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構成・文/宮下悠史

秦末期・楚漢戦争

陳平『漢王朝を守った智謀の士』

2020年5月30日

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陳平は秦末期から、楚漢戦争において活躍した漢の名臣です。

最終的に漢の高祖・劉邦に仕えますが、魏咎、項羽と主君を変えています。

最後は、漢王朝を守り劉氏を存続させた人物とも言えるでしょう。

漢の三桀と呼ばれた韓信張良蕭何の3人は統一後は保身に走ったり処刑されていますが、陳平だけは智謀を張り巡らし呂后が亡くなると周勃と共に呂氏を排除するなど漢の為に奮闘しています。

貧しい生活から、どうやって陳平が劉邦を補佐し、天下の宰相になったのかを解説します。

 

理解者の兄

司馬遷が書いた史記によれば、陳平には陳伯という兄がいる事が分かっています。

陳伯は農業をして生計を立てていましたが、陳平は読書ばかりして、殆ど農業を手伝う事はありませんでした。

陳伯の嫁が陳平の事を「いない方がマシ!」と指摘した事がありましたが、陳伯は陳平を責めるどころか、妻と離婚してしまった程です。

陳平にとっての最大の理解者は、兄である陳伯だったのかも知れません。

どんな人にも理解者は必要であり、管仲における鮑叔、商鞅における秦の孝公、趙奢における平原君の様な存在が兄の陳伯だったのでしょう。

ただし、陳平は出世して金持ちになっていきますが、陳伯がどうなったのかは不明です。

 

金持ちと結婚し貧乏を抜け出す

陳平は、金持ちと結婚する事で、出世の足掛かりを作って行きます。

今でいう逆玉です。

五度も夫に死別された不吉な女性

陳平も結婚する年齢に達しますが、相手が中々見つかりませんでした。

陳平は貧乏人の娘は嫌がり、金持ちの娘以外は妻には考えなかったようです。

しかし、貧乏な陳平に娘を嫁がせようとする金持ちは中々現れません。

この時に、張負という金持ちの婆さんの孫娘の話を聞きます。

張負の孫娘は、5度も嫁ぎますが、夫が全て死別してしまったわけです。

張負の孫娘は、不吉だとして誰も娶ろうとする者がいませんでした。

陳平は、張負を娶ろうと考える様になります。

 

行動で気に入られる

村で葬式があったわけですが、この時に陳平は早くに行き、遅くまで残って仕事を手伝いました。

葬式に張負が参加する事が分かっていたので、陳平はアピールしたかったのでしょう。

陳平は張負に対して口で説得しようとはせずに、行動に気に入られたわけです。

知者の陳平と言えども、人に好かれる為には、泥臭い事も必要なのでしょう。

陳平は、張負が自分を気に入れば、自宅を見に来ると思い車の轍を付けてから葬式に参加したとされています。

兄の陳伯と協力して車の轍を作り、金持ちと交流がある事をアピールしたかったのでしょう。

張負は陳平の事を気に入り孫娘を嫁がせる事にします。

張負の息子の張仲には陳平ほど見た目がよければ、いつまでも貧賤でいるわけがないと言い、

陳平に嫁ぐ孫娘には、陳平や家族が貧乏であっても、謹んで行動する様に戒めています。

 

金回りが良くなる

張負の孫娘と結婚した陳平は、金回りが非常に良くなったようです。

結納の資金は、張負の方で陳平に貸したり資金の提供をしています。

張負のバックアップを受けた陳平は、金回りがよくなり多くの知識人と交流する事になります。

陳平は逆玉になるわけですが、決して金にがめついとか、そういう事はなかったようです。

宰相になってからの話で、陸賈からは金に興味を持たないと評されています。

しかし、全くお金がないと何も出来ないわけであり、最初の資金だけはどうしても欲しかったのでしょう。

金持ちになった事で、祭りの行事などの責任者が陳平になり、公平に祭肉を分けた事で地域の長老から褒められています。

陳平は評価されても、「私が天下の宰相になれれば、この肉と同じように処理する事が出来るのに・・」と嘆いた話があります。

陳平の志の高さが分かるエピソードです。

 

