室町時代

足利直義は幕府政治の基礎を作った人物

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足利直義(あしかがただよし)は足利尊氏の弟であり、幕府政治の基礎を作った人物ともされています。

上記の肖像画は『英雄百首」に描かれた足利直義像です。

兄である足利尊氏と弟の足利直義の性格は反対だともされていますが、兄弟仲はよかったとされています。

一般的には足利尊氏が幕府の軍事を担当し、足利直義が政務を担当したと言われています。

しかし、近年の研究では足利直義の権限は大きく、実質的な幕府の最高権力者が足利直義だったのではないか?とも考えられている状態です。

最終的には足利尊氏と対立し、足利直義は観応の擾乱で最後を迎える事になります。

今回は足利直義がどの様な人物だったのか解説します。

近年問題になっている、源頼朝との肖像画問題は最後の方に記述しました。

最近の研究では下記の肖像画は足利直義ともされている状態です。

 

足利尊氏の弟

足利直義は1306年もしくは、1307年の生まれだとされています。

足利直義の父親は足利貞氏であり、側室の上杉清子との間に生まれています。

一説によれば、足利直義は鎌倉で生まれたのではないか?とも考えられています。

足利直義の同母兄として、足利尊氏がいるわけです。

尊氏と直義とは、腹違いの兄で足利高義もいましたが、早くに亡くなっています。

足利高義が亡くなった事で、足利尊氏が名門足利家の当主となった経緯があります。

先に述べた様に、足利尊氏と直義の兄弟仲は良好だったと伝わっています。

初期の頃は、豊臣秀吉と豊臣秀長に匹敵する兄弟仲だったのでしょう。

尚、足利直義は生まれたのも、決起したのも、亡くなったのも「鎌倉」とされており、鎌倉と縁が深い武将だともされています。

鎌倉幕府の滅亡

足利直義が20歳を超えた頃には、後醍醐天皇が鎌倉幕府の転覆を画策していた次期でした。

後醍醐天皇は両統迭立に不満を持ち、天皇親政を理想としていたわけです。

1324年の正中の変では六波羅探題に不穏な動きを察知され、後醍醐天皇の側近である日野資朝らが処分される事態になっています。

後醍醐天皇は1331年に元弘の変を起こし、楠木正成らを味方とし、反旗を翻しますが、幕府軍に破れ隠岐に流されました。

元弘の変の時に、足利尊氏(高氏)が幕府軍として出陣しており、足利直義も従軍したとも考えられています。

1333年に後醍醐天皇は隠岐を脱出し、挙兵すると幕府は再び大軍で後醍醐天皇を攻撃しました。

足利尊氏と直義も幕府軍として出陣しますが、幕府を裏切り、足利軍が六波羅探題を攻略しています。

関東では新田義貞が鎌倉幕府の本拠地である、鎌倉を陥落させています。

幕府の最高権力者である北条高時が自害した事で、鎌倉幕府の滅亡となります。

元来、鎌倉幕府の滅亡は元寇による御家人の恩賞問題が原因とされてきました。

しかし、近年の研究では御家人の恩賞問題は解決されており、幕府は絶大なる権力を有した話もあり、滅亡理由は不明とも言われる様になってきています。

鎌倉将軍府の執権となる

鎌倉幕府が滅びると、後醍醐天皇は自ら親征を始めました。

これが建武の新政です。

建武の新政では、護良親王が征夷大将軍となりますが、足利尊氏や直義と対立する事になります。

尊氏と直義は権力闘争に勝ち、護良親王は征夷大将軍の位を解任されたわけです。

護良親王が失脚した後に、足利直義が成良親王を奉じて鎌倉に東下する事となり、護良親王も鎌倉に連行され幽閉されています。

足利直義は幼い成良親王に代わり、関東の政務を行ったと伝わっています。

足利直義は鎌倉将軍府の執権だった事になるでしょう。

 

中先代の乱

足利直義は鎌倉で政務を行っていましたが、中先代の乱が起き窮地に陥ります。

北条時行の挙兵

1335年に北条高時の遺児である、北条時行が信濃で挙兵しました。

信濃には守護の小笠原貞宗がいましたが、北条時行の動きを感知出来なかったのか、北条時行の軍は鎌倉に向けて進軍しています。

北条時行の軍には、諏訪頼重率いる諏訪神党が中核を成し、手ごわい相手だったわけです。

足利直義は北条時行に対し、岩松経家、渋川義季らを派遣しています。

岩松経家、渋川義季は女影原の戦いで北条時行の軍勢に破れ自害しました。

諏訪神党を中心とした北条時行の軍勢は精強であり、岩松経家、渋川義季らでは歯が立たなかったのでしょう。

 

