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構成・文/宮下悠史

三国志

馬超(ばちょう)は寂しき猛将

2021年7月13日

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馬超の字は孟起であり、司隷扶風郡茂陵県の出身です。

馬超は光武帝の配下として活躍した馬援や、戦国七雄の趙の名将・趙奢の子孫でもあります。

馬超と言えば、「錦馬超」や「蜀の五虎将軍」「張飛との一騎打ち」「ド派手な兜」などと共に華やかなイメージがあるはずです。

しかし、これらのイメージは三国志演義の補正が掛かっており、史実の馬超は、かなり寂しい人物でもあります。

馬超の最後も、華々しさとはかけ離れたものです。

三国志演義では曹操が馬超の一族を処刑した事で、馬超は曹操に反旗を翻して復讐の鬼と化しています。

史実では馬超が曹操に対して反旗を翻した為に、曹操が父親の馬騰や一族を処刑しています。

馬超は劉備陣営に加わってからは、功績がないとも言われています。

しかし、実際の馬超は北方の氐族、羌族への影響力が強く、蜀に加わった意味合いは大きかったとする話もあります。

これらも含めて、史実の馬超がどの様な人物だったのか解説します。

尚、馬超は「親不孝者」とか呂布と同様で「信義が無い」と取る事もでき、見方によって評価がかなり分かれる人物だと言えるでしょう。

因みに、馬超は正史三国志では蜀書の6番目の伝である「関張馬黄趙伝」に、関羽張飛黄忠趙雲らと共に収録されています。

 

馬騰の長男として生まれる

176年に馬超は馬騰の長男として、生まれています。

馬騰の時代には、馬家は没落しており、父親の馬騰は苦しい生活を強いられた話があります。

馬騰は貴族でも名士でもなく、木こりだった話しすらある程です。

因みに、馬騰は漢民族と羌族のハーフでもあり、馬超が羌族からの求心力が高かったのは、馬騰や曽祖父のお陰と言ってもよいでしょう。

 

馬騰と韓遂の不和

後漢末期になると張角が黄巾の乱を引き起こし、この頃に馬騰も韓遂らと反乱軍に身を投じた話があります。

馬騰や韓遂の反乱は成功せず、後漢王朝の名将・皇甫嵩に鎮圧されました。

何進死後に、董卓が実権を握る様になると、馬騰は臣従の意思を見せ、偏将軍の位を授けられています。

董卓は王允の策略もあり呂布に殺害され、李傕と郭汜が実権を握ると、李傕に恭順し馬騰は征討将軍になったわけです。

しかし、馬騰は李傕とは仲違いし、涼州に戻り韓遂と協力した話があります。

この時に、馬騰と韓遂は義兄弟の仲となります。

しかし、馬騰と韓遂は仲違いし争う様になり、馬騰の妻子も韓遂に殺害される事態となりました。

ただし、殺された馬騰の妻は、馬超の母親ではなかったとされています。

馬超自身も、韓遂配下の閻行に殺され掛けた話があり、戦乱の厳しさを自分の身を以って体験したはずです。

若き日の馬超は戦乱の中での、裏切りなどを見てきた事で、独自の価値観を見出したのかも知れません。

幼き日の馬超の体験が、後の馬超の行動に大きく影響した可能性もあるでしょう。

後に馬超と韓遂は共闘する事になりますが、これらの体験が馬超の心にあり、韓遂を心底信用する事は出来なかったはずです。

 

曹操軍として戦う

馬騰と韓遂は仲違いしましたが、曹操が関中に張既や鍾繇を派遣し仲裁しています。

この頃の曹操は官渡の戦いで袁紹と戦う直前であり、西方を安定させたかったのでしょう。

張既や鍾繇の仲裁により、馬騰も韓遂も曹操の配下となり、この時に馬超も曹操の傘下になった話があります。

官渡の戦いが終わり202年に曹操は、馬騰に袁紹配下の郭援と高幹を攻撃する様に命じました。

馬騰は馬超と龐徳(ほうとく)に1万の兵を与えて、郭援と高幹を討伐させています。

馬超軍と高幹の軍は、平陽にある汾水を挟んで戦った記録があります。

この戦いは激戦となり、馬超が郭援の攻撃により負傷した話もありますが、郭援は龐徳が討ち取っています。

高幹は窮地に陥り、後に曹操に降伏しました。

馬超は郭援と高幹の討伐に成功した事で、徐州刺史に任命されています。

馬超がいた涼州は中国の西の外れであり、徐州は東の端にある事から、意外と思うかも知れませんが、馬超が徐州刺史に任命された記録があるわけです。

 

