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馬元義は、黄巾党きってのやり手の者だった。

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馬元義は、張角の配下であり、黄巾党の一人でもあります。

三国志演義や史実では、馬元義が捕らえられた事で、張角が予定を早めて反乱を起こす事になっています。

その為、馬元義がヘマをした為に、張角の計画が狂い始めた様な印象を抱いた人も、いるのではないかと感じます。

しかし、史実の馬元義をよく考察してみると、かなり有能であり、「切れ者」だったのではないか?とすら思えてきます。

確かに、馬元義は反乱が露見した事で、処刑されていますが、運が少し足りなかっただけで、かなりの能力があったように感じました。

今回は、黄巾党のメンバーでも屈指の切れ者と感じる馬元義を解説します。

尚、馬元義の名前は陳寿が書いた正史三国志には登場せず、馬元義の名前が登場するのは後漢書の方です。

後漢書の何進伝や皇甫嵩伝に、馬元義の名前が見えます。

 

黄巾党が結成される

光武帝が建国した後漢王朝も2世紀末になると、気候変動による異民族の移動や政治腐敗、皇帝の早すぎる崩御などもあり、政治は混乱していました。

この混乱したご時世の中で、張角が民衆の前に現れる事になります。

張角は太平清領書とまじないを用いた病気治癒を行い、信奉を得て太平道という宗教団体を組織します。

張角の配下の者達は、黄色い布を頭に巻いた事から、「黄巾党」「黄巾賊」などと呼ばれる事になります。

張角の配下に、馬元義がおり、黄巾党のメンバーの中でも古参だったと考えられ、張角が最も信頼した人物が馬元義だった様にも感じました。

 

黄巾賊の幹部

馬元義ですが、黄巾党の中でも幹部だった事が分かっています。

馬元義は、黄巾党の役職では「大方」だった記録があり、大方は黄巾党の将軍職の様なものであり、指揮する兵力の数は1万人以上です。

それを考えれば、馬元義は黄巾党の中でも、屈指の実力者だった事になるでしょう。

余談ですが、「大方」の下には、「小方」があり、8千人ほどの兵力を有した話があります。

尚、黄巾党は黄巾賊と呼ばれる事もあり、ならず者の集まりに思うかも知れませんが、組織作りもしっかりと行われており、決して無法者の集だったわけではありません。

 

馬元義の暗躍

馬元義は、黄巾党の幹部として暗躍する事になります。

鄴に移動

黄巾党には下記のスローガンがありました。

蒼天すでに死して

黄天まさに立つべし

年は甲子にあり

天下は大吉

甲子の年である、184年に黄巾党は反乱する事が決定しており、3月5日に一斉蜂起する事になったわけです。

後漢書の皇甫嵩伝によれば、3月5日の蜂起に合わせて、荊州や揚州にいる数万人の信徒を移動させ、鄴で挙兵する計画を立案します。

これを行ったのが馬元義であり、鄴は冀州に位置する事から、荊州、揚州の信者数万を冀州に移動させた事になり、軍権も与えられていたのではないか?とすら思えてきます。

後漢書にはサラッと書かれていますが、数万の信徒を冀州の鄴に遷した手腕は卓越しているともいえるでしょう。

 

内応者を募る

馬元義は、さらに後漢王朝の都でもある洛陽にしばしば出入りする事になります。

黄巾党が一斉蜂起した時に、外からだけではなく、内部からも後漢王朝を崩壊に導きたかったのでしょう。

馬元義は、宦官の封諝と徐奉に後漢王朝の内側から蜂起する様に、約束させています。

因みに、封諝は霊帝の母親である、董太后とも繋がりがあった人物だとされています。

封諝、徐奉は宦官とはいえ、トップクラスの官職を得ていたはずです。

 

馬元義の最後

馬元義は、有能な人物だったのかも知れませんが、最後は呆気なく終わっています。

張角の弟子に唐周という人物がいました。

唐周は何を思ったのか、黄巾党が蜂起する予定の一カ月前に、張角や馬元義の事を朝廷に密告したわけです。

唐周は、馬元義と反対の考えを持ち、黄巾党ではありましたが、反乱を起こす事に反対だった可能性もあります。

唐周の話は何進の耳に入り、馬元義は洛陽で捕えられて車裂きの刑に処されています。

戦略家でもあった馬元義は、呆気なく命を落とす事になったわけです。

馬元義は亡くなり、反乱の全貌が露見してしまった事で、張角は一カ月早く挙兵する事になります。

黄巾の乱では、大将格が皇甫嵩、朱儁、盧植らでしたが、曹操、孫堅なども活躍する事になります。。

 

馬元義は有能な人物

後漢書の記述を考えてみると、黄巾の乱が起きるまでの段取りの部分で、最も活躍したのが馬元義だと言えるでしょう。

後漢王朝の内側から内応者を出すなどは、素人に出来る事ではありません。

秦末期に起きた陳勝呉広の乱では、陳勝や呉広は反乱を起こしますが、朝廷の内部に内応者を作るなどは出来ませんでした。

それを考えると、馬元義が戦略眼のあった人物だと言えるでしょう。

馬元義は、かなりのやり手の人物に思えます。

これを考えると、馬元義は普通の民衆ではなく、名士であり策士だった可能性もある様に感じます。

馬元義は兵法の心得があったのではないか?と考える人もいる位です。

宗教団体のトップとして君臨していた張角に野望を植え付けたのは、馬元義だったのかも知れません。

黄巾の乱を見る限り、張角は戦いが巧みだとは言えないでしょう。

もしかしてですが、馬元義が戦略を立てて、軍隊を指揮していたら、違った結果になった可能性もあります。

馬元義が洛陽を平定する姿を思い浮かべてみるのも、楽しいのかも知れません。

ただし、馬元義は、実際に官軍と戦った描写はないので、実戦での指揮力は未知数と言えます。

尚、馬元義に、これだけの事が出来るのであれば、仕える人を間違えずに、運があれば歴史に残る人物になったのかも知れません。

 

三国志演義の馬元義

三国志演義の馬元義ですが、正史程の活躍はないと言えます。

張角に命令された馬元義は、金や反物を持ち都に行き封諝に内通する様に要請します。

張角は、さらに弟子の唐周に手紙を持たせ、封諝に3月5日に内部から反乱を起こす様に要請しようとしました。

しかし、唐周は封諝の元には行かず、役所に訴えでた事で、張角が反乱を起こそうとした事がバレてしまったわけです。

朝廷では馬元義を打ち首とし、封諝を牢に入れます。

これが馬元義の最後であり、後漢書の内容とは似ていますが、張角に命令してやったいるだけであり、印象が薄い存在でもあります。

尚、吉川英治の三国志では、黄巾の乱の最中にも馬元義は生きており、街を襲撃して劉備を捕えています。

馬元義は劉備を見所のある人物だと認識し、劉備に黄巾賊がどの様にして生まれたのか?を語るストーリーテラーの役割も果たしています。

しかし、後に馬元義は張角が求める茶を巡って争い、劉備は形見の剣を馬元義に譲る事になります。

尚、この形見の剣は、劉備が中山靖王劉勝の後裔だと示す剣であり、茶を劉備の母に持って行きますが、劉備の母はお茶を投げ捨ててしまうわけです。

馬元義から奪われた形見の剣は、張飛が取り返す事になり、この後に劉備、関羽、張飛の桃園の誓いに話は繋がっていきます。

 

 

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