護良親王を殺害

足利直義は岩松経家、渋川義季らが敗れた事を知ると、自ら出陣しています。

足利直義は武蔵国の井出沢で北条時行の軍を迎え撃ちます。

これが井出沢の戦いです。

しかし、足利直義は脆くも敗れ、三河国矢作まで落ち延びています。

この時に、足利直義は護良親王を殺害しています。

足利直義は北条時行が鎌倉を占拠し、護良親王を奉じて執権となる事を恐れたのでしょう。

足利直義は井出沢の戦いでは、豪快に敗れたなどの話もありますが、タダでは負けなかったとも言えます。

尚、足利直義が三河国矢作まで落ち延びたのは、三河国が足利氏の守護分国であり、安全だと考えたからだとされています。

 

鎌倉を奪還

北条時行は足利直義の軍を破ると、鎌倉を占拠しました。

足利直義は三河国におり苦しい立場だったのですが、兄の足利尊氏が援軍として駆けつけています。

この時に、足利尊氏は後醍醐天皇の命令に逆らい、勝手に直義の援軍に駆け付けたとされています。

足利尊氏にしてみれば、弟である足利直義の危機に胡坐をかくわけにもいなかったのでしょう。

足利尊氏と合流した直義は、東進し北条時行の軍を破り、鎌倉を奪還しています。

戦いに敗れた北条時行は伊豆に逃亡したとも伝わっていますが、諏訪頼重は自害しました。

これにより中先代の乱は終結しています。

後醍醐天皇の政権から離脱

足利直義は尊氏を説得し、建武政権から離脱する事になります。

引き籠る尊氏

中先代の乱が鎮圧されると、後醍醐天皇は足利尊氏に帰還命令を出します。

しかし、足利直義が尊氏を説得し、上洛を止めさせています。

この時に足利尊氏と直義は武士に対して、論功行賞を行い恩賞を与えています。

後醍醐天皇は恩賞宛がいは、自分の役目だと思っており、激怒したわけです。

後醍醐天皇は新田義貞を鎌倉討伐に向けますが、足利尊氏は蟄居してしまいます。

 

手越河原の戦い

足利尊氏とは対照的に、足利直義は軍勢催促状を発行し、積極的に兵を集め出したわけです。

足利尊氏は後醍醐天皇と戦いたくなかった様ですが、足利直義は武家政権の樹立を考え、徹底抗戦の構えを見せます。

これを考えると足利尊氏よりも、足利直義の方が野心家だとも見る事が出来るでしょう。。

足利直義は新田義貞の軍に対し、先鋒隊として高師泰を派遣しますが、高師泰は新田義貞の軍に敗れています。

高師泰が敗れた事で、足利直義が自ら出陣します。

しかし、足利直義も手越河原の戦いでは、新田義貞に敗れました。

鎌倉幕府を滅ぼし、太平記では韓信に匹敵する武将と評価される、新田義貞が相手では荷が重たかったのでしょう。

尚、太平記によれば手越河原の戦いは、新田義貞の夜襲に足利直義が驚き兵を引いたとあります。

手越河原の戦いは、両軍入り乱れての激戦だったとする話もありますが、手越河原の戦いで足利直義が敗れた事だけは間違いなさそうです。

 

竹ノ下の戦い

足利直義が敗れると、足利尊氏は重い腰を上げて、自ら将となり新田義貞に戦いを挑む事になります。

足利尊氏が総大将となり竹ノ下の戦いが起こると、尊氏の采配が冴えわたり、新田義貞の軍を撃破しています。

足利尊氏と直義の場合は、足利直義が戦いに敗れると、尊氏が出陣し敵を蹴散らすパターンは多いと言えるでしょう。

ここまでの足利直義を見ると、戦いには滅法弱いと思うかも知れません。

しかし、この辺りから戦場に慣れて来たのか、采配が上手くなってきたと感じられる部分もあります。

ただし、足利直義が戦場で指揮官を行った時期に関しては、長くはありません。

後年では後方支援に徹する様になります。

 