魏咎に仕える

秦の始皇帝が亡くなり胡亥が即位すると、陳勝呉広の乱が勃発します。

さらに、あちこちで反乱軍が結成されて混乱の時代に突入します。

戦国七雄の魏王家の末裔である魏咎も挙兵したわけです。

陳平は、兄の陳伯に別れを告げると魏咎の元に馳せ参じる事になります。

しかし、魏咎は陳平の策を用いる事が出来ませんでした。

さらに、陳平は讒言されてしまった為に、身の危険を覚え魏咎の元を離れています。

 

項羽に仕える

鴻門の会

魏咎の元を離脱した陳平は、次は項羽に仕える事になります。

この時の項羽は、秦の将軍章邯を降伏させるなどして、非常に勢いがありました。

項羽は秦の都・咸陽を目指しますが、既に劉邦が先に秦王子嬰を降伏させ咸陽にいたわけです。

劉邦と項羽は、鴻門の会を開き会見をしますが、この席で項羽の軍師である范増は劉邦を暗殺しようと狙っていました。

それに気が付いている張良や樊噲の活躍で、劉邦は危機を脱します。

席を立った劉邦に対して、見て来るように項羽は陳平に行った話がありますが、この時に陳平は後の主君となる劉邦に何かしら感じ取っていたのかも知れません。

陳平は劉邦に好意的だったようで、劉邦を見過ごす事になります。

 

殷王・司馬卬を降す

項羽は諸侯を分封しますが、劉邦が漢中の地で背き三秦(関中)の地を手に入れます。

殷王・司馬卬は項羽に背き劉邦に味方した為に、項羽は陳平を討伐に向かわせます。

陳平は見事に司馬卬を降伏させる事に成功しました。

ただし、司馬卬が劉邦の軍と戦うと呆気なく降伏してしまい、項羽は責任を殷王・司馬卬を討伐した陳平や関わった諸将にあるとしたわけです。

身の危険を感じた陳平は、印綬を項羽に返還して、楚を離脱しました。

余談ですが、司馬卬の父親は、春秋戦国時代に李牧と共に、秦の王翦の攻撃を防いだ司馬尚です。

さらに、司馬卬は三国志の司馬懿仲達のご先祖様でもあります。

 

劉邦の元に逃亡

陳平は劉邦の元に逃亡しますが、船で移動してする最中に船頭の様子がおかしい事に気が付きます。

船頭たちは、陳平が優れた容姿を持っていた為に、落ち武者で多くの金を持っていると判断したようです。

陳平は、お金は持っていなかったので服を脱いで無一文だという事をアピールしています。

これにより陳平は無事に劉邦の元に辿り着く事が出来ます。

陳平は周りの空気を読むのにも優れていたのでしょう。

劉邦の配下となる。

陳平は、劉邦の陣まで辿り着き配下となります。

劉邦の陣に着くと、友人の魏無知が劉邦に謁見出来るように取り計らってくれました。

余談ですが、魏無知は戦国四君の一人である魏の信陵君の息子だとも考えられています。

劉邦は、陳平や従者に食べ物を食べさせると、「今日の所は休む様に」と言います。

しかし、陳平は「今日のうちに伝えたい」と言い劉邦が納得したので、その日のうちの会見する事が出来たわけです。

陳平の話を聞くと、劉邦は喜び都尉に任命し厚遇します。

諸将は劉邦の陳平を重用する態度が気に入らず、文句を言いますが、劉邦はさらに陳平を重用する様になったと言います。

 

周勃・灌嬰に讒言される

劉邦は、項羽が斉を攻めている隙に、項羽の本拠地である彭城を陥落させる事に成功します。

この時の劉邦は、諸侯の兵も合わせると56万もの大軍であり調子に乗り、彭城で略奪・大宴会など派手な行動が目立つ様になります。

油断していた劉邦に項羽が僅か3万で、劉邦軍を攻めて壊滅状態にしてしまったわけです。

劉邦は何とか逃げ延びるわけですが、項羽に対して不利な戦いを強いられます。

劉邦は、陳平を韓王信(韓信とは別人)の副将に任じたりもしますが、灌嬰と周勃の二人に讒言される事になります。

灌嬰や周勃からしてみれば、突然やってきた陳平が自分たちの上にいる事が気に入らなかったのでしょう。

灌嬰や周勃は、陳平は素行が悪く乱臣であり兄嫁と私通をしたとか、賄賂を貰っている、忠義の心に掛けると言ったわけです。

劉邦は魏無知に確認をしますが、劉邦は陳平の行いを言っているが、自分は陳平の能力が漢に役立つから推薦したと言います。

劉邦は、次に陳平に問いますが、賄賂を受け取ったのは、無一文でここに来た為に、お金がなかったからだと述べています。

さらに、自分の策を用いる気であれば、ここに残るが用いる気がないのであれば、ここを去ると宣言します。

劉邦は陳平に「すまなかった」と謝り、さらに陳平を重用する様になったわけです。

これにより周勃も灌嬰も陳平を讒言する事はなくなったとされています。

 

