その他 三国志

袁術は皇帝を僭称し仲王朝を開くが、最後は蜂蜜を得られずに亡くなった人物

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袁術は三国志でも、極めて評価が低い人物です。

皇帝を名乗り仲王朝を開いた事実はありますが、仲王朝が短期間で滅んだのも原因の一つでしょう。

さらに、袁術は奢侈を好み民を苦しめた様な記述もあり、評価は古来より低かった事は明らかでしょう。

袁術の最後は「蜂蜜」を希望したが、蜂蜜を得る事が出来ずに亡くなっており、最後の悲惨さからも暗愚な人物と考えられています。

しかし、袁術は汝南袁氏の正統なる後継者でもあり、評価が見直されている向きもあります。

最近では、袁術を「かわいい」とも呼ばれる事もある様です。

袁術のダメ過ぎる部分などが「袁術が可愛い」とする評価に繋がっているのかも知れません。

今回は史実の袁術が、どの様な人物だったのか解説します。

尚、袁術の字は公路となります。

 

名門の出身

(汝南袁氏の家系図)

袁術は従兄弟の袁紹と同様に、名門袁家の出身となります。

袁術も袁紹も四世三公を出した汝南袁氏の一族です。

一般的には、袁紹は袁術の父親の兄で、早世した袁成の子だとされています。

上記の図から袁家には、袁紹の子に袁譚、袁煕、袁尚がおり、袁術の兄には袁基がいる事が分かります。

後述しますが、袁術の兄である袁基は董卓により殺害されています。

袁紹の父親は様々な説があって真実は分からない部分がありますが、袁術は汝南袁氏の当主である、袁逢の子だと分かっています。

血統的に考えれば、袁術は直径となります。

血筋で考えれば、袁紹よりも袁術の方が格上という事になるでしょう。

尚、袁術の事をボンクラだと思っている人もいるかも知れませんが、正史三国志には下記に一文があります。

袁術は男気がある事で知られていた。

これを考えると、袁術は全くの暗君というわけでもないのでしょう。

ただし、袁紹にも人望が集まった事で、後に汝南袁氏は二つに分裂する事になります。

 

袁紹に名声で劣る

袁紹は身分に分け隔てなく人に接した事で、多くの人物が集まったとされています。

それに対して、袁紹にも人は集まりましたが、袁術には訪ねて来ない様な賢人が、袁紹の元には来たとする話があります。

何顒や許攸などは、袁紹の元には行きましたが、袁術の元には来なかった事で、袁術は気分を害した様です。

何顒に対して、袁術は次の様に述べています。

袁術「何顒には三つの罪がある。

徳のある王徳彌を冷遇している事。強欲な許攸と親交を結んでいる事。

学友の郭泰、賈彪らが貧しい暮らしをしているのに、自分だけが駿馬を多く持ち優雅な生活を送っている事。

この三つが何顒の罪だ。」

袁術は何顒を批判したわけです。

何顒に対しての袁術の発言は、袁紹に対する嫉みも入っていた様に思います。

周囲からの期待で、袁術は袁紹に劣っていたと言えるのかも知れません。

因みに、袁術の発言に対し、陶丘洪という人物が、次の様に発言しています。

陶丘洪「王徳彌は賢人と言われていますが、それだけの今の世を救う事は出来ません。

許攸は確かに性格に問題がありますが、許攸は窮地の人を救いに行く勇気を持っています。

何顒は善行をする時は王徳彌を手本とし、行動する時は許攸を手本にしています。

何顒は過去に友の仇を自らが討った事があります。

駿馬を多く持っているのは、自らの命を守る為です。」

陶丘洪の言った事は正論なのかも知れませんが、袁術からしてみれば、何顒を嫌悪しているわけであり、納得はしなかったでしょう。

袁術は何顒を暗殺すると宣言した事もありましたが、宗承に次の様に諫められています。

宗承「何顒は有能な人物として名が通っています。袁術様は、何顒を優遇して天下に名を広めるべきです。」

宗承の言葉で、袁術は機嫌を直した話もあります。

ここでの袁術を見る限り、器が狭い様にも感じ、人が集まらなかったのには理由がある様に感じています。

 

孝廉に推挙される

袁術は孝廉に推挙され、郎中に任命されています。

この後に、袁術は地方と中央の職を歴任し、出世して行ったのでしょう。

袁術が折衝校尉、虎賁中郎将、河南尹にもなった話もあります。

袁術は名門出身であり、トントン拍子で出世していったはずです。

しかし、袁術が生きた時代は、後漢王朝の末期に当たり、混乱の時代に袁術も巻き込まれていく事になります。

ただし、184年に張角が引き起こした黄巾の乱には、袁術も袁紹も参軍した記録がありません。

黄巾の乱の主役は、汝南袁氏ではなく皇甫嵩、朱儁、盧植の三人だと言えます。

 

宦官を撲滅

霊帝が西暦189年に崩御すると、少帝が即位します。

この時に袁紹がしきりに大将軍の何進に宦官の撲滅を進言しました。

しかし、何進は十常侍ら宦官勢力に先を越されて、命を落とす結果となっています。

この時に、袁術は袁紹と共に、宮中に乗り込み宦官を皆殺しにしています。

混乱のさなかに、少帝と弟の劉協が行方不明になってしまい、董卓が帝を保護した事で実権を握ります。

 

