室町時代

足利尊氏は室町幕府を開いた戦いに強い最強の将軍だった!?

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足利尊氏は鎌倉幕府滅亡後に、幕府を開いた人物であり、日本史の中でも有名な人物です。

幕府を開いた人物と言えば、国士無双の英雄を思い浮かべるかも知れませんが、実際の足利尊氏は躁鬱だったのではないか?とする説もあります。

しかし、足利尊氏は性格は気前が良く恩賞は厚く、時としてカリスマを発揮し、多くの武士を従えた事実もあります。

鎌倉幕府を滅ぼしたのは、一般的には新田義貞だと言われますが、実際に足利尊氏が画策したとする意見も多いです。

尚、足利尊氏は室町幕府を開いたと思われがちですが、足利尊氏の時代に将軍御所は室町にはありませんでした。

室町を本拠地にしたのは、足利尊氏の孫である足利義満の時代からです。

ただし、ここでは便宜上として、室町幕府と呼ぶ事にします。

今回は鎌倉幕府の滅亡、敬愛する後醍醐天皇との対立、観応の擾乱、息子との戦いなど、激動の時代を歩み、室町幕府を開いた英雄でもある足利尊氏を解説します。

 

足利尊氏の生い立ち

足利尊氏の生い立ちや足利氏に関しての解説です。

足利尊氏の祖先

足利氏の祖先は、源義家の孫である源義康だと言われています。

源義康は父である義国の所領である下野の足利荘を引き継いだ時に、足利を名字とした話があります。

足利義康は、保元の乱において平清盛、源義朝と共に後白河法皇に味方し、義康の子である足利義兼は、源頼朝の挙兵にも参加しました。

足利義兼は源頼朝の正室である、北条政子の妹である北条時子と結婚しています。

これにより足利氏は、鎌倉幕府の重臣となり発展していく事になります。

足利義兼の嫡子である、足利義氏は承久の乱にも参加し、北条時房や北条泰時らの軍にも参戦しました。

足利氏は代々に渡って、北条得宗家と婚姻関係を結び、鎌倉幕府を関係を持ち続けました。

足利氏は、足利尊氏が当主になる前から、鎌倉幕府の有力御家人だったわけです。

 

足利尊氏の誕生

足利尊氏は1305年に、足利貞氏の子として誕生しました。

足利尊氏の母親は上杉清子であり、北条得宗家の出身ではありません。

上杉清子の同母で弟に足利直義がいます。

足利尊氏には兄の足利高義がおり、足利高義の母親が北条一門である、金沢顕時の娘だったわけです。

順調に家督が相続すれば、足利高義が足利貞氏の後継者となり、足利尊氏は家督を継ぐ事が出来なかったでしょう。

しかし、足利高義は21歳の若さで死去しました。

父親である足利貞氏は既に隠居していましたが、現役復帰し、足利家の当主に返り咲きます。

足利高義が死去した時に、尊氏も13歳だった話があり、政務を執れるだけの力は無かったのでしょう。

尚、足利貞義が当主になったのは、幼かった足利高義の子らが成人するまでの、中継ぎだとも考えられています。

それを考えると、足利尊氏も最初から、足利家の当主の座が約束された様な人物ではなかったはずです。

 

尊氏の元服

1319年に足利尊氏は元服し、朝廷から従五位下治部大輔に任命されます。

この時に北条得宗家の高時より一字拝領し、足利高氏と名乗る事になります。

お気づきの方もいるかも知れませんが、鎌倉幕府が存続している間は、足利尊氏ではなく足利高氏と名乗っていました。

さらに、足利高氏(尊氏)は、北条一門である赤橋久時の娘である、赤橋登子を妻とします。

高氏と登子の間に、足利義詮と足利基氏が誕生する事になります。

ただし、高氏は越前局なる女性との間にも、足利直冬が生まれており、後に争いの原因を作ってしまいます。

若き日の足利高氏は和歌に熱中し、勅撰和歌集に入選した話があります。

意外に思うかも知れませんが、足利尊氏は高い教養を身に着けていたわけです。

 

高氏が当主となる

父親である足利貞氏が1331年に亡くなると、足利高氏が足利家の当主となります。

足利家は本来なら高氏の兄である、高義の子が後継者になったはずですが、この時には高義の子も夭折していたのではないか?と考えられています。

既存の文書などから確認するに、足利貞氏が死去して、漸く足利高氏は後継者になれたと考えられています。

高氏の母親が北条氏ではなく、上杉家の出身だった事で、なかなか高氏が後継者として名乗りを上げる事が出来なかったのでしょう。

ただし、足利高氏が当主になった1331年は、鎌倉幕府の最末期であり、激動の時代を迎える事になります。

 

鎌倉幕府の滅亡

後醍醐天皇は両統迭立の制度に不満を持ち、幕府を転覆させようと画策していました。

足利高氏は鎌倉幕府に属す御家人でしたが、鎌倉幕府を裏切り後醍醐天皇に味方する事になります。

足利高氏の裏切りが鎌倉幕府の滅亡に繋がったと考える事が出来ます。

笠置山の戦い

足利高氏は足利家の当主となりますが、当時は後醍醐天皇が盛んに活動し、鎌倉幕府を転覆させ様と画策していました。

正中の変は失敗に終わりましたが、1331年に後醍醐天皇は挙兵し、笠置山に四条隆資らと共に立て籠もります。

後醍醐天皇が挙兵すると、楠木正成も呼応し、護良親王らと下赤坂の戦いを起こしています。

世にいう元弘の変です。

この戦いで足利高氏は大仏貞直や金沢貞冬ら、北条氏一門の武将と共に出陣し、後醍醐天皇が籠る笠置山を僅か2日で陥落させています。

笠置山城の戦いの後に、足利高氏は持明院統の後花園天皇に挨拶もせずに、鎌倉に帰った話があります。

一説によると、既に足利高氏は後醍醐天皇に心を寄せており、朝廷に挨拶もせずに帰国したとも考えられています。

尚、後醍醐天皇は笠置山が落城すると、捕えられ隠岐に島流しにされています。

 

