秦末期・楚漢戦争

陳平『漢王朝を守った智謀の士』

陳平は秦末期から、楚漢戦争において活躍した名臣です。

最終的に漢の高祖・劉邦に仕えますが、魏咎、項羽と主君を変えています。

最後は、漢王朝を守り劉氏を存続させた人物とも言えるでしょう。

貧しい生活から、どうやって宰相まで上り詰めたのかを解説します。

 

理解者の兄

司馬遷が書いた史記によれば、陳平には陳伯という兄がいる事が分かっています。

陳伯は農業をして生計を立てていましたが、陳平は読書ばかりして、殆ど農業を手伝う事はありませんでした。

陳伯の嫁が陳平の事を「いない方がマシ!」と指摘した事がありましたが、陳伯は陳平を責めるどころか、妻と離婚してしまった程です。

陳平にとっての最大の理解者は、兄である陳伯だったのかも知れません。

ただし、陳平は出世して金持ちになっていきますが、陳伯がどうなったのかは不明です。

 

 

金持ちと結婚し貧乏を抜け出す

陳平は、金持ちと結婚する事で、出世の足掛かりを作って行きます。

今でいう逆玉です。

五度も夫に死別された不吉な女性

陳平も結婚する年齢に達しますが、相手が中々見つかりませんでした。

陳平は貧乏人の娘は嫌がり、金持ちの娘以外は妻には考えなかったようです。

しかし、貧乏な陳平に娘を嫁がせようとする金持ちは中々現れません。

この時に、張負という金持ちの婆さんの孫娘の話を聞きます。

張負の孫娘は、5度も嫁ぎますが、夫が全て死別してしまったわけです。

張負の孫娘は、不吉だとして誰も娶ろうとする者がいませんでした。

陳平は、張負を娶ろうと考える様になります。

 

行動で気に入られる

村で葬式があったわけですが、この時に陳平は早くに行き、遅くまで残って仕事を手伝いました。

葬式に張負が参加する事が分かっていたので、陳平はアピールしたかったのでしょう。

陳平は張負に対して口で説得しようとはせずに、行動に気に入られたわけです。

知者の陳平と言えども、人に好かれる為には、泥臭い事も必要なのでしょう。

陳平は、張負が自分を気に入れば、自宅を見に来ると思い車の轍を付けてから葬式に参加したとされています。

兄の陳伯と協力して車の轍を作り、金持ちと交流がある事をアピールしたかったのでしょう。

張負は陳平の事を気に入り孫娘を嫁がせる事にします。

張負の息子の張仲には陳平ほど見た目がよければ、いつまでも貧賤でいるわけがないと言い、

陳平に嫁ぐ孫娘には、陳平や家族が貧乏であっても、謹んで行動する様に戒めています。

 

金回りが良くなる

張負の孫娘と結婚した陳平は、金回りが非常に良くなったようです。

結納の資金は、張負の方で陳平に貸したり資金の提供をしています。

張負のバックアップを受けた陳平は、金回りがよくなり多くの知識人と交流する事になります。

陳平は逆玉になるわけですが、決して金にがめついとか、そういう事はなかったようです。

宰相になってからの話で、陸賈からは金に興味を持たないと評されています。

しかし、全くお金がないと何も出来ないわけであり、最初の資金だけはどうしても欲しかったのでしょう。

金持ちになった事で、祭りの行事などの責任者が陳平になり、公平に祭肉を分けた事で地域の長老から褒められています。

陳平は評価されても、「私が天下の宰相になれれば、この肉と同じように処理する事が出来るのに・・」と嘆いた話があります。

陳平の志の高さが分かるエピソードです。

 

魏咎に仕える

秦の始皇帝が亡くなり胡亥が即位すると、陳勝呉広の乱が勃発します。

さらに、あちこちで反乱軍が結成されて混乱の時代に突入します。

戦国七雄の魏王家の末裔である魏咎も挙兵したわけです。

陳平は、兄の陳伯に別れを告げると魏咎の元に馳せ参じる事になります。

しかし、魏咎は陳平の策を用いる事が出来ませんでした。

さらに、陳平は讒言されてしまった為に、身の危険を覚え魏咎の元を離れています。

 