馬超が軍勢を引き継ぐ

曹操は袁紹の遺児である袁譚、袁煕、袁尚を滅ぼし北方を安定させると、荊州の劉表が亡くなった事もあり、南下を始める決意をします。

この時に、曹操は西方にいる馬騰の勢力らを危惧し、馬騰を入朝させる事にしました。

馬騰が応じた事で、馬騰は鄴に移住し、衛尉に任命され、一族の馬鉄が騎都尉、馬休が奉車都尉に任ぜられています。

この時に、馬騰は西涼の軍勢を馬超に預けて、鄴に向かいました。

これにより馬超は完全に、馬騰の勢力を引き継ぐ事になります。

馬超が関中の最大勢力になったわけです。

 

潼関の戦い

馬超と曹操との間で潼関の戦いが勃発します。

曹操の張魯討伐

208年に曹操は、呉の孫権との間で赤壁の戦いを起こしています。

しかし、赤壁の戦いでは周瑜魯粛黄蓋の活躍もあり、曹操軍は破れ天下統一の夢は破れ散る事になります。

曹操は西暦211年になると、漢中にいた五斗米道の張魯の勢力を討伐しようと、鍾繇や夏侯淵を関中に差し向けました。

ここで馬超や関中の軍閥たちは、焦りを憶えます。

曹操の張魯討伐はあくまで建前であり、涼州征伐が本当の目的ではないか?と考えたからです。

馬超は曹操に帰順していましたが、涼州には多くの羌族がおり、羌族は漢民族を恐れていました。

羌族は古来より漢民族から迫害されてきた歴史があり、羌族と血の繋がりがある、馬超であれば迫害される事はないが、曹操の勢力が関中に入ってきたら、何をされるか分かったものではないと思っていたわけです。

羌族達は馬超を頼りとし、漢民族を関中から追い払い、自分達の自治を守って欲しいと願う事になります。

 

馬超の苦悩

馬超は羌族達の話を聞くと大いに悩む事になります。

羌族達の願いを聞き入れて、曹操に反旗を翻せば、鄴にいる馬騰、馬鉄、馬休ら馬家の一族は、曹操に処刑されるからです。

自分を頼ってくれる羌族は助けたいが、羌族を助ければ曹操により馬家の一族は皆殺しが確実だったとも言えます。

逆に馬騰や一族の安全を考えて、羌族の要請を断われば、曹操の侵略から羌族達を助ける事が出来ない状態でした。

この時の馬超の苦悩は深かったはずであり、大いに悩んだ事でしょう。

ここで馬超は反乱を決意する事になります。

馬騰は馬超に、馬氏の為になる事を一番に考える様に伝えていた話しもあり、馬超は曹操に反旗を翻す決意をしました。

馬超は、父親の馬騰が羌族とのハーフだった事もあり、「羌族がいなければ、今の馬家はなかった。」と考えたのかも知れません。

既に気が付いた方も多いと思いますが、「馬超が反旗を翻した事で、曹操が馬騰の一族を処刑した。」のが史実です。

馬超が父親や一族を皆殺しにした事で、不義だと言われる事も多いですが、馬超にしてみれば悩み抜いた末の決断だった様に思います。

 

韓遂を父とする

馬超は曹操と戦う決意をしますが、馬超の勢力だけでは、中華の大半を制圧した曹操に適う訳もなく、関中全体で一つにまとまる必要があると考えました。

関中の勢力を一つにする為には、韓遂を味方にする必要がありましたが、韓遂は曹操に子を人質に出していた事もあり、韓遂は曹操に対して反旗を翻すのが難しい状態だったわけです。