足利高氏の寝返り

後醍醐天皇は隠岐に流されますが、討幕を諦めてはいませんでした。

後醍醐天皇を支持する護良親王や楠木正成も討幕運動を継続し、後醍醐天皇も隠岐を脱出し伯耆国の船上山で再度挙兵します。

鎌倉幕府の首脳部は足利高氏と名越高家に出陣を命じています。

足利高氏は近畿を目指しますが、途中で鎌倉幕府に反旗を翻し、後醍醐方に寝返る事になります。

足利高氏がどのタイミングで裏切りを決断したかは不明ですが、一説によれば名越高家が赤松円心に討たれた時だとも言われています。

この時に、鎌倉にいた高氏の妻である赤橋登子や千寿王(足利義詮)は無事に、新田義貞の陣まで逃げますが、高氏の子の一人である、竹若は幕府に捕まり処刑されています。

高氏の裏切りは、自分の子である竹若の命を奪う結果となったわけです。

 

六波羅探題を滅ぼす

足利高氏が幕府を裏切った事は、鎌倉幕府にとって衝撃が走ったはずです。

足利高氏は京都の朝廷監視機関でもある、六波羅探題に攻撃を仕掛けました。

この時の六波羅北方が北条仲時であり、六波羅南方に北条時益が就任しており、足利高氏と激突する事になります。

足利高氏は六波羅探題の北条仲時や北条時益を撃破します。

この戦いで活躍したのが、赤松則村や佐々木導誉だと伝わっています。

さらに、新田義貞が鎌倉幕府の本拠地である、鎌倉を陥落させた事で、鎌倉幕府は1333年に滅亡しました。

過去には鎌倉幕府の滅亡原因は、元寇の恩賞問題で御恩と奉公が崩壊した説が有力でしたが、近年の研究では鎌倉幕府は全盛期で滅亡した説もあり、本当の滅亡理由はよく分かっていません。

 

建武の新政

鎌倉幕府が滅亡した翌年である、1334年になると後醍醐天皇が主導する建武の新政が始まります。

勲功第一

後醍醐天皇は討幕の勲功第一に足利高氏を挙げた話があります。

後醍醐天皇は足利高氏に自分の実名である「尊治」から一字拝領し「尊氏」を名乗らせています。

さらに、昇殿を許し、鎮守府将軍に任命し、正三位左兵衛督兼参議にするなど、鎌倉殿に匹敵する地位を与えた話があります。

他にも、高氏には駿河、武蔵、伊豆、常陸、下総の地行を与えられ、さらに全国に多くの地頭職を賜わった話があります。

足利尊氏の弟である直義や配下の高師直、高師泰、上杉憲房らも高官に取り立てるなど優遇しました。

足利直義が鎌倉に行き、鎌倉将軍府の事実上の最高権力者にも就任しています。

これらを見るに、後醍醐天皇は討幕において、足利尊氏をかなり評価している事が分かります。

足利尊氏自身も後醍醐天皇に感謝し、高い忠誠心を持っていたとも考えられています。

後醍醐天皇の建武の新政では、足利尊氏は重用されたと言ってよいでしょう。

 

護良親王との敵対

足利尊氏は後醍醐天皇から高い評価を得たのですが、護良親王だけは足利尊氏の事をよく思っていなかった話があります。

護良親王は討幕においても功績があり、征夷大将軍となりますが、足利尊氏を暗殺しようとしました。

護良親王の尊氏暗殺計画は未遂に終わりましたが、成功していたら全く違う歴史になっていたはずです。

護良親王は後醍醐天皇と上手く行っていなかった事から、結局は失脚し征夷大将軍も剥奪されています。

護良親王が失脚し、足利尊氏も建武政権も万事うまく行くかに見えましたが、中先代の乱が起きる事になります

 

中先代の乱

鎌倉幕府の得宗家の北条高時の遺児である、北条時行が中先代の乱を起こす事になります。

北条時行が挙兵

鎌倉幕府が滅亡した時の、最高権力者は北条高時でした。

北条家の嫡子である北条邦時は、五大院宗繁の裏切りもあり命を落とします。

しかし、北条邦時の弟である北条時行は、信濃国の諏訪に逃げ、諏訪頼重に保護されていました。

建武政権では小笠原貞宗を信濃守護に任命しますが、北条時行の動きを察知できなかったのか鎌倉への侵攻を許す事になります。

精強な諏訪新党の活躍もあり、北条時行、諏訪頼重らの軍勢は次々に敵軍を蹴散らし、足利直義が守備する鎌倉も占拠しています。

北条時行は念願であった鎌倉を奪還したわけです。

尚、この時に足利直義は護良親王を殺害した上で、鎌倉を退去しています。

護良親王が北条時行と手を結び、親王将軍として護良親王が立ち、執権として北条時行が実権を握る事を恐れたともされています。

 

足利尊氏の出陣

足利尊氏は直義を救う為に、東海道を進撃し鎌倉を目指しました。

この時に後醍醐天皇は、足利尊氏が鎌倉へ向かう事を許可しませんでしたが、足利尊氏が独断で動いたとする話があります。

足利尊氏は北条時行と戦う為に、後醍醐天皇に自分を征夷大将軍に、任命する様に要求もしています。

しかし、後醍醐天皇は尊氏を征夷大将軍に任命してしまうと、「幕府を開く事のではないか?」と恐れ許さなかったとする話もあります。

足利尊氏は幕府を開きたかったわけではなく、北条時行の勢力を駆逐する為の権威付けとして、征夷大将軍を臨んだ説も有力視されている状態です。

それでも、足利尊氏が弟の直義を救う為に、鎌倉に向けて進軍した事は確かなのでしょう。

 

中先代の乱を鎮圧

足利尊氏は東海道を進撃しますが、北条時行の軍は自然災害などの不幸に見舞われていました。

こうした中で、足利尊氏の軍と北条時行軍は激突しますが、各地で尊氏軍が圧倒し鎌倉を見事に奪還したわけです。

北条時行を支えていた諏訪頼重は自害し、北条時行も北条氏と結びつきが強い、伊豆に逃亡した話があります。

後醍醐天皇は足利尊氏の功績を認め、従二位に昇進させています。

この時までは、足利尊氏と後醍醐天皇の仲は良好だったとも考えられています。

 

