春秋戦国時代

閼与の戦いを徹底検証!

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閼与の戦いは趙の趙奢が秦の胡傷を破った戦いです。

当時の秦軍は戦いに滅法強く戦えば勝利する無敵の状態でした。

実際に、閼与の戦いの前に趙の恵文王が閼与を救援出来るか問うと、歴戦の猛者である廉頗や楽乗が難色を示しています。

その中で、将軍でもない税務官だった趙奢が、閼与の救援は可能だと言い、見事に秦軍を破り閼与を救っています。

因みに、趙奢は何も考えずに戦いに勝利したわけではなく、秦の胡傷の裏をかいたり決断力の速さから勝利を引き寄せています。

趙奢が閼与の戦いで、どの様に考えて戦略練り勝利したのかを解説します。

 

趙奢が大抜擢され将軍となる

史記によれば、趙奢は閼与の戦いの前まで税務官であり将軍ではありませんでした。

どの様にして、趙奢が将軍になったのか解説します。

秦軍が閼与を包囲する

史記の廉頗藺相如列伝によれば、秦軍は韓を討つために閼与に駐屯したとあります。

これを見ると秦軍の目的は趙の閼与を取る事ではなく、韓を討つために秦の閼与を通りかかった様にも感じます。

ただし、史記の六国年表によれば、秦が韓の閼與を攻撃したとあり、話が食い違っている状態です。

さらに、趙世家を見ると「秦と韓が互いに攻撃しあい秦が閼與を包囲した」とあり、同じ司馬遷が書いた史記でも書いてある部分によりニュアンスが違ってきます。

この記述を読むと、当時の閼與は趙の領地ではなく韓の領地だった様にも感じる次第です。

ただし、閼與の救援に趙奢が向かった事だけは、全ての部分で共通しています。

 

 

閼与の救援が困難との見方が出る

秦が閼与を包囲すると趙の宮廷では議論がされる事となります。

閼与は趙の首都である邯鄲とそれほど、遠くもないので、かなり深々と秦軍に攻められた事になります。

首都の近くに、秦の拠点が出来るのは、趙の恵文王としてはいい気はしません。

趙の宮廷では、救援を出すべきかどうか議論がなされました。

恵文王が廉頗に意見を求めます。

廉頗「閼与までの道は険しく救援は困難でしょう」

このように廉頗らしからぬ回答が返ってきます。

もう一人の将軍である楽乗(楽毅の親戚)に問うと、同じ答えが返ってきました。

廉頗の考えとしては、一時的に閼与が奪われても、秦の領土からは飛び地となり簡単に奪還出来ると考えたのかも知れません。

この時期は、秦の魏冄が宰相をやっていて、范雎の遠交近攻策が取られていないわけです。

※遠交近攻・・近くの国を攻めて遠くの国と同盟を結ぶ政策

そのため一時的に、閼与が奪われても奪還で出来る自信があった可能性もあります。

しかし、歴戦の勇者である廉頗や将軍である楽乗は、閼与への救援に関して否定的な考え方だったようです。

 

 

趙奢が初陣で将軍に任命される

恵文王は何を思ったのか税務長官の趙奢に意見を求めます。

尚、趙奢は平原君の推薦で趙の国庫を預かる財務長官になった人物です。

趙奢は、次の様に答えます

趙奢「閼与への道は狭くて険しいです。例えてみるのであれば、2匹のネズミが穴の中で戦うようなものです。将が勇猛な方が勝ちましょう」

歴戦の勇者であり実績のある廉頗将軍が、閼与への救援に否定的な考え方をしているのに、税務長官である趙奢が勝てる見込みがあると言うのです。

この時に、何を思ったのか恵文王は趙奢を将軍として起用する事を決定します。

戦いの専門家である廉頗が難しいと言っているのに、総大将をした事もない趙奢が将軍になってしまったわけです。

普通で考えれば【負けて当たり前】のような戦いとなる事でしょう。

しかし、この戦いが趙奢に取って名将といわれる所以となった戦いです。

ただし、趙世家の趙の恵文王の19年の記述で趙奢が斉の麦丘を取ったとする記述があり、閼与の戦い(恵文王29年)が趙奢の初陣ではなかった説もあります。

この点が廉頗藺相如列伝の記述と食い違いがある部分です。

尚、趙奢の二匹の鼠の話を考えると、下記のような感じを戦場を考えていたのかも知れません。

これだと確かに、兵隊が強かったり勇猛な方が勝ちそうに感じます。

ちなみに、閼与を攻めていた将軍は、キングダムでいう所の秦の6大将軍である胡傷です。

キングダムでは、軍師系の男だとされています。

尚、藺相如が出てこないのは、前年に斉の平邑を攻めた記録があるので、まだ邯鄲に戻ってなかった可能性もあります。

 

