信の長尾家も守護代から戦国大名になっています。

それに対して、武田信玄の武田家や、今川義元の今川家は守護がそのままスライドして戦国大名になっています。

守護や守護代は、最初から国の中で大きな勢力を持っていたのが特徴です。

それに対して、毛利元就の毛利家は国人領主ですから、国には何人もいますし、かなりの弱小勢力でした。

もちろん、城を幾つも持っているような勢力ではありませんし、大国に忠誠を誓う事で城を作って貰ったりするような勢力です。

中国地方の西には、九州地方の一部も領有する大国である大内家がありますし、西には8カ国を領有する尼子家がありました。

その2大勢力に挟まれた毛利家や多くの国人領主は、今日は大内、明日は尼子という風に、コロコロと鞍替えして有利な方に味方する状態といえます。

板挟み状態で、毛利家も大内方に味方したと思ったら、明日には尼子につき敵対しているような状態です。

毛利元就も尼子家についた事もあり、当主である尼子詮久(晴久)とは、義兄弟の契りを結んでいたともされています。

 

尼子晴久は大大名

尼子晴久は、8カ国を領有していたとも言われています。

毛利攻めに、3万の兵力を動員できる辺りが、大大名としての実力なのでしょう。

尚、毛利家の資料で3万と書かれている為に、少数の兵力で大軍を破った、毛利氏の強さをアピールする為に、かさ増して書いたと考えられてきました。

しかし、近年の研究では、尼子氏に本当に3万の軍勢がいた可能性が高くなってきています。

尼子家ですが、守護代の家柄ではありましたが、元々強大な勢力だったわけではありません。

応仁の乱では、東軍に味方しています。

その後、尼子経久が当主となると、次第に勢力を拡大させていきます。

尼子経久は、80歳を超える長寿で、その間に、大内義興による足利義稙(よしたね)の上洛に協力もしています。

ただし、嫡男であった尼子政久は、磨石城を攻めている最中に矢が喉に当たり戦死したり、尼子経久の三男である塩冶興久が反乱を起こすなどの困難もあったわけです。

しかし、着実に支配地域を広げていき、十一州の太守とか、某聖とも呼ばれています。

吉田郡山城の戦いの時には、家督は尼子晴久に譲っていますが、尼子経久もまだ生きています。

ただし、翌年には亡くなってしまいますし、80歳を超える高齢の為、軍を指揮するのは無理だったはずです。

この時の尼子家は、石高で言えば120万石を超えているとも言われていて、武田信玄や上杉謙信の全盛期に匹敵するような国力を有していました。

 

吉田郡山城の戦いの前

吉田郡山城の戦いは、もちろん、突発的に起きたわけではありません。

尼子晴久と毛利元就は、義兄弟の契りを結んだ仲だったのですが、毛利元就は尼子氏から大内氏に寝返っています。

さらに、毛利元就は、嫡男である毛利隆元を大内義隆の人質に出しています。

毛利隆元は、教養のある人物でもあり、大内義隆にも気に入られていたようです。

ここで毛利隆元は、陶隆房(晴賢)や内藤興盛、弘中隆包ら大内家の重臣たちと親交を深めたとされています。

尚、毛利隆元は人質ではありますが、優雅に暮らしていたと記録が残っています。

しかし、尼子氏から見れば、反逆行為になりますし、毛利家を攻める決断をしました。

尼子晴久がこの時にまだ、20代であり血気盛んであったのも原因の一つでしょう。

 

大内家の援軍は来るのか?

毛利氏が尼子氏と対決するには、大内家の援軍が来る事が絶対条件となるでしょう。

人によっては、大内義隆は一流の文化人ではあるが、文弱で戦を好まないし、大内家の兵士は数が多くても強くないから、援軍に来ない可能性もあったと考える人もいます。

しかし、大内義隆が文治政治を行う様になるのは、第一次月山富田城の戦いで後継者と目されていた大内晴持が亡くなってからです。

大内晴持が死亡するのが、1543年ですので、吉田郡山城の戦いが起きた1540年の段階では、大内義隆は領土獲得意欲は、まだまだあったはずです。

実際に、大内義隆は大内家の領土を大きく発展させて、九州にまで領土を持ち全盛期を築き上げた人物でもあります。

それを考えれば、人質に嫡男である毛利隆元を出した毛利家の援軍に駆けつける可能性は高かったはずです。

さらに、人質の毛利隆元は大内家中において、人脈を形成していますし、大内家が毛利家を見捨てる可能性は、ほぼ無かったのではないかと思われます。

大内家の援軍をあてに出来る事から、毛利元就も開戦に踏み切ったのでしょう。

尚、毛利家がここで尼子氏に寝返ってしまったら、人質である毛利隆元は斬られてしまう可能性もあります。

毛利元就という人は、計略ばかり考えている人に思えるかも知れませんが、実際には家族想いであったり、家臣に対して面倒見がいい所があります。

それを考えれば、毛利隆元を犠牲にしてまで、尼子家に寝返るという選択肢はなかったはずです。

 

