春秋戦国時代

楽毅『斉を壊滅状態にした名将』

楽毅は燕の昭王に仕えて、斉を壊滅状態にした名将です。

ただし、最初から燕に仕えていたわけではなく、最初は中山国に仕えていました。

中山滅亡後に、趙→魏→燕という順番で仕えています。

三国志の諸葛亮は若い頃に自分は「管仲、楽毅に匹敵する人物」と言っていましたが、実際の楽毅がどの様な人物だったのか解説します。

 

燕の昭王に仕えるまで

楽毅は燕の昭王に仕えますが、仕えるまでの経緯を紹介します

中山国に仕える

楽毅の先祖は楽羊であり、楽羊は魏の文侯の配下となって中山国を滅ぼした人物です。

魏の文侯は、楽羊を中山にある霊寿を封地として与えています。

国が滅びてしまった中山国ですが、中山桓公が祖国を復活させる為に魏と戦い続けて、中山は復興しました。

経緯は不明なのですが、楽毅の時代には楽氏は魏を離れて中山配下の武将となっています。

尚、復活した中山は、楽羊の封地であったはずの霊寿を首都にしています。

 

趙の武霊王に仕える

ウィキペディア・趙・戦国より

復興した中山国ですが、胡服騎射を成し遂げ軍事改革に成功した趙に圧迫される様になります。

楽毅も中山国の配下の武将として趙軍と戦ったようですが、中山国は紀元前296年に滅亡しました。

楽毅は趙の武霊王に中山の一軍を率いている所を認められたのか、趙の武霊王の配下となっています。

武霊王配下時代の楽毅は、燕を救い斉を弱める為の策を進言した話が戦国策にあります。

ただし、趙の武霊王は中山国を滅ぼした翌年には沙丘の乱により命を落としてしまいました。

趙の武霊王が亡くなると楽毅は魏に移動します。

 

燕の使者となる

楽毅は魏の臣下となるのですが、燕の昭王が賢者を優遇している話を耳にし燕への使者を願い出ます。

当時の魏はかつての威光はなく秦に圧迫されている状態でした。

楽毅が魏軍を率いる事があれば、秦の白起なども迂闊には、魏の領土に手出しが出来なかったのかも知れません。

楽毅を燕に出してしまった事は、魏にとってみれば大きな損害だったはずです。

 

楽毅が燕に行った理由

楽毅が燕に行った理由を考えてみました。

燕の昭王の人材優遇策

燕の昭王は先にも、お話した様に優れた人材を求めていました。

郭隗なる人物に豪邸を建てる事で、燕にくれば優遇される事を世間にアピールします。

尚、郭隗に豪邸を建てた事が「隗より始めよ」の語源となっています。

つまり、燕の昭王の所に行き気に入られれば優遇される事は確実だったという訳です。

司馬遷が書いた史記にも、楽毅は燕の昭王の優遇策を聞き、自ら望んで燕の使者になったとあります。

 

燕の昭王の志の高さに惹かれた

個人的には、楽毅が燕の昭王の配下になった理由は、燕の昭王の志の高さにあったように思います。

燕の昭王は斉を打倒するために、人民と苦労を共にしていますし、必死になって優れた人材を集めていました。

後年に楽毅が燕の恵王に宛てた手紙の中には、燕の昭王は一般的な君主に比べると一段上の志があった様な事が書かれています。

それらを考えると、楽毅は燕の昭王の志の高さに惹かれたのではないかと思いました。

楽毅自身が自分の力を発揮できる場所は、燕の昭王の配下をおいて他にはないと考えた可能性もあります。

 

燕の昭王の配下となる

楽毅は燕の昭王と面会すると気に入られたのか、いきなり亜卿に任じられる事になります。

それを考えると、楽毅は燕の昭王の前で斉を打倒するための秘策を出し、燕の昭王に大いに気に入られた可能性もあるはずです。

燕の昭王は斉により国を壊滅状態にされていますし、楽毅も亡国の将になった経験があり、お互いの気持が分かり気があった可能性も考えられます。

燕の昭王に仕えてからの楽毅ですが、具体的にどの様な献策を燕の昭王にしたのかは分かっていません。

史記だと燕の昭王に仕えた後に、いきなり斉との決戦になってしまいます。

ただし、実際には宋攻めで斉の援軍に行ったはずなのに、燕の将軍である張魁が斉の湣王に殺されてしまうなどもありました。

燕の昭王は蘇代を斉に送り込み内部崩壊を画策させるなど、様々な事があったはずです。

それらの策に楽毅が関わっている可能性もあるでしょう。

 