項羽に仕える

鴻門の会

魏咎の元を離脱した陳平は、次は項羽に仕える事になります。

この時の項羽は、秦の将軍章邯を降伏させるなどして、非常に勢いがありました。

項羽は秦の都・咸陽を目指しますが、既に劉邦が先に咸陽を降伏させていたわけです。

劉邦と項羽は、鴻門の会を開き会見をしますが、この席で項羽の軍師である范増は劉邦を暗殺しようと狙っていました。

それに気が付いている張良や樊噲の活躍で、劉邦は危機を脱します。

席を立った劉邦に対して、見て来るように項羽は陳平に行った話がありますが、この時に陳平は後の主君となる劉邦に何かしら感じ取っていたのかも知れません。

 

殷王・司馬卬を降す

項羽は諸侯を分封しますが、劉邦が漢中の地で背き三秦(関中)の地を手に入れます。

殷王・司馬卬は項羽に背き劉邦に味方した為に、項羽は陳平を討伐に向かわせます。

陳平は見事に司馬卬を降伏させる事に成功しました。

ただし、司馬卬が劉邦の軍と戦うと呆気なく降伏してしまい、項羽は責任を殷王・司馬卬を討伐した陳平や関わった諸将にあるとしたわけです。

身の危険を感じた陳平は、印綬を項羽に返還して、楚を離脱しました。

余談ですが、司馬卬の父親は、春秋戦国時代に李牧と共に、秦の王翦の攻撃を防いだ司馬尚です。

さらに、司馬卬は三国志の司馬懿仲達のご先祖様でもあります。

 

劉邦の元に逃亡

陳平は劉邦の元に逃亡しますが、船で移動して言える最中に船頭の様子がおかしい事に気が付きます。

船頭たちは、陳平が優れた容姿を持っていた為に、落ち武者で多くの金を持っていると判断したようです。

陳平は、お金は持っていなかったので服を脱いで無一文だという事をアピールしています。

これにより陳平は無事に劉邦の元に辿り着く事が出来ます。

 

劉邦の配下となる。

陳平は、劉邦の陣まで辿り着き配下となります。

劉邦の陣に着くと、友人の魏無知が劉邦に謁見出来るように取り計らってくれました。

余談ですが、魏無知は戦国四君の一人である魏の信陵君の息子だとも考えられています。

劉邦は、陳平や従者に食べ物を食べさせると、今日の所は休む様に言います。

しかし、陳平は「今日のうちに伝えたい」と言い劉邦が納得したので、その日のうちの会見する事が出来たわけです。

陳平の話を聞くと、劉邦は喜び都尉に任命し厚遇します。

諸将は劉邦の陳平を重用する態度が気に入らず、文句を言いますが、劉邦はさらに陳平を重用する様になったと言います。

 

周勃・灌嬰に讒言される

劉邦は、項羽が斉を攻めている隙に、項羽の本拠地である彭城を陥落させる事に成功します。

この時の劉邦は、諸侯の兵も合わせると56万もの大軍であり調子に乗り、略奪・大宴会など派手な行動が目立つ様になります。

油断していた劉邦に項羽が僅か3万で、劉邦軍を攻めて壊滅状態にしてしまったわけです。

劉邦は何とか逃げ延びるわけですが、項羽に対して不利な戦いを強いられます。

劉邦は、陳平を韓王信(韓信とは別人)の副将に任じたりもしますが、灌嬰と周勃の二人に讒言される事になります。

灌嬰や周勃は、陳平は素行が悪く乱臣であり兄嫁と私通をしたとか、賄賂を貰っている、忠義の心に掛けると言ったわけです。

劉邦は魏無知に確認をしますが、劉邦は陳平の行いを言っているが、自分は陳平の能力が漢に役立つから推薦したと言います。

劉邦は、次に陳平に問いますが、賄賂を受け取ったのは、無一文でここに来た為に、お金がなかったからだと述べています。

さらに、自分の策を用いる気であれば、ここに残るが用いる気がないのであれば、ここを去ると宣言します。

劉邦は陳平に謝り、さらに陳平を重用する様になったわけです。

 

