春秋戦国時代

半両銭は秦の公定貨幣

2021年5月17日

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宮下悠史

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半両銭は秦国で使われた貨幣の事です。

世界史の授業でも出て来る様な、通貨であり学校で習った人も多い事でしょう。

半両銭と言えば、始皇帝が定めた通貨だと考える人もいるかも知れません。

秦の始皇帝は、天下統一後に思想の統一による焚書坑儒や、文字の統一による小篆があり、度量衡による単位の統一など様々な政策を行っています。

そうした中で、通貨の統一が半両銭だったと思っている人も多いようです。

しかし、実際には始皇帝が生まれる前から半両銭は、秦で使われており、半両銭が秦の天下統一の原動力になったと考える人もいます。

尚、始皇帝の政策の大半は李斯が関わっていると指摘する人もおり、天下統一後の半両銭の採用も李斯の発案だと考える人もいます。

半両銭の誕生

秦で半両銭が使われる様になったのは、紀元前336年だとされています。

紀元前336年から秦では、国家による半両銭の鋳造が始まったわけです。

紀元前336年は、秦では恵文王の2年に当たる事になります。

秦の恵文王の先代は、孝公であり商鞅を用い、商鞅の変法を行い国を大発展しています。

しかし、恵文王は側近が商鞅に処刑されたり、刑罰を受けたりと商鞅を嫌っていたわけです。

恵文王は孝公が亡くなり即位すると、商鞅を誅殺してしまいます。

しかし、恵文王は商鞅の政策だけは引き継いだ話があります。

半両銭の鋳造が秦の恵文王の2年と言う事は、商鞅が通貨の統一を考えて、実行出来ていなかったのを恵文王が引き継いで達成した様にも感じました。

秦の恵文王は商鞅は嫌っていても、政策は引き継いでおり、商鞅の政治手腕は認めていた様に思うからです。

半両銭は公定貨幣である

当時の中国では、様々な勢力が貨幣を造っており、形状も価値もズレがあって非常に使いにくいものでした。

例を挙げるとでは刀銭が使用され、では布銭などが使われていたわけです。

秦の政府は、バラバラだった通貨の統一を強制し、他国の貨幣を持ち込んだり、使用する事を禁じています。

公定貨幣の発行は、戦国七雄の中でも秦だけであり、国の統治だけではなく、寡兵においても他国から一歩リードする事が出来たのでしょう。

秦の公定貨幣である半両銭で価値が統一される事で、流通が促進され都市が発展し、秦の政府も徴税や軍備がスムーズに出来たと考えられています。

秦が戦国時代に他国を圧倒する様になった理由は、半両銭にあるのではないか?と考える人もいる程です。

尚、半両銭は名目通過であり、寡兵の材料に価値があるのではなく、貨幣自体に価値が置かれる名目通過として使われています。

半両銭は工夫がなされた青銅貨幣

半両銭は銅80%、錫20%で出来ていて青銅貨幣となっています。

現在の日本で使われている10円玉も材質の比率は違いますが、銅が95%も含まれる青銅貨幣です。

半両銭が青銅で出来ている理由は、長持ちするからだと考えられています。

鉄の場合だと、錆びて腐食し元の原形が分からなくなってしまうのに対し、銅の方が耐久性が高く、出土物などでも鉄は形が変わっているのに対し、青銅は元の形のまま出土する事も少なくありません。

半両銭も耐久性の高さから青銅貨幣にされたのでしょう。

半両銭の特徴として、中心に穴が開いている事が挙げられます。

日本の50円玉も中心に穴が開いている様に、半両銭も中心に穴が開いているのです。

半両銭の中心に穴を開けた理由は、穴に紐を通して持ち運びが出来る様にする為の工夫とも言われています。

中心に穴を開けた貨幣は、欧州や中東などの金貨には見られず、東洋独自のアイデアでもあります。

因みに、半両銭の穴あき貨幣は日本にも大きな影響を与え、一文銭なども穴が開いています。

半両銭が丸い理由

半両銭が丸く穴が四角な理由は、世界観にあると考えられています。

呂不韋が一流の学者などにより編集させた呂氏春秋がありますが、呂氏春秋には天円地方説があります。

当時の中国の考え方では、地球は丸いものではなく、天地は四角であり、その上に円形の蓋があったと考えられていたわけです。

半両銭は当時の世界をイメージし、穴は四角であり形が丸くなったとする話があります。

尚、呂不韋は大商人であり、異人(荘襄王)を「奇貨居くべし」と判断し、援助した話があります。

呂不韋はお金に関しては、かなりの思い込みがあったようにも感じます。

呂不韋は独自の経済観を持っていたのかも知れません。

始皇帝と半両銭

秦王政は、先に述べた様に戦国七雄などの国々を滅ぼし天下統一を成し遂げています。

秦王政は王から皇帝となり、始皇帝を名乗りますが、ここで通貨の統一も計る事になります。

始皇帝は他国の通過を廃止し、で使われていた半両銭で統一する事にしたのです。

この時に秦で鋳造した半両銭には、秦の公式の書体である小篆で文字が書かれていた話があります。

尚、秦は始皇帝死後の混乱で扶蘇、蒙恬、蒙毅らが亡くなり、末子の胡亥が二世皇帝に即位し趙高の暴政が始まると、僅か4年で滅びています。

秦王の子嬰が劉邦に降伏し、時代は項羽と劉邦が争う楚漢戦争の時代に突入します。

最後は劉邦が垓下の戦いで項羽を破り、漢王朝を樹立しますが、劉邦は民間でも貨幣の鋳造を認めた為にインフレが起きた話があります。

始皇帝の半両銭は、漢王朝になっても使われ続けますが、漢の武帝の時代である紀元前118年に五銖銭が作り出されると、半両銭は使われなくなっていったわけです。

余談ですが、漢の武帝の時代に作りだされた五銖銭は、700年に渡って使用され、中国で最も息の長い貨幣になっています。

五銖銭も半両銭に倣って造られたとされており、半両銭の流れは長い期間に渡り続いたとも言えそうです。

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