京都に向けて進撃

竹ノ下の戦いで勝利を収めた足利兄弟ですが、ここで軍議が開かれます。

鎌倉に帰るか京都に進撃するかの選択です。

足利直義は鎌倉に帰還し、武家政権を樹立する事を願ったと伝わっています。

源頼朝が鎌倉に幕府を開いて以来の伝統の地である、鎌倉にて東国武士を中心とした政権を作ろうと考えたともされています。

足利直義は保守系の人物でもあり、鎌倉に幕府を置く事は願ってもない事だったとも考えられています。

しかし、足利尊氏は京都を掌握すれば、全国規模の政権を作る事が出来ると考えたのか、京都に向けての進撃を決断しました。

これにより、足利直義も兄である尊氏と共に、京都に軍を進める事になります。

 

九州に落ち延びる

足利直義は兄の尊氏と共に、軍勢を率いて上洛しました。

この時に、後醍醐帝三傑でもある楠木正成、新田義貞、北畠顕家との戦いとなります。

京都で尊氏と直義は敗れ丹波に退きますが、豊島河原合戦でも敗北しています。

尊氏と直義は態勢を立て直す為に、九州に落ち延び再起を目指す事になります。

 

多々良浜の戦い

足利尊氏と直義は九州に落ち延びると、少弐頼尚に保護される事になります。

この時に、九州の大半の勢力が後醍醐方であり、尊氏と直義は苦難の門出となったわけです。

多々良浜の戦いで、肥後の菊地武敏を総大将とする軍と戦う事になります。

決戦の前に、尊氏は味方の兵が少なく、敵が大軍だと分かると切腹すると言い出しました。

足利直義は尊氏の切腹を止めて、尊氏を奮い立たせ、自らが先陣となります。

梅松論によれば、この時に足利直義は自ら太刀を抜き敵陣に攻撃を掛けようとすると、多くの武士が先を争って敵陣に突入したとあります。

太平記によれば菊地武敏の軍に足利直義が突撃を掛けると、最初のうちは有利に戦いを進めます。

しかし、足利直義の軍は兵力で劣っており、予備兵を投入した菊地武敏の軍に押されまくります。

死を覚悟した足利直義は部下に自分の袖を足利尊氏に届ける様に命じました。

足利尊氏は直義の袖が届くと、直義の窮地を知り、自ら武器を持ち援軍に向かいます。

足利尊氏の奮戦もあり、日和見を決めていて九州の大名たちが、足利方に寝返った事で勝負は決しました。

多々良浜の戦いは足利尊氏、直義の勝利となったわけです。

 

湊川の戦い

多々良浜の戦いで勝利した事で、足利尊氏、直義兄弟は復活し、大軍で京都に進撃する事になります。

湊川の戦いでは、足利直義は陸軍を率いて戦い、足利尊氏が海軍を率いています。

太平記などでは楠木正成の奮戦もあり、足利直義が後退する場面がありながらも、圧倒的な戦力で勝利しています。

湊川の戦いでは、足利尊氏が付いていた事や大軍を率いていた事で、足利直義は勝利する事が出来たと考える人もいます。

しかし、最近の南北朝時代の研究者の中には、足利直義の多々良浜の戦いや湊川の戦いの軍功をもっと評価してもよいのではないか?とする見方も強まっています。

尚、湊川の戦いではゲリラ戦などで無類の強さを誇っていた、楠木正成が弟の楠木正季と共に自害して果てています。

 