范増を楚から離脱させる

陳平の楚漢戦争においての最大の功績は、項羽の軍師である范増を離脱させた事なのかも知れません。

陳平は、項羽が讒言を信じやすい事を見抜いており、莫大な金を使って范増、周殷、鍾離眜、龍且を楚から離れさせようとします。

劉封は陳平に4万斤の資金を与え「鍾離眜は項羽の将軍となって功績は多いのに王になる事は出来ない。それ故に項氏を滅ぼして劉邦に味方し王になろうとしているんだ」と流言を放っています。

これにより項羽は鍾離眜を信用しなくなった話が残っています。

さらに、項羽の使者が来た時に盛大に歓迎し「范増殿の使者だと思った」と述べ、項羽の使者を粗略に扱う事もしました。

項羽は范増を疑い尋問し、范増は引退を申し出て故郷に帰る事になります。

范増は故郷に帰る途中に背中に、できものが出来てしまい命を落とす事になります。

陳平の離間策により、楚の唯一の知恵者と言うべき范増が楚を離脱しました。

これにより項羽陣営は、戦いに勝っても中々有利な状態にならず、勝っても勝っても不利な状況に陥る事になります。

陳平の離間策により、楚は内部分裂したとも言えるでしょう。

 

滎陽の戦い

項羽の軍師である范増は離脱しましたが、劉邦は滎陽の城を項羽に囲まれて窮地に陥っていました。

さらに、項羽軍により糧道も断たれている状態です。

ここで陳平は城内にいる女性2000人を東門から出し、西門から劉邦に脱出させています。

この時に、紀信という将軍が劉邦に変装し身代わりとなっています。

因みに、劉邦と陳平は韓信の本陣まで行き韓信から兵権を奪うなども行っています。

劉封は韓信には斉への攻撃を命令しています。

その後に、劉邦は関中に逃げて蕭何に補給をしてもらい再び項羽に戦いを挑みます。

尚、劉邦の身代わりとなった紀信の子である紀通は、後に陳平と周勃に協力し、呂氏を滅ぼすの事になります。

 

韓信が斉王になる

劉封は韓信に斉の攻略を命じると共に、自らは独自に斉との外交を行い酈食其を使者とします。

当時の斉王だった田広や田横を説き伏せて70余城を降伏させる事に成功したわけです。

斉は漢への防備を解除しますが、韓信は蒯通の進言により無防備の斉に襲い掛かる事になります。

斉は大敗し楚に助けを求めると、項羽は龍且を派遣しますが、韓信が濰水の戦いで奇策を用い斉・楚連合軍を壊滅させます。

韓信は蒯通の進言を用い劉邦に斉を安定させる為に、斉王になりたいと要求する事になります。

劉封は韓信の斉王への就任要請に怒りを覚えますが、張良と陳平が劉邦の足を踏み合図を送ります。

劉封は張良と陳平の進言に従い韓信を斉王に任命しました。

張良と陳平は韓信の要求を吞まなければ、韓信が独立したり項羽に味方する事を恐れたわけです。

劉邦の将軍である韓信が魏、代、趙、燕、斉などを攻略した事もあり、ここから先は劉邦が有利となっていきます。

劉邦と項羽の戦いでは、ここから先は陳平の活躍は余りありません。

ただし、史記には陳平の策謀が大きく、楚を打ち破った様な事も書かれています。

 