建武政権に反旗を翻す

後醍醐天皇に対して、高い忠誠心を持っていたとされる足利尊氏が、建武政権に反旗を翻します。

足利尊氏にとってみれば、後醍醐天皇に反旗を翻した事は、生涯の汚点だったのかも知れません。

帰還命令を拒否

後醍醐天皇は中先代の乱が終結すると、足利尊氏に京都に戻って来るように命令しています。

太平記などの通説によれば、足利直義が勝手に論功行賞を行った事で、後醍醐天皇が激怒し、足利尊氏も帰還命令を拒否した事で、後醍醐天皇が追討命令を出した話があります。

しかし、近年では当時の関東では北条時行の残党も多く存在し、独自で恩賞を与えなければ、関東を平定するのは難しいと判断した為とも言われています。

足利尊氏としては、後醍醐天皇に状況を説明すれば理解が得られ、了承して貰えると考えていた説も有力です。

しかし、足利尊氏の願いも空しく後醍醐天皇は、足利尊氏を朝敵とし討伐の対象にしてしまったとも考えられるでしょう。

 

尊氏が引き籠る

後醍醐天皇は新田義貞を総大将とした、足利尊氏追討軍を出す事になります。

足利尊氏は後醍醐天皇が自分に兵を向けた事を知ると、浄光明寺に引き籠ってしまい、弟の足利直義が新田義貞と戦う事になったわけです。

足利尊氏が浄光明寺に引き籠った原因は、信愛する後醍醐天皇に謀反人扱いされた事でショックを受けたとも考えられていました。

しかし、別説では足利尊氏が後醍醐天皇に許しを請う為のパフォーマンスだったとも言われています。

新田義貞を迎撃した足利直義ですが、手越河原の戦いなどで連敗した事で、足利尊氏が自ら出陣する事になります。

 

尊氏の出陣

足利尊氏は箱根まで後退を余儀なくされた、足利直義を救う為に出陣しました。

この時の尊氏は、新田義貞と戦えば後醍醐天皇に対して謀反を表明する事になり、出陣せねば弟の足利直義を見捨てる事になったわけです。

足利尊氏としては、かなり迷ったはずですが、血を分けた兄弟である足利直義を救う事にしたのでしょう。

足利兄弟においては、足利直義が戦いに敗れ、足利尊氏が出陣するパターンが非常に多いと言えます。

足利尊氏が総指揮官となり、新田義貞と箱根・竹ノ下の戦いが勃発し、足利尊氏の采配が冴えわたり勝利しています。

 

尊氏の決断

箱根・竹ノ下の戦いで勝利した足利尊氏には、選択肢がありました。

このまま京都に進撃するか、鎌倉に戻るかの選択です。

一説によると弟の足利直義は、鎌倉に戻る事を進言したとされています。

しかし、足利尊氏としては京都を制圧する事が出来れば、西国の経済力も得る事が出来ると考えたのか、京都への進軍を決断しました。

この時に、足利尊氏は鎌倉の守備に斯波家長を選び、奥州管領に任命した話があります。

ただし、奥州の後醍醐方である北畠顕家が上洛すると、斯波家長の軍は破れ上洛を許しています。

北畠顕家は足利尊氏を追う形で、西上します。

 

九州へ敗走

足利尊氏は京都を制圧し、後醍醐天皇は近江坂本に避難しました。

しかし、京都は守りにくい地形であり、後醍醐帝三傑と言われる新田義貞、北畠顕家、楠木正成に攻撃されて、足利尊氏は丹波に退く事になります。

丹波に逃げた足利軍は依然として大軍を保持しており、太平記によれば20万の大軍を擁していた話があります。

それに対し、新田義貞、北畠顕家、楠木正成の軍は10万程度しかいませんでしたが、朝廷軍の勝利に終わっています。

余談ですが、新田義貞は楚漢戦争の劉邦配下である韓信に匹敵するとされた武将であり、楠木正成は同じく劉邦配下の張良陳平に匹敵すると言われ、北畠顕家は美形の天才戦術家の異名を取ります。

この三人が持ち味を発揮した事で、足利尊氏はなすすべもなく豊島河原合戦で敗れたのかも知れません。

足利尊氏は豊島河原の戦いで敗れると、弟の直義と共に九州に落ち延びる事になります。

尚、足利軍は敗れ去りますが、多くの武士が負けたはずの尊氏に付き従う姿を見て、楠木正成は後醍醐方の敗北を悟ったとする話もあります。

足利尊氏・直義兄弟は九州に落ち延びますが、再起を図る事になります。

 

多々良浜の戦い

足利尊氏は九州で少弐頼尚に迎え入れられる事になります。

ただし、九州の大半の勢力は後醍醐天皇方に靡いたわけです。

こうした中で、多々良浜の戦いが起こり、菊地武敏を大将とする、九州勢の大軍と激突します。

菊池勢が2万に対して、足利勢は僅か2千だったとも伝わっています。

菊池武敏の大軍を香椎宮でみた足利尊氏は、絶望し切腹すると言い出した話があります。

徳川家康にも似た様な逸話がありますが、足利尊氏はピンチになると切腹すると言い出した話が何度かあります。

しかし、弟の直義が諫めた事で、尊氏は切腹を取りやめ菊地武敏の大軍と戦う決心をしました。

足利軍は軍を尊氏と直義の二つに分けて、直義が先陣となり戦いますが、窮地に陥り直義は自分の袖を切り取り、尊氏に届ける様に伝えた話しもあります。

尊氏は直義の窮地を知ると、急いで軍を前に進め果敢に戦うと、日和見が多かった九州勢が足利軍に寝返り、形勢は逆転し勝利する事になります。

多々良浜の戦いは、足利軍の奇跡的な逆転勝利だったと言えるでしょう。

ただし、後に九州は懐良親王が上陸すると、南朝方が優位となっていきます。

 

