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構成・文/宮下悠史

春秋戦国時代

楽羊は中山国を滅ぼした魏の将軍

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楽羊は戦国時代の初期に魏の将軍として、中山国を滅ぼした将軍でもあります。

燕の昭王の配下として、田斉を壊滅的な状況に追いやった楽毅の祖先としても有名な人物です。

楽羊は活躍はしましたが、魏の文侯の信頼を失うなどのエピソードがある人物でもあります。

魏の文侯の時代は李克、西門豹、呉起などの名臣が多く、魏を強国にするのに貢献したとも言えるでしょう。

今回は史実の楽羊がどの様な人物だったのか解説します。

 

趙との外交

魏の文侯は、中山国を討つ事を決定します。

楽羊が将軍となって中山国を討ちますが、魏と中山国の間には、趙がおり飛び地となっている問題があったわけです。

中山国は晋の属国であった国であり、晋の後継者としての自負が強い魏としては、中山を討たずにはいられなかったのでしょう。

魏の文侯は趙の列侯に道を借り、中山を討つ事にしました。

趙の列侯は、魏に道を貸すのに反対しますが、臣下の趙利は魏は中山国を制圧しても飛び地だから、維持する事が出来ないと述べます。

それに魏が中山国を攻めて制圧出来なければ、魏は国力を落とすから趙にとっては利益があると述べたわけです。

趙利の言葉を聞いた列侯は、魏の文侯に道を貸す事にしました。

 

中山国を制圧

楽羊は魏の文侯に命じられ将軍となり、紀元前406年に中山国を攻める事になります。

韓非子によれば、楽羊の子は中山国におり、怒った中山桓公により楽羊の子は煮殺されスープにされてしまった話があります。

楽羊の子が、なぜ中山国にいたのかは分かっていません。

楽羊の子は中山国に仕えていたとか、楽羊と中山国は何かしらの縁があったのではないか?とする説もあります。

楽羊の元には、息子のスープが届きますが、楽羊はスープを飲み干し中山国を滅ぼす決意を見せます。

この時に楽羊が怒りに震えてスープを飲んだのか、涙ながらに呑んだのかは不明です。

中山桓公は即位したばかりであり、政務になれてなかったのか楽羊の攻撃が熾烈だったのか、中山国は楽羊に制圧されたわけです。

 

堵師賛の中傷

魏の文侯は楽羊の子がスープにされても、自分の為に中山国を攻め滅ぼしてくれたと楽羊に感動を覚えます。

しかし、魏の文侯の側近である堵師賛は、「楽羊は自分の息子のスープを飲み干しました。我が子の肉を食べるのであれば、誰の肉でも食べるのでしょうな」と巧みに中傷したわけです。

堵師賛の言葉を聞いた魏の文侯は、楽羊に中山国の最大の都市である霊寿を褒賞として与えましたが、警戒する様になった話があります。

ただし、霊寿を楽羊は賜わった事で、楽羊の子孫は霊寿に住む事になった様です。

 

楽羊が凱旋する

楽羊は中山国を攻め滅ぼすと、意気揚々と帰国する事になります。

この時に魏の文侯は大量に届けられた楽羊の非難書を楽羊に見せる事になります。

楽羊は驚き「中山国を制圧出来たのは自分の功績ではなく、魏の文侯様の功績だ」と述べた話があります。

魏の文侯は大量の非難書が届けられても、楽羊を更迭せず任用し続けた忍耐強さがなければ、自分は手柄を挙げる事が出来なかったと理解したのでしょう。

いつの時代であっても、いなくなると悪口は言われる事になり、楽羊が中山国を攻める為に、魏の本拠地である安邑を開けた事で、多くの讒言が魏の文侯に入ってきたのでしょう。

 

その後の中山国

楽羊は中山国の霊寿を与えられますが、魏の文侯は太子の子撃(後の魏の武公)に中山国を守らせた話があります。

他にも、中山国は魏の重臣である李克に守らせた様な記述があり、中山国には国の中枢にいる人物を配置する様にしています。

魏の太子である子撃や李克に中山を守備させたのは、魏の文侯が楽羊を警戒したからではないか?とする説も存在します。

しかし、魏の本拠地と中山国は飛び地であり遠く離れていて、守るに不便であり国の中枢にいる人物を配置する事で他国を牽制した様にも思います。

ただし、楽羊により中山国を制圧されてしまった、中山桓公は中山国の復興を目指し戦い続ける事になります。

中山桓公は粘り強く抵抗を続けた結果として、魏は中山国の独立を許す事になったわけです。

魏に道を貸す様に、趙の列侯に進言した趙利の思った様な状態となります。

 

楽羊の子孫

楽羊の子孫が、中山桓公の中山国復興運動に対して、どの様な動きを見せたのかは不明です。

しかし、楽羊の子孫である楽毅が登場した時には、中山国に仕えていた話があります。

楽羊の子孫は、どこかのタイミングで中山国に移った事は確実だと考えられています。

復興した中山国は、楽羊に与えられた霊寿を本拠地にしており、楽羊の子孫が中山桓公に霊寿を返した事も十分に考えられます。

しかし、その過程がはっきりとしない状態です。

尚、中山国は中山王尚の時代である紀元前296年に趙の武霊王により滅ぼされる事になります。

中山国を滅ぼされた楽毅は、趙の武霊王に仕え、後に魏に仕え、後に燕に仕える事になります。

楽毅は戦国時代でも屈指の名将であり、燕の昭王の配下として斉を壊滅状態にした実績があります。

楽毅が落とした斉の70余城という記録は戦国時代でもトップであり、白起の魏の大小61の城を落とした記録を上回る程です。

楽毅は楽羊の孫とも曾孫とも考えらえています。

楽毅以外の楽羊の子孫としては、楽乗や楽毅の子である楽間などがいます。

 

 

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