光明天皇の即位

足利尊氏、直義兄弟は京都を制圧すると、後醍醐天皇は比叡山に移り新田義貞が守備する事になります。

足利尊氏、直義らは後醍醐天皇に和議を申し込み、後醍醐天皇は比叡山を降りたわけです。

この時に、新田義貞は後醍醐天皇の皇子である恒良親王と尊良親王らと共に、越前に落ち延びました。

後醍醐天皇は光明天皇に三種の神器を授け、光明天皇が天皇として即位しています。

この辺りの朝廷工作は、足利直義中心で行われたとも見る事が出来ます。

光明天皇が即位すると、足利尊氏、直義兄弟は幕府を開く事になるわけです。

本来、室町幕府は足利義満が京都の室町に本拠地を置いた事で付けられた名前であり、本来であれば足利尊氏の時代は足利幕府を呼ぶのが相応しいのかも知れません。

しかし、ここでは多くの人が呼び慣れた室町幕府の呼び名で話を進めていきます。

因みに、後醍醐天皇は幽閉先の京都花山院を抜け出し、吉野で南朝を開きました。

ここにおいて、日本に二人の天皇が現れ南北朝時代に突入します。

幕府の最高権力者

足利直義は実質的な幕府の最高権力者となります。

建武式目

足利直義の功績として建武式目を制定した事が挙げられます。

1336年に制定された建武式目は、幕府の方針とも呼べる決まりであり、建武式目の制定により室町幕府が始まったと考える人も多いです。

ただし、法的な拘束力は建武式目には無かった面もあり、下級武士を中心に建武式目を守らなかった武士も多くいた話があります。

尚、建武式目には首都を京都にすると明記されています。

室町幕府は京都を本拠地に置き続けたわけですが、これを決めたのが足利直義だとも言えるでしょう。

尚、建武式目は醍醐天皇、村上天皇の時代も述べた後に、鎌倉幕府の北条義時や子である北条泰時を見習うべきであるとも記載されています。

余談ですが、足利尊氏は建武式目が制定された2年後である、1338年に征夷大将軍に任ぜられています。

足利尊氏が征夷大将軍になった時が、室町幕府の始まりだと考える人もいます。

 

評定

室町幕府の最高議決機関として、「評定」があります。

評定には足利直義が必ず出席し、所領裁判の下知状なども発行された事が分かっています。

建武式目にも定例会議を行い、裁判を励行し、人々の愁いを除く事が記載されており、実行したのが足利直義が出席した評定だとも考えられています。

侍所などの重要案件は全て、足利直義が目を通した話もあり、足利直義の強い権限があった事が分かるはずです。

 

室町幕府の軍事総司令官でもあった

室町幕府が出来ると、一般的には足利尊氏が軍事を担当し、足利直義が政務を担当したと伝えられています。

昔から言われているのは、「尊氏」と「直義」の二頭政治だと言う事です。

しかし、最近の研究では、足利直義が軍事に大きく関わっていた事が分かってきました。

本来、軍勢動員権や戦功認定権は、尊氏の権限だと考えられてきました。

近年の研究では、一次資料から尊氏の軍勢動員権や戦功認定権は停止しており、多くは足利直義が発行している事が注目されています。

この事から、足利直義は全国にいる武士に対し、総司令官だったと考えられる様になっています。

足利直義は「天下の執権人」「執政」「三条殿」と呼ぶ、研究者も増えて来ています。

初期の幕府において、尊氏は多くの権限を足利直義に譲渡した結果として、直義が実質的な幕府の最高権力者になったとも言えるでしょう。

 

公平な裁判制度

足利直義の功績の中で、現代にも通じるのが裁判制度だとも考えられています。

先にもお伝えした様に、足利直義は室町幕府において司法、立法、軍事権などを持っていました。

その中で、足利直義は公平な裁判制度を、日本で初めて作ったとも言われています。

平安時代までは裁判制度は未発達であり、裁判制度が発達するのは鎌倉時代からだともされています。

ただし、鎌倉時代の裁判制度は、幕府に有利な判決が出る様になっていました。

鎌倉時代の裁判は内容も複雑で不公平な内容だったわけです。

鎌倉時代の裁判は多くの武士が不満を溜めやすい内容でした。

しかし、室町幕府の裁判制度は私情が入りにくい、現代に近い裁判が行われています。

ただし、公平な裁判が原因で室町時代は幕府の権力が弱くなってしまったとも考えられています。

足利直義を見る上で、「公平」「公正」などはキーワードとなるでしょう。

 

土岐頼遠を処刑

土岐頼遠は足利尊氏の配下として、各地を転戦した武将です。

土岐頼遠は尊氏や直義と共に、九州まで落ち延びて多々良浜の戦いでも奮闘しています。

土岐頼遠は佐々木道誉と並ぶ婆娑羅大名であり、多くの武功を立てた人物でもあります。

土岐頼遠は酒に酔い、光厳上皇の牛車に矢を射かける事件があったわけです。

足利直義は権威の象徴である、天皇家を大事にしており、土岐頼遠の態度に激怒しました。

土岐頼遠は絶大なる功績があったにも関わらず、足利直義は処刑とする判決を出しています。

土岐頼遠の事件は足利直義の、苛烈さが分かる事例とも言えるでしょう。

それと同時に、足利直義が伝統に対して、敬意を表していた事も分かるはずです。

 

足利直冬問題

足利尊氏には越前局なる女性との間に、足利直冬がいました。

しかし、尊氏は直冬を嫌い認知しなかったわけです。

足利直冬を養子にする

足利直冬は足利尊氏と越前局なる女性との間に出来た子とされています。

足利直冬は足利尊氏と直義の母親である上杉清子も可愛がっていましたが、足利尊氏は直冬を認知しなかったわけです。

足利尊氏が直冬を認知しなかった理由は、正室の赤橋登子の意向が含まれていたともされています。

足利直義は直冬を不便に思ったのか、自らの養子としています。

 