湊川の戦い

九州で復活した足利尊氏は東進し、京都を再び目指す事になります。

楠木正成は守りにくい京都を開け、足利軍が京都に入った所で、攻撃を仕掛ける様に望んだ話もあります。

しかし、公家衆らが反対した事で実現せず、新田義貞と楠木正成は湊川で足利軍の大軍と戦う事になります。

この時に足利尊氏も持明院統の光厳上皇から、新田義貞追討の院宣を賜わり、大義名分を得ました。

足利尊氏の元に多くの武士が集結し、足利勢が圧倒的大軍で、新田・楠木軍と戦う事になります。

足利軍は陸軍を足利直義が率い、海軍を足利尊氏が率いた話があります。

湊川の戦いの前に、足利尊氏の船に山鳩が止まった話があり、足利尊氏が生まれた時も家に山鳩が止まったとされ、縁起もよく戦いに臨めたとも言われています。

湊川の戦いでは、細川定禅ら細川海軍の活躍もあり、足利尊氏軍が大勝し、新田義貞は小山田高家が馬を譲ったお陰で、京都に逃げる事に成功しますが。楠木正成は自害しています。

湊川の戦いで勝利した足利尊氏は、京都に進撃する事になります。

 

比叡山を包囲

足利尊氏は京都を制圧し、後醍醐天皇は比叡山の日吉大社に移り、新田義貞が寡兵で守る事になります。

足利尊氏は比叡山を大軍で包囲しますが、この時に持明院統の光厳上皇に豊仁を光明天皇として即位させようとしました。

足利尊氏や直義が、持明院統を使った政治工作を行っていた事が分かります。

新田義貞は寡兵ながらも奮戦しますが、足利尊氏は後醍醐天皇に和議を申し込みます。

後醍醐天皇は新田義貞に相談せずに、和議を受けてしまい比叡山を降りる決断をします。

比叡山を退去しようとした後醍醐天皇に、新田義貞が出くわしてしまいます。

新田義貞の配下である堀口貞満は、後醍醐天皇に新田一族の忠義を涙ながらに訴えました。

しかし、後醍醐天皇は比叡山に残るつもりはなく、比叡山を降り足利軍の陣に向かいます。

新田義貞は後醍醐天皇の皇子である恒良親王と尊良親王を連れ、越前に向かい再起を目指す事になります

 

この世は夢のごとくに候

比叡山を包囲中に足利尊氏は、清水寺に願文を奉納した話があります。

この世は夢の如くに候。尊氏にだう心たばたせ給候て、後生たすけさせをはしまし候べく候。

猶々とくとんせいしたく候。だう心たばせ給候べく候。

今生のくわほうにかへて後生たすけさせ給候べく候。

今生のくわほうをば直義にたばせ給候て、直義あんおんにまもらせ給候べく候。

建武三年八月十七日 尊氏

上記が尊氏の願文だとされていますが、自らの引退を表明し、弟である足利直義の安穏を願った、足利尊氏の心を指しているとも伝わっています。

足利尊氏は無欲だと言われる事が多いですが、清水寺に奉納した願文を見るに、明らかでしょう。

尚、この願文が奉納された頃には、光厳上皇の院政が始り、豊仁が光明天皇として即位しました。

 

南北朝時代の始り

足利尊氏は後醍醐天皇に対し、誠意を見せますが、結局は南北朝時代に突入してしまいます。

後醍醐天皇への誠意

足利尊氏と後醍醐天皇の講和が成立すると、後醍醐天皇から光明天皇に三種の神器を授ける儀式が行われる事になります。

この時に、後醍醐天皇の皇子である成良親王が皇太子になった記録があります。

専門家の見解では、足利尊氏は後醍醐天皇に最大限の誠意を見せ、後醍醐天皇が上皇となり院政を行える体制を作ろうとしたのではないか?とする説もあります。

さらに、足利尊氏は後醍醐天皇が制定した年号である「建武」を、そのまま使い続ける事を決めた話まであります。

ただし、足利尊氏は室町幕府(足利幕府)の施政方針である建武式目を制定するなど、足場は着実に固めていきます。

しかし、後醍醐天皇は天皇親政を諦めずに戦い続けます。

 

後醍醐天皇が南朝を開く

後醍醐天皇は花山院に幽閉されたとも言われていますが、京都を脱出し吉野に向かう事になります。

この時に、後醍醐天皇は女装して花山院を脱出したとも言われています。

後醍醐天皇が京都から出奔した事を知った北朝の首脳部は、足利尊氏の正式な征夷大将軍の就任や、足利直義の評定を発行する裁許下知状も凍結した話があります。

足利尊氏らにとってみれば、後醍醐天皇に配慮する事で、後醍醐天皇が京都に戻ってくる事を期待したとも考えられます。

しかし、後醍醐天皇は京都には戻らず、吉野で南朝を開いた事で、南北朝時代に突入する事になりました。

足利氏を中心とした北朝と、後醍醐天皇を中心とした南朝の二つに帝が日本に出現した事になるでしょう。

 

北畠顕家と新田義貞の最後

1337年の8月になると、後醍醐天皇の要請もあり、奥州の北畠顕家が上洛します。

北畠顕家は関東では、南部師行の活躍もあり、足利尊氏の嫡子・足利義詮の軍を破ります。

この時に鎌倉幕府の後継者として目されていた、北条時行が北畠顕家に味方し、奥州軍に加わりました。

北畠顕家は青野原の戦いでは、猛将と呼ばれた土岐頼遠を破り、さらに上杉憲顕の軍も破っています。

北畠顕家は上洛し吉野に入ると北上を始め、幕府軍と決戦を挑む事になります。

足利尊氏らは高師直に大軍を授けて北畠顕家と戦わせますが、尊氏らが四国水軍の土居、得能らを調略した事で、北畠顕家は戦いに敗れ自害しています。

さらに、1338年に越前国藤島で、新田義貞が不慮の死を遂げました。

既に楠木正成が湊川の戦いで戦死していた事もあり、後醍醐帝三傑は全員がこの世を去ったわけです。

後醍醐帝三傑の死は、南朝に大きなダメージを与えています。

 