韓信を捕える

劉封は項羽を垓下の戦いで破り楚漢戦争で勝利する事になります。

この時に韓信は斉王から故郷の楚王に移されています。

韓信が楚王になって暫くすると、韓信が謀反を企んでいる情報が入ってきたわけです。

劉邦の諸将は韓信に兵を派遣し討つ事を進言しますが、陳平は劉邦に次に様に述べています。

陳平「上書して韓信の謀反を告げた者がいるとの事ですが、反乱の事実を知っている者はいますでしょうか?」

劉邦「まだ、いない」

陳平「陛下(劉邦)と韓信の兵の強さはどちらが上でしょうか」

劉邦「韓信の兵には及ばぬ」

陳平「陛下の諸将の中に韓信以上に用兵が巧みな者はいますでしょうか」

劉邦「韓信に及ぶ者はいない」

陳平「兵の強さも用兵も韓信に及ばぬのに、兵を出して韓信に戦いを挑むのは無謀です」

劉邦「ならば、どうすればよいのじゃ」

陳平「陛下が楚に近い雲夢沢に出遊すると言えば韓信は陛下に挨拶に来るはずです。そのタイミングで韓信を捕えれば済む事です。韓信は力士が一人いれば捕らえる事は十分に可能となります」

陳平の進言を聴き入れた劉邦は韓信を捕える事になります。

ただし、劉邦は韓信の楚漢戦争での功績が大きかった事を配慮し処刑はせず、軍隊を持つ事が出来ない淮陰侯に降格させる事となります。

 

魏無知に恩返し

劉邦は天下統一後に陳平の功績を認め、陳平の故郷である戸牖侯に封じようとしました。

さらに、劉邦は陳平の子孫が絶える事が無い様に、割符を割くとまで言ったわけです。

しかし、陳平は魏無知がいなければ自分は功績を立てる事が出来なかったと言い、陳平だけではなく魏無知も褒賞される事になった話があります。

劉邦は陳平の事を「本に背かない人」として賞賛しています。

陳平は策略を好んではいましたが、自分を推挙してくれた魏無知への恩を忘れてはいなかったわけです。

 

匈奴との戦い

統一後の劉邦は反乱や北方の匈奴に悩まされています。

劉邦は項羽を破り漢王朝を樹立しますが、匈奴の冒頓単于と対決しています。

劉邦の陣が出過ぎた所を冒頓単于に包囲されてしまい、絶体絶命のピンチとなります。

冒頓単于と劉邦が戦った白登山の戦いでは、劉邦は危機的な状況に陥ってしまいました。

陳平が冒頓単于の妻(閼氏)に賄賂を贈る事や策を出し劉邦を救っています。

陳平が閼氏にどの様に述べたのかは分かっていません。策略は秘密にされた話もあり、閼氏に賄賂を贈る以外にも何かあったのかも知れません。

 

曲逆侯となる

劉邦は冒頓単于と和睦し長安に帰る途中に、曲逆(地名)を通る事になります。

劉邦は曲逆の壮大さと繁栄を目にし、曲逆よりも栄えているのは洛陽位のものだと述べ人口を訪ねます。

曲逆の人口が秦の時代は3万戸あり現在は5千戸だと知り、劉邦は曲逆に陳平を封じる事となり陳平は曲逆侯となります。

冒頓単于との戦いでは、陳平の策により脱する事が出来た事を劉邦は評価し曲逆侯に陳平を封じたのでしょう。

さらに、陳平は陳豨、黥布討伐にも参加して功績を挙げる事に成功しました。

陳平は劉邦に6度の奇計を出し、そのたびに加封されたとあります。

統一後の劉邦は、猜疑心が凄まじく多くの功臣を粛清しましたが、陳平が粛清される事はありませんでした。

 

劉邦の死

劉邦は黥布討伐で負傷してしまいます。

負傷している劉邦の元に燕王・盧綰が反乱を起こした情報が入ってきます。

劉邦は自分が負傷している事もあり、樊噲を向かわせました。

しかし、樊噲の事を讒言する者があり、燕討伐の将軍を周勃に変更し、樊噲を斬れと陳平に命じます。

陳平と周勃は相談し、「帝(劉邦)と樊噲は、旧い友人であり樊噲を斬れば帝は必ず後悔する事になる。樊噲の妻は呂后の妹呂嬃であり。樊噲は斬らずに捕えて帝に渡すのが最善である。」と話あいます。

陳平と周勃は樊噲を斬るのではなく、囚人車に入れて捕える事にしました。

陳平は劉邦の勅命で樊噲を捕えますが、樊噲の妻である呂嬃に恨まれる事になります。

呂嬃は、劉邦死後に実権を握る呂后の妹であるため陳平は危機を感じました。

このタイミングで劉邦が亡くなると、急いで陳平は都である長安に向かう事になります。

陳平が長安に向かう途中に、漢の使者に会い陳平は灌嬰と共に滎陽に駐屯する様に命令されますが、陳平は滎陽に留まれば処刑されると感じ、使者を振り切り長安に向かう事にしました。