馬超は韓遂の元を訪れ、次の様に述べています。

馬超「私は父を棄て韓遂殿を父とするので、韓遂殿も自分の子を棄て、自分を子と思って欲しい。」

馬超は自分が一族を棄てて羌族に味方する事を誓い、韓遂も同じ様に自分の子を見捨て、羌族の為に戦って欲しいと要請した事になります。

韓遂は馬超の言葉に心を打たれたのか、馬超に味方し曹操と戦う事になります。

ただし、元々馬超も韓遂も相手を信用していなかった事もあり、本当の親子の契りは結べなかったのでしょう。

尚、馬超は韓遂だけでなく、楊秋、李堪、成宜、侯選、程銀、張横、梁興、馬玩、楊秋らとも誼を結んでいます。

涼州の部族らは、馬超と韓遂を中心にして、曹操に対して反旗を翻しました。

 

馬超と許褚

馬超や韓遂を主軸とする軍は、曹操軍と潼関で対峙する事になります。

潼関の戦いでは、曹操と馬超、韓遂が会談した話があります。

この時点では、曹操はまだ馬騰ら一族を殺害していなかった事もあり、この時点で馬超が上手に立ち回れば、馬騰らが助かった可能性もある様に感じます。

しかし、馬超は剛力を頼りとし、会談の最中に曹操を捕えてしまおうとも考えていました。

この時に曹操の護衛である許褚が目を光らせていた事で、馬超は思い切って手を出す事が出来なかった話があります。

三国志演義の潼関の戦いの名場面で、馬超と許褚の一騎打ちがありますが、史実では馬超と許褚は一騎打ちをしておらず、許褚の圧力に馬超は曹操を拉致する事が出来なかったとも言えます。

 

関中勢が優勢に戦う

潼関の戦いでは、曹操は曹仁に前面を固く守らせる事にしました。

さらに、曹操は徐晃と朱霊に蒲阪津を渡る様に指示しています。

曹操は徐晃と朱霊を迂回させ、涼州連合を攻撃しようとしたのでしょう。

曹操軍は涼州軍を攻撃する為に、黄河を渡り、最後に曹操が渡る時になると、馬超は手薄になった曹操の本隊を急襲しました。

馬超の攻撃の前に、曹操は苦戦し、許褚や張郃の助けが無ければ、討ち取られてもおかしくない状況まで追い込まれています。

さらに、曹操軍の丁斐が多くの牛馬を戦場に放った事で、馬超軍の攻撃が緩み、曹操は死地からの脱出に成功しました。

緒戦では馬超の活躍もあり、明らかに涼州連合が、曹操軍を圧倒していました。

 

蒲阪津

曹操の別動隊の徐晃や朱霊の部隊は蒲阪津を渡ろうとしますが、馬超は韓遂に「蒲阪津を渡らせるべきではない。」と主張します。

馬超は蒲阪津を曹操が渡る事が出来なければ、兵糧不足で帰還せざるを得なくなると考えました。

しかし、韓遂は別の考えを持っており「蒲阪津を渡っても、黄河の南に渡らないと、我が軍に攻撃する事が出来ない。」と意見します。

韓遂は蒲阪津を渡らせて、「曹操軍を疲れさせればいい。」とも話します。

韓遂が馬超に賛同しなかった事で、曹操軍は楽に蒲阪津を渡河しました。

これにより、関中連合と曹操軍は黄河を挟んで対峙する事になります。

馬超は自らの作戦が韓遂に却下された事で、韓遂に対して不信感を抱き始めたのかも知れません。

ただし、馬超は黄河を防衛ラインとし、曹操軍の渡河を防ぎきっています。

尚、曹操は蒲阪津での馬超と韓遂のやり取りを聞くと「馬超の小僧が死ななければ、儂には埋葬される土地も無い。」と述べています。

曹操にとってみれば、馬超はかなりの脅威に映っていたのでしょう。

 

