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構成・文/宮下悠史

斉(戦国) 春秋戦国時代

田単は壊滅寸前の斉を救った名将

2022年1月1日

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名前田単
画像三国志14(古武将)
生没年不明
斉(戦国)
年表紀元前285年頃 即墨に避難
紀元前279年 燕に奪われた土地を奪還
紀元前265年 趙の宰相になる
コメント壊滅寸前の斉を救った英雄

田単は楽毅により、壊滅寸前だった斉を救った名将です。

司馬遷が書いた史記にも、田単列伝があり救国の英雄として描かれています。

史記だと田単が斉を救った時点で詳細な記録は途切れてしまいますが、戦国策にその後の田単の逸話が残っています。

戦国策や史記の記録を元にすると、田単と斉の襄王には確執があり、田単は趙に移ったのではないか?と読み取る事も出来ます。

さらに、名将だったはずの田単が凡将となり、魯仲連の言葉で覚醒された話もあるので紹介しておきます。

今回は春秋戦国時代の名将である田単の解説です。

尚、上記は私が作成した田単の解説動画です。

 

斉王の遠い親戚

史記の田単列伝によれば、田単は斉王の遠い親戚だった話があります。

田単は斉王と血は繋がっていても、遠い事もあり斉の湣王の時代に臨淄で小役人となります。

田単は後に名将と呼ばれる人となりますが、この時の田単は無名の存在だったわけです。

この時は、と斉の二強時代であり、斉の湣王は傲慢ではありましたが、宋の康王を滅ぼし、宋の地を得るなど強大な勢力を誇っていました。

しかし、斉の宣王の時代から活躍した、戦国四君の一人である孟嘗君が魏に移るなど、斉には衰亡が見えている状況も見れます。

ここで斉の湣王が強勢を続けていれば、田単は無名の存在で終わった様に思いますが、時代は田単を突き動かす事となります。

 

楽毅が斉に侵攻

燕の昭王は斉に対し深い恨みを抱いており、郭隗を師とするなど優れた人材を集めていたわけです。

燕の昭王の「隗より始めよ」の政策が成功を納め、楽毅、劇辛、鄒衍などの優れた人材が燕に集まって来ました。

紀元前284年に、燕の昭王が楽毅を上将軍とし燕、趙、秦、魏、韓の合従軍を率いて、斉に対し大攻勢を掛けます。

合従軍と斉の間で済西の戦いが勃発しますが、斉軍は破れました。

合従軍は解散し帰国しますが、楽毅が燕軍を率いて斉の首都である臨淄に向かい進撃したわけです。

この時に、斉の湣王が臨淄から逃亡するなど、斉は大混乱となります。

こうした状況の中で、田単も臨淄から逃亡しなければならなくなってしまいます。

 

車輪の軸

斉の湣王は臨淄から衛や莒へと亡命し、田単は安平から即墨に避難する事となりました。

田単は逃亡時に一族の者に、車の車軸を鉄でしっかりと補強する様に命じた話があります。

逃亡生活は過酷であり、多くの斉の民衆の車が壊れ、燕軍に捕らえられたり家財を奪われてしまいます。

しかし、田単の一族は車軸を鉄でしっかりと補強してあった事で、燕軍に追いつかれる事も無く、無事に安平から即墨へと逃げる事に成功しました。

車輪の軸を補強した話は、田単の機転が利く一面を表していると言えるでしょう。

 

