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構成・文/宮下悠史

秦末期・楚漢戦争

虞美人は項羽の最後を彩る悲劇のヒロイン

2021年10月4日

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虞美人は垓下の戦いで、項羽が四面楚歌で窮地に陥った時に、登場する女性です。

史記でも項羽の最後は屈指の名場面であり、項羽の最後を鮮やかに彩ったのが虞美人であるとも言えます。

虞美人は悲劇のヒロインとも呼べる女性となるでしょう。

正史で虞美人の記述は、垓下の戦いの時に項羽の苦悩と共に登場する以外に出番がなく、虞美人は謎多き女性でもあります。

さらに言えば、項羽の女性関係に関しては、虞美人しか登場せずに、虞美人が正妻だったのか側室だったのかも分からない状態だと言えます。

今回は項羽唯一の女性関係である虞美人を解説します。

尚、虞美人は『虞美人草』という草花の名前にもなった事で有名です。

 

虞美人の名前について

虞美人の名前に関しても、謎が多いので解説します。

虞は名なのか姓なのか

虞美人の名前に関しても、はっきりとしていない状態です。

史記の項羽本紀だと、次の様に訳される事があります。

史記

原文『有美人名虞』

訳『虞という名の美人がいた。』

これを見ると、虞美人の名前が『虞』という事になります。

それに対して、漢書の漢書・陳勝項籍列伝には次の様な記述になっています。

漢書

原文『有美人姓虞氏』

訳『虞氏という姓の美人がいた』

これだと虞美人の『虞』は姓となります。

一般的には漢書の方が正しく、虞美人の『虞』は虞氏であり姓だと主張する人が多いです。

 

美人について

虞美人の『美人』に対しても、下記の二つの説があります。

女官の名称

虞美人の容姿が美しかった

一般的には虞美人の美人は女官の名称だと考えられる事が多いと言えます。

虞美人が女官としての美人であれば、その上に皇后や夫人がいてもおかしくありません。

項羽にも劉邦における呂后や戚夫人の様な存在がいても、おかしくはないでしょう。

虞美人の「美人」であるとすれば、虞美人の上位の位に項羽の皇后や夫人がいたはずです。

史記には「虞美人は項羽の常に幸せられて従う」という分があり、虞美人は位は下位ではありましたが、項羽の寵愛を受けて戦場にもお供したという事になります。

項羽の女性関係の謎

項羽に関する女性関係は謎が多いです。

実際に、項羽には虞美人以外の女性の記録がなく、項羽の女性関係は虞美人だけが記録に残っています。

項羽は項梁と共に挙兵した時に、24歳だったと記録があります。

さらに、項羽が亡くなったのは31歳であり、妻子がいてもおかしくはない様な年齢です。

しかし、史書を見る限りだと、項羽の女性関係に関する記述もなく、項羽の子に関しても何も分からない状態だと言えます。

ただし、劉邦が紀元前205年に諸侯の軍と共に、項羽の本拠地である彭城を陥落させた時に、下記の記述が存在します。

「城内の財宝や美人を収め、日ごとに宴会を開いた。」

上記は史記の記述ですが、これを見る限りでは、項羽の本拠地である彭城には美人が多数いた事が分かります。

ここで言う美人が項羽の「後宮の美女」を指すのかは不明ですが、項羽も虞美人以外の女性関係が皆無では無かったのかも知れません。

尚、項羽の叔父である項梁の妻子の事も伝わっておらず、項羽と項梁は妻子に関しては謎が多いです。

因みに、秦の始皇帝や歴代秦王には、巨大な後宮を持っていたはずであり、秦を滅ぼした時に、劉邦は後宮の女性に手を出さなかった話がありますが、項羽は秦の後宮の美女を彭城に持ち帰ったのかも知れません。

それか、項羽は秦を滅ぼした時に、秦の後宮に虞美人がおり、項羽が虞美人を気に入って妾にした可能性もある様に思います。

孫策周瑜が旧袁術軍の後宮の女性や残党を手に入れた劉勲を襲撃し、美女として名高い大喬、小橋を手に入れた事がありますが、似た様な流れで項羽も虞美人を妾にしたのかも知れません。

