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構成・文/宮下悠史

前漢 秦末期・楚漢戦争

陳豨(ちんき)は驚異的な粘りを見せた武将だった

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陳豨(ちんき)は、韓信と共謀し、反乱を起こしたが鎮圧された人物位の認識しかない人も多い様に思います。

しかし、実際の陳豨の反乱は匈奴や韓王信も加わっての反乱だった様で、大規模な反乱だったと感じます。

さらに、漢書によれば英布が斬られた後に、周勃が陳豨を斬った記述があり、驚異的な粘りを見せた可能性もある様に思いました。

陳豨自身も多くの食客を養った話もあり、武勇に自信がある人物だったのでしょう。

今回は司馬遷が書いた史記だけではなく、漢書・高帝紀、資治通鑑などの記述を元に解説します。

 

信陵君を敬慕

陳豨は戦国四君の一人である信陵君を敬慕していた話があります。

信陵君は戦国時代末期に最強と呼ばれた秦軍を二度に渡り破った人物でもあります。

劉邦も信陵君を慕っていた話しもある事から、陳豨の事を気に入った可能性もあります。

尚、陳豨は戦国四君である信陵君の真似をしたのか、多くの食客まで集めた話があります。

 

代の相となる

陳豨は紀元前202年の燕王臧荼討伐では、武功を挙げて陽夏侯に任命されています。

後に陳豨は劉邦に命じられて、代の相となり北方に睨みを利かせる事になります。

この当時の代や趙の北には匈奴がおり、冒頓単于が猛威を振るっていた時代でもありました。

劉邦自身も自ら兵を率いて、冒頓単于との間で白登山の戦いを行いますが、匈奴の大軍に囲まれ窮地に陥っています。

劉邦は匈奴に貢納物を献上する事で和平を結んでおり、屈辱的な敗北を喫したと言ってもよいでしょう。

匈奴と漢は和平を結びましたが、韓王信が匈奴に投降するなど、北方は不安定な状態だったはずです。

こうした中で、陳豨は代の相に抜擢されており、陳豨は武勇に優れ劉邦からの信任も厚かった様に思います。

 

韓信との共謀

陳豨は韓信の指示で、劉邦に反旗を翻す計画を画策します。

韓信との密談

史記の淮陰侯列伝によれば、陳豨は鉅鹿の太守を任じられ、韓信に別れの挨拶に行きます。

一説によると代の相になっていた陳豨が、休暇で都に帰り韓信に会ったとする話もあります。

韓信は楚王の位を剥奪されており、悶々とした日々を送っていました。

韓信は陳豨がやってくると、周りの者を下げて、陳豨の手を取り庭園を歩いたとあります。

この時に、韓信は天を仰ぎ嘆息し、陳豨に次の様に述べています。

韓信「其方は私の相談相手になってくれるであろうか。

相談したい事があるのだが。」

韓信は楚王から淮陰侯に降格されましたが、楚漢戦争での活躍は多くの者が知っており、尊敬されていたわけです。

陳豨は韓信の問いに「将軍(韓信)の命令であれば全て従います。」と答えます。

陳豨も韓信を崇拝する一人だったのでしょう。

韓信は陳豨に次の話をしました。

韓信「君の赴任地は天下の精兵が集まる所である。

其方は陛下(劉邦)の寵臣でもあるから、反旗を翻しても直ぐには信じないだろう。

しかし、二度目の密告があれば陛下は其方を疑い、三度目の報告があれば自ら兵を率いて君の討伐に向かうはずである。

陛下がいなくなった隙に、私が内から兵を挙げれば、天下を手に入れる事が出来るであろう。」

陳豨は韓信の言葉に「謹んで仰せに従いましょう。」と述べて、謀反を起こすと約束したわけです。

ただし、この時点では陳豨に、どこまでやる気があったのかは不明な部分もあります。

 

怪しまれる陳豨

陳豨は趙の鉅鹿に向かいました。

陳豨は趙を通りますが、車の数が千余乗であり、邯鄲の宿舎が全て満室となってしまいます。

この時の趙王は劉邦と戚夫人の子である劉如意であり、趙国の相は周昌でした。

周昌は陳豨の行動に不信感を抱き、都に行き劉邦に謁見を求めると、次の様に述べています。

周昌「陳豨は多くの食客を養い辺境においては、長年に渡り兵を指揮しております。

このまま放置しておけば、変事が起こるに違いありません。」

劉邦は周昌の言葉で、陳豨に疑いを持ち、陳豨を調べる事にしました。

劉邦が代で起きた不法な出来事を調査すると、多数の案件が陳豨と関係している事を知ります。

陳豨は劉邦が自分を疑っている事を知ると、恐怖し謀反を本気で考える様になったのでしょう。

尚、劉邦の父親である劉太公が西暦197年に亡くなり、劉邦は陳豨を都に招きますが、陳豨は行かなかった話もあります。

 