袁術が都を出る

董卓が実権を握ると袁紹を重用しようとしますが、袁紹は出奔しました。

この時に、袁術は袁紹と行動を共にせず、都に残り後将軍に任命されています。

袁紹は出て行ってしまいましたが、董卓は名門である袁家と仲良くしたい思惑があり、袁術を後将軍に任じたと考えられています。

ただし、190年に袁紹が曹操と共に反董卓連合を結成すると、袁術も都から逃亡しました。

袁紹が董卓に反旗を翻した事で、董卓は袁隗、袁基などを袁家の三族を皆殺しにしています。

袁術の兄である袁基が殺された事で、袁術が汝南袁氏の正統なる後継者と自負する様になったと考えられます。

ここで袁術が都に残っていたら、董卓によって処刑されていたはずです。

この時の袁術は、身の危険を感じ逃亡したのでしょう。

袁術の危機管理能力は見事だと言えます。

反董卓連合

袁術は南陽を本拠地とし、孫堅を配下にして反董卓連合に参加しています。

孫堅と出会う

袁術は都の洛陽から南下し、南陽まで逃亡しています。

袁術は南陽で、反董卓連合に参加する孫堅に出会う事になります。

孫堅は荊州刺史の王叡、南陽太守の張咨を殺害していました。

南陽太守が不在になった事で、袁術は自ら南陽太守となり、孫堅を懐柔しています。

これにより、袁術は南陽を本拠地として活動を始めます。

因みに、袁術は孫堅を朝廷に上奏し豫州刺史、破虜将軍代行に任命させています。

袁術は孫堅の軍閥としての力が欲しく、孫堅も袁術の後将軍という役職や名声に惹かれた部分があったのでしょう。

お互いの利益が一致し、孫堅は袁術の配下として戦う事になります。

 

袁紹の劉虞皇帝擁立に反対

袁紹は董卓の元にいる少帝の母親である何皇后の身分が低かった事や、天下が安定していない事を理由に劉虞を皇帝に擁立しようとします。

袁紹は袁術の元に使者を送り、了承を得ようと画策します。

呉書によればこの時に、袁術は既に皇帝になる野心がありましたが、公儀を理由に反対しています。

袁紹の劉虞を皇帝にする案に乗っかってしまえば、後に自分が皇帝になれないと判断したのでしょう。

袁術は袁紹に断りを入れますが、袁紹は次の手紙を袁術に送っています。

袁紹「以前に私と韓馥は後世まで続く政道を打ち立てたいと考えておりました。

現在、西方には名目上の皇帝(少帝)がいますが、血統的に皇帝と繋がりはありません。

それに、朝廷の臣下は董卓に媚びるだけです。

我々は要所に兵を駐屯させ、西方の董卓の動きを止め自滅させるのが最良と言えます。

その為には、徳の高い人物(劉虞)を擁立すれば、天下は太平に向かう事でしょう。

自分の一族を殺されながら、復讐の鬼と化した伍子胥の例を考える事もなく、北面して董卓が牛耳る朝廷に仕えてもよいのでしょうか。」

袁紹は今の天子が正当性に欠けると述べ、汝南袁氏の一族を殺害した事を理由に、劉虞を皇帝にしようと持ち掛けたわけです。

しかし、袁術は次の様に述べています。

袁術「今の天子様は聡明であり周の成王の如き資質を持っている方です。

逆賊の董卓は圧力で、朝廷の百官を屈服させているに過ぎません。

しかし、漢王朝にとっては小厄に過ぎないのです。

この状態で天子を変えてしまうのは、世の中を混乱に導く事になるでしょう。

今の天子が血統が繋がってないなどと述べるのは、誹謗だと私は考えます。

我が一族を滅ぼしたのは、董卓であり天子様ではありません。

私は赤誠を以って董卓を滅ぼす事だけを願っており、その他の事は知る由もありません。」

袁術の言葉を見ると、明らかに忠臣としての言葉だと言えます。

一説によると、当時の袁術は漢王朝を輔弼する忠臣だと、世間の人々は思っていたとする話もあります。

後の袁術は皇帝を自ら名乗っているわけであり、漢王朝を忠誠を誓うのは上辺だけだったと考えられています。

ただし、上記の言葉が袁術の本心だとすれば、この時点での袁術は忠臣とも呼べるはずです。

尚、袁術も袁紹も董卓を排除したい志は同じであり、袁術も反董卓連合には参加しています。

 

孫堅に兵糧を送らなかった事件

孫堅は反董卓連合に加わり、董卓軍の徐栄と戦いますが敗れています。

しかし、孫堅は敗走はせずに、陽人に籠城しました。

孫堅は陽人の戦いで、董卓軍の内部の乱れに乗じて、胡軫を敗走させ華雄を討ち取っています。

孫堅は手柄を立てますが、次の事を袁術に進言した者がいたわけです。

「孫堅が洛陽を手に入れたら、孫堅は袁術様の命令を聞く事はないでしょう。

これでは、狼を追い払ったのに、虎を得た事になります。」

袁術は孫堅を疑い、兵糧を送らなくなります。

 

