この記事を書いた人

構成・文/宮下悠史

春秋戦国時代

扶蘇の決断が秦を滅亡させた!?史実の扶蘇は孝子と呼べるのか?

2021年3月14日

スポンサーリンク

扶蘇は始皇帝の長男です。

一番下の弟には、趙高と共に秦を内部から滅ぼしたとされる胡亥がいます。

扶蘇は秦王政の長子として、始皇帝自身も期待していたようです。

しかし、始皇帝死後に、趙高・李斯・胡亥などに遺書を変えられてしまった為に自殺してしまいます。

私は、扶蘇の死が秦の滅亡の始まりだと感じています。

扶蘇は始皇帝が死を命じたと思って自殺した孝子だとする認識が強いのですが、本当に孝行息子と呼べるのか考えてみました。

尚、扶蘇の死をみると春秋戦国時代に晋の献公により自殺を命じられた太子申生に似ていると感じます。

その後、晋は重耳がいたので覇者になれましたが、胡亥は重耳にはなれなかったようです・・・。

 

 

扶蘇が蒙恬に預けられる

扶蘇は父親である始皇帝を諫言した為に左遷されたと言われています。

しかし、始皇帝の信頼が厚い蒙恬の所で修業に行く意味合いも強かったように思うわけです。

蒙恬は、楚の項燕には敗れましたが、その後の燕や斉への征服戦争では李信や王賁と共に功績を挙げています。

李信や王賁に関しては、名将と言えるかは疑問符が付くところもありますが、蒙恬は匈奴を破り秦の北方を安定させた事で名将と呼べるはずです。

その蒙恬の下に扶蘇を送り込んだ事は期待の表れではないかとすら思えるわけです。

始皇帝も自分が死んだ後の混乱も予想して、扶蘇には兵法も学んで欲しいと考えたのかも知れません。

 

反乱を起こした陳勝が扶蘇を名乗っている事実

扶蘇は人民に対しても人気があったはずです。

始皇帝死後に、陳勝呉広の乱が起きるわけですが、陳勝は扶蘇、呉広は項燕を名乗ったとあります。

項燕は王翦に敗れたとはいえ、一度は秦を破った楚の英雄なので、呉広が名乗るのは分かる気がします。

しかし、陳勝は秦の人間である扶蘇を名乗っているわけです。

ここは注目すべき事でしょう。

人気がなかったら陳勝も扶蘇を名乗るわけがありません。

この事から扶蘇は、当時から民衆にも絶大なる人気があったはずです。

尚、陳勝は扶蘇を名乗りましたが、駆けつけてみたら扶蘇がいなくてガッカリした人も多いかと思います。

しかし、秦末期に民衆にしてみれば、秦を滅ぼしてくれるなら、扶蘇じゃなくても構わなかった可能性もあります。

 

扶蘇はなぜ民衆にも人気があったのか?

扶蘇がなぜ人気があったのかですが、始皇帝の焚書坑儒を諫めたからでしょう。

史記にも書かれていますが、王翦・蒙恬などは戦争では卓越していた名将ではありますが、始皇帝を諫めると言う行動は出来ませんでした。

司馬遷もそれを残念がっている記述があります。

しかし、扶蘇だけは始皇帝を諫めているわけです。

やり過ぎとも取れる始皇帝の行動を諫める事が出来たと言うのは、当時から知れ渡っていたのか扶蘇の評価を上げる一因になった事でしょう。

さらに、深く考えてみれば始皇帝自身がわざと民衆に評判が落ちる事をすれば、扶蘇がやりやすくなると考えた可能性もあります。

晩年の黒田官兵衛などは息子である黒田長政がやりやすくするために、家臣に対してわざと偏屈な爺さんを装ったとされています。

自分がいじわる爺さんを演じる事で、亡くなった後に長政がよく感じるように、わざと家臣に迷惑を掛けたと言うのです。

これと同じことを始皇帝も考えた可能性もあるでしょう。

こればっかりは、始皇帝自身に聞いてみないと分かりませんが・・・。可能性がゼロとは言えないでしょう。

しかし、扶蘇は当時、異常なほどの人気があった事は確かです。

始皇帝の政治は過酷だったが、2世皇帝胡亥の政治はさらに過酷で人民が、「なんで後継者が扶蘇じゃないんだ!」と思った可能性もあります。

 

扶蘇は自殺するのではなく咸陽を攻め落とすべきだった?