 

趙奢の大抜擢が長平の戦いの敗因を呼ぶのか?(考察)

恵文王の時代ですが、趙奢が突然、将軍に抜擢されたり、藺相如が秦との外交官として突然デビューしたりと、大抜擢がありました。

これを恵文王の子である孝成王も見ていたのか、孝成王の時代になると趙奢の息子である趙括を大抜擢するのですが、ここでは大失敗に終わっています。

趙括をフォローするのであれば、初陣がいきなり白起将軍では勝ち目はないでしょう。

趙括は長平の戦いで白起に敗れ趙兵40万を失う大敗北を喫しています。

大抜擢というのは、良い時もあるが悪い時もあると言う事です。

やはり、慎重に行くのであれば、最初から将軍に大抜擢せずに、副将でも兵糧係でもいいので経験を積ませてから将軍に任命するのが王道でしょう。

それを考えると、キングダムの李信蒙恬王賁のように1000人将、3000人将、5000人将、みたいな感じでランクアップする仕組みは優れていると思いました。

趙という国は、大抜擢の風潮があるのかも知れませんね。

しかし、大抜擢というのは、抜擢する人の眼力がかなりいるはずです。

それを考えると、趙の恵文王の眼力は凄いと思いました。

 

趙奢の奇策

趙奢は奇策を使い閼与まで無傷で到着する事になります。

趙奢の戦術を解説します。

自分に意見する者は斬ると御触れを出す

趙奢は、軍を率いて邯鄲を出発すると、30里行った場所で陣を構える事にしました。

ようは進軍をやめて防御の体制を取り始めたわけです。

さらに、軍中にお触れを出して「自分に意見する死罪と致す」という命令まで出しています。

ちなみに、この命令は本気で後に、趙奢に意見した者は首を刎ねられています。

胡傷の戦略

敵将である秦の6大将軍胡傷は、閼与に一部の兵を残して、残りの兵は趙奢を迎撃する構えを取ります。

つまり、胡傷は後詰決戦(援軍を叩く事)を選択したわけです。

そして、武安の西に陣を構えて予定戦場を決めます。

趙軍が来るのを待って戦う作戦です

しかし、趙奢は邯鄲を出発してすぐの場所に陣を構えて動かなかったために、予定戦場に趙奢が現れません。

胡傷としては待ちぼうけ状態となります。

趙奢がいつになっても戦場に現れないので、閼与の城の付近で銅鑼を鳴らしたりして、攻撃をする素振りを見せます。

これで、趙奢が動けば迎撃する構えです。

 

趙奢が部下を斬り捨てる

趙奢は、胡傷に偵察部隊を入れていました。

斥候(偵察)が帰ってくると、「急ぎ救援に向かうべきです」と進言します。

しかし、趙奢は「先の約束を守ってもらおう」と言い、すぐに報告した者を斬り捨てました。

さらに、守りを固めて塁営(防御陣地)から出ようとしません。

趙奢は援軍に行くはずなのに、28日間も留まり1人の兵士も援軍に出しませんでした。

 

 

胡傷が動く

趙奢が全然動かないので、胡傷は不思議に思います。

そして、趙の陣地の情報を探らせるために、間者を入れます。

間者は無事に塁営に入ったわけですが、趙軍に見つかってしまいました

趙奢は部下に「捕らえるな!篤くもてなしで返せ!」と命令します。

趙奢の狙いが分かっている人は、趙軍にはいないので、間者はよく観察して救援に向かう事はないと判断し胡傷に報告します。

胡傷は「趙奢の軍は閼与の救援ではなく、邯鄲の防御のための軍である」と判断します。

そして、胡傷は趙奢への警戒を解き全兵力で閼与の城を落としに行きます。

しかし、これと同時に趙奢が動きました。

趙奢は胡傷が山道を開けてくれるのを待っていたわけです。

胡傷はまんまと趙奢の作戦に引っ掛かった事になります。

ここで、趙奢の人心掌握術について思った事があるので、物語から外れます。

 