即墨の戦い

将軍となる

(地図:ユーチューブより

楽毅は斉の城を次々と落とし、莒と即墨以外の全ての城を落としてしまいます。

楚の頃襄王は、淖歯を楚に派遣し斉の湣王を救援しますが、淖歯が悪心を起こし斉の湣王を殺害しました。

淖歯は王孫賈に殺害され、莒では斉の襄王が即位しますが、燕に対し激しく抵抗した事で、楽毅は莒の攻略を後回しとし即墨に向かったわけです。

即墨の将軍は燕軍に対し出陣し迎撃しますが、燕軍に敗れて討ち取られました。

こうした中で、即墨の大夫らは田単を将軍に指名しています。

即墨の大夫らは、田単の車輪の話を聞いており、田単が兵法に通じていると判断した為です。

田単も要請に従い将軍を受けた事で、小役人でしかなかった田単が、一気に即墨における軍事の最高責任者に躍り出た事になります。

ただし、劉邦陳嬰が責任者になった時と同様に、「首謀者で無ければ戦いに敗れても許される」と即墨の大夫らが考え、田単を将軍にした可能性もある様に思います。

 

楽毅の更迭

田単は司馬遷も指摘する様に、数多くの奇策を使って勝利を収めますが、楽毅がいる間は防戦する事しか出来ませんでした。

楽毅と燕の昭王の間に隙が無く、策を弄しても意味が無かったのでしょう。

しかし、燕の昭王が紀元前279年に亡くなり、燕の恵王が即位すると状況は一変します。

田単は楽毅と燕の恵王に対し、間者を燕に派遣し次の様な噂を流す事にしました。

「斉王は死に、斉で陥落していない城は莒と即墨だけである。

楽毅は斉で民の心を掴み、南面して斉王になろうとしている。

楽毅は手を抜いて斉の城を攻めている。

斉が恐れているのは、燕が楽毅を更迭し、別の将軍を立て即墨の城に猛攻を掛ける事だ。」

元々燕の恵王は楽毅の事を嫌っており、間者の言葉を信じ楽毅を燕の本国に呼び戻そうと考えます。

楽毅は燕の都に戻れば危害を受けると考え、趙の恵文王の元に亡命しました。

田単の離間の計により、楽毅は解任され騎劫が燕の将軍となります。

楽毅は兵士に対して信望も厚かった事から、燕兵は憤慨し燕軍の士気は低下したわけです。

 

神が舞い降りる

田単は楽毅がいなくなった事で、勝機が出て来たと考え、食事ごとに供物を出し、庭で祖先を祀らせました。

即墨の城では、供物を狙った鳥が大量に集まった事で、燕兵は不気味がります。

田単は斉兵に対しては「神が降臨し、我が師となるであろう」と宣伝します。

田単の布告に対して、一兵卒が冗談で「私があなたの師となりましょうか」と問うと、田単は恭しく出迎えて本当に師と仰いだわけです。

一兵卒は「戯れだった」と述べますが、田単は「何も言うな」と忠告し、神が舞い降りたと宣伝しました。

田単は命令を出す時は、全て神の名の元に命令した話があります。

当時は迷信が信じられていた話があり、田単のやり方は効果的な方法でもあったのでしょう。

春秋時代の末期に斉の司馬穰苴が斉の景公の寵臣である荘賈を斬ったり、秦末期に彭越が遅れて来た部下を斬ったやり方と比べると、田単のやり方は穏便にも感じます。

神の名の元に部下に命令するやり方は、田単なりの部下の対する統率方でもあったはずです。

 

民衆の戦意を煽る

田単は民衆が燕に対する怒りを、爆発させる事が必要だと考え次の様に流言を行います。

「即墨の将軍や民が恐れるのは、燕軍が捕虜となった斉兵の鼻を斬り、

これを陣頭に立てて、攻撃するのではないか?と考えている事である。

残虐な刑を行えば、即墨の人々は戦意を失い、城は陥落するであろう。」

燕に情報を流すと、燕の将軍である騎劫は田単の策を信じたのか、捕虜として捕えてあった斉兵の鼻を削いだわけです。

鼻を削がれた斉兵を見た即墨の城内の者達は、燕兵に捕らえられれば残虐な刑を受けると考え、必死で防戦する様になります。

さらに、田単は次の様な情報を燕軍に流しました。

「即墨の城の者達が恐れているのは、燕兵が城外の墓を暴き、先祖の遺体を辱める事である。

先祖の墓が暴かれれば、即墨の戦意は無くなるであろう」

田単が流した流言に対し、騎劫はまたもや引っ掛かってしまい、即墨の城外にある斉の民衆の墓を焼き払ってしまいました。

即墨の民衆は先祖の墓が暴かれ焼かれてしまった事に憤慨し、涙を流したとあります。

これらの策略は楽毅であれば、絶対に通用しない策となるはずですが、騎劫は面白い様に引っ掛かったわけです。

 