足利尊氏が征夷大将軍に就任

1338年に新田義貞が亡くなると、足利尊氏は正二位に昇進し、征夷大将軍の位に就く事になります。

足利直義も従四位上左兵衛督となり、評定を行い下知状を発行した話があります。

さらに、光厳上皇の皇子である益仁親王が光明天皇の新たな皇太子となり、北朝は年号も「建武」から「暦応」に改元します。

この頃になると、北朝の方でも後醍醐天皇との決別を考えた、施策を取る様になったわけです。

尚、足利尊氏はこれらの処置に対して、本心で望んでいたわけではなく、周囲に押されて実行した話もあります。

因みに、足利尊氏は征夷大将軍にはありましたが、本心では後醍醐天皇から征夷大将軍に任命されたかったとする説もあります。

 

後醍醐天皇の崩御

南朝では後醍醐帝三傑が亡くなり、動揺が走ります。

南朝は起死回生の一手として、大船団を組織し、陸奥に義良親王、関東に宗良親王、四国に満良親王や懐良親王を送り込む作戦に出ます。

さらに、親王を南朝の重臣である北畠親房や結城宗広らが補佐する体制を作り上げようとしました。

しかし、南朝の大船団は台風により壊滅し、九州の懐良親王以外は、失敗に終わったとも言えます。

南朝の大船団が消えた事で、後醍醐天皇は意気消沈したのか、1339年9月19日に崩御しています。

南朝は後醍醐天皇の後継者として、後村上天皇が即位しました。

足利尊氏は後醍醐天皇が崩御すると、北朝の反対を押し切り1週間の政務を停止した話があります。

さらに、足利尊氏は多額の資金を費やし、天龍寺を建立した話があります。

如何に足利尊氏が後醍醐天皇を敬愛していたのかが分かる事例です。

足利尊氏の生涯の心の主君は、後醍醐天皇以外にいなかったのかも知れません。

 

室町幕府の成立

室町幕府の成立は建武式目が制定された1336年とも、足利尊氏が征夷大将軍に就任した1338年とも言われています。

ここでは、室町幕府の初期を解説します。

尚、室町幕府は足利義満の時代からだという意見もありますが、ここでは、先に述べた様に便宜上として室町幕府の言葉を使っていきます。

二元政治

北朝の政治ですが、一般的には軍事を足利尊氏が見る様にし、政務を足利直義が行った話があります。

さらに、軍事と政務を執事の高師直が補佐する形だったとも考えられています。

しかし、近年の研究では足利直義が大半の政務を取り仕切り、足利尊氏は名目上だけのトップだったとされています。

足利直義は三条殿と呼ばれ、実質上の室町幕府のトップだったと考えられるのです。

ただし、足利尊氏は恩賞充行権と守護職補任権だけは保持しました。

足利尊氏は後醍醐天皇を敬愛しており、後醍醐天皇の配下として働きたかったが、周囲の意向により、心ならず後醍醐天皇と敵対していたとされています。

つまり、足利尊氏としては無気力状態であり、大して北朝や幕府の政務を見る気がなかったのではないか?と、現在では考えられています。

室町幕府の初期は足利尊氏は名目だけのトップだったと考えた方が良さそうです。

この時期に、足利尊氏が活発に活動した形跡は少ないと言えます。

 

楠木正行との戦い

後醍醐天皇が崩御してから、南朝の脅威が薄れた事で、比較的平和な時代が流れていました。

しかし、南朝では楠木正成の子である楠木正行が北朝と刃を交える事になります。

楠木正行も名将と呼べる人物であり、隅田城を攻略し、藤井寺の戦いで細川顕氏を破り、住吉合戦では山名時氏らを撃破した話があります。

楠木正行が北上を始めると、幕府は高師直が大軍を率いて迎え撃ち、四条畷の戦いが勃発します。

楠木正行は寡兵で奮戦しますが、結局は高師直に破れ自害しました。

楠木正行が戦死した1348年の段階では、北朝が南朝を軍事力で圧倒する状態になっていたわけです。

しかし、この頃から足利直義と高師直が対立する様になっていきます。

 

観応の擾乱

北朝内で対立が起こり観応の擾乱に発展します。

足利尊氏は最愛の弟とも言える、足利直義を結果として失う事になります。

足利直義と高師直の対立

南朝の脅威が激減すると、北朝内での足利直義と高師直が対立しました。

一般的には荘園問題や塩治高貞が謀反を起こしたと、高師直がでっち上げた事が問題だとされていますが、実際には恩賞問題などもあった様です。

しかし、近年の研究では足利尊氏の子で、越前局なる女性との間に生まれた、足利直冬が原因ともされています。

足利尊氏は直冬を嫌っていましたが、弟の足利直義は子が無かった事もあり、足利直冬を養子として迎えています。

足利直義は直冬を足利一門として優遇しようとしますが、高師直は足利尊氏の後継者候補の筆頭である足利義詮を熱烈に支持しました。

足利直義と高師直が対立した事は間違いなく、足利直義は高師直を失脚させています。

足利直義の意向もあり、足利直冬は中国探題に任命され、さらに九州地方に移り強大な勢力になった話があります。

因みに、近年の研究では、足利直義と高師直の対立は、足利尊氏が明確に後継者を指名しなかった事が原因とする説も出ている状態です。

 

高師直が尊氏邸を包囲

執事職を解任された高師直の心は穏やかではなく、高師直は大軍を組織する事になります。

身の危険を感じた足利尊氏が、足利直義を自らの邸宅に避難させています。

高師直は尊氏邸を大軍で包囲する事になります。

この時に尊氏は驚異的なカリスマ性を発揮し、高師直を始め軍勢にまで一喝し、武闘派と呼ばれた高師直をたじろがせた話があります。

ただし、結果として足利尊氏は高師直の執事職復帰と、直義の政務からの引退を決定しました。

鎌倉にいた義詮を直義のポジションである、三条殿とする決断もしています。

高師直が尊氏邸を包囲した事で、高師直が要求する通りの結果になったと言えるでしょう。

しかし、この様な事をされて、足利直義は穏やかではいられませんでした。

 