毛利元就が戦の準備を始める

毛利元就の動員できる兵力は、2400だとされています。

しかし、吉田郡山城に籠城するにあたって、住民を全て城の中に入れています。

民衆も入れた数では、8000人に膨れ上がったわけです。

ただし、人数は8000人ですが、女・子供も入っています。

1540年代の戦いでは、鉄砲がまだ伝来してはいません。

※鉄砲が種子島に伝来したのは、1543年とも言わている

そのため、城を守る場合は、弓で敵を射たり、石を投げるのが主流でした。

女性であっても、弱兵の部類になりますが、戦力として期待できたわけです。

さらに、尼子晴久が攻めて来る前に、全ての稲を刈り取ってしまい、敵に略奪出来ない様にしてあります。

大内氏の後詰(援軍)要請もして、万全の準備で戦いを挑みました。

 

尼子晴久が3万の軍前で来襲

尼子晴久は、3万の軍勢を率いて、吉田郡山城に攻めてきました。

しかし、最新の航空レーザー測定の結果なのですが、尼子晴久は城を包囲しなかったようです。

攻めて来た段階では、尼子晴久の本隊は後方にいて、縦長の陣を敷いた事が分かってきています。

縦長の陣と言うのは、三国志で劉備が陸遜に敗れた夷陵の戦いを思い出してしまうような陣形です。

これに関してですが、「毛利家は、こういう布陣をされる事を恐れている」などの偽情報を毛利元就が流した結果ともされています。

その結果として、城を包囲するのではなく、一直線に陣を構えると言う陣形になった説もあると言う事です。

尼子晴久ですが、城を囲まなかったのは、大軍を毛利元就に見せつければ、恐れをなして降伏すると考えたともされています。

吉田郡山錠を四方から包囲しなかったのは、何らかの理由があるように思えますが、諸説があり完全に決着はしていません。

戦いの初期の段階では、毛利氏の援軍にやってきた大内氏を叩く後詰決戦を考えていた可能性もあります。

 

尼子氏が城下焼く

毛利元就は、降伏する気がない事から、尼子晴久は吉田郡山城の城下を焼き払うように命令しています。

城下町を焼くと言うのは、戦国時代ではよくある光景です。

尼子晴久は、城下町を焼く事で、民衆の心が毛利元就から離れる事や、毛利元就を怒らせて城の外に出撃させる挑発の意味もあったのでしょう。

尚、城下町を焼かれてしまうと、もちろん、国としての経済圏が弱くなるわけですし、復興にもお金が掛かります。

この時に、毛利元就が一番恐れていたのは、内部分裂ではないかと考えられます。

落城した城を見ていると、内部分裂して内部から崩壊してしまう例が多いからです。

逆に、兵数は少なくても堅固な城と兵站の確保、城内が一致団結していれば、少数の兵力でも守り抜いた例は多いと言えます。

ここで毛利元就は、諸将や民衆の離反が最も怖かったでしょう。

 

毛利元就が出撃

城下を焼かれてしまった、毛利元就ですが、出撃を命令しています。

敵は大軍ですから、奇襲を掛ける様に考えたのでしょう。

これをチョコチョコと繰り返したようです。

この時点で、士気が高い尼子晴久の軍勢は後方にいた事から、何度も尼子軍を破る事が出来たとされています。

出撃した毛利軍と戦ったのは、戦意の低い国人領主が多かったようです。

尼子側の国人領主たちは、仕方なく尼子氏に従っていた事も理由とされています。

さらに、国人領主たちは、毛利元就が戦上手だと言う事を知っていて、戦いたくないと思っていた話も残っています。

他にも、尼子氏本隊と国人領主たちの間の、命令系統が上手く行ってなかった説も有力です。

これにより毛利はちょくちょくと尼子を破ります。

決定的な勝利を得る事は出来ませんが、毛利家は小競り合いで度々勝利しています。

毛利家が敵が大軍にも関わらず出撃した理由は、自軍の士気が下がらない様にするためとも言われています。

何もせずに城を守っているだけですと、自軍の士気が低下してしまい、それを恐れたのでしょう。

人は動かずに、何もしていないと、士気は低下すると考えて、度々、出撃と言う目的を見出したとも考えられます。

 

尼子晴久の本隊が前線に来る

被害は少ないわけですが、何度も破れている尼子晴久は自ら前線に行きます。

士気が高い尼子氏の武を支える新宮党や、本隊を前線に出して来たわけです。

尼子晴久が持久戦に対して、痺れを切らし本隊を出したとする説もあります。

その一方で、毛利元就の謀略だともされています。

城の手前に尼子晴久は布陣したわけですが、この時は大内氏の援軍である陶晴賢や杉元相(もとすけ)の援軍が近づいてきていました。

毛利元就は、吉田郡山城を目の前で見て、本体の尼子晴久の軍勢と毛利・大内軍を戦わせれば勝てると考えたともされています。

ここにおいて、毛利元就は配下の、渡辺通・国司元相・児玉就光、桂元澄らに出撃を命じて、尼子氏本隊と戦いを挑みました。

さらには、自らも兵を指揮して、城から討って出ています。

毛利元就が自ら兵を率いて出て来たのは、大内家に自分は頑張っている事を、アピールする為とも言われています。

他にも、大内家の軍勢を期待しすぎる気配を見せると、大内家と尼子家の漁夫の利を得ている様に、見えてしまう為と考える人もいるようです。

しかし、毛利元就は自ら甲冑を身にまとい出撃すると、敵を撃退する事に成功しています。

尼子方の武将・三沢為幸を討ち取る戦果も挙げています。

それでも、決定的な勝利は得られていません。

ここまでに何度となく毛利方は勝利していますが、小規模な戦いで勝利したのみです。

 