孫堅の一喝

袁術が兵糧を送らなくなると、孫堅は急いで袁術の陣までやってきました。

この時に袁術は魯陽におり、孫堅がいる陽人からは百里以上の距離があったとされていますが、孫堅は事態の重さを感じ、自ら袁術を説得に来たわけです。

正史三国志によると、孫堅は袁術に向かい次の様に述べています。

孫堅「私が董卓の討伐に出陣したのは、国家の為です。

私は将軍(袁術)の仇を倒そうと思って行動しています。

私と董卓は個人的な恨みがあるわけではありません。

それなのに将軍は、陰口を信じて、私を疑うのですか。」

江表伝によると、この時の孫堅は戦国時代の呉起や楽毅を例に出し、袁術を説得しています。

袁術も孫堅の言葉に反論する事も出来ずに、直ぐに軍糧を送り届ける事にしたわけです。

孫堅は兵糧の輸送を確認すると、自陣に戻る事にしました。

一説によると、この時の孫堅は凄味があり、袁術は孫堅に押されて言う事に従ったとする話もあります。

兵糧を送らないとか、袁術の器の小ささが見え隠れする様な気がしてなりません。

 

反董卓連合の崩壊

董卓は李儒に少帝を殺害する様に命じ、献帝(劉協)を皇帝に即位させています。

その後に、董卓は洛陽を棄てて長安に遷都しました。

董卓がいなくなった洛陽を孫堅が占拠したわけです。

袁紹は孫堅が豫州を離れている事を理由に、周喁を豫州刺史に任命したわけです。

袁術は孫堅を朝廷に正式に上表して豫州刺史に任命していたので、袁紹の行動に激怒します。

袁術と孫堅は周喁を攻撃し、撃退しました。

これにより、袁術と袁紹は対立する事になり、反董卓連合は瓦解に向かって行きます。

 

袁術は贅沢三昧ではなかった

正史三国志によると、袁術が本拠地とした南陽は、戸数人口が数百万もいた話があります。

豊かな地を支配領域とした袁術は贅沢三昧であり、税金を際限なく取り立て、人々を苦しめたとあります。

これを見る限りだと、袁術は民衆から搾り取り、自分だけが贅沢をしていた様に思うかも知れません。

しかし、最近では、「袁術は贅沢三昧ではなかった」とする説が浮上しています。

袁術は後に皇帝を名乗っているわけであり、正史三国志は「漢、魏、晋」の流れを汲んでいる事から、袁術は認められる事が出来ない存在です。

それらを考慮した結果として、必要以上に袁術を悪く書いてしまったとする説があります。

ただし、袁術の内政に関しては、評価はそれほど高くもなく、素晴らしい政治を行ったとするのも無理があるのかも知れません。

史書に書かれている程は、袁術は悪くはなかったのではないか?とする位で考えるのが無難だと言えそうです。

汝南袁氏の分裂

袁術と袁紹は対立し、汝南袁氏は二つに分裂する事になります。

袁術派と袁紹派の対立

袁術と袁紹は対立していきます。

袁術と袁紹は自分の息が掛かった人物を任官し、関東の地は袁術派と袁紹派の戦いに時代が移っていく事になります。

袁術には、陶謙や公孫瓚が味方し、袁紹には曹操や劉表が味方しました。

袁術派と袁紹派を見ると、曹操や劉表がいる袁紹派が圧倒的に優勢に見えるかも知れません。

しかし、近年の研究では袁術は南陽に基盤があり、陶謙は徐州に基盤があったわけです。

さらに、袁術派には孫堅や公孫瓚などの武勇に優れた者がおり、袁術派が優勢だったと考えられています。

袁術は近くの親しき袁紹や曹操を棄て、遠くにいる公孫瓚や陶謙と交わったなど批判される事があります。

しかし、袁術は近くにいる曹操や袁紹と戦い、遠くにいる公孫瓚や陶謙と交わるのは、遠交近攻の策だと評価される場合もあります。

遠交近攻は戦国時代に、秦の統一戦争を達成させた范雎が考案したやり方であり、袁術の戦略も間違っていないとする説もあります。

 

孫堅の戦死

西暦192年に袁術は孫堅を使い、荊州の劉表を攻めさせる事にしました。

孫堅は戦巧者であり、快進撃を続け劉表の本拠地である襄陽を包囲するなどの活躍を見せます。

孫堅は優勢に戦いを進めますが、劉表配下の黄祖の部隊に射殺されています。

孫堅が亡くなると、孫堅軍は崩壊し撤退しました。

袁術の劉表討伐の計画は、孫堅の死により頓挫したわけです。

ここで孫堅が亡くならずに、劉表を倒していれば、歴史は変わっていたのかも知れません。

尚、192年に界橋の戦いで公孫瓚と袁紹が戦っていますが、麹義の活躍もあり公孫瓚も敗れています。

因みに、192年は王允の計略により、董卓が殺害された年でもあります。

 

匡亭の戦い

西暦193年になると、南陽にいた袁術は自ら兵を率いて、曹操を倒すべく陳留に駐屯しました。

この時に、曹操の背後を衝くかの如く、陶謙も出陣しています。

曹操を助けるために、劉表の軍が袁術の糧道を断った話もありますが、黒山賊の張燕が袁術を助けた事で、大勢に変化はなかったとも考えられています。

袁術はさらに、南匈奴の於夫羅も味方にしています。

袁術軍は多方面作戦となり、普通で考えれば袁術が有利となるはずです。

袁術は配下の劉詳に匡亭を守らせていました。

しかし、曹操は匡亭を攻撃し、袁術は劉詳を救う為に自ら軍を率いて匡亭に向かいます。

この時に、曹操軍は強く袁術の軍を大いに打ち破っています。

曹操はさらに、陶謙の軍も破るなど、獅子奮迅の活躍を見せたわけです。

匡亭の戦いは、曹操の用兵の前に、袁術は歯が立たず大敗を喫しました。

袁術が曹操に大敗した理由は、曹操が精鋭部隊である青州兵を手に入れていた為とも考えられています。

 