趙奢の人心掌握術(考察)

趙奢ですが、いきなり総大将に大抜擢された事で兵士たちは不安に思った事でしょう。

自分たちの大将が税務長官で、戦の経験も皆無な人だったからです。

ここで、趙奢は威を見せる意味も込めて、「自分に意見する者は斬る」と言ったのでしょう。

将軍として部下の兵士に舐められては困るので、厳しく接したように思います。

しかし、趙奢というのは厳しいばかりの人ではありません。

後に、趙奢の妻の言葉で「酒の席では部下にお酌をしたり、王様から頂いた物は全て部下に分け与えていた」という言葉があります。

これは信賞必罰が徹底しているとも思えますが、将軍になった頃は、部下にいう事を聞かせるために、厳しく接しておいて、自分が功績を上げて将軍として認められてからは、部下に対してへりくだり良い上司を演じていたのだと思われます。

立場によって態度を柔軟に変化させていた事を指すはずです。

部下が自分をどう見ているかや、部下の心を察知するのが得意だったのでしょう。

将軍という者は、作戦だけではなく、兵士の心を読む事も大事だと思いました。

会社などであっても、部下がいる人は考えさせられる事ではないでしょうか?

 

許歴の進言

趙奢は険阻な道を超えて閼与に近づく事に成功します。

しかし、秦軍の胡傷をまだ破ったわけではなく、胡傷と決戦を挑む事になります。

ここで活躍するのが趙奢はの許歴です

秦軍が趙軍に攻撃を掛ける

胡傷の方も趙軍が近づいている事に気が付きます。

しかし、胡傷の方は、趙軍の主力が閼与に来ているとは思わなかったようです。

そのため、「潰せ」と気楽に、趙軍に攻撃命令を出しました。

胡傷は、趙の軍が少数だと見積もったためです。

地形からなのか、趙軍の方は敵から少数に見えるように陣形も組んでいたようです。

秦の精鋭が趙奢に攻めかかってきます。

 

許歴が趙奢に意見する

秦軍が迫ってくる事が分かると、趙奢の部下である許歴が軍営に訪れて意見をしたいと言ってきます。

意見した者は、死罪という命令を知っていながらも趙奢に許歴は意見したわけです。

許歴「申し上げたい事があります」

許歴「秦の兵は、わが軍が残らずここに移動したとは思っていません。勢いよく攻めて来る事は確実です。将軍においては、陣を分散させずに、厚い陣で応戦しなければ、必ず敗れます」

つまり、趙奢の今の布陣では、主力部隊を隠している事が逆効果になっていると指摘したのです。

趙奢は、苦笑いした事でしょう。

趙奢は次の様に答えます。

趙奢「先の約束を守ってもらおう」

許歴「処刑場に送って頂きたい」

趙奢「後の沙汰を待て」

ここで趙奢は、許歴を斬ろうとはしませんでした。

さらに、許歴の言ったとおりに、陣形を厚く構えて秦軍を待ち構えます。

 

 

北山取りが勝敗を分ける

秦軍は、攻めかかりますが、重厚な陣を敷いている趙軍を崩す事が出来ません。

この時には、胡傷の方も趙の本隊が閼与に来ている事に気が付いたはずです。

すると、許歴が再び趙奢のいる本営を訪れます。

許歴「北山を取ったものが勝ち、取れなかった者が敗れます」

趙奢「その通りだ」

ここで、趙奢は1万の兵士を割いて北山に向かわせました。

胡傷も北山の重要性に気が付き、部下に北山に向かわせます。

しかし、趙軍の方が早く到達し、秦軍は北山に登ることが出来ません。

中腹で趙軍と秦軍は激突しますが、高地を占拠している趙奢の軍に秦軍は破れます。

これにより、趙軍に攻撃している秦軍も退路を閉じられて孤立する可能性が出てきました。

胡傷は仕方がなく、撤退命令を出します。

秦の法律だと、胡傷が捕まれば胡傷の妻子は殺されてしまうので、必死に逃げた事でしょう。

そして、趙奢は逃げる秦軍を追撃し大勝利を収めます。

これにより、閼与の包囲も解かれ趙奢は凱旋しました。

北山取りが勝敗の分かれ目になったわけです。

趙奢が活躍したと言うよりも、許歴が活躍したようにも見えますが、結果を見れば趙軍が秦軍を圧倒し勝利しました。

戦えば必ず勝つ様な秦軍を相手に趙奢が土を付ける事になります。

 