足利直冬の紀伊征伐

紀伊で反乱が起きた時は、幕府軍の総大将に足利直冬が任命されています。

足利直冬は活躍の機会が与えられ、足利直義が光厳上皇の院宣を獲得しています。

足利直冬は従四位佐兵衛佐に任命され、紀伊遠征に出発しました。

足利直義は自ら後方支援を行い、万全の体制を整えて足利直冬を支援したわけです。

足利直冬も直義の期待に答え、激戦を続けながらも、紀伊の日高郡まで進撃し反乱を平定しています。

足利直冬の活躍は、多くの武士の心を掴んだとも言われています。

足利直義としては、直冬が手柄を立てれば尊氏も喜び、仲が改善される事を期待したともされています。

しかし、実際には尊氏は自分の屋敷に出仕する事は許しましたが、直冬への冷遇は続いた様です。

足利直冬は「自分は尊氏の子ではあるが、育ての親で可愛がってくれる直義が本当に父親。」だと思った可能性も十分にあるでしょう。

 

足利直冬の長門探題就任

足利直義は足利直冬を長門探題に任命し、中国地方八カ国の統治を任せた話があります。

しかし、この時には伝統を重んじる足利直義と、武士を優遇する高師直の間で、対立が起きており、直冬は反対したとも言われています。

直冬としては、足利直義と高師直の対立が深まっている以上は、自分は都に残りたいと考えたのでしょう。

足利直冬にとってみれば、足利直義が最大の後ろ盾であり、尊氏との確執から危険を感じた可能性もあります。

しかし、足利直義は地方も含めた天下安寧の為には、足利一門である足利直冬が長門探題になるのが相応しいと考えた様です。

足利直冬は長門探題に就任した事で、都を出る事になりました。

 

高師直との戦い

北朝内の対立が起き、足利直義と高師直が対立する事になります。

高師直の台頭

足利尊氏が信任した武将の中に、執事の高師直がいました。

高師直は石津の戦いで、北畠顕家を破る功績を挙げています。

これにより、幕府内で高師直の発言権が増していく事になります。

足利直義は伝統を重んじましたが、高師直は「腐敗した鎌倉幕府をもう一度作るような事はしたくなかった」と考えたともされています。

よくある言い回しとしては、足利直義と高師直の対立は、「伝統」と「成り上がり」の戦いと揶揄される事も多いです。

1343年には足利直義と高師直の不和が、東北にいた南朝の北畠親房まで届くようになり、両者の対立は激しくなっていきます。

 

高師直を解任

足利直義と高師直は対立を続けますが、1348年に起きた四條畷の戦いで高師直が楠木正行を討つ功績を挙げています。

高師直が楠木正行を討った事で、高師直の発言権がさらに高まったわけです。

この時に、足利直義は高師直の権限が増える事を恐れたのか、高師直の執事職を解任しています。

これにより、北朝内での対立は治まったかに見えました。

しかし、対立はエスカレートしていく事になります。

 

直義が政務から引退

高師直は執事を解任された事に、納得できるわけもなく高師泰と共に、足利直義に対し反旗を翻します。

高師直は兵を集めますが、危機を察した足利直義は兄の尊氏がいる将軍御所に避難しました。

高師直は将軍御所を囲みますが、足利尊氏が高師直等を一喝した事で、場は治まります。

しかし、足利尊氏は高師直の執事復帰を認め、足利直義が政務を引退する事となります。

足利直義が引退した事で、鎌倉にいた尊氏の嫡子である、足利義詮が上洛しています。

直義の引退後は足利義詮と高師直が政務を行う事になったわけです。

 

足利直義の南朝への降伏

足利直義が失脚すると、尊氏は足利直冬にも出家命令を出しています。

尊氏は直冬に都に戻って来るように命令しますが、身の危険を感じたのか足利直冬は尊氏の要請に応じませんでした。

足利直冬にとって自分を庇護してくれる、直義の失脚は大きな悩みの種となったはずです。

足利尊氏は高師直らと、足利直冬の討伐に向かう事になります。

この時に、足利直義は挙兵し、南朝に降伏しました。

南朝では後村上天皇や北畠親房ら首脳部で議論が行われますが、足利直冬の降伏を結果として許す事になります。

足利直義は南朝への降伏が許されると、高師直・高師泰を討伐する名目で、大量の軍勢催促状を発行したわけです。

足利直義は高師直・高師泰兄弟を排除する為の戦いだと、内外に知らしめた事になります。

 