火牛の計

燕兵に対し激しい怒りを燃やした民衆らは、田単に自ら斉兵と決戦を挑みたいと述べます。

田単は即墨の戦意が十分だと判断すると、自らの妻子や一族も全て軍に入れ、自ら武器を手に取り決戦を挑む決意をしました。

田単は即墨の富豪の力を借り、斉に降伏を申し出ます。

さらに、田単は老人や婦女を城壁の上に立たせて、城を守らせたわけです。

田単は千頭の牛を集めると、降伏を願い出た話があります。

燕兵としては、即墨には戦える者がいないと油断していた事もあり、降伏を受理しました。

田単は夜になると、牛に龍の模様が入った服を着させ決戦に備えます。

田単は兵士の準備が整うと、牛の角に刃を付けて尾に火を点けます。

牛が暴れて燕兵に突っ込むと、田単は精鋭を引き連れて自ら軍隊を指揮し、燕兵に突撃を仕掛けました。

田単らの突撃が始まると、即墨の民衆は銅鑼や鐘を鳴らし大地を振動させます。

燕兵は油断していた事もあり、無防備な状態で田単の突撃を受けたわけです。

 

燕に奪われた地を取り返す

この時の田単の突撃は凄まじかった様で、燕兵を蹴散らしただけではなく燕軍の、総大将である騎劫も討ち取った話があります。

騎劫を討ち取った田単は、さらに北上を続け燕に奪われた斉の城を、全て奪い返す事に成功しました。

燕に落とされた斉の城も田単に呼応し、斉に帰順したのでしょう。。

燕軍を斉から駆逐した田単は、斉の襄王を臨淄に迎えています。

これにより田単は滅亡寸前だった斉を救い、救国の英雄となったわけです。

(田単復興後の戦国七雄の図)

斉の襄王も田単の功績を認め安平君として、宰相に任じています。

史記の田単列伝だと、これで田単の活躍は終わってしまいますが、戦国策に続きがあるので解説します。

尚、斉は燕に奪われた城は取り返しますが、全盛期の国力は回復せず、これより先はの一強時代に突入する事になります。

 

斉の襄王との確執

凍える老人

田単は淄水の畔で、寒さに凍えている老人を見つけます。

田単は自ら着ていた服を脱ぎ老人に与えました。

田単は民に施しを行った事になるのですが、この話が主君である斉の襄王の耳に入る事となります。

ここで斉の襄王は次の様に呟きました。

「田単の奴が民に施しをしたのは、儂から斉の国を奪おうとしているからに違いない。

早く手を打たなければ、大事に至るやも知れぬ」

斉の襄王は田単を疑ったわけです。

しかし、斉の襄王の呟きを側にいた役人が聞いており、斉の襄王が「今の話を聞いたのか?」と問うと、役人は「聞きました」と述べます。

斉の襄王は役人に、「どうするのが最適だと思うか?」と問うと、役人は次の様に答えました。

役人「斉王様は『儂が民の飢餓を憂いたから、田単は民に施しを与えた。

私は民の苦しみを憂いており、田単もまた憂いている。

田単は私の意に沿った行動をしてくれた』と述べるの様にするべきです。

田単の善行は、王様の善行に置き換える事が出来ます。」

役人は斉の襄王に田単を表彰すれば、斉の襄王の評判も高まると述べたわけです。

役人に言われた事を斉の襄王は実践し、斉の大夫達は「田単が民を慈しむのは、斉の襄王様のお陰」だと噂しあった話しが残っています。

役人の配慮は見事ですが、斉の襄王は本心から田単を褒め称えたわけでは為、後に軋轢を生む事となります。

 