韓王信の誘い

陳豨は不安に思いますが、都にいる韓信が上手く謀反を起こせるか心配だった部分もあり、決断が出来なかったのでしょう。

しかし、劉邦と陳豨が不和になっている事を、匈奴に投降した韓王信が情報をキャッチしたのか、陳豨に使者を送りました。

韓王信は王黄や曼丘臣らを陳豨に派遣し、謀反を起こそうと述べたわけです。

陳豨は王黄らと共に謀反を起こし、自ら代王を名乗った話があります。

これで陳豨は完全に引くに引けない状態となり、劉邦率いる漢の正規軍と戦う事になります。

 

陳豨が後手に回る

陳豨は劉邦と対峙しますが、歴戦の猛者である劉邦に対し、陳豨は後手に回る事になります。

劉邦と対峙

陳豨が代や趙の地で侵略を始めると、劉邦は自ら出陣する事を決意します。

出陣にあたり劉邦は、次の様に述べています。

劉邦「陳豨は武功があり儂の為によく働いてくれた。

儂は代を重要拠点だと感じ、陳豨を列侯として相国に任命し、代を守備させたのである。

しかし、現在の陳豨は王黄らと共に、代への侵略を始めた。

吏民に罪はない。陳豨や王黄らから離れて、我が方に帰順した者は全て許す事に致す。」

劉邦は自ら親征し、邯鄲に到着する事になります。

ここで劉邦は次の様に述べています。

劉邦「陳豨が南にある邯鄲を守らずに、漳水を隔てても戦おうとしない。

陳豨には大した事が出来ないと分かった。」

この展開を見る限りでは、劉邦の横綱相撲と言えそうです。

 

陳豨の軍から投降者が続出

劉邦は陳豨の将軍が商人出身者が多いとする情報を耳にします。

すると、劉邦は次の様に述べています。

劉邦「儂は彼らの対処方法を知っている。」

劉邦は金をバラまき、陳豨配下の商人出身の将軍を懐柔したわけです。

これにより、陳豨の軍から投降する将軍が多く出た話があります。

劉邦は秦の末期に、関中での戦いで、秦の将軍が商人出身者が多かった話を耳にします。

この時に、張良が劉邦に「商人出身者は利に弱い。」と述べて、利益で釣った事がありました。

劉邦は陳豨討伐でも、似た様な状況であった事から、金をバラまく戦法に出たのでしょう。

 

罪を問わなかった話

陳豨の反乱は常山郡の25の城の内、20が陳豨に降る事態となりました。

この時に、周昌は陳豨に降った、常山の守や尉を処刑する様に述べています。

しかし、劉邦は守や尉は裏切ったわけではないと判断し、罪を問わなかったわけです。

劉邦は楚漢戦争終了後は、猜疑心の塊になった様なイメージがありますが、王者としての器を見せる事になります。

 

劉邦のツンデレ

劉邦は周昌に命じて、趙国で能力がある勇壮な人物を選定させます。

周昌は4人の人物を連れてきますが、劉邦は「こんな小僧が将になれるか。」と罵ったわけです。

しかし、何故か劉邦は4人それぞれに千戸を与え将軍に任命しています。

罵った後に、領地を与えたりするのは、劉邦なりのツンデレとも発奮方法と見る事が出来るでしょう。。

この時は、蕭何や曹参などの功績が大きかった者の論功行賞は終わっていましたが、未だに楚漢戦争において褒賞を貰えていない者もいたわけです。

劉邦墓の者は趙の4人の若者に領地を与えた事が不満であり、劉邦に領地を与えた訳を問います。

すると、劉邦は次の様に答えています。

劉邦「陳豨が反乱を起こした事で、代と趙の地は全て陳豨に制圧された。

儂が檄文を作っても来るのに時間が掛かる。

今の状態では邯鄲の兵を使う事しか出来ない。

四千戸を惜しんで、趙の壮士を慰撫しないわけにも行かない。」

劉邦の左右の者は納得したとする話があります。

尚、劉邦の言葉で代と趙の地は全て陳豨の手に落ちた話しもあり、陳豨の反乱は規模が大きかった様に思います。

 