范増を楚から離脱させる

陳平の楚漢戦争においての最大の功績は、項羽の軍師である范増を離脱させた事なのかも知れません。

陳平は、項羽が讒言を信じやすい事を見抜いており、莫大な金を使って范増、周殷、鍾離眜、龍且を楚から離れさせようとします。

范増に対しては、効果が絶大であり楚の唯一の知恵者と言うべき范増が楚を離脱しました。

これにより項羽陣営は、戦いに勝っての中々有利な状態にならずに、勝っても勝っても不利な状況になって行ってしまったわけです。

 

滎陽の戦い

項羽の軍師である范増は離脱しましたが、劉邦は滎陽の城を項羽に囲まれて窮地に陥っていました。

さらに、項羽軍の糧道も断たれている状態です。

ここで陳平は城内にいる女性2000人を東門から出し、西門から劉邦に脱出させています。

この時に、紀信という将軍が劉邦に変装し身代わりとなっています。

劉邦は関中に逃げて蕭何に補給をしてもらい再び項羽に戦いを挑みます。

劉邦の将軍である韓信が魏、代、趙、燕、斉などを攻略した事もあり、ここから先は劉邦が有利となっていきます。

劉邦と項羽の戦いでは、ここから先は陳平の活躍は余りありません。

ただし、史記には陳平の策謀が大きく楚を打ち破った様な事も書かれています。

 

漢王朝の樹立

反乱軍との戦い

統一後の劉邦は反乱や北方の匈奴に悩まされています。

劉邦は項羽を破り漢王朝を樹立しますが、匈奴の冒頓単于と対決しています。

劉邦の陣が出過ぎた所を冒頓単于に包囲されてしまい、絶体絶命のピンチとなりますが、

陳平が冒頓単于の妻に賄賂を贈る事や策を出し劉邦を救っています。

さらに、黥布、陳豨討伐にも参加して功績を挙げる事に成功しました。

劉邦は陳平を評価し曲逆侯としています。

統一後の劉邦は、猜疑心が凄まじく多くの功臣を粛清しましたが、陳平が粛清される事はありませんでした。

 

劉邦の死

劉邦は黥布討伐で負傷してしまいます。

負傷している劉邦の元に燕王・盧綰が反乱を起こした情報が入ってきます。

劉邦は自分が負傷している事もあり、樊噲を向かわせました。

しかし、樊噲の事を讒言する者があり、燕討伐の将軍を周勃に変更し、樊噲を斬れと陳平に命じます。

陳平と周勃は相談し、樊噲を斬るのではなく囚人車に入れて捕える事にしました。

陳平は劉邦の勅命で樊噲を捕えますが、樊噲の妻である呂嬃に恨まれる事になります。

呂嬃は、劉邦死後に実権を握る呂后の妹であるため陳平の危機を感じました。

このタイミングで劉邦が亡くなると、急いで陳平は都である長安に帰り劉邦の棺の前で涙を流しています。

ここで涙を流さないと命を狙われる事を存じていたのでしょう。

 

呂后の時代

劉邦が亡くなると、恵帝が即位しますが実権は母親である呂后が握っていました。

呂后は劉氏を次々に粛清して、呂氏の一族を王位にしたり高官を独占しています。

陳平は酒と女に溺れて、無能な振りをして呂后に目を付けられない様に行動しています。

しかし、裏では陸賈の策で周勃らと呂氏を排除する相談をしていました。

陳平は呂后が亡くなるのを待っていたわけです。

 

劉氏を守る

呂后が亡くなると陳平は周勃らと動き出し、呂氏を打倒する事に成功しました。

呂氏を排除した後に、誰を漢王朝の皇帝にするか決めなければいけません。

ここで陳平や周勃ら漢の大臣は、劉邦の子である代王劉恒(文帝)を即位させています。

陳平は右丞相であり漢の最高位になっていましたが、呂氏を打倒する中では、

周勃の方が功績が大きいと言い、右丞相の位を周勃に譲り、左丞相に降格しました。

しかし、周勃は陳平と文帝の問答を聞いていて、自分が陳平に及ばない事を悟ります。

周勃が病を理由に右丞相の位を降りると、再び陳平が右丞相となります。

しかし、陳平は文帝の2年(紀元前178年)に亡くなってしまいます。

張良、蕭何、韓信の漢の三桀には入りませんが、劉邦の死後に劉氏を守った人物だと言えるでしょう。

貧しい農民から右丞相となっている事から、才能は抜群にあった人となるはずです。

漢王朝を存続させた人物だと言えます。

 

 

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