 

趙に三大天が揃う

趙奢が閼与を救った事で、趙の恵文王は趙奢を上卿に任じます。

これにより、趙奢は廉頗・藺相如と位が同じとなりました。

つまり、漫画キングダムでいう所の趙国・三大天が誕生したわけです。

そして、戦術眼のある許歴も国尉に任命され出世する事になります。

この時代の趙は燕の昭王の死後に燕の名将楽毅や、斉を復興させた田単も趙に移った記述があります。

恵文王晩期の趙は廉頗、藺相如、趙奢、楽毅、田単と名将が揃っているわけです。

三国志の時代に、蜀の五虎大将軍と言うのがありましたが、この5人であれば趙の五虎将軍でも良い気がします。

藺相如は外交官や文官とも呼べる役職であり1回した戦場に出た記録がありませんが・・・。

李牧以前の趙になりますが、この頃が人材で言えば趙のピークと言えそうです。

 

趙奢が許歴を斬らなかった理由

趙奢は最初に「自分に意見する者は斬る」と宣言していました。

実際に、意見した部下を斬り捨てているのです。

しかし、許歴が意見した時は、斬ってはいませんし、戦いが終われば出世させています。

許歴を斬らなかった理由ですが、「意見がまともだったから」斬らなかったのだと思います。

自分の考えよりも、さらに上を行っていたので、斬らなかったのかも知れません

あと、趙奢はこれが初の総大将だった可能性もあり、戦いになれていない部分もあったのでしょう。

それを許歴が見事にフォローしたとも感じました。

趙奢と許歴はいいコンビだったと思います。

尚、史実での許歴の実績は、趙奢との閼与の戦い意外には出てきません。

そのため、史実だと閼与の戦いが終わると、すぐに許歴は亡くなってしまった可能性もあります。

許歴の活躍がこれしか無いのが、残念なところです。

 

山を取り敗北した馬謖・山を取り勝利した趙奢

山を取った方が戦いには有利という定説があります。実際に、春秋戦国時代の名将である趙奢は許歴の進言を聞き入れ、山を取ることで秦の胡傷を破り勝利しています。

しかし、三国志の蜀の馬謖は、山を取った事で魏の張郃に敗れ、軍令違反として諸葛亮孔明に斬られています。

有名な「泣いて馬謖を斬る」のお話です。

高地を占拠するメリットやデメリットなどを考えてみたいと思います。

高地を占拠した方が戦いは有利なのか?

高地を占拠した方が戦いは有利なのか?ですが、普通に戦うだけであれば有利なはずです。

高い場所からの方が、低い場所に対して攻撃をしやすいからです。

実際に関ケ原の戦いでも、通説では石田三成は高地を占拠し徳川家康率いる東軍を迎え撃ちました。

実際に、前半は地の利もあり西軍が押し気味に戦いを進めていたのが通説です。

ちなみに、近代においては、日露戦争の時に203高地で日本とロシアの間で激戦が繰り広げました。犠牲を出しながらも日本軍が203高地を奪取した事で、この先、日本が地の利を得る事になります。

近代戦においても、高い場所は有利になる事が多いようです。

ただし、近代戦においては、究極の高い場所と言える制空権を取れば戦いはかなり有利に進める事が出来ます。

ISとの戦いでも、制空権があり空爆する事で、イスラム国を弱体化させています。

 

趙奢が戦いに勝てた理由

趙奢が山を取って戦いに勝った理由ですが、純粋な戦闘であれば山を取る事で戦闘を有利に進められます。

実際に、防御力が優れている山の上に陣を取る武将は多いです。

さらに、趙奢と戦った秦の胡傷は、秦から長い距離を遠征してきているわけで、兵糧の備蓄などを考えると、軍勢同士がぶつかる短期決戦を望んでいた可能性も高いです。

趙奢の方も閼与の救援軍になるので、敵と野戦で戦わなければなりません。

総合的に考えると、両軍とも野戦を望んでいた事になります。

許歴の進言で山を取った趙奢が胡傷の退路を断つ形にもなり大勝しました。

 