斉を壊滅状態にする

楽毅の最大の功績は斉を壊滅状態にした事です。

どの様にして、斉を滅亡寸前まで追い込んだのか解説します。

合従軍を結成

燕の昭王は単独では斉を攻略できぬと考えて合従軍の結成に動きます。

燕の昭王に合従軍を結成する様に進言したのが楽毅とも言われています。

楽毅は自ら趙の恵文王のへの、使者となり説得しています。

趙は大国である秦を誘い、さらに魏や韓も加わり燕、秦、趙、魏、韓の合従軍が結成される事になりました。

趙の恵文王が趙軍の指揮権を楽毅に委ねた事で、楽毅が合従軍の中で最大の発言権を持ったはずです。

ここにおいて、済西の戦いが始まります。

 

済西の戦い

合従軍と斉の間で済西の戦いが勃発しますが、斉の指揮官である觸子は斉の湣王から無理やり軍を前進させる命令を受けていました。

觸子は仕方なく兵士を前進させますが、既に心は萎えていて少し不利になると逃走してしまいます。

斉軍の司令官である觸子が逃亡した事で、斉軍は崩れるかと思いきや、副将である達子が斉軍をまとめて引き下がります。

合従軍に数で劣る斉軍を指揮する達子は、斉軍の士気を上げるために恩賞を与える様に斉の湣王に持ち掛けますが却下されています。

士気が上がらない斉軍に対して、楽毅は合従軍に攻撃命令を出し斉軍を打ち破る事に成功しました。

斉軍を率いていた達子は討死しています。

 

楽毅が臨淄を陥落させる

済西の戦いの戦いで楽毅は斉軍を破ると、秦は定陶を取り、魏は元の宋の地(斉領)に侵攻し、趙軍も河間(斉領)を取りに行きます。

合従軍を解散させた楽毅ですが、燕軍が単独で斉の首都である臨淄の陥落に動き出します。

済西の戦いの戦いの後に、燕将・劇辛からは燕の国境近くの城を陥落させて燕の領土を拡げた方が長い目で見れば利益になると進言されています。

しかし、楽毅は今の「斉の湣王は、斉の大臣の心が離れているし民衆からも恨まれている。もしここで斉の湣王にゆとりを与えてしまったら、善政を心掛けるから斉の攻略が不可能になる」といい臨淄に攻め込む決断をしました。

斉の湣王は、既に臨淄から逃亡してしまった事もあり、ついに斉の首都・臨淄が陥落しました。

尚、斉の湣王は衛、魯などに亡命しますが、最後は莒で楚が援軍として寄越した将軍である淖歯に殺害されています。

淖歯も民衆に殺されてしまいますが、斉では襄王が即位し粘り強く戦う事となります。

 

昌国君となる

燕の昭王は楽毅が斉の首都である臨淄を陥落させた事を知ると、歓喜の涙を流す事になります。

燕の昭王は済西の畔まで出向き兵士を労い論功行賞を行います。

その中で楽毅を昌国君に任命しました。

昌国君は当時としては、破格の待遇であり楽毅は半独立国の君主になったわけです。

この後も楽毅の進撃は続き、斉は莒と即墨以外の全ての城が燕に降る事になります。

ただし、即墨には田単という優れた将軍がいて、中々陥落させる事が出来ずにいます。

楽毅が済西の戦いで斉軍を破った3年目に、燕の昭王に楽毅を讒言する者もいました。

楽毅が斉王となる事を企み謀反を起こすと言ったわけです。

燕の昭王は讒言した者を斬り、楽毅に燕の宰相を遣わし斉王に任命すると言いますが、楽毅は受けませんでした。

 

楽毅が亡命

済西の戦いから5年が経過した頃に突如として燕の昭王が死去する事になります。

燕では恵王が即位しますが、楽毅とは不仲でした。

燕の恵王は楽毅を疑い騎劫と楽毅を交代させます。

楽毅は燕に戻れば処刑されると思い趙に亡命する事となります。

趙では恵文王が楽毅を喜んで迎え入れて観津に封じました。

楽毅がいなくなった事を知った即墨の田単は反撃に転じ、騎劫を討ち取り燕に奪われた全ての斉の城を奪還しています。

燕の恵王は楽毅が怒って攻めて来る事を恐れ、言い訳の手紙を出しますが楽毅は丁寧に返信しています。

楽毅の手紙を読んだ燕の恵王は反省し、楽毅の子である楽間を引き続き昌国君に任命する事にしました。

楽毅の方は趙の臣下として望諸君を名乗る様になります。

尚、楽毅が燕の恵王に出した手紙は名文として名高いです。

楽毅は楽毅論などで議論されて、忠臣なのかは様々な見解があります。

 

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