氷城の計

曹操は馬超の防衛が強固であり、黄河を渡るのが難しいと判断すると、黄河の北に兵士をならべ涼州軍を威圧しました。

涼州軍が北岸の曹操軍に注意が行っている隙に、曹操は夜中に行動を起こし、黄河の南岸に少数の兵を渡らせる事になります。

黄河の南岸に渡った曹操軍の兵士は、日が昇る前に砦を築きました。

普通で考えれば1日で砦は出来ませんが、決戦が行われた地方は非常に寒く、土塁に水を掛けて凍らせて、氷で出来た陣営を築いたとも考えられています。

ただし、正史三国志の注釈を書いた裴松之は「氷城の計」は不可能だとする意見を掲載している事から、真実は不明な部分もあります。

しかし、涼州軍にとってみれば、曹操の氷の城は脅威であり、馬超は慌てて攻撃しますが、曹操軍の伏兵が現れた事で敗れています。

曹操軍は一気に優位に立つ事になり、馬超ら涼州勢は一気に不利な立場となったわけです。

 

離間の計

曹操軍には軍師として賈詡(かく)がおり、過去に牛輔、李傕、郭汜ら涼州の勢力に身を寄せていた事もあり、涼州人の気質などには詳しかったのでしょう。

さらに、馬騰と韓遂が義兄弟の契りを結んだり、解消したりした事情も知っていたはずです。

馬超らは曹操と和議を結びたいと考える様になります。しかし、曹操の思惑では、涼州軍が立ち直れない程に、叩いておきたかったわけです。

賈詡は曹操に策を授けました。

曹操は表面上は和議の為の会談を韓遂に望み、曹操は韓遂と会談すると、和議の話は持ち出さず、あえて昔話などの会話を行い、曹操と韓遂は談笑した話があります。

馬超は韓遂を心から信じていなかった事もあり、韓遂を疑いました。

他にも、曹操や賈詡は書簡を使ったりして、馬超に韓遂を疑わせる様に仕向けます。

馬超は韓遂に疑いを抱いたままで、曹操軍と決戦を行う事になります。

三国志演義で馬超が韓遂を疑い、韓遂の左腕を切り落とした話もありますが、史実ではありません。

 

涼州軍の敗北

涼州軍と曹操軍は戦いますが、涼州軍には本来の勢いがなくなっており、曹操軍の作戦も当たった事で敗走しました。

この時に、涼州軍の多くの将が討たれた話もあります。

馬超と韓遂は涼州に逃亡し、関中は曹操の手に戻る事になります。

曹操軍は大勝利に終わりますが、この時に北方で反乱が起きた話があり、曹操は夏侯淵に長安を守らせ、自身は鄴に帰還します。

曹操としてみれば、馬超や韓遂に大勝した事で、大した脅威にならないと考えたともされています。

しかし、馬超は再び蘇り、曹操に牙をむく事になったわけです。

この時に馬超は曹操に降伏しなかった事で、212年の5月に曹操は馬騰や一族を処刑しました。

馬超が潼関の戦いで敗れた後に、降伏していれば、曹操は馬騰の一族は生かされた可能性もあったように思います。

これにより馬超は「親不孝者」「不義の者」などの烙印を押される事になります。

この時に「馬超は自分のやった事が正しかったのか?」と自問した様に感じます。

 

居場所を失くす

馬超は曹操に敗れますが、次第に居場所を失くして行く事になります。

冀城の戦い

潼関の戦いで馬超は曹操に敗れますが、短期間のうちに復活しています。

涼州では馬超を慕ってくれる、羌族が多くいた為です。

羌族にしてみれば、馬超は自分の一族を見殺しにしてまで戦ってくれた人物であり、馬超に対する求心力は残っていたのでしょう。

この当時の涼州刺史は、荀彧や孔融に認めらた事もある韋康でした。

馬超が反旗を翻すと、韋康がいた冀城以外は全て、馬超の手に落ちます。

馬超は漢中の張魯にも援軍を派遣してもらい、冀城を囲む事になります。

因みに、冀城には女傑として有名な王異もいました。

韋康や配下の楊阜、趙昂らが固く城を守った為に、冀城の防備は固く馬超は苦戦しています。

馬超は韋康が放った夏侯淵への援軍の使者である、閻温を捕え「援軍は来ない」と言わせようとしますが、閻温は「援軍は3日で来る。」と城内に激励した為に、逆に城内の士気が上がってしまった話があります。

しかし、夏侯淵の援軍は来る事はなく、韋康は降伏しました。

 