貂勃の機転

貂勃は田単の悪口を言っていました。

田単は酒宴に貂勃を呼び訳を聞くと、貂勃は「盗蹠の犬は堯帝に吠える」という話を持ち合いに出し、田単に推挙される事となります。

盗跖も堯帝も伝説上の人物とも言えます。

斉の襄王には九人の寵臣がおり、田単を陥れようと画策し、斉の襄王に讒言したわけです。

斉の襄王は田単を呼び出し圧を与えました。

田単は危機に陥りましたが、貂勃が田単と斉の襄王の間を取りなした事で田単は救われています。

この逸話を見ても、斉の襄王の器の小ささと、田単に対する警戒心の強さが分かります。

尚、貂勃の活躍により、9人の寵臣は処刑され、田単は土地を加増された話が残っています。

後に田単は趙に移り宰相になったとも考えらていますが、斉の襄王との確執があったとする見解もあります。

 

狄討伐

魯仲連の言葉

田単は斉軍を率いて狄を討つ事となります。

この時に、田単は賢人として名高い魯仲連の元を訪れました。

魯仲連は田単に対し、次の様に述べます。

魯仲連「今の田単将軍が狄を討っても、

決して狄を降す事は出来ないでしょう」

魯仲連の言葉に対し、田単は次の様に述べました。

田単「思い出してみてください。私は即墨では五里の城邑と、敗残兵を以って、大国の燕を打ち破り斉を復興したのですぞ。

その私が狄を攻めるのに、狄を降す事が出来ないとは何事ですか」

田単は魯仲連の言葉に怒り、挨拶もせずに魯仲連の元を立ち去りました。

田単は用兵に自信があり、燕に比べれば狄は弱く楽に勝てると思っていたのでしょう。

 

魯仲連の予言が的中

田単は狄を鎮圧する為に動きますが、3ヵ月が経過しても狄を破る事が出来なかったわけです。

さらに、斉では童たちが次の様に歌った話があります。

「姿は立派なのに、狄を全く降す事が出来ない。

田単様は狄を降す事が出来ずに、処刑される」

田単はこの言葉に驚き、自分の立場が危うい事に気が付きます。

童たちが田単が処刑されると歌った辺りは、田単と斉の襄王の関係を多くの人が知っており、噂しあっていたのでしょう。

焦った田単は魯仲連の元を訪れ、アドバイスを求める事としました。

 