袁術の逃亡

袁術は劉表により背後を閉じられていた事で、南陽に帰る事も出来ませんでした。

袁術は封丘県、襄邑県と逃げますが、曹操はしつこく袁術を追撃しています。

袁術は破れ太寿に逃れますが、太寿では曹操に水攻めをされており、寧陵県まで逃亡しますが、曹操の追撃は止まらなかったわけです。

袁術は曹操に負け続けますが、揚州の九江郡まで逃げると、曹操は漸く追撃を打ち切っています。

袁術は、曹操に負け続けた事で、恐怖を覚えた様にも感じました。

袁術が曹操に敗れた事で、汝南袁氏の内部抗争は袁紹に軍配が上がったとも言えるでしょう。

尚、袁術が九江郡・陰陵県まで逃げると、民たちは快く袁術を迎えた話があります。

袁術は名門出身であり、名声が高く期待感もあったのでしょう。

 

寿春を本拠地とする

袁術は曹操に敗れて逃走しますが、寿春において短期間で基盤を作る事に成功しています。

ここでの袁術の手腕は見事だとも言えます。

陳瑀が受け入れを拒否

袁術は多くの者を味方につけて、揚州刺史の陳瑀も味方にしようと考えます。

過去に陳瑀は袁術が派遣し揚州刺史にした事から、袁術は陳瑀が自分に靡くと考えていました。

しかし、何故か陳瑀は袁術の受け入れを拒みます。

陳瑀が袁術を拒んだ説としては、陶謙が関わっているとも考えられています。

徐州の陶謙は趙昱を広陵太守に任命し、王朗を会稽太守に任命しています。

袁術が揚州に割拠すれば、陶謙は自分が南方に勢力を拡げにくくなると考えた説です。

陶謙の部下である陳珪や陳登は陳瑀の親戚であり、陳珪の意向も与していたとも考えられています。

他にも、陶謙が曹操に敗れた袁術に見切りを付けて袁紹派に鞍替えしようとした事で、袁術を拒否した話があります。

袁術は策を以って、陳瑀を追い出そうと行動に移します。

 

寿春を取る

袁術は突如として、陳瑀に遜り始ます。

陳瑀は袁術の本心が分からずに、袁術を放置しました。

袁術は陳瑀の隙をついて、淮北で兵を集め寿春に向かいます。

袁術の動きに恐れた陳瑀は弟の陳琮を使者とし、袁術との和睦を望みます。

しかし、袁術は陳琮を捕えて陳瑀を攻撃したわけです。

袁術の攻撃に恐れた陳瑀は下邳に逃亡しました。

これにより袁術は寿春を本拠とし、勢力を挽回したわけです。

曹操に敗れて基盤を失いましたが、袁術は短期間で復活を成し遂げたと言えます。

この時の袁術の手腕は、中々のものだった様に感じます。

 

陶謙との決裂

袁術は寿春を本拠地としましたが、北の徐州には陶謙がいたわけです。

袁術が南陽にいた頃は、陶謙と領土が隣接していなかった事で、共に害はありませんでした。

しかし、袁術と陶謙の支配地域が接した事で、関係が悪化します。

陶謙が袁術の支配地域である、豫州刺史に劉備を推挙し認められた事で、袁術と陶謙の仲は完全に決裂しました。

 

陳珪に拒絶される

袁術は徐州の名士である陳珪とは、若い頃から交流があり、袁術は陳珪を自分の配下にしようと考えます。

この時の袁術は陳珪の次男である陳応を人質にとった上で、陳珪に下記の手紙を送っています。

「秦が誤った政治を行った時に、天下の群雄は互いに争い政権を樹立しようと試みました。

最終的に知勇兼備の者が、果実を手に入れる結果となっています。

現在の世の中は乱れておりますし、英傑が立ち行動を起こしています。

私が大事を成す時には、是非とも君(陳珪)に腹心になって貰いたいと考えております。」

この時に袁術は、熱を入れて陳珪を説得しようと考えていた様です。

さらに、袁術の手紙からは秦末期に楚漢戦争で項羽や多くの諸侯を破った、劉邦の様に天下を支配しようとする欲望が見え隠れしていました。

しかし、陳珪は次の手紙を袁術に返しています。

陳珪「秦の末期は暴虐な行いが天下を包み、害毒は民衆にまで降りかかりました。

民は秦の暴政に耐え切れず、雪崩の如く秦王朝は崩壊したのです。

今は衰世ではありますが、秦の時代の様な暴力的な無秩序は存在していません。

曹操将軍は武勇を以って四海を安定させようと努めております。

私も曹操将軍と心を一つにして、漢王朝を助けたいと思っておりました。

それにも関わらず、袁術殿は道ならぬ企みを抱き、我が身を禍にさらすとは、何とも痛ましい事です。

判断力を失っても理性があれば、今からでも災難から逃れる事が出来ましょう。

昔馴染み故の痛い言葉ではあるかも知れませんが、これは情愛の表れでもあります。

私は決して利に目が眩み迎合する様な事は致しません。」

陳珪のやり取りから、寿春を本拠地にした段階で、袁術には天下取りの野心があった事が分かります。

陳珪とは旧知の仲だった事もあり、袁術は本心を述べたのかも知れません。

袁術は寿春を取る時に、鮮やかな手腕を見せたわけですが、多くの人に支持された事で、自分の力を過大に評価した可能性もあるでしょう。

尚、個人的には寿春を奪った成功が、後の失敗に繋がっている様にも思います。

 