それでも、項羽と虞美人に関しての出会いの記録もなく、分からい事が多いのが実情だと言えます。

尚、項羽は性格が一途で単純にも見える事から、虞美人以外の女性関係はいなかったのかも知れません。

虞美人の家が裕福でなかったなどの理由から、立場的に「美人」の位に留めていた可能性もある様に思います。

 

虞美人と項羽

虞美人が史書に登場するのは、垓下の戦いの時だけです。

項羽の記事と重なる部分もありますが、合わせて解説します。

四面楚歌

圧倒的な強さで秦を滅ぼした項羽ですが、劉邦との戦いでは次第に不利な立場に追いやられて行きます。

劉邦配下の韓信が各地の勢力を平定し、彭越が楚の糧道を度々遮断した事が大きいと言えます。

項羽は劉邦と和睦を結び東に帰りますが、劉邦は和睦を破棄し、項羽の軍に背後から襲い掛かりました。

項羽も奮戦しますが、垓下の城に籠るしかなくなります。

この時に、劉邦の軍師である張良は、垓下の城の四方から楚の歌を歌わせました。

項羽は楚の歌を聞き、楚人の多くが漢に降ってしまったとショックを受けます。

項羽は心に来るものがあったのか、帳の中に入り虞美人と語り合う事になります。

四面楚歌から虞美人と項羽の経緯が史記でも屈指の名場面となっています。

 