決死の覚悟

田単は魯仲連に詫びを入れて、「なぜ狄を降す事が出来ないと分かったのか」と問います。

すると魯仲連は、次の様に答えました。

魯仲連「即墨での戦いを思い起こしてください。

即墨にいた時の田単将軍は、自ら率先し仕事を行い、士卒の為に、

『ここで逃げれば宗廟が滅ぶ。まだ滅亡すると決まったわけではない。希望はある。』と士卒を励ましていました。

即墨の戦いでの、田単将軍には死ぬ覚悟があり、士卒も生への未練はなく、田単将軍の言葉に涙を流しておられました。

あの時の即墨の兵たちは自ら腕を振るいあげて戦い、田単将軍の決死の覚悟が弱気斉が強気燕を打ち破った理由です。

しかし、今の田単将軍は斉の宰相となり多くの財産を持ち、様々なお楽しみがあります。

今の田単将軍には生きる喜びはあっても、死ぬ覚悟がありません。これが狄を破る事が出来ない所以なのです。」

魯仲連の言葉を聞いた田単は悟り、戦場に戻る事となります。

田単は魯仲連の言葉を聞き「真の敵は自分の心の中にある」と悟ったのでしょう。

田単は軍中に戻ると、矢石が降り注ぐ危険な前線で陣頭指揮を行う事としました。

田単の決死の行動に士卒も奮い立ったのか、田単は遂に狄を降す事が出来たわけです。

ただし、戦いでは大将が前線指揮を行った事で不利に動いた例もあります。

赤壁の戦い後に、曹仁が籠る江陵を落とせなかった周瑜は前線指揮で負傷してしまいます。

龐統劉備が益州を奪う時に、劉循、張任が守る雒城を落とす事が出来ずに、前線指揮を執った事で流れ矢に当たり命を落としました。

この時の田単の前線での指揮は讃えられるべきではありますが、大将の陣頭指揮はハイリスクハイリターンの面もあるのでしょう。

余談ですが、魯仲連と田単は関係が深かったのか、田単が燕の聊城を攻めた時に、数年が経過しても落せなかった話があります。

この時に、魯仲連は聊城を守る大将に手紙を送り開城させる事に成功した話があります。

 

趙の宰相になる

史記の趙世家に田単が趙の宰相になった話があります。

田単が趙の宰相になったのは、趙の孝成王の元年であり、趙軍を率いて燕の中陽を攻めて抜いた記録もあります。

史記の簡略な記述からは、分かる事は少ないのですが、専門家の見解としては、次の2パターンに別れます。

田単が斉から趙に移り宰相となった。

斉と趙は親密な関係にあり、田単が斉と趙の宰相を兼ねる事となった。

田単が斉から趙に移ったとするのであれば、斉の襄王との確執が原因の様に思います。

斉の襄王は田単の事を尊重しない事が多々あり、家臣の進言により表彰したりしていたに過ぎません。

田単にとってみても、斉の襄王にいつ処罰されてもおかしくないと考え、身の安全を考え趙に移った可能性もある様に思います。

ただし、趙の孝成王の元年は、斉の襄王の末年とも考えられ、斉の襄王が亡くなったタイミングで、斉から趙に移ったとも考えられるはずです。

田単が斉と趙の宰相を兼ねる事になった説ですが、戦国七雄が覇を競った時代は、諸子百家の遊説家が活躍した時代でもあります。

遊説家の中には、蘇秦の様に燕、趙、魏、韓、斉、楚と六国の宰相を兼ねた例も存在します。

犀首と呼ばれた公孫衍なども、複数の国の宰相を兼ねた話があります。

それらを考慮すると、田単が斉と趙の宰相になったとしても、おかしくはないでしょう。

しかし、明確な記録があるわけではなく、田単が趙の宰相になった真相は謎が多いです。

尚、田単が趙に移ったとすれば趙には廉頗藺相如趙奢、楽毅、田単と戦国時代を代表する名将が集まった様に思います。

田単が趙に移った時に、楽毅が生きていたのかは分かりませんが、生きていたとすれば即墨の戦いを語り合った可能性もあるでしょう。

 