足利直義の南朝降伏

足利直義が失脚した事で、足利直冬も出家する様に幕府から命令した話があります。

しかし、直冬が拒否した為に、足利尊氏や高師直は、足利直冬を討伐する為に九州地方に向かい出陣しました。

この時に足利直義は、突如として京都を抜け出し、吉野に向かい南朝に降伏します。

足利直義が南朝に降伏した事で、直義に味方する武士が続出したわけです。

足利尊氏としても、直義の勢力を放っておく事が出来ず、備前から反転し京都を目指しました。

京都にいた足利義詮は、京都を脱出し、足利尊氏の軍に加わる事になります。

この時に、直義派の桃井直常が京都で、市街戦を行った話があります。

 

打出浜の戦いと高師直の最後

多くの武士が直義に味方した事で、尊氏や高師直の兵の減少が止まらぬ状態でした。

尊氏軍は丹波から播磨に後退し、さらに摂津に移動し、打出浜で直義軍と決戦を行う事になります。

打出浜の戦いでは、尊氏軍と直義軍が正面から激突したとされていますが、兵力で上回る直義の軍勢に敗れています。

足利直義は、尊氏に対して危害を加えるつもりが無かった事で、講和が成立します。

ただし、高師直は直義派の上杉能憲によって殺害されます。

高師直だけではなく、、高師泰、高師世、高師夏ら一族も殺害された事で、高家は没落しました。

観応の擾乱で高師直が勝ち抜き、権力を握り続けていたら、高師直の子孫が幕府の管領となり、室町幕府を牛耳っていた可能性もあるでしょう。

 

直義の苦悩

高師直の勢力を完全に排除した足利直義は、執事制度の廃止と、足利直冬の鎮西探題就任を認めさせています。

ただし、足利直義は、尊氏の恩賞充行権などは残しています。

直義にしてみれば、室町幕府の初期の体制に戻したかっただけであり、足利尊氏の排除を考えていなかった事から、尊氏も優遇される結果となったわけです。

しかし、足利直義は南朝に降伏しましたが、南朝が両統迭立を拒んだ事で、南朝との交渉が難航し、求心力の低下を招きます。

さらに、尊氏が武士に恩賞を与える権利を持っていた事で、尊氏が打出浜の戦いなどで、自分に付き従った武士の恩賞を優先させようとします。

これにより直義派として戦った諸将の、反感を招く結果になりました。

尊氏の子である足利義詮は自分を支持してくれた、高師直を討った足利直義を極端に嫌悪していた話もあり、足利義詮は新たな訴訟機関である御前沙汰を発足させています。

御前沙汰により、直義が主導していた「引き付け方」が廃止に追い込まれるなど、直義は幕府内で居場所を失っていきます。

直義が幕府内で居場所を失っていく中で、観応の擾乱の第二ラウンドが勃発しました。

 

足利直義の出奔

幕府に近江の佐々木道誉が謀反を起こしたとされる報告があり、足利尊氏が近江に出陣します。

さらに、赤松則祐が播磨で謀反を起こした話もあり、足利義詮が播磨に向けて出陣しました。

足利尊氏と義詮が東西に出陣した事で、足利直義は「尊氏と義詮が東西から、自分を挟撃するつもりではないか?」と疑いを抱いたわけです。

身の危険を感じた足利直義は越前の金ヶ崎城に出奔します。

足利尊氏は直義が出奔した話を聞くと、急いで京都に戻ります。

尊氏は直義の帰京を望み、細川顕氏を派遣し直義を説得しようとしますが、直義は応じませんでした。

足利尊氏と直義が対立した話を聞くと、各地の武士は尊氏派と直義派を形成し、勝手に争いを始めます。

これにより、足利尊氏と直義の戦いの火蓋が切り落とされる事になったわけです。

尚、足利尊氏が佐々木道誉を討つ為に近江に出陣した振りをし、足利直義を討つ計画があったのかは分かっていません。

しかし、近年の研究では、京都の周辺で反乱が起きた形跡があり、反乱鎮圧の為に、足利尊氏や義詮は討伐に出かけ、直義が勘違いしたとする説も有力になっています。

 

八相山の戦い

足利直義が尊氏の帰京要請に応じなかった事で、尊氏は義詮を連れて直義討伐に出陣します。

足利尊氏は直義が籠城する八相山に攻撃を仕掛ける事になります。

八相山の戦いは、足利尊氏の勝利に終わり、尊氏は直義に和議を申し込みました。

足利尊氏は直義に強く講和を進めますが、直義は首を縦にふる事はありませんでした。

この頃には、直義派も形勢されており、直義自身も尊氏との講和に応じれない事情があったのでしょう。

直義は北陸から鎌倉に入る事になります。

鎌倉を守備していたのは、尊氏の子で義詮の弟にあたる、足利基氏でした。

足利基氏は直義の事を尊敬していた話もあり、鎌倉を退去し直義に譲った話もあります。

これにより、足利直義は、すんなりと鎌倉を手に入れ直義派の本拠地とします。

尊氏は直義が東国に向かった事で、仁木頼章を新たな執事としています。

 