垓下の歌

覇王と呼ばれた最強の武人である項羽が弱気となり、虞美人に心境を述べた詩を謡います。

力は山を抜き 気は世を蓋うも

時に利あらず 騅逝かず

騅の逝かざるは 如何すべき

虞や虞や なんじを如何せん

これが垓下の歌です。

史記だと、ここで終わり項羽は最後の戦いに挑む事になりますが、陸賈の楚漢春秋だと虞美人は項羽の詩に、次の様な返しを入れています。

漢兵すでに地を略し 四方楚歌の声

大王意気尽き 賎妾何んぞ生に聊んぜん

ここでの虞美人は自分の事を賎妾と呼び、あえて蔑んでいます。

さらに「大王意気尽き 賎妾何んぞ生に聊んぜん」の部分は、「大王(項羽)が気力を尽きては、生きてはいけない。」と虞美人が述べた事になるでしょう。

楚漢春秋の記述を見る限りでは、虞美人は自害した様に思うかも知れませんが、実際の所ははっきりとした記録がなく分からない状態です。

楚漢春秋時代も陸賈が書いた部分には、垓下の歌の後に虞美人に言葉は無かったのではないか?とも考えられています。

楚漢春秋は後世の付け足しが多いとも言われています。

通俗漢楚軍談の虞美人の最後

通俗漢楚軍談は物語ですが、史記よりもさらに場面が鮮明となり、項羽と虞美人の最後を盛り上げる話となっています。

通俗漢楚軍談では、垓下の歌で項羽と虞美人は泣き合った後に、項羽配下の周蘭と桓楚が帳を開けて次の様に述べています。

「もうすぐに夜が明けてしまいます。陛下(項羽)は早急にここを出るべきです。」

周蘭と桓楚は項羽に垓下の城から脱出する様に勧めます。

項羽は虞美人に対して、次の様に述べています。

項羽「我は敵の包囲を突破し脱出を試みようと思う。

汝(虞美人)は、命を全うして欲しい。

自分の運命が尽きていないのであれば、また会う事も出来るであろう。」

項羽の言葉に対し、虞美人は涙を流し、次の様に述べています。

虞美人「あなた(項羽)が、この場を去ってしまえば、私は身を置く場所がありません。」

項羽は次の様に述べます。

項羽「其方(虞美人)は優れた容姿を持っておる。

其方を劉邦は殺しはしないであろう。

少しも憂える事はない。」

項羽は虞美人は優れた容姿を持っているから、心配はいらないと述べたわけです。

劉邦は女好きだった話もありますから、項羽は劉邦なら虞美人を妾にすると思ったのかも知れません。

しかし、虞美人は項羽の言葉に耐えきる事が出来ず、次の様に述べています。

虞美人「私は項羽様に従って、漢軍の包囲から脱出し、何処までも行きたいと願います。

もし仮に脱出が出来ないのであれば、自害して果てます。

例え私が屍となったとしても、私の魂魄は項羽様に従い江を渡り故郷に還る事になるでしょう。」

虞美人は項羽と共に、垓下から脱出すると述べたわけです。

しかし、項羽は漢軍の包囲は厳重であり、歴戦の勇士であっても、脱出は難しいと述べます。

虞美人は項羽が自分を付き従えて、脱出する事が出来ないと悟り、次の様に言います。

虞美人「願わくば項羽様の剣を貸して貰いたい。

私は男性の姿となり、項羽の様の後を追いたいと思います。」

項羽も虞美人の言葉に思う所があったのか、剣を渡して「ならば、我が後について来るがよい。」と述べます。

虞美人は項羽から剣を受け取ると、次の様に述べています。

虞美人「私は項羽様に大恩を受けましたが、未だに報いる事をしていません。

今より妾(虞美人)を心に掛けてはなりませぬ。

これまでなり。」

虞美人は言葉を言い終わると、自害したわけです。

項羽は虞美人の最後を見て、さめざめと涙を流した話があります。

この後に、項羽は史記にある様に800の兵を引き連れて、垓下の城からの脱出を試みる事になります。

通俗漢楚軍談では、虞美人は気丈に振る舞いながらも、最後は自刃して果てています。

 

虞美人の墓

虞美人が垓下の城を脱出し逃げ延びたが、結局は亡くなってしまったとする説もあります。

唐の時代に出来たとされる史記の注釈書である「史記正義」が存在します。

史記正義によれば、虞美人のお墓は濠州定遠県にあったとされています。

濠州定遠県は、項羽が農夫に騙されて道に迷い、漢軍の追手に追いつかれてしまった近くだともされています。

虞美人の墓が項羽が道に迷った付近にあると言う事は、虞美人も垓下の城を脱出し、濠州定遠県の辺りで亡くなったんじゃないかとする話です。

ただし、この説にも確証がなく真実は不明だとも言えます。

女性で男性に比べると体力が少なかったと考えられる虞美人が、垓下の城から脱出できるかですが、基本的には包囲は厳重であり難しいと言わざるを得ないでしょう。

しかし、三国志の劉備は何度も妻子を捨てて逃亡していますが、徐州で妾とした甘夫人は亡くなるまで、劉備に付き従う事が出来ています。

女性の甘夫人が敗走が多い劉備に付き従う事ができた事を考えると、全くの不可能でもないのかも知れません。

虞美人は謎が多い女性と言えるでしょう。

 

虞美人の一族は項羽に重用された!?

劉邦の参謀である陳平魏無知の紹介もあり、劉邦に仕える事になります。

しかし、新参者の陳平を重用する劉邦に不満を持った周勃や灌嬰は、陳平を讒言しました。

劉邦は魏無知や陳平を呼び出し、事情聴取をしますが、陳平が劉邦に述べた言葉の中に下記の文言が史記にあります。

陳平「項王(項羽)が信任寵愛するのは、項氏の一族か妻の兄弟達に限られる。」

陳平の言葉からは項羽が重用するのは項氏の一族か妻の強大となり、陳平のいう妻が虞美人の事であれば、虞美人の兄弟は項羽に重用された事になるでしょう。

しかし、虞美人の兄弟や一族の事は伝わっておらず、項羽の妻や女性関係と同様に謎が多いと言えます。

それでも、項羽が虞美人を寵愛していた事は間違いない言える事から、虞美人のお陰で一族が繫栄した可能性も十分にある様に思います。

 

中国四大美人

一般的な中国四大美人は西施、王昭君、貂蝉、楊貴妃となっています。

この中で王昭君の代わりに、虞美人が中国四大美人の一人に数えられる事があります。

虞美人が中国四大美人の一人に数えられたりする理由は、垓下の戦いでの項羽の苦悩と虞美人の姿が余りにも美しく感じるからでしょう。

それ故に、項羽が寵愛する虞美人を中国四大美人に選んだ様に思いました。

尚、個人的には三国志の貂蝉は明らかに架空の人物であり、貂蝉の代わりに虞美人でもよいのではないか?と感じた次第です。

 

 

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