田単と趙奢の兵法論

田単と趙奢が軍事に関して語った話が戦国策にあります。

趙奢は趙の名将であり、閼与の戦いでは許歴の進言もあり、見事な作戦で秦の胡傷を破った人物です。

戦国策によれば、田単は趙奢に関して用兵術は素晴らしいが、問題点もあると次の様に指摘しました。

田単「趙奢殿の用兵術は素晴らしいが、大軍を動員し過ぎている様に思います。

大軍を動員すれば、国では百姓が減りますし、軍資金の確保や兵站の維持も難しくなります。

古の帝王は3万の軍勢で天下を取ったと伝わっております。

趙奢殿が戦いを行う度に、10万を超える兵を動員する理由をお聞かせ願いたい。」

これに対して、趙奢は次の様に述べた話があります。

趙奢「田単殿は時勢に疎いと、言わざるを得ないかも知れません。

太古の時代は国も街も小さかった事もあり、3万の軍勢で十分だったのです。

古の万を超えた諸侯の大半は滅び、現在では戦国七雄の七国だけが残っています。

今の現状では10万、20万を超える敵が攻めて来る事も当たり前であり、他国が援軍を求めて来たとしても、3万では頼りにもされません。

今の時代を考えるに、3万の軍勢で一体何が出来るのでしょうか。」

戦国策には趙奢の言葉に納得し、田単が詫びた話があります。

田単は即墨の戦いでは、寡兵で燕の大軍を破った実績があり、田単からしてみれば趙奢が大軍を動員し過ぎていると考えたのでしょう。

尚、田単は燕の聊城を落とせなかったり、狄を降せなかった話がありますが、最小限の兵士しか率いる事をしなかった結果として、苦戦したのではないかとも感じています。

さらに言えば、田単は趙の宰相をやっていた話しもあり、国庫が心配だった可能性もあるでしょう。

それと、田単が趙奢の言葉に対し強く言い返さない辺りは、田単の人の良さも感じる次第です。

田単の最後

田単の最後は、記録が無くて分かっていません。

田単の最後の記録ですが、趙の孝成王の元年である紀元前265年となります。

この後に、趙では長平の戦いが勃発し、趙の孝成王が廉頗を更迭し趙括を将軍とした事で40万を失う大敗北を喫しています。

廉頗更迭時に、趙奢は既に亡くなっており、重病の藺相如が廉頗更迭に反対した話があります。

しかし、田単が廉頗更迭に関して、何かを述べた記録はありません。

これを考えると田単は、長平の戦いの少し前の辺りで亡くなってしまった様に感じました。

それを考えると、趙の孝成王が即位した頃は、趙の恵文王時代の名臣である藺相如、趙奢、楽毅などと共に田単もこの世を去った様に思います。

明確が記録がなくて、田単の最後は分かっていませんが、長平の戦いの前後で田単は亡くなったのでしょう。

尚、長平の戦いの時には、斉では斉王建が即位しており、趙が兵糧の援助を要請しましたが、斉王建は動かなかった話があります。

 

コーエーテクモゲームスの三国志での田単の能力値

三国志14(古武将)統率91武力73知力94政治64魅力71

田単は数多くの智謀を駆使し燕を追い払った事などを評価し、知力と統率力が高めとなっている様に感じています。

ただし、具体的な政治の実績がない事から、政治力は低めとなっているのでしょう。

魅力の低さに関しては、小役人出身であり斉の襄王に軽んぜられた事で、低く設定されているのかも知れません。

 

田単の評価

田単ですが、司馬遷は孫武が書いたとされる孫子の兵法を例に出し、田単の兵法を称揚しています。

田単の正攻法と、奇策を使ったバランスの良さを評価したのでしょう。

司馬遷は王翦蒙恬項羽などの様に史記の本文では、褒めたり同情的に描いたりしておきながら、最後の太史公曰くの評価の部分では酷評する事があります。

しかし、田単の場合は、信陵君と同様に悪い事は述べてはいません。

司馬遷が田単列伝で、燕を破ってからの田単の記述をしなかったのは、綺麗なままで終わらせておきたかったなどの心情もある様に思いました。

田単は自分からみても、人がよいと感じる部分もあり、人間性も評価できるようにも感じています。

ただし、燕を破る為とはいえ、流言を行い結果として、燕の捕虜となっていた人々の鼻は削がれ、陵墓が焼かれてしまった事実はあります。

後で斉の人々が田単の流言のせいだと発覚したとすれば、田単は民衆から支持されなくなった可能性もある様に思います。

尚、三国志のゲームで田単の魅力が低いのは、鼻削ぎ事件と陵墓焼いちゃった事件を考慮した結果なのかも知れません。

それでも、田単は滅亡寸前だった斉を、復興させた救国の英雄である事は間違いないでしょう。

戦国時代斉における最後の名将と言っても、差支えはないはずです。

参考文献:ちくま学芸文庫・史記列伝 平凡社・戦国策

 

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