陳平は長安に到着すると劉邦の棺の前で涙を流し、呂后は陳平に「あなたは疲れているでしょうから。休むように」と言われますが、陳平は今日だけでも劉邦と一緒にいたいと宿営を嘆願し許されています。

史記によれば、陳平が長安にいた事で呂嬃は陳平を讒言する事が出来なかったと伝わっています。

余談ですが、劉邦は死の間際に陳平の事を「陳平は知恵はあり過ぎる程だが、一人に任せるわけにはいかない。」と述べた話が残っています。

劉邦な陳平を評価しながらも「一人に任せてはいけない」としたのは危険視した事の表れではないか?とする説も存在します。

尚、劉邦は自分の死後に丞相は王陵に任せ、陳平に補佐する様に構想を描いていた様です。

 

呂后の時代

劉邦が亡くなると、恵帝が即位しますが実権は母親である呂后が握っていました。

呂后は劉氏の一族を次々に処刑する事になります。

余談ですが、呂后は戦国時代に荘襄王や秦王政(始皇帝)を補佐した呂不韋の子孫と言われています。

呂氏が王となる

漢の恵帝が若くして亡くなると呂后が呂氏の一族を王にしたいと言い出します。

呂后の考えに対して王陵は「高祖(劉邦)は劉氏以外の者が王になったら皆で協力して討て」と言った話を持ち出し反対します。

呂后は陳平や周勃に意見を求めると「呂氏の一族が王位に就くのは問題ない」と述べます。

ここで呂后は心に反し陳平と周勃に「高祖の遺言を忘れたのか」と怒りますが、内心では陳平や周勃の意見を喜んでいました。

呂后が退室すると王陵は陳平と周勃に「高祖の遺言を忘れたのか」と詰め寄りますが、陳平や周勃は呂后は心を偽って怒っていたと述べています。

王陵は陳平と周勃に「高祖との誓いを破り呂后に媚を売るのであれば、何の面目があって、あの世の高祖に会う事が出来るのだ」と言い放ちます。

それに対して陳平や周勃は「朝廷の真中で正義を訴えるのは王陵殿に遠く及ばないが、劉氏の安泰を願い劉氏の後継を守る事であれば、あなたは我々に遠く及ばない」と述べています。

王陵は呂后から太傅に任じられながらも、政治からは遠ざけられている事に気が付き朝廷に出なくなります。

王陵が職を辞すると、呂后は陳平を右丞相とし左丞相には呂后の息が掛かった審食其を任命しました。

 

呂嬃の讒言

呂后の妹である呂嬃は、過去に夫の樊噲が陳平により捕らわれた事を恨み、呂后に讒言する事になります。

呂嬃は呂后に「陳平は職務に励まず、酒ばかり飲み女と戯れている」と吹き込む事になります。

陳平はこの話を聞くと、淫楽に励む事になった話があります。

呂后は陳平を呼び出すと、「諺に婦人と子供の言う事は取り上げるべきではないと聞いている。万事は私(呂后)と右丞相(陳平)の心に掛かっている。呂嬃の言葉など気にする必要はない」と述べました。

その後に、呂后は呂氏の一族を正式に王位に就けようとしますが、この時も陳平は賛成しています。

陳平は呂后の時代は徹底的にYESマンとなり、無能な振りをする事になります。

ただし、陳平が無能な振りをしている間に、呂后は次々に劉邦の子を処刑したり、呂氏が高位を独占したわけです。

 