始皇帝は巡幸中に亡くなりますが、亡くなる少し前に蒙毅を咸陽に向かわせ祈祷をさせています。

蒙毅が戻って来る前に始皇帝は崩御し、その場にいた趙高、李斯、胡亥により遺書を書き換えられてしまい扶蘇には自殺するように命じています。

始皇帝が亡くなる時に、蒙毅がいたとすれば、扶蘇が兄である蒙恬の所にいる事もあり、蒙毅が大反対し趙高を黙らせ李斯や胡亥も扶蘇を二世皇帝に即位させる事に賛同した様に感じます。

しかし、蒙毅が戻る前に始皇帝が崩御した事で、趙高が暗躍し蒙家は滅亡に向かって動き出す事になります。

胡亥や趙高の書が届くと蒙恬は疑いましたが、扶蘇は「疑う事、自体が信義に背く」と考えて自殺してしまったわけです。

これにより蒙恬も絶望してしまったのか、陽周の牢に入る事になり自害する命令が届くと自刃しています。

この時に扶蘇は北方にいるとはいえ30万の軍勢が手元にあったわけです。

さらに、名将蒙恬が兵を率いる事が出来るので、咸陽を攻め落とす事も可能だったのかも知れません。

陳勝・呉広が反乱を起こした時に、秦は首都である咸陽には、ほとんど兵士はいませんでした。

それ故に、章邯(しょうかん)は囚人を開放して兵士として使ったわけです。

咸陽に兵士が不足していた事は間違いないでしょう。

扶蘇と蒙恬が30万の秦の精鋭を率いて咸陽を落とす事が出来れば歴史は大きく変わっていたのではないでしょうか。

しかし、咸陽にいる弟の蒙毅や家族の事を考えると反乱は現実的ではないのかも知れません。

逆を考えれば、蒙毅などが内側から上手く扶蘇に内通すれば、呆気なく咸陽を陥落させる事が出来た可能性もあるでしょう。

趙高側にしても、蒙恬や扶蘇と軍勢を引き離さずに、手紙一つで自刃させ様とするのは、一歩間違えたら自分が滅びる危険なやり方だった様に感じます。

 

追記(趙正書の記述)

新資料として趙正書なる書物が発見されています。

趙正書では始皇帝が巡幸中に崩御するのは同じですが、始皇帝は自らの意思で胡亥を後継者にする様に指名しています。

さらに、自分死後の秦を心配する様な親心も見せています。

趙正書では趙高を殺害したのが章邯になっているなど、史記の記述と食い違いもあり注目されている資料です。

 

胡亥は扶蘇が皇帝になった方が幸せだったと思う。

胡亥は秦の2世皇帝に即位したわけですが、胡亥を見ていると、扶蘇が皇帝になった方が幸せな人生を送れたのではないかと個人的には思っています。

胡亥を見ていると、政治に興味があるようにも思えませんし、秦の勢力を拡大したいなどの征服欲があるようにも思えません。

ただ単に、遊んで楽しく過ごせればいい位にしか思えないわけです。

実際に、政治を趙高に任せっきりにして自分は後宮の奥で遊び惚けていました。

最終的には、責任を趙高に押し付けられて殺されています。

しかし、扶蘇が跡継ぎになった場合ですが、扶蘇は優しい性格をしているので、胡亥を邪険に扱う事はないでしょう。

政治に参加させるのかどうかは分かりませんが、生活に困らずに楽しく過ごせる位にはしてくれたのではないかと思います。

それを考えれば、皇帝には扶蘇になってもらった方が胡亥は幸せに遊んで暮らせたように思えてなりません。

後の事を考えてみれば、胡亥も趙高に皇帝になるようにそそのかされた時に、「扶蘇の下にいた方が楽に楽しく遊んでくらせんだよ!」と断った方が正解だった様に感じます。

 