韋康を殺害

馬超は降伏した韋康を殺害した話があります。

馬超は自ら韋康を処刑せずに、張魯の軍に引き渡し、張魯軍の大将である楊昂が韋康を処刑しました。

降伏した大将の韋康を殺害するのは、約束を破った事になり、様々な憶測を呼んでいます。

馬超が韋康を殺害した理由に関しては、よく分かっていません。

しかし、当時の状況を考えると、韋康は人望があり、韋康がいては涼州を自分が治める事が出来ないと判断し、馬超が楊昂に依頼し処刑した説もあります。

馬超としては自ら処刑してしまうと約束を反故にした事になる為、「張魯軍の楊昂が勝手にやりました。」としたかったのではないか?とする話もあります。

もっと、シンプルな馬超の韋康を殺害した理由としては、「韋康は8カ月も籠城し苦戦させた事で、苛立ち韋康を処刑した」などもあります。

ただし、人望があった韋康を殺害したのは、後の事を考えると馬超には悪手だった様に感じます。

 

王異の暗躍

趙昂の妻である王異は烈女として名高く、馬超の妻である楊氏が対談を求めています。

この時に、王異は楊氏に斉の桓公における管仲や秦の穆公における由余など、人材を揃える重要さを述べています。

王異が楊氏を懐柔した事で、馬超は楊阜、趙昂などの韋康配下だった者達を信用しました。

しかし、楊阜、趙昂、王異などの心は馬超ではなく、韋康にあったようです。

 

冀城を追い出される

馬超は冀城を本拠地とし、曹操軍と再戦する為の準備に入ります。

しかし、ここで思いもよらぬ事態となります。

韋康配下であった楊阜、趙昂、姜叙らが馬超に反旗を翻したわけです。

馬超は楊阜、趙昂、姜叙らに人質を出していましたが、お構いなしで反乱を起こしています。

馬超が自分の父親である、馬騰や一族に行った行為を、そのまま馬超に食らわせた事になります。

趙昂の妻である王異によれば「自分の子より道義を優先」と述べています。

韋康は慈悲深い性格をしていた話しもあり、韋康の「徳」の前に馬超は破れさったとも言えるでしょう。

馬超は冀城を趙昂に抑えられた事で、行き場を失い城内にいた馬超の妻子は、殺害される事態となりました。

 

祁山の戦い

馬超は漢中に向かい張魯に兵を借りると、再び涼州を奪還すべく戻ってきました。

この時に、楊阜、趙昂、王異らは、祁山に籠城し、馬超の軍と戦う事になります。

祁山籠城戦では、王異が9つの奇計を出した話があります。

長安にいた夏侯淵は迅速に動き、曹操に相談もせずに、張郃を祁山に派遣しています。

先の戦いで、夏侯淵は援軍が送るのが遅れた為に、韋康を見殺しにしてしまった事もあり、今回は迅速に動いたのでしょう。

張郃の軍が後詰めにやってくると、馬超は大した抵抗もせずに撤退しました。

馬超の軍は張魯から借りた軍隊であり、自在に動かす事は出来ぬと判断し、馬超は撤退を決めたのかも知れません。

馬超は漢中の張魯の元に逃げています。

 

漢中でも居場所を失う

馬超は張魯の元に身を寄せる事になります。

張魯は馬超に娘を嫁がせようと考えた話があります。

この時に張魯配下の者は、次の様に述べています。

「馬超は親すらも見殺しにしています。他人を愛する事が出来るでしょうか。」

この言葉を聞いた張魯は、馬超に娘を嫁がせるのをやめた話があります。

馬超は張魯に兵を借り、涼州の奪還を目指しましたが、結果が出なかった事で、張魯陣営でも居場所を失っていきます。

この時の馬超は悶々とした日々を送っていたわけです。

 

劉備陣営に加わる

馬超は突如として、漢中から出奔し劉備の元に向かう事になります。

この時の馬超は妻子や配下の龐徳などの武将を漢中に残し、益州にいた劉備の元に身を寄せる事になります。

成都に籠る劉璋を攻撃中だった劉備は、馬超が自分に降伏する事を知ると「益州を手に入れた。」と喜んだ話があります。

尚、馬超が降伏する事を知った劉備は諸葛亮らを引き連れて、馬超を出迎えた話があります。

この時の馬超は劉備陣営に自分の居場所が見つかったと思ったかの知れません。

因みに、馬超が劉備に降伏した話は衝撃的だったようで、劉璋も戦意を失くし、劉備が派遣した簡雍の降伏を受け入れます

劉備の配下に馬超が加わった事で、劉備は益州を手に入れるのを容易にしたと言われています。

 