孫策の力で南方に勢力を拡げる

袁術の元に孫策がやってきて、領土を拡げる事になります。

孫策に兵を与える

袁術は先の戦いで曹操に敗れたのは、優秀な軍人が孫堅しかいなかったからだと気が付いた説もあります。

こうした状況の中で、孫策が袁術を頼って来たわけです。

この時の孫策の配下には、孫河と呂範しかいませんでした。

孫策は指揮する軍隊もいなかった状態ですが、袁術は孫策を可愛がった話があります。

しかし、孫策が旧孫堅軍の返還を求めると、袁術は次の様に述べました。

袁術「其方(孫策)の叔父の呉景は丹陽の太守である。呉景を頼りにしてはどうかな。」

袁術は孫策の要請を断る事になります。

袁術は孫策を表面上は可愛がってはいましたが、信用はしてはいなかったわけです。

孫策は呉景を頼り丹陽で挙兵しますが、祖郎に大敗しています。

孫策は後に小覇王と呼ばれ項羽に喩えられる事もある名将ですが、初陣では苦々しい程の敗北を味わっています。

しかし、この敗北により袁術は「孫策は孫堅ほどは賢くはない。」と判断し、警戒心を解き1000人の兵士を孫策に返還しました。

この時に、孫堅配下の程普、黄蓋、韓当、朱治などが孫策の配下となっています。

孫策軍は兵は少なくても、良将を得たとも言えるはずです。

 

孫策との約束を反故にする

袁術は孫策に命じ、自分に反抗的な廬江太守の陸康を征伐されています。

さらに、袁術は陸康の討伐に成功したら、孫策を廬江太守に任命すると約束します。

孫策は激戦の末に、陸康を破りました。

しかし、袁術は廬江太守を劉勲とし、孫策との約束を反故にしたわけです。

過去には、孫策に九江太守を与える約束を反故にした話もあり、約束を守らない袁術の性格を問題視する人もいます。

孫策の方も約束を守らない袁術に気分を害した事は間違いないでしょう。

ただし、この時の孫策は袁術に仕えてから日も浅く、年齢も20歳にも満たぬとも考えられています。

それを考えると、袁術が孫策を太守に任命しなかったのは当然だったのではないか?とする説もあります。

余談ですが、孫策が討伐した陸康の子には陸績がおり、従弟には陸遜がいました。

陸遜は後に夷陵の戦いで大活躍しますが、孫策とは一族の因縁があった事になるでしょう。

 

孫策が劉繇を討伐

195年になると、袁術は揚州に割拠していた劉繇の討伐を開始します。

しかし、劉繇は樊能、于糜、張英らを使い袁術の攻撃を防いでいます。

袁術に従っていた孫賁や呉景は、劉繇に圧迫され、孫策が次の様に袁術に進言しました。

孫策「恩ある孫賁殿や呉景殿が苦しんでおられます。

私が劉繇を討ち、故郷に戻って軍勢を集めれば3万の兵を集める事が出来ます。

その兵を以って袁術様を助ける事に致します。」

袁術は孫策との約束を反故にしていた事で、孫策を信用してはいませんでした。

しかし、孫策の手持ちの兵が1000人ほどだった事もあり、劉繇討伐が達成できるとは限らないと考えて、袁術は了承しています。

 

孫策の江東平定

孫策が劉繇討伐に乗り出すと、旧友の周瑜が加わり、名士の張昭、張紘も孫策に従う事になります。

さらに、蒋欽、周泰、陳武、淩操なども孫策軍に加入しました。

孫策の元には兵士も次々に集まり、樊能、于糜、張英らを撃破し、劉繇が籠る牛渚をも陥落させています。

劉繇は曲阿に逃亡し、孫策は笮融、薛礼も破り劉繇の勢力を駆逐したわけです。

尚、劉繇配下の太史慈は最後まで抵抗しましたが、孫策に降伏し配下となっています。

孫策は呉の厳白虎や会稽の王朗の討伐に向かいますが、周瑜は袁術の元に戻りました。

周瑜も孫策も建前上は袁術の配下であり、袁術に孫策の厳白虎、王朗討伐の邪魔をさせない為の配慮だと言われています。

孫策も周瑜も袁術には失望していたと考えられますが、表面上は袁術との友好関係を保っていたわけです。

ただし、この時の孫策は立場的には袁術配下ですが、実質的には独立勢力になっていたと考えられています。

 

劉備と呂布

孫策が江東に進出する中で、袁術は劉備や呂布と争っています。

陶謙死後に麋竺らの要請もあり、劉備が徐州の主となっていました。

呂布は劉備に身を寄せる事になります。

袁術は徐州の劉備を討伐しますが、呂布に20万石の兵糧を与える事を約束し、劉備を裏切る様に要請しています。

劉備は下邳を張飛に守らせていましたが、曹豹が呂布を迎え入れた事で、下邳は呂布が制圧しました。

袁術軍は目の前にいる劉備を、後方の呂布と共に挟み撃ちにする事に成功したわけです。

劉備は窮地に陥りながらも転戦し戦いますが、最後は呂布に降伏しています。

袁術としては、劉備が自分を裏切った呂布に降伏すると言うのは、計算外だったと考えられています。

劉備は袁術の事を「信用出来ない人物」と考え、呂布に降伏したのかも知れません。

袁術としてみれば、劉備と呂布を仲違いさせて、徐州を奪うつもりが、結果としては徐州の主が劉備から呂布に変っただけだったとも言えるでしょう。

 