大内家の援軍が襲来

ここにおいて、大内家の援軍である陶晴賢や国司元相の援軍が到着します。

陶晴賢などは尼子晴久の軍勢に奇襲を掛けて打ち破ったとされています。

さらに、毛利家の軍勢も攻撃に転じて尼子軍を撤退に追い込む事に成功しました。

この勝利により尼子方から離れてしまう国人衆も出てしまい、尼子家の勢力は縮小されています。

吉田郡山城の戦いの勝利を決めたのは、最終的には大内家の援軍です。

尚、この戦いで毛利元就の戦いぶりが大内家に取ってみれば、忠誠心が高いと見られたようで、毛利家嫡子である毛利隆元は人質から解放されて、安芸の毛利本家に戻る事が出来ています。

ただし、吉田郡山城の戦いで、毛利氏が飛躍したというわけではありません。

戦の上手さを周辺に知らしめた事は確かですが、吉田郡山城の戦いで中国地方の覇者に向けて邁進したわけでもないようです。

尚、吉田郡山城の戦いで、大内方の援軍の将としてやってきた陶晴賢は、後に毛利元就に厳島の戦いで破れて討死しています。

昨日の敵は、今日の友という言葉があります。

しかし、戦国時代では「昨日の友は、今日の敵」という逆の事も十分にある事が分かる事例でもあります。

 

第一次月山富田城の戦いで大敗する

吉田郡山城の戦いで勝利した毛利元就ですが、その後に尼子氏の本城である月山富田城を大内氏と共に攻めています。

第一次月山富田城の戦いになるのですが、これは大内家の命令で毛利家も出陣したのでしょう。

吉田郡山城の戦いで勝利した事で、尼子方の国人衆を取り込んだ大内義隆が自ら指揮を執り尼子晴久を攻めたわけです。

しかし、この戦いで大内家は敗北してしまい、吉田郡山城の戦いで取り入れた国人領主たちも離反されてしまいました。

さらに、大内義隆が後継者として期待していた養嗣子の大内晴持も撤退の最中に死亡しています。

この敗戦で大内義隆は、すっかりとやる気を無くしてしまい、文治政治を始めるわけです。

これにより大内家の所領拡大は無くなり、大内家は武断派と文治派で敵対し、大内家は分裂していきます。

武断派の陶晴賢は、主君である大内義隆に下剋上を起こして、大内義長を即位させますが、実権は自分で握っています。

後に、陶晴賢を厳島の戦いで勝利した、毛利元就は中国地方の覇者を目指す事になりました。

尼子家も後に滅ぼしています。

 

吉田郡山城の戦いで勝利したが、苦しい立場となる・・。

吉田郡山城の戦いで、勝利した毛利元就ですが、実は窮地に陥っていたようです。

この戦いは防衛戦争であった為に、尼子家から領土を奪ったわけでもありません。

さらに、その後に第一次月山富田城の戦いでは、敗北しています。

ここで尼子氏に勝利して、領地の一部でも奪っていれば、話は変わっていますが、ここでも戦費ばかりが掛かってしまい何も得るものはありませんでした。

吉田郡山城の戦いでは、勝利しましたが、味方である諸将も多くの活躍をしています。

功を挙げた家臣に対しては、恩賞を与えなければいけませんが、恩賞を与えるだけの財源が毛利元就にはなかったわけです。

さらに、城下町も焼かれてしまいましたので、復興もしなければ商業活動も出来ません。

それを考えると、当時の毛利家にはお金がとにかくなくて、困っていた事が分かっています。

褒賞がなければ、家臣たちの求心力は低下しますし、他家に去ってしまうかも知れません。

結局、毛利元就は恩賞を払う事が難しくなってしまい、自らが隠居して毛利家の当主を嫡男である毛利隆元に譲っています。

毛利隆元に家督を譲る事で、家臣の求心力を保つように努めています。

毛利隆元が主君になる事で、家臣としては恩賞が貰えるのではないか?何かが変わるのではないか?とする期待する事から、求心力を高める狙いがあったとも言われています。

これを考えると、城主と言うのは非常に大変なものだと分かります。

特に武士の間には、鎌倉時代からの「御恩と奉公」の考えも根強くあります。

そういう事もあり殿様と言うのも、数々の悩みがあったのでしょう。

これを考えると、自分は戦国大名でなくてよかったと、心の底から思いますw

やっぱり、自分には遊んでばかりいる様な、貴族とか茶坊主がいいなと感じていますw

そんな人、中々いないのかも知れませんが・・・。

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