彭羕の乱を未然に防ぐ

劉備の入蜀の最中に、龐統が推挙した人物に彭羕(ほうよう)がいました。

彭羕は龐統が認める程の才能はあったようですが、性格に問題があり、劉備や諸葛亮に煙たがられ、江陽太守に左遷されています。

彭羕は劉備や諸葛亮の待遇に不満を憶え、馬超に次の様に述べています。

「あなた(馬超)が外を受け持ち、私が中を受け持てば、天下は簡単に思い通りになる。」

この時の馬超は放浪の末に、劉備に拾って貰った事もあり、自分の身をいつも危惧していた話があります。

馬超は彭羕の話に言葉を返さず、彭羕の言葉をありのまま上奏しました。

彭羕は逮捕される事になり、馬超の上奏により謀反を事前に防ぐ事が出来たとも言えるでしょう。

ただし、彭羕が謀反を起こしても、人望の無さから成功率は低かった様に思います。

 

重用されるが功績は無し

劉備は馬超を平西将軍に任じ、臨沮を治めさせ都亭侯にした話があります。

さらに、劉備が漢中王になった時は、左将軍・仮節に任じました。

この時に前後左右の将軍として、関羽、張飛、黄忠、馬超がおり、趙雲を加えると三国志演義の五虎将軍となります。

221年には、さらに出世し、驃騎将軍とし涼州牧にもなっています。

しかし、馬超は蜀の将軍になってから、これと言って戦いで功績を挙げる事は出来ませんでした。

劉備が益州を平定した後に、魏の夏侯淵を討ち取った定軍山の戦いでも、活躍したのは謀臣の法正や猛将の黄忠です。

猛将と言われた馬超も、蜀の将軍になってからは、功績が無く寂しい感じでもあります。

 

馬超の劉備軍加入は大きかった(追記)