紀霊の劉備討伐

呂布は劉備を小沛に配置し守らせています。

袁術は配下の紀霊に3万の兵を与えて、小沛にいる劉備討伐に向かわせています。

劉備は単独で袁術と戦うだけの力がなく、呂布に援軍要請したわけです。

呂布は劉備が滅びれば、自分が袁術に滅ぼされる番だと考えて、劉備と紀霊の和解に向けて動いています。

呂布は己の武勇を使った方法で、劉備と紀霊を和解させ、紀霊は呂布の仲裁により撤退しました。

江東では孫策が次々に敵を打ち破る中で、袁術は徐州の制圧に手こずる事になります。

 

陳宮の反乱を誘発!?

呂布が配下の郝萌に襲撃されるという事件が起きています。

呂布は高順の陣に逃げ込み、高順は郝萌を討伐しました。

この時に、呂布の軍師とも言える陳宮が絡んでいた事が明らかになります。

真実は分かりませんが、陳宮や郝萌を反乱に導いたのは袁術だとする説があります。

この事から、呂布は袁術を憎むようになったと伝わっています。

袁術も策略などの切り崩しは、積極的に行っていたのかも知れません。

 

皇帝を名乗り仲王朝が誕生

袁術は皇帝を名乗り仲王朝を開く事になります。

しかし、仲王朝を開いた事から袁術は坂を転げ落ちる様に転落していきます。

献帝が行方不明

董卓死後に、李傕、郭汜は賈詡の進言を入れて、長安を急襲し王允を殺害し朝廷を手中に収める事に成功します。

しかし、李傕と郭汜は対立し、長安では市街戦にまで発展しています。

こうした中で、献帝が長安を脱出し行方が分からなくなる事態となります。

袁術はこうした状況を見て、皇帝になる野心を表に出す様になったわけです。

 

袁術が皇帝に立候補!?

西暦195年に袁術は、群臣に次の様に問うた話があります。

袁術「現在の劉氏は衰弱し天下を治める事が出来ない。

わしの家は四代に続き三公の位に登り、人望が集まっている。

天命に答え人々の期待に答えようと思うが、皆の意見を聞かせて欲しい。」

袁術は臣下の前で皇帝に即位する考えを打ち出したわけです。

この時に袁術配下の者達は、思い切って答える者がいなかったとあります。

これを見ると、袁術の臣下の中にはイエスマンの事なかれ主義が多かったのかも知れません。

そうした中で主簿の閻象を、次の様に諫めています。

閻象「周は后稷から周の文王まで徳を積み手柄を重ね、天下の三分の二を領有する事になりました。

しかし、周の文王は天下の三分の二を領有しながらも、殷の紂王に配下として仕えています。

袁術様の家は代々に渡り繁栄しておりますが、周の隆盛には及びません。

漢の王室は衰えたと言えども、殷の紂王の暴虐さには達しておりませぬ。」

閻象は周の文王殷の紂王の易姓革命を例に出し、袁術を諫めたわけです。

しかし、袁術は閻象の諫言を聞くと、黙ってしまい不機嫌だったとされています。

先に述べた様に、袁術は袁紹による劉虞の皇帝擁立に反対していた事から、漢朝を支える者として見られていた話しもあります。

袁術の元には、漢の再興を目指す者が多く集まっていた事から、袁術は強行して皇帝になる事が出来なかったとも考えられます。

臣下たちは口には出さなくても、反対の空気を袁術が感じ取った可能性もあるでしょう。

しかし、袁術は皇帝を名乗り王朝を開こうとする考えは、消える事はありませんでした。

 

仲王朝の誕生

西暦197年になると、張炯が天の意思を示す瑞兆が現れたとする話を持ち出してきます。

袁術は、張炯に説を採用し、皇帝を名乗ろうとしたわけです。

さらに、袁氏は陳から出ており、陳は五帝の瞬の子孫の国であり、五行説の土徳に当たると考えました。

漢朝は五行説では火徳であり、火は土で消え去る事から、自分が帝位に就くのが相応しいと思った様です。

尚、典略によれば、預言書に「漢に代わる者は当塗高である。」とした記述があり、袁術は自分の事だと考えた話があります。

袁術は称号を立てて仲氏とした事から、袁術の王朝は仲王朝とも呼ばれる事になります。

袁術は皇帝を名乗ると、九江太守を淮南尹に任命し、公卿を置き祭祀を行った話があります。

因みに、新を建国した王莽や魏の曹丕などは、皇帝から形だけは禅譲により帝位に就いています。

それに対し、袁術は禅譲されたわけでもなく、自分から皇帝を名乗った事で、僭称した扱いになる事が多いです。

尚、袁術は皇帝にはなりましたが、皇帝を名乗った弊害の方が多いような気がしてなりません。

因みに、袁術が皇帝を名乗った行為は、正式な手順を踏んでおらず、暴君と呼ばれた王莽以下の行為だと批判される場合もあります。

 