馬謖が山を取って負けた理由

三国志の時代になりますが、馬謖は山を取って敗北しています。

街亭の戦いです。

街亭の戦いも道が険しかったようで、趙奢の閼与の戦いと地形的には似ていたと思われます。

これを意識したのか、兵法書の高地が有利というのを考えたのか、馬謖も山の上に陣を張ります。

しかし、蜀軍の副将である王平は、「孤立して兵糧攻めになるから止めるべき」と進言しますが、馬謖は聞き入れませんでした。

魏の皇帝である曹叡は、張郃を馬謖と戦わせるわけですが、張郃は予想した通り兵糧攻めを行い、蜀軍を飢えさせます。

結局、馬謖は大敗を喫し祁山を攻めていた諸葛亮の本隊も撤退しなければならなくなったわけです。

諸葛亮の第一次北伐馬謖の失態により終わりました。

山を取るのは、戦いになれば有利ですが、下手に山の上に籠ってしまうと、水や兵糧の心配があり軍が飢えてしまうのが欠点のようです。

やはり、戦場では臨機応変が大事なのでしょう。

尚、趙奢の息子は、趙括といい長平の戦いで白起に大敗するわけですが、趙括と馬謖は似ている気がしてなりません。

二人とも秀才タイプで兵法書を暗記しているイメージですが、実践に貧しい感じです。

余談ですが、現在グーグルで「馬謖」と検索すると、なぜかセカンドキーワードの1位が「登山」になっていました。

ネタを調べてみると、「Mrハイキング」などの異名があるなどの記事も出てきます。

馬謖は山登りで有名になってしまったようです・・・。

 

臨機応変の対応が大事

「高地を占拠しておく」「山を取る」などは、セオリーになりますが、臨機応変が大事だと思いました。

兵法書の通りに動いても、勝てるとは限りませんし、山を取るメリット、デメリット、戦う相手の情報を知る事が大事なんだなと感じました。

状況というのは、場面によって違っているわけで、それに応じて対応しなければ敗北してしまうという事です。

近い状況があったとしても、全て同じという事はなく兵法の基礎はあっても、もう一段深い思考が大事だと感じました。

諸葛亮の第一次北伐の街亭の戦いと閼与の戦いでは状況はかなり異なるという事です。

兵法書の内容に拘り過ぎるのも問題なのかも知れません。

ただし、将軍をやるのであれば兵法の基礎は必要でしょう。

 

百戦奇略にも掲載されている戦い

後の世に百戦奇略という書物が書かれています。

百戦奇略は、「進戦」「退戦」「賞戦」「罰戦」などの対になっている戦いの実例が掲載されている兵法書のようなものです。

そこの、山戦だったか高戦だったか忘れてしまいましたが、閼与の戦いの記述があります。

内容は史記よりも簡略に書いてあった気がしましたが、おもしろい書物です。

史実では、廉頗が戦場で功績を挙げているのに、戦いの例がないのに対して、趙奢は「閼与の戦い」のみですが、内容が分かっていてよかったと思いました。

 

廉頗も意地を見せる

戦国策の記述ですが、趙奢が閼与の戦いで秦軍を破った後に、今度は廉頗が秦軍と戦い秦軍を撃破した記録があります。

閼与の戦いの前では「救援は困難」と述べた廉頗も直後の秦軍を破っているわけです。

これを考えると閼与の戦いの趙奢の勝利が廉頗を刺激し戦いに勝利したとも言えるでしょう。

廉頗も趙奢もある意味切磋琢磨するライバルにも感じました。

趙の悼襄王や幽穆王時代の郭開の様に相手を陥れる事もなく、戦いで実績を出したのは廉頗らしいとも感じます。

趙の全盛期は武霊王の時代とも言われますが、最も趙で人材が輝いていた時代が廉頗、藺相如、趙奢の三人が揃って上卿にいた時代となるでしょう。

 

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