正平一統

足利尊氏は直義を討伐するにあたり、南朝に和議を申し込んでいます。

尊氏が南朝に和議を申し込んだ理由ですが、従来は直義と決戦を挑む為に、「背後の憂いを一掃したかった。」からだと考えられてきました。

しかし、その後の尊氏の行動を見ると、過去に南朝との和議に失敗した足利直義に幕府内での居場所を作るために、尊氏が南朝との和議を模索した話があります。

ここで足利義詮が南朝との交渉担当になるのですが、義詮は直義を嫌っていた事もあり、幕府は南朝に降伏し、南朝の後村上天皇は足利直義追討の綸旨を発行しました。

これにより足利直義は、北朝と南朝の両方から朝敵とされてしまったわけです。

足利尊氏の望んだ通りの結果にならなかった事で、尊氏は思う所があり、京都に義詮を置き、自ら直義討伐に向かう事になります。

足利尊氏が京都を出発した時に、従った武士が15騎ほどしかいなかった話もあり、足利尊氏が如何に急いで直義がいた東国に向かったかが分かります。

尚、幕府が南朝に降伏した事で、北朝は消滅し、正平一統が成させれました。

ただし、南朝側も幕府の苦し紛れの策だと思っていたようで、心の底から幕府を信じたわけでもない様です。

この時点で形式上は、北朝は消滅しました。

 

薩埵峠の戦い

足利尊氏は東海道を進み、東国を目指す事になります。

駿河の薩埵山で尊氏の軍が籠城し、直義軍の石塔義房、頼房らが包囲する事になります。

総大将の足利直義も後詰めとし、伊豆国府に陣を張った話があります。

この時に尊氏はまだ、直義との和睦の道を考えており、尊氏に戦意は全くなかった話もあります。

さらに言えば、足利直義が陣を布いた伊豆国府は、薩埵峠から離れており、直義も尊氏と同様に戦意は低かったと考えられています。

尊氏と直義の戦意の低さは噂になっていたのか、尊氏と直義の講和が成立し、京都の義詮を攻撃し、足利義詮は赤松則祐の苔縄城に避難したとする噂まで流れています。

尊氏と直義は互いに戦意は無かったようですが、尊氏派の宇都宮氏綱と薬師寺公義が尊氏救援の為に、直義軍の背後を脅かしました。

直義派の桃井直常が敗れた事もあり、尊氏軍が一気に有利となります。

足利尊氏は戦いの勝利を悟り、伊達景宗に命じて、直義軍に攻撃を仕掛け大勝します。

薩埵峠の戦いは、足利尊氏の勝利に決定しました。

 

直義の死

戦いに敗れた直義は、1352年の正月に足利尊氏に降伏しています。

降伏した直義は、尊氏と共に鎌倉に入る事になります。

足利尊氏は直義を幽閉しました。

足利直義は幽閉されてから、体調を崩し、1352年の2月26日に死去しています。

直義の死により、観応の擾乱は完全に終結したと言ってもよいでしょう。

足利直義が亡くなった日が、高師直が亡くなった日の丁度1年後だった事もあり、尊氏による毒殺説も残っていますが、疑問視する専門家もおり、真実は闇の中です。

直義は亡くなりましたが、関東には南朝の勢力や直義派の残党が残っており、足利尊氏は関東に残りました。

尊氏が関東にいる間は、東国を尊氏が睨みを利かせ、西国は義詮が目を光らせる分割統治が行われた様です。

尚、この時に尊氏の子である、足利基氏が初代鎌倉公方に就任したとする話もあります。

 

足利尊氏の関東平定

関東の南朝勢力である新田義興、新田義宗、脇屋義治、北条時行らが上野で挙兵し、関東の直義派の武将も加わり、南朝の征夷大将軍である宗良親王と諏訪直頼も信濃で挙兵しました。

南朝と直義派の連合軍とも言える軍と、尊氏は戦う事になります。

尚、新田義興、義宗は鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞の子であり、北条時行は鎌倉幕府を滅ぼされた北条高時の子です。

鎌倉幕府を滅ぼした男の子と、滅ぼされた男の子が、足利尊氏と戦う事になったわけです。

ここにおいて武蔵野合戦が始まる事になります。

新田義興の軍と足利尊氏の軍は小手指原で戦いますが、尊氏軍の花一揆と呼ばれた饗庭氏直が前に出過ぎてしまい、新田義興の軍に包囲され敗走しました。

これにより尊氏軍が敗北し、小手指原の戦いは南朝軍の勝利となります。

さらに、新田義興は鎌倉を急襲し、鎌倉を奪還しました。

しかし、地力では足利尊氏が上回り体制を立て直し、各地で直義派や南朝の軍を破っています。

新田義宗と足利尊氏の間で笛吹峠の戦いが起きますが、この時には足利軍が圧倒的な戦力を有しており、尊氏が松明を使い圧倒的大軍に見せかけた事で、新田義興は退却した話があります。

足利尊氏は無事に関東を平定する事に成功したわけです。

 

足利義詮の失態

関東の戦いは、足利尊氏が名将ぶりを発揮し無事に平定する事に成功しました。

近畿地方では、南朝の後村上天皇や北畠親房らは、幕府の南朝への降伏は苦し紛れの一手であり、危機が去れば反旗を翻すと考えていました。

南朝軍は突如、北朝を襲撃します。

南朝は幕府の降伏を受け入れて正平の一統を成し遂げたわけですが、自ら正平一統を破棄した事になります。

南朝は伊勢の北畠顕信や河内の楠木正儀に号令し、一気に京都を制圧しました。

この時に足利義詮は慌てて京都から逃げ、近江に避難しましたが、北朝の光厳上皇、光明上皇、崇光上皇、廃太子の直仁親王らが、南朝に拉致されてしまいます。

北朝は既に三種の神器も南朝に渡した話があり、北朝は完全に崩壊しました。

この戦いで幕府軍の細川頼春が亡くなっています。細川頼春の子が足利義満の時代に管領として活躍する細川頼之です。

南朝では北畠親房や北畠顕能が政務を行おうとした話もありますが、南朝の京都奪還は短期間で終わっています。

足利義詮は佐々木道誉らの活躍もあり、京都を奪還しますが、北朝の皇族が南朝に連れされらた事で、幕府の存在が宙に浮く事になります。

幕府は朝廷に任命される機関であり、朝廷がいなくなれば存在理由も無くなるからです。

北朝の皇族は崇光天皇の弟である弥仁王だけは、赤松則祐が機転を利かせた事で拉致されずに無事でした。

足利義詮や佐々木道誉は、弥仁王を後光厳天皇として即位させています。

ただし、この時に佐々木道誉が離れ業を使い、三種の神器の代わりに代用品を用い、天皇を指名する上皇の代わりに、弥仁王の祖母が指名した話があります。

後光厳天皇は正式な手順で即位した天皇でない事は明らかであり、現代にまで続く禍根を残す事になります。

この後に、佐々木道誉の態度が問題となり、山名時氏が南朝に寝返るなどもあり、京都に侵攻してきました。

足利尊氏は仁木義長を援軍として、義詮に派遣したりもしますが、結局は南朝に京都を奪還されてしまいます。

この後に、義詮は再び京都を奪還しますが、義詮のやり方に不安を覚えたのか、足利尊氏が京都に戻りました。

 