袁術が奢侈に耽る

袁術は皇帝に即位すると、奢侈淫楽が酷くなった話があります。

後宮の数百人の女性たちは絹を身にまとい、上質な肉や米は後宮に有り余っていたとも記載があります。

その反面で、士卒は飢えが酷く物資は無くなり、お互いを食べ合ったとする記述まであります。

これが本当であれば、袁術の一族や後宮の者以外は食べる者さえ困る状態になったはずです。

袁術が皇帝を名乗る西暦197年の時点になると、曹操が献帝を擁立し大きく勢力を拡げていました。

さらに、ライバルの袁紹も公孫瓚を追い詰めており、配下の孫策も言う事を聞かなくなってきたとする話があります。

袁術の皇帝僭称は、破れかぶれの部分もあったのかも知れません。

 

袁術の衰退

袁術が皇帝を名乗った事で衰退が加速されます。

袁術の臣下は袁術に嫌気が指して、去る者が多く現れ去っていきました。

さらに、諸侯も袁術が皇帝になるのを否定したわけです。

袁術としては「皇帝を名乗る事で求心力を得られるかも知れない。」という淡い期待はあったのかも知れませんが、完全に逆効果でした。

袁術の配下で江東に勢力を拡げた孫策に至っては、袁術に絶縁状を送りつけて来たともされています。

形だけでも配下だった孫策の独立により、袁術は後方にも敵が現れた事になったわけです。

袁術は皇帝を名乗った事で急激に求心力を失い、勢力は衰退に向かって行きます。

 

呂布討伐に失敗

袁術は孤立した状態を危機と感じたのか、呂布に娘を嫁がせて婚姻関係を結ぼうとします。

しかし、呂布は陳珪の言葉で袁術との縁談を拒否しています。

過去に袁術が熱烈に臣下になる様に望んだ陳珪は、袁術に協力する気は全くなかった様です。

呂布は袁術の使者を捕え、曹操に引き渡しています。

怒った袁術は呂布に攻撃を掛ける決断をしました。

袁術は韓暹と楊奉を味方とし、仲王朝の大将軍・張勲を総大将に任命し呂布討伐に向かわせます。

しかし、呂布は韓暹、楊奉を寝返らせる事に成功し、張勲は大敗しました。

 

曹操に破れる

袁術はここで何を思ったのか、大将軍の橋蕤(きょうずい)に命じて、曹操の領域である陳郡を攻撃しました。

曹操は袁術の侵攻をキャッチすると、自ら指揮を執り袁術軍を大破しています。

袁術は仲王朝の大将軍・橋蕤を失い、多くの将兵を討ち取られた事で急速に弱体化したわけです。

袁術は内政が上手く行っておらず、他の裕福な地から物資を奪って来る事で、兵糧を賄っていたとも考えられています。

孫策が江東で勢力を拡げた時は、孫策から送られてくる兵糧がかなりの量で、袁術軍を支えていた説もある程です。

しかし、呂布と曹操に連敗した事で、袁術のやり方は通用しなくなったとも言えます。

尚、袁術は曹操に敗れた事で、南陽にいた頃から曹操に対しては負け続けた事は明らかでしょう。

袁術にとって、曹操は高すぎる壁だったはずです。

袁術が呂布を見捨てた!?

西暦198年になると、呂布と曹操が敵対し、呂布と袁術が同盟を結ぶ事になります。

一度は敵対した呂布と袁術の同盟は、呂布配下の陳宮の意向が含まれていたとも考えられています。

袁術の同盟相手の呂布が、曹操に本拠地の下邳で包囲される事になります。

この時に袁術は呂布に援軍を送る事はありませんでした。

袁術が呂布に援軍を送らなかった理由は、次の点を指摘させる事が多いです。

過去に呂布に縁談を断わられた事を根に持っていた。

曹操に大敗した事で、援軍を送る余裕が無かった。

個人的には、両方が当てはまる様な気がします。

袁術は呂布を信じる事は出来なかったし、大将軍に任命していた張勲や橋蕤が討たれた事で、援軍を送るだけの軍を用意出来なかったのでしょう。

呂布は部下の裏切りに遭い捕らえられ、配下の陳宮、高順が処刑され呂布も命を落とす事になります。

呂布配下の張遼も捕らえられますが、張遼は曹操の配下となりました。

呂布の配下には高順、張遼の様な戦上手がおり、袁術の配下には孫策がいましたが、独立してしまったのは痛かったはずです。

さらに、後に孫呉の重臣となる周瑜、魯粛、黄蓋、程普なども袁術の配下としていたはずですが、使いこなす事は出来ませんでした。

袁術も人を見る目の無さや優柔不断な性格、疑い深い所などは王者の気質とは、かけ離れている様に感じています。

 

部下に受け入れを拒否される

呂布が滅びた段階での袁術は、領内では兵糧が不足し周りの諸侯は敵だらけだったはずです。

袁術は物資も枯渇し、どうしようもない状態となり、灊山(せんざん)にいた雷薄と陳蘭に助けを求めます。

しかし、灊山の雷薄、陳蘭は袁術の受け入れを拒否しました。

雷薄、陳蘭は皇帝を名乗り、天下から悪評を被っている、袁術を受け入れるのは危険だと考えたのかも知れません。

これにより袁術は、どうしたらいいのか分からない状態となり、袁紹を頼る事を考えます。

 