大軍が終結

足利直義は尊氏派と考えられていた、畠山国清も味方に引き入れ、八幡に進撃しました。

この時に、多くの守護が足利直義に味方し、軍勢に加わった話があります。

斯波高経や上杉朝定らも、足利直義に味方しています。

斯波高経や上杉朝定らだけではなく、高師直の下で働いていた、安富貞嗣なども直義に味方しました。

室町幕府の官僚らも多くが直義に味方したとも考えられています。

 

高兄弟だけを排除したい直義

足利直義が挙兵した事に対し、足利尊氏と高師直は急いで軍を返し、京都に進軍しました。

京都で合戦になりますが、直義は八幡から動く事はせず、配下に恩賞も与えなかったとされています。

直義が動かなかった事や恩賞を与えていない事から、直義は戦いに消極的だったのではないか?とする説もあります。

しかし、足利尊氏や高師直が丹波に逃れ、播磨に向かうと、自軍の後方支援は積極的に行っています。

足利直義は自軍を有利にする為に、高師直・高師泰討伐の軍勢催促状を積極的に出していたわけです。

先に述べた様に、足利直義は室町幕府の軍事の最高司令官であったわけであり、自分の経験を生かして後方から兵力の補充を積極的に行っていました。

足利直義は実際に、戦場に行かなくても後方から、支援を積極的に行っていたと言う事です。

後方からの支援は、足利直義が最も得意とする部分だったのかも知れません。

 

 

打出浜の戦い

足利直冬と足利尊氏、高師直の軍勢で、打出浜の戦いが勃発します。

摂津で行われた打出浜の戦いでは、多くの武士が靡いた事で、圧倒的な戦力を誇った足利直義が大勝しています。

戦上手と言われた足利尊氏と高師直であっても、圧倒的な戦力差を覆す事は出来なかったのでしょう。

足利直義は高師直と高師泰の引退を条件に、足利尊氏と和議を結びました。

足利直義にとってみれば、高師直を排除したかっただけであり、尊氏に危害を加えるつもりは無かったのでしょう。

和議の条件では、高師直、高師泰、高師世らの助命が入っていました。

しかし、和議の条件は守られず高師直、高師泰、高師世らは殺害されています。

ここにおいて、観応の擾乱の前半部分は終結したわけです。

直義の苦悩

足利直義は再び政務に返り咲きますが、苦難の連続が待ち構えていました。

尚、尊氏に対して直義は、足利直冬の鎮西探題就任は認めさせています。

尊氏との関係

足利直義は兄の足利尊氏を排除する気は全くなく、打出浜の戦い後も足利尊氏は征夷大将軍を続けたわけです。

足利直義としては、室町幕府の初期の頃の様に尊氏と仲良くやっていきたかったのでしょう。

足利直義は尊氏に対して、武士たちに恩賞を与える恩賞充行権を残しています。

尊氏は恩賞充行権を使い、打出浜の戦いで自分に対して忠誠を示した武将たちに対し、積極的に恩賞を与えました。

足利直義方として、戦った武士たちの恩賞が少なかった事や、遅れた事で直義に対する求心力が低下したわけです。

恩賞問題で足利直義は求心力を失います。

 

南朝との確執

足利直義は高師直を打倒する為に、南朝に降伏しています。

南朝としてみれば、足利直義は南朝の武将であり、南朝の正統性を認めた事になります。

しかし、幕府は北朝の元で運営されている組織であり問題となります。

足利直義は後村上天皇に、北朝と南朝で両統迭立を提案しますが、南朝は却下しています。

南朝との問題を解決できない、足利直義は苦悩するわけであり、武士たちの支持も失っていく事になりました。

 