東寺合戦

足利尊氏の最後の戦いとも呼べる文和東寺合戦を解説します。

足利直冬が南朝の征夷大将軍となる

足利尊氏は京都に戻りますが、南朝方は再び動く事になります。

南朝の首脳部や山名時氏は、足利尊氏の子で、足利直義の養子となっていた足利直冬に、南朝の征夷大将軍になる様に要請します。

中国地方で勢力を拡大していた足利直冬は承諾し、尊氏と決戦を挑むべく京都に向かいます。

この時に、足利尊氏は京都を開け、南朝の山名時氏、桃井直常、楠木正儀、中国地方の足利直冬、北陸の斯波高経らに京都を制圧させています。

京都は非常に守りにくい地形であり、京都を制圧した方が負けるというのを、尊氏は知っていたからの行動でしょう。

 

余裕の足利尊氏

足利尊氏は自分の子である、足利直冬と戦う事になります。

尊氏は京都を開けて、義詮を播磨に移動させ、南朝軍を挟撃する構えを見せます。

この時に、尊氏は母親である上杉清子の十三回忌を行い、味方の諸将を焦らせた話があります。

さらに、尊氏は直冬の軍に対し、次の様に述べています。

足利尊氏「直冬の軍の諸将は、儂の重恩により立身を遂げた者たちである。」

足利尊氏は配下に対して、恩賞を厚くした話があり、自分でも自負していたのでしょう。

 

足利直冬を京都から駆逐する

足利尊氏と直冬の軍は、京都で戦いを繰り広げ、神南の戦いでは足利義詮が山名時氏を破る事になります。

京都市街でも市街戦が行われ、足利尊氏の軍と足利直冬の軍が戦いました。

直冬と尊氏の戦いは、尊氏が背中を負傷する程の激戦だったとも言われています。

この時に足利直冬は積極的に動かなかった話もあり、直冬軍の士気の低下を招いた話があります。

それに対し、足利尊氏は顔には笑みを見せ自ら陣頭で戦った事で、兵たちの士気も上がり直冬の軍を京都から駆逐しました。

敗走した直冬は、八幡宮に行き占うと「八幡は親孝行の神であり、親に危害を加えようとする奴に味方出来ない」と出た話があります。

この話が真実かは不明ですが、足利直冬は戦意を失くし、中国地方に逃亡します。

京都での市街戦に敗れた事で、足利直冬の求心力は大きく低下し、弱小勢力に成り下がってしまいます。

尚、足利尊氏と直冬の決戦で、京都は破壊尽くされてしまった話があり、破壊され尽くした京都を見て尊氏がどの様に思ったのかは不明です。

 

足利尊氏の晩年

1356年頃になると、足利尊氏は自らが保持していた、室町幕府の恩賞充行権を義詮に譲る事になります。

室町時代初期の尊氏や直義の時代に始まった2元政治は終わりを告げ、足利義詮の元で一つになったわけです。

これにより、足利義詮は幕府内での絶対的な権力者としての道を歩みます。

ただし、尊氏が全て引退したわけではなく、尊氏の最晩年は様々な行動が見て取れます。

足利尊氏は直冬を京都から撤退させた事で、危機を脱したと思ったのか、「道行般若経巻」を作成した話があります。

足利尊氏は後醍醐天皇や父親の足利貞氏、母親の上杉清子、鎌倉時代末期から亡くなった武士たちの慰霊の儀式も行ったとされています。

後醍醐天皇や戦没者を敵味方問わず、慰霊したのは足利尊氏の精神を現わしている様に思います。

足利尊氏は文化面でも「新千載和歌集」に関わったりしました。

新千載和歌集でも後醍醐天皇を賛美する所があり、足利尊氏は後醍醐天皇の元で幕府を運営したいとする、理想が晩年まであった事は明らかでしょう。

晩年の足利尊氏は南朝との講和の道を探り、南朝に拉致された北朝の光厳上皇、崇光上皇、直仁親王も帰京しています。

他にも、大和国の興福寺で一乗院と大乗院の対立がありましたが、尊氏が調停しました。

興福寺は南朝とも関わりが深く、晩年の尊氏は南朝にも気を配っていた事が分かります。

尚、北朝では足利直義に対して、従二位を追贈しています。

直義の従二位追贈に関しては、足利尊氏の意向が強く反映されたのでしょう。

 

足利尊氏の最後

一般的には、足利尊氏の死因は、直冬との戦いで背中を負傷した事だと言われています。

しかし、近年の研究では、関東の戦いである武蔵野合戦の辺りから、体調が悪くなっていったと考えられています。

尊氏の体調は悪くなる一方だった様ですが、尊氏は九州の懐良親王の南朝勢力の討伐を表明した話があります。

足利尊氏は幕府は開きましたが、南朝も健在であり、九州では南朝の懐良親王の勢力が猛威を振るっており、天下太平とは行かなかったわけです。

足利尊氏の九州征伐は、足利義詮が強く諌止した事で実現しませんでした。

この時の尊氏は重症であり、誰が見ても九州遠征を行える様な状態ではなかったのでしょう。

足利尊氏の最後は、1358年の6月7日であり、死因は背中に出来た腫物だったとされています。

足利尊氏は享年52歳だったと伝わっています。

尚、足利尊氏の死から100日後に生まれたのが、室町幕府の全盛期を築く足利義満だった話があります。

 

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