袁紹に皇帝を譲る

当時の袁紹は公孫瓚を滅ぼし、青州、冀州、幽州、并州に領土を持ち、天下で最も強大な勢力を持っていました。

魏書によれば袁術は皇帝の称号を袁紹に送り、次の手紙を送っています。

「漢王朝が天下を失ってから久しくなります。

天子は人から支えられて立っているのがやっとであり、実権は重臣の手にあり領地を取り合っています。

周王朝の末期は戦国七雄が割拠し、結局は強者である秦が勝ち抜く事になりました。

袁氏が強者となり、王者となる事は瑞兆にも現れています。

あなた(袁紹)は四州を支配し、天下で最も強大な勢力を有しております。

曹操が衰弱した漢王朝を助けていますが、天命が絶えた者を救う事は出来ないのです。」

袁紹は袁術の手紙を読むと、最もだと思ったと伝わっています。

袁術は帝位も袁紹に譲り、袁紹に助けを求めたのでしょう。

 

袁術の最後と蜂蜜

正史三国志の袁術の記述は簡略ですが、裴松之の注釈でもある魏書には袁術の最後が詳しく語られています。

正史三国志と呉書の両方の袁術の最後を解説します。

尚、袁術が蜂蜜を所望したのは、呉書の最後であり三国志演義でも採用されています。

正史三国志の袁術の最後

正史三国志によれば袁術は、袁紹の長子である袁譚の元に身を寄せようと考えた話があります。

袁術は青州にいる袁譚の元に行こうとしますが、途中で発病し亡くなったとあります。

この時に劉備が関羽、張飛を連れて袁術の北進を遮ろうとした話もあり、袁術にとってみれば苦しい状態だった事は間違いないでしょう。

袁術は袁譚の元に辿り着く前に、病死した事が正史三国志から伝わってきます。

正史三国志からは袁術の最後は、死因が病死だという事しか分かりません。

 

呉書の袁術の最後

呉書に比較的詳しい袁術の最後の記録があります。

呉書によれば、袁術は雷薄、陳蘭に拒絶された後に、3日間その地に帯同しました。

しかし、兵士達の兵糧が切れてしまい窮地に陥ります。

袁術は寿春から八十里離れた江亭に引き返しています。

袁術は炊事係に尋ねると麦のくずが、三十石残っていました。

袁術はハチミツ入りの飲み物が欲しいと思ったが、蜂蜜が無かったわけです。

この時は真夏であり、袁術は甘い物が欲しくなってしまったのでしょう。

袁術はため息をつくと、大声で次の様に怒鳴ったとされています。

袁術「袁術ともあろうものが、ここまで落ちぶれてしまうとは。」

袁術の魂の叫びでもあったはずです。

袁術は言い終わると、うつ伏せとなり、一斗余りの血を吐いて死んだとあります。

名門出身で皇帝にまでなった人物の哀れな最後でもあった事でしょう。

因みに、袁術は最後に蜂蜜を所望した事から、蜂蜜皇帝と揶揄される事もあります。

 

袁術の子孫

袁術が亡くなると、従弟の袁胤が袁術の妻子を連れて、袁術の部下であった劉勲を頼った話があります。

劉勲は皖城を本拠地とし、袁術軍の将であった楊弘、劉勲らを捕え、袁術の勢力を完全に吸収しました。

後に孫策が皖城を抜き、袁術の妻子を引き取った話があります。

尚、皖城を攻略した時に、美女として有名な大喬と小橋を捕虜とし、孫策と周瑜が娶っています。

それを考えると、大喬と小橋も袁術の後宮にいたのかも知れません。

孫策の弟に孫権がいますが、孫権は袁術の娘を娶り袁夫人とした話があります。

ただし、袁夫人は孫権の側室となりますが、子は出来なかった様です。

袁術の子である袁燿は、呉で出世し郎中になっています。

袁燿の娘は、孫権の子である孫奮に嫁いだ話があります。

これを見る限りでは、袁術の子孫は呉では重用されたと言えるでしょう。

袁術の子孫が呉で重用された事を考えると、孫策は袁術とは絶縁したわけではなかったのではないか?とする説もあります。

尚、袁燿以降の袁術の子孫が、どの様になったのかはイマイチ分かっていません。

最後は孫晧の時代まで生きて、呉の滅亡を目の当たりにしたのかも知れません。

袁術の評価

陳寿は袁術の事を次の様に評価しています。

「袁術は奢侈淫楽に耽り欲望のままに振る舞った。

一生を終えるまで栄華を保てなかったのは自業自得である。」

これを見ると、袁術は単なる馬鹿野郎に思うかも知れません。

しかし、歴史は勝者の都合で書かれる事が多く、袁術も全くの無策では無かった様に思います。

南陽や寿春などの豊かな地を本拠地とした、手腕は評価されるべきでしょう。

他にも、南陽を本拠地とした時に、陶謙や匈奴の於夫羅と曹操を三方面から攻撃した、戦略的手腕も見事だと言えます。

しかし、曹操は余りにも強く、袁術配下で曹操に太刀打ち出来る者がいなかったのが不幸の始まりだとも言えます。

袁術を見ると、曹操には最後まで負け続けた様にしか見えません。

ただし、袁術の人柄を見ると馮氏に情を見せるなど、それほど悪くなかった様にも思えます。

他にも、董卓に嫌気がさした曹操が妻子を置き去りにして洛陽を出奔した時は、曹操の家族を袁術が匿った話しもあります。

ただし、袁術が皇帝を名乗り仲王朝を開くタイミングは、明らかに早すぎたと言えるでしょう。

曹操が中原のほぼ全てを制圧しても、皇帝にはならなかった様に、曹操の様な慎重さが袁術にも欲しかった様に思います。

尚、袁術の配下には魯粛などの孫呉を支える重臣もいた事を考えると、人材登用において袁術は失敗したと言えそうです。

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