足利義詮との対立

足利直義は高師直を滅ぼした後に、足利義詮と共同で政務を行おうと考えました。

しかし、足利義詮は後継者争いのライバルである、足利直冬を直義が養子にしているなどもあり反発しています。

足利義詮にとってみれば、自分の最大の支持者であった高師直を討った、足利直義と共同で政務を行おうとは思わなかったのでしょう。

足利直義は裁判の判決をする場合は、両者の言い分を聞いて公平に扱っていたわけです。

それに対し、足利義詮は御前沙汰と呼ばれる寺社勢力などを有利とした、スピーディーな判決を行っています。

足利義詮の御前沙汰により、直義の「引き付け方」が廃止されるなど、直義の求心力はさらに低下しました。

寺社勢力なども足利義詮を支持する様になったわけです。

こうなると、足利直義は幕府内で居場所を失っていく事になります。

この頃には足利尊氏と直義のコミュニケーションも取れておらず、隙間風が吹き荒れる様になったとも考えられています。

尊氏との戦い

全国で尊氏派と直義派で争い始め、尊氏と直義の全面対決に突入します。

北陸へ逃れる

足利尊氏と義詮は軍勢を引き連れて、京都を離れる事になります。

太平記などでは尊氏と義詮は、近江の佐々木道誉と播磨の赤松則祐が謀反を起こした情報が入ってきた事で、尊氏と義詮が討伐に向かった事になっています。

しかし、足利直義は赤松則祐と佐々木道誉討伐は名目であり、東西から自分を討つための施策ではないかと考えたとされています。

足利直義は身の危険を感じ、京都を出奔し北陸に逃れる事になります。

近年の研究では、京都の周辺で本当に謀反が起きた事が分かっており、足利尊氏や義詮は本当に反乱の鎮圧に向かったのではないか?ともされています。

しかし、この時の足利直義は政務が上手く行っていなかった事もあり、北陸に出奔したと考えられる様になりました。

尚、足利直義は越前の金ヶ崎城に入りますが、これらの動きは桃井直常らに従ったものであり、直義が主体的に動いていたわけではないとする話もあります。

 

兄と戦いたくない直義

足利尊氏と義詮は、直義の動きに対して、近江に出陣しました。

この時に、足利直義は慌てて軍勢を集め出した話もあり、どこか心に迷いが見えます。

足利直義は軍勢を集める時は、軍勢催促状の中の文言に「凶徒」などの言葉を使う事が当たり前でした。

直義の書状を見ると、新田義貞、高師直を批判し大義名分を掲げている文言もあります。

足利直義は南朝の事も「凶徒」と呼ぶのが普通でした。

しかし、この時の足利直義は尊氏の事を「凶徒」などの呼び方は存在しません。

足利直義の心に迷いがあり、尊氏とは戦いたくないという心も現れだった可能性もあります。

直義は近江で尊氏と戦いますが、敗れて講和も上手く行かずに、鎌倉に入りします。

鎌倉には足利尊氏の子で義詮の同母弟となる、足利基氏がいましたが、直義に鎌倉を譲ったとも伝わっています。

因みに、兄の義詮は直義を嫌っていましたが、弟の基氏は直義を尊敬していたとする話もあります。

別説としては、鎌倉にいた足利基氏と高師冬らを足利直義が追い出したとも伝わっています。

 

最後の戦い

足利尊氏は南朝と講和を結び、東進し鎌倉を目指します。

足利直義が石塔義房らに迎撃させた事で、薩埵峠の戦いが勃発します。

ただし、足利直義は薩埵山から遥か後方である、伊豆国府におり戦意は低かったとする説もあります。

この時になっても、足利直義と尊氏は共に戦意は低かったとも考える事が出来るわけです。

しかし、別説として鎌倉に入った後に、足利直義が尊氏らを「凶徒退治」とする文言が見られ、足利直義は尊氏との戦いを決意したとも考えられています。

この事から、足利直義は最後の最後で、尊氏との決戦を覚悟したとの見方もあります。

尊氏と直義の決戦ですが、宇都宮氏綱や薬師寺公義ら北関東勢が尊氏に味方した事で大きく動きます。

宇都宮氏綱と薬師寺公義らを桃井忠常が迎撃しますが、敗れた事で勝敗は決しました。

足利尊氏は伊達景宗らに、直義方の石塔義房らを攻撃させ、勝負を決めています。

足利直義は前後に敵を抱える形となり、足利尊氏に降伏しました。

これにより、観応の擾乱は終結したと言ってよいでしょう。

尚、尊氏の子である足利基氏は直義の助命嘆願を願った話しもあります。

足利直義の敗因

足利尊氏と直義の戦いですが、近年の研究により尊氏、直義共に戦意は低かったとされています。

尊氏と直義は話し合いを繰り返しますが解決には、至りませんでした。

この後に、尊氏派と直義派の部下同士がエスカレートしていき、戦いに発展したとも考えられています。

足利義詮などは直義を嫌っており、南朝と勝手に手を結んでしまったともされています。

この時に、三種の神器が南朝にあった話もあり、北朝よりも南朝の方が権威が強かったとする見方もあります。

尊氏派が南朝と手を結んだ事で、尊氏派は錦の御旗となる権威を手に入れました。

これにより尊氏派が圧倒的に優勢となりますが、残りの2割ほどが伝統と理想を守ろうと、直義派に残ったともされています。

直義は南朝の権威の力と尊氏の武の力に負けたとも言えるでしょう。

 