扶蘇の死が秦を滅亡に導いた

個人的な自分の意見なのですが、扶蘇の死が秦を滅亡に追い込んだのではないかと思えてなりません。

扶蘇が死んだ事で、趙高の暴走が始まったわけですし、胡亥も変な遊びを覚えて骨抜きにされてしまったわけです。

扶蘇が皇帝になれば、趙高や李斯は遠ざけられたとは思います。

李斯は始皇帝がバリバリの法治国家で人民を治める事で重用されました。

しかし、扶蘇は焚書坑儒に反対している事から、法治主義を緩めると思われます。

そうなると李斯は遠ざけられますし、始皇帝の側近であった趙高も同様に遠ざけられると考えられるからです。

代わりに、扶蘇であれば秦を長く続かせるための政策を実行するのではないかと思っています。

扶蘇が皇帝になれば民衆を法律で縛る秦から、民衆に愛される秦に変貌した可能性もゼロではないと感じます。

さらに、陳勝・呉広の乱や項梁項羽が反乱を起こしたとしても、秦が一丸となって反乱に挑んだのではないかと考えられるからです。

趙高が実権を握った秦では、趙高は朝廷を自分の支配下に置く事に必死で、外の反乱まで目が行かなかった部分もあります。

そこに隙が生まれて反乱軍に敗れた所もあるでしょう。

さらに、名将蒙恬が反乱軍の鎮圧に迎えるというのも大きいと思います。

王離は秦の正規軍を率いながらも項羽に敗れてしまいましたが、蒙恬であれば項羽に勝てた可能性もあるのではないでしょうか?

蒙恬であれば実績も十分ですし、兵士たちからの信頼も厚いはずです。

こればっかりは戦ってみないと分かりませんが、蒙恬が将軍として反乱軍の鎮圧に行けるのは頼もしいはずです。

尚、扶蘇が皇帝になってしまったら、劉邦は飲んだくれのおっさんで生涯を終え、項羽も単なる力自慢で人生が終わった可能性もあります。

韓信もニートで終わり、蕭何は普通の役人で終わった事でしょう。

張良は始皇帝の暗殺を考えましたが、扶蘇の暗殺を考えるかは・・・わかりません・・・。

しかし、楚漢戦争の英雄たちは歴史に埋もれた人になった可能性が高い様にも感じました

 

扶蘇は孝子と呼べるのか?

扶蘇は始皇帝の命令だと思って自殺しました。

「父親が死ねと言うのに死なないのは孝道に反する」と考えたからでしょう。

しかし、扶蘇がいなくなった秦は胡亥が継ぎ趙高が秦を腐敗させているわけです。

始皇帝は秦の滅亡を望んではいないと思いますし、扶蘇の死で秦が乱れた事を考えれば、親孝行とは言えない部分もあるのではないでしょうか?

始皇帝の願いとするば秦王朝が長く続く事だと思うので、それに反するような扶蘇の自殺は親不孝とも考えられます。

孝道といのは難しい部分もあるのでしょう。

秦は戦国七雄の中でも西の外れにある国でしたが、秦の孝公が商鞅を採用し法治国家の道を歩むなど内部を固め、秦の恵王の時代は張儀の連衡策があり、秦の昭王の時代は白起が勢力を拡げ范雎の遠交近攻策が実り着実に勢力を拡げています。

秦王政(始皇帝)の代では、秦は他国を国力で圧倒し一気に天下統一したわけです。

秦の歴代の王が積み上げてきたものを扶蘇が二世皇帝に即位しなかった事で、僅か4年で滅亡したのは残念でなりません。

尚、李信を主人公にして始皇帝が秦王を名乗っている春秋戦国時代を題材にしたキングダムという漫画ありますが、個人的には扶蘇の死や扶蘇の子とされる子嬰が死に秦が滅亡する所までやって欲しいと考えています。

 

スポンサーリンク