その他 三国志

馬相(ばしょう)は天子となった黄巾賊

2021年9月21日

スポンサーリンク

宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細

馬相(ばしょう)は、黄巾を名乗り天子をも名乗った人物です。

正史三国志の劉焉伝に記述があり、馬相は益州において短期間で大勢力を築いています。

ただし、寄せ集めの軍だったのか、最後は益州従事の賈龍に大敗しました。

馬相は短期間で敗れはしましたが、黄巾賊の中では異端者であり、天子になった事を考えると、最も成功した黄巾党のメンバーだとも言えそうです。

尚、馬相が起こした騒動を馬相の乱と呼ぶ事もあります。

上記は馬相の乱のゆっくり解説動画となっています。

尚、西暦218年に馬秦高勝なる人物が益州で反乱を起こし、李厳に鎮圧された話があります。

馬相と馬秦は同じ益州の「馬氏」ですが、関係は分かってはいません。

出典:ちくま学芸文庫 正史三国志5巻蜀書より

黄巾党を名乗る

馬相ですが、正史三国志には下記の記述が存在します。

益州の逆賊馬相、趙祗は綿竹県において、自ら黄巾と号した。

これが西暦184年の事であり、既に張角が病死し黄巾の乱は終結しているにも関わらず、馬相は黄巾賊を名乗った事になります。

黄巾賊と言えば、豫州や荊州北部、冀州などが盛んなイメージがありますが、遠く離れた益州にも黄巾党を名乗った者がいた事が分かります。

張角が死に皇甫嵩、朱儁、盧植らに黄巾の乱は鎮圧されてしまいましたが、194年に曹操が青州の黄巾賊を青州兵として傘下にした話もあり、黄巾の名はまだまだ求心力があったのかも知れません

206年になっても、司馬倶が黄巾を名乗った話もあります。

綿竹を手に入れる

馬相は黄巾党を名乗り、役務に疲れ切った民衆を呼び掛ける事にしました。

馬相の元には、次々と人が集まり、1,2日の間だけで、数千人もの軍勢に膨れ上がります。

馬相は民衆を率いて綿竹県の県令である李升を攻撃しました。

県令では大した軍を集める事が出来なかったのか、不意を衝かれたのか李升は破れ馬相に殺害されています。

これにより馬相は官民をも軍勢に加え、馬相の軍は1万人を超える事になります。

馬相の軍は瞬く間に大軍として、膨れ上がったわけです。

益州刺史・郤倹を殺害

馬相の快進撃は続き、雒県も落す事に成功しました。

さらに、馬相の軍は益州刺史の郤倹をも殺害する事に成功しています。

益州刺史の郤倹は、後漢王朝から任命された益州の責任者でもあります。

益州の責任者である郤倹すらも討ち取ってしまう辺りに、馬相の勢いを感じます。

尚、益州刺史の郤倹の政治が悪く求心力が無かった事で、馬相は短期間の間に勢力を増大させる事が出来たとも言えます。

因みに、郤倹の政治がデタラメであった事は、都にまで聞こえており、劉焉が郤倹への取り調べの使者となった話があります。

しかし、劉焉が益州に到着する前に、馬相が郤倹を討ち取ってしまいました。

天子を名乗る

郤倹を討ち取った馬相の兵は広漢郡、蜀郡、犍為郡にまで達しました。

馬相は短期間の間で、数万の兵と三郡を手に入れた事になります。

後漢書には馬相は数十万の兵を動かせる様になった記述すらあります。

馬相は巴郡も手に入れ、馬相の軍勢は四郡を闊歩する事になります。

馬相は手際の良さと自分に勢いがあると感じたのか、天子と称しました。

この時の馬相は有頂天だった可能性もあるでしょう。

しかし、ここから馬相の転落が始まります。

数日で鎮圧される

馬相の軍勢は四郡に及びますが、益州従事の賈龍は私兵数百人と共に犍為郡の東端にいました。

賈龍は官民に呼びかけを行い、千余人の手勢を獲得します。

賈龍は馬相の軍に攻撃したわけです。

馬相の軍は数は多くても、貧民が中心だったのか、兵の質が悪かった様で、賈龍に敗れています。

正史三国志によれば、数日で馬相は破れた記述があり、今までの勢いが嘘だったかの様に大敗したのでしょう。

馬相は敗走し、賈龍に討ち取られています。

馬相は天子まで名乗ったにも関わらず、呆気なく最後を迎えました。

馬相の評価

馬相ですが、朝廷にまで暗躍した馬元義や、皇甫嵩朱儁などの官軍と激闘した波才と比べると、明らかに異色の黄巾賊だとも言えるでしょう。

馬相は黄巾党を名乗った様ではありますが、張角に会った事があるのかも不明です。

それを考えると、馬相は求心力を得るために、黄巾の名を使ったとも感じます。

馬相は天子と称した記録もあり、皇帝を名乗りました。

三国志の時代を見ると袁術、闕宣なども皇帝を名乗っていますが、いずれも短期間で滅亡しています。

それを考えると、馬相が天子を名乗るのは、明らかに早すぎたと言えるでしょう。

馬相は反乱とも見る事が出来ますが、益州刺史の郤倹の政治が悪かった事から、民衆の為に立ち上がった可能性もあるでしょう。

尚、黄巾党の中には白波賊の韓暹の様な漢の大将軍になった様な人物もいますし、同じく白波賊の楊奉は車騎将軍になりました。

しかし、短期間で滅んだと言えども、益州の四郡を制圧した馬相は最も成功した黄巾賊だと言えるのかも知れません。

因みに、益州牧として劉焉が益州に入ると、劉焉は張魯に漢中を攻めさせるなどし、益州に独立勢力を築く事になります。

劉焉は馬相の乱で活躍した賈龍を殺害した人物でもあります。

スポンサーリンク

  • この記事を書いた人
  • 最新記事

宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細