陸賈の進言

陳平は呂氏の事は苦々しく思っていましたが、何もする事が出来ませんでした。

こうした中で、陸賈は陳平に会いに行く事になります。

陸賈は勝手に陳平の屋敷に入っていきますが、陳平は深く悩んでおり陸賈が目の前にいるのに気が付かなかった話があります。

陳平は陸賈に自分が何を考えていたのか?聞いてみます。

陸賈は呂氏の一族と漢の小主の事で悩んでいると言い当てる事になります。

陳平は陸賈に呂氏一族で悩んでいるが、どうすればいいのか分からないと陸賈に述べました。

陸賈は天下が安定している時は宰相に注目が集まり、天下が乱れている時は将軍に注目が集まると言います。

陸賈は宰相と将軍が協力すれば、変事が起きても権力が分散される事はないと進言します。

陳平は文武の長が協力する事で劉氏の社稷が守られる事に気が付き、将軍の筆頭である周勃と誼を結ぶ事になります。

陸賈は自分と周勃は親しみ過ぎていて話を聞いてくれないから、陳平に話したと述べています。

陸賈は陳平に呂氏の問題点を指摘し策を陳平に授ける事になったわけです。

陳平は悩みが吹き飛び、陸賈の策に従い動く事になります。

 

陳平と周勃

陳平は手始めに周勃と誼を結ぶ為に、500金を周勃に献じ長寿を願う事にしました。

陸賈にも陳平は奴婢100人、車馬50乗、銭500万を送り自由に使わせています。

陸賈は陳平から預かった資金を使い漢朝の公卿らに働き掛ける事になります。

陳平と周勃は誼を結び、資治通鑑によれば呂氏の陰謀が弱まった話もあります。

尚、過去に陳平は周勃に讒言された事があるにも関わらず、ここでは誼を結んでいます。

それを考えると陳平は周勃への事は水に流しており、恨み深い性格ではなかった様です。

呂后は病となり死を覚悟すると、一族の趙王呂禄を上将軍とし北軍を握らせ、梁王呂産には南軍の指揮権を与える事になります。

呂后も呂氏の一族が自分の死後に衰退しない様に手を打ったのでしょう。

呂后は漢の大臣達が呂氏に危害を加える事を読んでいた話もあります。

劉氏を守る

呂后が亡くなると陳平と周勃は呂氏を打倒する為に動き出す事になります。

劉襄が挙兵

呂后が亡くなると、劉章は呂氏の陰謀を察知し兄の斉王劉襄に使者を出します。

劉襄は斉で挙兵し、呂氏は劉襄を討伐するために灌嬰を派遣する事になります。

灌嬰の心は劉氏にあり滎陽に到着すると、劉襄に手紙を送り寝返りを約束しました。

ここにおいて呂氏は外では、劉襄と灌嬰がおり、内には大臣達の反乱が起きる事を心配する様になった話もあります。

 

呂禄の兵権返上

周勃は大尉の位にありがながら指揮権は無く兵を動かす事は出来ませんでした。

陳平と周勃は呂禄と仲が良い酈寄の父親である、酈商が劉氏に心を寄せている事に目を付けます。

その時の酈商は病気ではありましたが、陳平と周勃に人質になってくれる様に説得されると快く応じる事になります。

陳平と周勃は酈商を人質とし、息子の酈寄に親交がある呂禄に上将軍の位と軍権を返上する様に働き掛ける様に依頼します。

酈寄は呂禄に上将軍の印綬を大尉の周勃に渡し、呂産の相国の位を返上する様に働きかけ、大臣達と盟約を結び国に帰る様に進言したわけです。

呂禄は呂氏の一族を集めて兵権を返上する事を発表したが、呂氏の一族である者は賛成し、ある者は反対した話が残っています。

陳平の事を恨んでいた呂嬃は会議には参加しませんでしたが、呂禄を叱責し「兵権を返したら呂氏が身を置く場所がなくなる」と危惧しています。

呂禄が呂嬃の言う事を聞こうとしないとみるや「宝物を持っていても劉氏のものになるだけだ」と捨て去った話が残っています。

 

呂氏の滅亡

陳平と周勃は、斉から帰ってきた賈寿が呂産を動かし、素早く帝を抑え斉王劉襄と灌嬰を逆賊にする様に要請した話を耳にします。

曹参の子である曹窋からも同じ報告が入り、陳平や周勃は呂産よりも先に帝を抑えようと動く事になります。

陳平と周勃は呂禄が返上した北軍の兵権を得る事を優先させる事になります。

周勃は兵権を得るために北軍に行きますが、割符を持っていない為に拒否されてしまいました。

しかし、紀通が偽造した割符を周勃に与えた事で、周勃は北軍に入る事になります。

周勃は北軍に入ると呂氏に味方する者が多くいる事を恐れ「呂氏に味方したいと思う者は右肩を脱ぎ、劉氏に尽くしたいと思う者は左の肩を脱げ」と命令します。

全員が左肩を脱いだ為に、周勃は劉氏の為に動き北軍の司令官になったと宣言します。

陳平は周勃が北軍を抑えた事を知ると、補佐として劉章を向かわせる事にしました。

周勃は劉章を殿門に向かわせ、呂産を斬る事になります。

これが引き金となり陳平や周勃は呂氏の一族を一気に滅ぼす事になったわけです。

 