韓信が処刑される

陳豨が最も期待していたのは、長安にいる韓信だったはずです。

韓信は謀反を決行しようとしますが、韓信の家来で呂后に密告する者がいました。

呂后は蕭何に相談すると、蕭何は「陳豨討伐は完了した。」とする情報を流す策を出します。

その上で蕭何は韓信に「陳豨討伐の慶賀の為の参内」を韓信に勧めています。

韓信は蕭何の事を信頼しており、参内した所を捕えられて処刑されています。

陳豨が最も期待し、漢を内部から崩せる存在であった韓信は呆気なく斬られてしまったわけです。

この時点で、陳豨の勝算はほぼ無くなったとも言えるでしょう。

 

楽毅の子孫を封じる

劉邦は陳豨討伐で趙に入ると、楽毅の子孫を探した話があります。

楽毅は戦国時代に燕の昭王の将となり、斉を壊滅状態にした名将です。

楽毅の名は死後も中華に鳴り響いており、劉邦も信陵君と同様に楽毅を敬慕していたのでしょう。

劉邦は楽毅の子孫を探すと、楽叔を見つけ出し、楽郷に封じ華成君としました。

 

劉邦との戦い

陳豨は遂に劉邦と戦う事になります。

陳豨の軍が各地で破れる

史記、漢書、資治通鑑の記述によれば、陳豨の将軍である侯敞は1万人を率いて遊撃隊だったとする話があります。

陳豨の軍で韓王信が派遣した王黄は曲逆に陣取り、陳豨配下の張春は1万人を率いて聊城を攻撃しました。

劉邦の将軍である郭蒙は斉の将軍と共に、陳豨の軍を大いに破る事になります。

劉邦配下の周勃は太原から代に入り、馬邑を攻撃しました。

馬邑の兵が奮戦し周勃は手こずりますが、城が陥落すると周勃は馬邑の多くの者を殺害した話があります。

 

東垣の戦い

陳豨の将軍である趙利は、東垣で劉邦と対峙しました。

劉邦は東垣を攻めますが、趙利の軍は堅守を見せ、劉邦は手こずります。

趙利の配下の者で、劉邦の事を酷く罵った者がいたわけです。

これに劉邦は酷く立腹した話があります。

しかし、多勢に無勢であり結局は、趙利は降伏しました。

劉邦は自分を罵った人物を見つけ出し、斬り捨てた話があります。

これを見るに、劉邦はかなり酷い罵られ方をしたのでしょう。

尚、劉邦は陳豨に加担せずに、城を堅守した諸城に関しては、3年間の租税、夫役を免除した話があります。

この頃になると、漢の紫武将軍が韓王信を切り、陳豨の乱の大半は収束していたわけです。

陳豨は、まだ討たれていませんが、劉邦は配下の諸将に後を任せて、自らは長安に帰還しました。

 

代王劉恒

劉邦は長安に戻ると、代の地を安定させる為に、誰を王にすべきか臣下に問います。

相国の蕭何や燕王盧綰らは、皆が揃って劉邦と薄姫の子である劉恒を推しました。

劉邦は劉恒を代王とし、晋陽に都させています。

尚、代は重要な地ではありましたが、北方にある僻地でした。

劉邦が崩御し、呂后の時代になると、劉氏一族や劉邦の寵姫への粛清が始まります。

しかし、劉恒は僻地の王であり、薄姫も劉邦に大して寵愛されていなかった事から、呂后から見れば、劉恒や薄姫は眼中にない存在だったのでしょう。

劉恒は後に陳平や周勃により、漢の文帝として即位する事になります。

劉恒が代王になったのは長い目で見れば運が良かった部分もあり、きっかけを作ったのが陳豨の乱だったとも言えそうです。

 

陳豨の最後

劉邦が趙や代を周勃らに任せて、長安に帰還してからも陳豨は戦い続けた様です。

この間に、梁王の彭越が謀反の疑いを掛けられて処刑されています。

彭越は陳豨討伐に従軍する様に命じられましたが、彭越は劉邦を疑っており、配下の者に兵を率いさせて送っただけでした。

この様な事もあり、彭越は処刑されたわけです。

さらに、韓信、彭越など武断派が粛清されたのを見て、恐怖した黥布(英布)はいざこざもあり、謀反し劉邦と戦っています。

この頃になっても、陳豨は戦い続けていたともされています。

漢書によれば黥布が番陽に斬られた記述の後に、次の記述が存在します。

「周勃が代を平定し陳豨を当城で斬った。」

これを考えると、陳豨は英布討伐が終わった頃に、漸く斬られた事になり、驚異的な粘りを見せた事になるでしょう。

陳豨は強い精神力を持ち、兵を扱うのも巧みだった様に感じます。

陳豨は知名度は低いですが、驚異的な力を発揮し、漢軍を苦戦させた様にも思います。

陳豨は韓信が処刑され、韓王信も切られて援軍の見込みも無かったはずであり、何を思って戦い続けたのかは不明です。

 

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