過去の記事で馬超が劉備軍に加わってからの、功績は少なかったとする話を記載しました。

しかし、馬超の加入は劉備軍にとって大きな戦力だったともされています。

定軍山の戦いの時に、馬超は張飛、呉蘭、雷銅らと武都方面に進撃しています。

この時に氐族の雷定が7つの部族を率いて、劉備に協力する約束をしました。

雷定は1万を超える兵士を率いて、曹操軍を牽制した話があります。

雷定は馬超を信頼し、軍を動かしたとも考えられています。

呉蘭が下弁で曹休や曹洪に打ち破られると、張飛や馬超は軍を後退させました。

馬超や張飛が撤退すると氐族も戦う意味を失くし、撤退しています。

この時に、陰平の氐族である強端は呉蘭の首を斬って、曹洪に届けた話しがあります。

氐族が慕っているのは、馬超であり、「馬超が撤退すれば氐族も蜀に協力する意味はない」と考えたとする説があります。

それを考えると、異民族を懐柔する意味で、馬超の存在は大きかったと言えるでしょう。

尚、第一次放伐馬謖街亭の戦いで、張郃に敗れて蜀軍は撤退しましたが、涼州の大部分が蜀に呼応した話があります。

涼州は異民族が多く住む地域であり、馬超が亡き後も影響力は強かったとも考えられます。

蜀に帰順後に戦いでの功績が少なくても、影響力を発揮したのが馬超と言えるのかも知れません。

因みに、馬超を厚遇したのは、北伐を考えての涼州勢への配慮だったとする話もあります。

馬超を厚遇すれば「蜀は涼州出身の人間であっても重用される。」というアピールに繋がるからです。

諸葛亮の第一次北伐で、涼州の姜維が蜀漢の武将となり厚遇されますが、姜維も馬超と同じ様に涼州勢への懐柔の為とも考えられています。

蜀の北伐の為には、涼州勢力への懐柔は不可欠であり、涼州の有力者を厚遇する必要があったのでしょう。

馬超の最後

馬超の最後は、西暦222年だと伝わっています。

馬超は自らの死を悟ると、劉備に次の様に述べています。

「私の一門、200名余りは、曹操によって息絶えてしまいましたが、一族の馬岱だけが残っております。

馬岱は衰えた家の祭祀を継ぐべき男であり、陛下(劉備)に託したいと思います。

くれぐれもよろしくお願い致します。後は言い残す事もありません。」

馬超は最後に馬岱の事を劉備に託し、亡くなった事になります。

この時の劉備は夷陵の戦いで陸遜と対峙していたはずであり、既に関羽、張飛、黄忠はこの世になく、劉備も心にくるものがあったのかも知れません。

馬超は家族である馬騰、馬休、馬鉄や一族200人を見殺しとし、羌族を助けようとしましたが、結局は羌族達に平和をもたらす事も出来ませんでした。

馬超が亡くなった時は、かなりの無念さがあったように思います。

馬超は一族の大半も死去しており、韓信や黥布に比する猛将としては、寂しい最後を迎えたはずです。

尚、馬超の子には馬承がいましたが、幼かった事もあり、馬家の中心人物を馬岱としたのでしょう。

ただし、馬超の後は馬承が継いだとあり、馬岱は馬家の実務を行ったはずです。

馬岱は平北将軍に位まで昇り、陳倉侯にまでなった話があります。

馬承の娘は劉備の子で劉禅の異母弟にあたる、劉理の妻になりました。

 

馬超の逸話

馬超の逸話を解説します。

劉備呼び捨て事件

山陽公戴記によれば、劉備は馬超を厚遇し、馬超は劉備を字の「玄徳」で呼んでいた話があります。

関羽と張飛が劉備の元にやってきて、関羽が「馬超を殺害したい。」と述べます。

劉備は驚き、次の様に答えています。

劉備「馬超は追い詰められて、儂を頼って来たのじゃ。

お前たちは馬超が儂の事を字の「玄徳」と呼んだ事で殺そうというが、そんな事では天下の人々の理解を得る事が出来ない。」

劉備は関羽と張飛を宥めたわけですが、張飛は納得せず「ならば馬超に礼儀を教えてやりましょう。」と述べます。

翌日に会議があり、劉備は席に着きますが、関羽と張飛は着席せず、刀を持ち劉備の傍で侍立していたわけです。

これを見た馬超は驚き、1回も劉備を字の玄徳で呼ぶ事はありませんでした。

馬超は会議が終わると嘆息し、次の様に述べています。

「儂が戦いに敗れて放浪の身になった事が今になって分かった。

主君を字で呼んだ事で、危うく関羽と張飛に殺される所だったわい。」

馬超は反省し、それ以後は二度と劉備の事を字で呼ぶ事は無かった話があります。

ただし、この話は創作と言われています。

劉備は益州にいたわけですが、関羽は荊州におり、1回も益州に行った記録がありません。

それ故に、この話は創作だと裴松之は指摘しています。

私の考えとしても、裴松之の説が正しい様に思いますし、それと同時に三国志は後世などに、様々な作り話が世の中に溢れていたのではないかと思いました。。

 

関羽が馬超に興味を持つ

馬超が劉備陣営に加わった事を知ると、荊州を守っていた関羽は諸葛亮に、「馬超とはどの様な人物なのか?馬超の人物才能は誰に匹敵するのか?」と手紙を送っています。

諸葛亮は関羽には、次の様に返信しています。

諸葛亮「馬超は張飛に匹敵する武勇を持っていますが、髭殿には及びませぬ。」

諸葛亮が関羽のプライドの高さを考慮した発言なのでしょう。

関羽は美髭公と呼ばれる程の立派な髭を持っていた事もあり、諸葛亮は「髭殿」と呼んでいます。

関羽の面倒な性格を現わした逸話だとも言えます。

 

一族への想い

典略の話で正月に董仲が馬超に新年の挨拶に行った話があります。

馬超は董仲が年賀の挨拶をすると、胸を叩き血を吐いて次の様に述べています。

馬超「一門残らず、1日にして命を落としてしまったのだ。二人で祝う事が出来ようか。」

これを考えると馬超は最後まで、家族に対する懺悔の念が消えなかった様にも感じます。

馬超の心には葛藤があり、「ただの親不孝者」と評価するのも間違っている様に思いました。

 

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