文帝が皇帝になる

呂氏を排除した後に、誰を漢王朝の皇帝にするか決めなければいけません。

ここで陳平や周勃ら漢の大臣は、劉邦の子である代王劉恒(文帝)を即位させています。

斉王劉襄を即位する案の出ましたが、外戚の駟鈞を問題視し劉恒が漢の皇帝として即位したわけです。

陳平は右丞相であり漢の最高位になっていましたが、呂氏を打倒する中では、周勃の方が功績が大きいと言い、右丞相の位を周勃に譲り、左丞相に降格しました。

文帝も政務になれて来ると次の話が残っています。

文帝「1年間における獄の判決はどれ位であろうか。」

周勃「存じておりませぬ・・・」

文帝「1年の収支はどれ位であろうか」

周勃「存しておりませぬ・・・」

文帝「左丞相(陳平)は存じておるのか」

陳平「担当の者がお答えしてくれるはずです」

文帝「担当の者とは誰を指すのじゃ」

陳平「獄の事なら廷尉に聞けばいいし、国庫の事は治栗内史に聞けばよいでしょう」

文帝「お主の担当は何なのじゃ」

陳平「丞相とは上は陛下を補佐し陰陽の二気を調和させ、下は草木珍獣など万物のよろしきをかなわせ、外は四方の戎や諸侯を鎮撫し、内には百姓万民を親しませ、卿や大夫には職務を全うさせる事です」

陳平の答えに文帝は大いに納得し、満足した話が残っています。

文帝が退出した後に、周勃は陳平に「答え方をなぜ教えてくれなかったのだ」と愚痴を言います。

周勃に対して陳平は、「君はその職務にありながら任務を知らなかったのか。陛下が長安城内の盗賊の数を聞かれたら答えるつもりだったのか」と述べています。

周勃は陳平の話を聞き終わると、自分が陳平に遠く及ばない事を悟ります。

周勃が病を理由に右丞相の位を降りると、再び陳平が右丞相となったわけです。

周勃が丞相の位を降りると史記には「ひとり陳平が丞相を務めた」とする記述があります。

しかし、陳平は文帝の2年(紀元前178年)に亡くなってしまいます。

張良、蕭何、韓信の漢の三桀には入りませんが、劉邦の死後に劉氏を守った人物だと言えるでしょう。

陳平は献侯と諡されています。

陳平は貧しい農民から、漢の最高位である右丞相となっている事から、才能は抜群にあった人となるはずです。

漢王朝を存続させた人物だと言えます。

史記を書いた司馬遷は陳平の事を、漢の宗廟を安定させ栄明を持って生涯を終え賢臣と称えられた。

はじめをよくし、終わりを全うしたと褒めています。

智謀の士である陳平でなければ、出来なかったとも司馬遷は述べています。

司馬遷は陳平が出処進退を上手くやった事を褒めたとも言えるでしょう。

陳平の子孫

陳平が亡くなると陳買が跡を継ぐ事になりますが、僅か2年で亡くなった話があります。

その後も陳平の子孫は続きますが、陳可の代になると人妻を奪った罪で国を除かれてしまいます。

尚、陳平の玄孫に陳掌がおり、漢の武帝の時代に匈奴討伐で大活躍した霍去病の母親と密通して義父になった話があります。

陳掌は大将軍となる衛青や霍去病の親戚として、陳氏の封を継ぐことを望みますが許される事はありませんでした。

その後の陳平の子孫は残念ながら国を復興する事は出来なかった様です。

漢の武帝の時代までには、陳平の子孫の領地は没収された事になります。

過去に陳平は「私は陰謀が多い。これは道家が禁じている所であり、私の子孫が廃絶されてしまったら、復興する事は出来ないだろう。私の陰謀が多き過ぎるからである」と述べた話が残っています。

陳平の予言は皮肉にも当たってしまったと言えるでしょう。

尚、陳平や黄帝や老子の術を好んだ話もあります。

 

 

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