足利直義の最後

足利直義の最後を解説します。

尊氏の和歌

足利尊氏は降伏した直義に会いに、鎌倉に行った話があります。

わざわざ尊氏が直義に会いに鎌倉に行った事で、お互いの仲が冷え切っていたわけではないのでしょう。

足利直義の方は、観応の擾乱の頃から既に病に掛かっていたともされています。

当時の尊氏が読んだ和歌に、次のものがあります。

「花はみな ちりはてにけり いまいくか

日数ばかりの 春をしたわん」

尊氏の和歌を解説すると、下記の様になると考えられます。

周りの花は全て散ってしまったが、どれほど辛いものか

いつまであるか分からない春(直義の命)を愛したいものだ。

尊氏は直義が病に掛かっており、先が長くない事を分かっており、自分の気持を詠ったとも考えられます。

 

足利直義の死因

足利直義ですが、死因は病死だと発表されています。

足利直義は1352年の2月26日に、鎌倉で死去しています。

足利直義が亡くなった日が、高師直が亡くなってから、丁度1年の月日がたっており、毒殺説もあります。

しかし、偶然だとする見方も強いです。

個人的には、観応の擾乱によるストレスと疲労が足利直義の体を蝕んだとも考えられます。

さらに言えば、観応の擾乱が終結した事で、極度の疲労が襲って来たのかも知れません。

張りつめていた気持ちが解放された事での、死なのかも知れません。

 

尊氏が覚醒

足利直義が亡くなってから、兄である足利尊氏が覚醒したとする話があります。

直義の死を境に、尊氏の中で直義らしさが増したとも考えられています。

それまでの尊氏は将軍にも関わらず、優柔不断な態度を見せる事も多く、戦争の前に引き籠ったりする姿も度々見られました。

部下への褒美も適当に行い、直義任せの面が強かったとも言われています。

しかし、直義死後の尊氏は戦争も苛烈となり、伝統も使いつつも、南北朝時代を終わらせようとしていた様に見えます。

直義の死を境に尊氏が変化したとするのであれば、やはり直義の死で尊氏は想った部分も大きかったのではないかと考えられます。

 

源頼朝像

上記の肖像画ですが、源頼朝だとされてきました。

しかし、近年の研究では源頼朝ではなく、足利直義ではないか?と考えられる様になってきています。

上記の肖像画は、山川の教科書などからも近年では、源頼朝像として掲載されなくなりました。

定説では上記の肖像画は、鎌倉時代の初期に藤原隆信が書いたとされていました。

しかし、畳の模様や画風などが鎌倉時代の初期と合致していないなどの問題があったわけです。

上記の肖像画が源頼朝だとされる理由は、14世紀の書物である「神護寺略記」に、次の記述が存在するからです。

神護寺には藤原隆信が書いた頼朝、平重盛、藤原光能の肖像が存在する

実際に、神護寺には3つの肖像画があり、この中の一つが源頼朝だろうと考えられました。

さらに、大英博物館に収蔵されている頼朝像と酷似していた事から、上記の肖像画が頼朝だと考えられてきました。

しかし、1345年の4月23日付けで「足利直義願文」の記述が注目される様になります。

足利直義願文には、次の記述が存在します。

「征夷大将軍(足利尊氏)と自分(足利直義)の影像を神護寺に安置します。

現世と来世の所願が悉く、円満に成就しますように。」

足利直義が尊氏と直義の肖像画を神護寺に安置した記録です。

神護寺には3枚の肖像画がありましたが、残りの1枚が等持院に安置されている足利義詮像と酷似されていました。

これにより、神護寺に安置されていた肖像画は足利尊氏、足利直義、足利義詮の三名ではないかと考えられる様になります。

この中の源頼朝像だとされていた肖像画が、足利直義ではないかと考えられる様になったわけです。

ただし、議論はまだ続いているわけであり、完全に足利直義の肖像画だと決まったわけではありません。

 

足利直義の逸話

足利直義の逸話を解説します。

足利直義の性格

鎌倉幕府の頃より、武士は賄賂を受け取るのが文化になっており、普通だったわけです。

しかし、足利直義は賄賂を一切受け取らなかった話があります。

足利直義が賄賂を一切受け取らなかったのは、曲がった事が大嫌いな直義の性格を現わしているとも考えられています。

尚、兄の足利尊氏は賄賂は貰うが、貰った賄賂は全て自分の部下に配ってしまう気前の良さがあったとされています。

足利尊氏と直義は性格は真逆と見る事も出来ますが、お互いに関する理解もあったのでしょう。

 

 

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