その他 春秋戦国時代

刎頸の交わりを結んだ人物

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刎頸の交わりは、「お互いの為なら首を斬られても悔いはない」という意味で使われる言葉です。

強固な友情が芽生えている事を指します。

同義語として「刎頸の友」があります。

刎頸の交わりは史記の廉頗と藺相如が有名だと思います。

しかし、歴史書を見ると刎頸の交わりを結んだのは、廉頗藺相如だけではなく、秦末期や楚漢戦争で活躍した張耳と陳余も結んでいます。

三国志でも劉備と牽招(けんしょう)が刎頸の交わりを結んだ記録があります。

刎頸の交わりを結んだ二人が、その後にどうなったのかも解説していきます。

 

廉頗と藺相如

刎頸の交わりで一番有名なのは戦国時代の廉頗と藺相如ではないでしょうか。

藺相如は、趙の恵文王のお気に入りの宦官である繆賢の家来でした。

しかし、秦の昭王が和氏の璧と15の城を交換しようと持ち掛けた事から、藺相如は出世の機会を掴みます。

藺相如は秦の昭王を相手に一歩も引かない外交を展開し、和氏の璧を無事に趙に戻す事に成功します。

さらに、秦の昭王との黽池の会でも藺相如は大いに活躍した事で、廉頗よりも位が上となったわけです。

廉頗は藺相如の活躍に嫉妬を覚え「藺相如を辱めてやる」と言いふらしますが、藺相如は廉頗を避けて動く事になります。

廉頗は藺相如が自分を避けている理由が、趙を第一に考え自分と廉頗将軍が争えば、秦が利するだけだと考えている事を知ります。

廉頗は藺相如の考えに心を打たれ、茨の鞭を背負い藺相如に謝罪したわけです。

藺相如も廉頗を許し二人は刎頸の交わりを結ぶ事になります。

廉頗と藺相如が元気だった時代は、秦も趙に手出しする事が出来なかったと伝わっています。

廉頗は武人であり戦場に行く事が多かったわけですが、藺相如が宮廷で睨みを利かせていれば、讒言される心配もなく心置きなく戦場で暴れる事が出来たはずです。

藺相如は長平の戦いの最中に亡くなってしまったと思われますが、趙の孝成王が廉頗を更迭し趙括を起用しようと考えると反対した記録があります。

趙の孝成王は藺相如の進言を却下し、趙括を将軍に任命した事で、秦の名将白起により趙兵40万を失う大敗北を喫しています。

廉頗と藺相如の刎頸の交わりは生涯に渡って続いたと思われます。

尚、長平の戦いで廉頗が素直に更迭に応じたのは、更迭されそうになった時に、宮廷を仕切っているはずの藺相如に何かあったのでは?と考えた可能性もあるでしょう。

後年に廉頗は楚に移りますが活躍は出来ず「儂は趙兵を率いたい」と言っていた話があります。

正確に言えば「刎頸の友である藺相如がいる趙で趙兵を率いて戦いたい」だったのかも知れません。

廉頗と藺相如が刎頸の交わりを結んだ仲で、一番良い終わり方だったと思います

余談ですが、廉頗が藺相如に謝罪した時の「廉頗負荊」や「肉袒負荊」は四字熟語にもなり、誠心誠意謝罪する意味となりました。

熱血漢の廉頗らしい行動だとも感じています。

 

張耳と陳余

張耳と陳余は秦末期や楚漢戦争に活躍した人物です。

張耳と陳余も刎頸の交わりを結んだ仲だとされています。

張耳は魏の大梁出身であり若い頃は、戦国四君の一人である信陵君の食客をしていた話があります。

陳余は張耳を父として仕えたとする話があります。

秦が存在していた時代は、張耳と陳余の仲は良好だったわけです。

この時に刎頸の交わりも結んだのでしょう。

秦末期に胡亥が二世皇帝に即位し趙高が暴政を働くと、陳勝呉広の乱が勃発します。

反乱軍の首謀者である陳勝が秦の章邯に討たれても、全国各地に飛び火した反乱の手は治まる事はありませんでした。

張耳と陳余は趙の宰相と将軍になっていましたが、趙の鉅鹿が秦の王離と章邯の大軍に包囲される事になります。

鉅鹿の城にいた張耳は城外にいた陳余に助けを求めますが、陳余はここで秦を攻撃しても犬死するだけだと断りを入れています。

後に救援に来た項羽により鉅鹿の戦いは勝利を収めますが、張耳と陳余は大喧嘩し刎頸の交わりは解消される事になりました。

張耳と陳余は憎しみあい張耳は劉邦に味方し、陳余は項羽に味方し井陘の戦いが勃発します。

張耳のいる劉邦軍の総司令官は韓信であり、韓信の奇計と張耳が陳余の性格を読んだ事で漢軍が勝利しています。

陳余を討ち取ると劉邦は張耳を趙王に任命しています。

張耳と陳余は無名だった頃は、刎頸の交わりを結び良好な仲でしたが、将軍や宰相となり出世すると仲違いしたと言えるでしょう。

史記などで人間性を見ると、張耳よりも陳余の方がまともかな?と思う部分もあります。

 

劉備と牽招

劉備と牽招も刎頸の交わりを結んだとする話があります。

ただし、劉備と牽招の話は陳寿が書いた正史三国志にはありません。

太平御覧なる書物にあり、若き日の劉備が牽招の事を「刎頸の友」と呼んだ記録があるのです。

牽招は正史三国志においては、異民族討伐などで活躍した人物ではありますが、日本では無名の人物とも言えます。

それに対して劉備は、三国志演義の主人公でもありますし、蜀漢を建国した事で知名度は抜群に高いです。

刎頸の交わりを結んだ仲で、もっとも知名度に開きがある二人とも言えるでしょう。

牽招は袁紹に仕え官渡の戦い後に袁家が衰えると、曹操に仕える事になります。

牽招は曹操亡きあとも、曹丕や曹叡に仕える事となり、実績を挙げています。

尚、劉備は劉璋から益州を奪い蜀を建国しますが、夷陵の戦いに敗れた後に崩御しました。

諸葛亮が北伐なども行いますが、結局は諸葛亮死後に蜀漢は西暦263年に滅亡しています。

蜀漢を滅ぼしたのは鄧艾なのですが、皮肉な事に鄧艾の軍には牽招の子である牽弘がいました。

劉備は自分が建国した蜀を滅ぼしに、刎頸の交わりを結んだ仲である牽招の子・牽弘が攻めて来るとは思いもよらなかったはずです。

尚、個人的には劉備のおける刎頸の友は、関羽や張飛だったのではないかと思います。

正史三国志には桃園の誓いはありませんが、それでも関羽や張飛とは気が合い仲がよかったと感じています。

 

刎頸の交わりについて

刎頸の交わりに関してですが、生涯に渡って貫き通すのは難しいのかも知れません。

廉頗と藺相如以外は生涯を通じて刎頸の交わりを結んだとは言えないでしょう。

漢の蕭何と曹参も出世する前には、仲がよかった話もありますが、お互いが尊貴な身分になるや仲が悪くなった話もあります。

それを考えれば生涯に渡って刎頸の友となった廉頗と藺相如は偉大だと言えます。

藺相如の人柄と廉頗の剛直さが二人の友情を保ったとも言えそうです。

尚、日本では田中角栄元首相のロッキード事件で、小佐野賢治が国会証人となった時に田中角栄との関係を問われた時に「刎頸の交わり」とする発言があり有名になっています。

 

 

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