秦末期・楚漢戦争

范増は項羽の軍師だが、最後は袂を分かつ

2021年5月3日

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宮下悠史

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范増は、項羽項梁の軍師と呼んでもいい人物です。

項梁の陣を訪れた時は、70歳を超える老人でしたが、大いに重用される事になります。

早くから劉邦が危険な人物だと見抜いているなど、眼力にも優れた人物だと言えるでしょう。

楚漢戦争の時代の軍師と言えば、張良が有名です。

劉邦は張良の言葉であれば、何でも聞く事が出来ましたが、項羽や范増を「亜父」と尊重はしましたが、范増を疑い進言を聞かない事が多々ありました。

鴻門の会などは最たる例と言えるでしょう。

劉邦は天下統一後に、「自分は張良、蕭何韓信の三人を使いこなす事が出来たが、項羽は范増一人でさえ用いる事が出来なかった」と述べています。

それを考えると、劉邦は范増の能力を高く評価し、漢の三傑に並ぶ実力を持っていたと考えていた可能性もあります。

今回は、項羽や項梁の軍師である范増を解説します。

尚、春秋戦国時代の「范」が付く人物と言えば、晋に仕えた范会(士会)、越王勾践に仕えた范蠡、秦の昭王に仕えた范雎などの名臣がいますが、関係は分かってはいません。

范増の青年期

史記に范増の列伝はありませんが、項羽本紀や陳丞相世家などに記録があります。

范増は九江郡居巣の出身であり策謀を好んだとあります。

しかし、老人になるまで誰にも仕える事は無かったようです。

范増は紀元前277年頃に生まれた様ですが、この時代は楚の頃襄王が秦の白起により、首都の鄢・郢が陥落するなど、は大きく勢力を後退させた時代でもあります。

楚の頃襄王の先代である楚の懐王が、の張儀に引っ掻き回された悪い流れを引きずった結果とも言えるでしょう。

因みに、秦に対して戦国七雄の残りの諸侯()は国力を落として行く事になります。

范増の青年期は、楚に明るいニュースは少なかったはずです。

秦の天下統一

秦は紀元前221年に王賁李信蒙恬斉王建を降伏させた事で、秦が天下統一が成される事になります。

秦の統一戦争は終焉し、嬴政(秦王政)は天下統一後には、始皇帝を名乗る事になります。

商鞅の改革以来、圧倒的な強国になった秦に対して、李牧、項燕、昌平君らの奮戦を范増が、どの様に眺めていたのかは不明です。

しかし、秦の統一時には范増は、50歳を超えていたはずであり、智謀に深みを持った人に成長したいたのでしょう。

范増は後の行動を考えれば、始皇帝の焚書坑儒や万里の長城、阿房宮の建設などには、苦々しく見ていたはずです。

秦の宰相であり、同じ楚の出身である李斯に対しても、反感があったのかも知れません。

始皇帝の死

始皇帝が紀元前210年に崩御すると、天下は乱れる事になります。

秦の内部でも扶蘇、蒙恬、蒙毅が混乱により死亡し、始皇帝の末子である二世皇帝胡亥が即位し、趙高が重用される様になります。

始皇帝の死が反動となり、天下は乱れ陳勝呉広の乱が勃発します。

范増がいた九江郡には、陳勝が鄧宗を派遣し攻略する様に命じています。

范増は鄧宗に加担する事もせず、さらに比較的近い場所で挙兵した黥布(英布)に同調する事もありませんでした。

項燕の子である項梁が会稽で挙兵し、項羽らを引き連れて挙兵すると、范増は動く事になります。

因みに、楚では秦嘉が即位させた景駒の勢力もありましたが、范増は項梁の勢力に近づく事になったわけです。

尚、陳勝は王位に就きますが、半年ほどで秦の将軍である章邯に討ち取られています。

項梁への進言

項梁は薛にいて会合を行う事になり、范増も参加する事になります。

尚、范増がいた居巣から項梁がいた薛までは、400キロ以上の道のりがあったとも言われています。

この時の范増の年齢は70歳を超えていたはずであり、驚異の体力を見せたとも言われています。

范増は項梁に会うと「陳勝が失敗した事は当然」だと述べる事になったわけです。

項梁は范増が只者ではない事に気が付いたのか、耳を貸す様になります。

范増は秦に滅ぼされた六国のうちで、楚が最も抵抗しなかった事や、楚人は秦に幽閉された楚の懐王を今でも憐れんでいる事を告げます。

さらに、楚の南公が「楚が例え三家になろうとも、秦を滅ぼすのは楚なり」と言った事を告げ、次の様に進言しました。

「あなた様(項梁)に多くの人が従っているのは、楚の将軍の家柄であり、楚王の後裔を立てようと思っているからです。」

この言葉を聞くと、項梁は楚の懐王の孫である「心」を探し出し、王位に就ける事になります。

ただし、楚の懐王は紀元前296年に死去した話があり、項梁が探し出した「心」は、かなりの高齢だった事でしょう。

尚、項梁は「心」にも、楚の懐王(義帝)を名乗らせ反秦のシンボルにしています。

項梁は楚の上柱国に陳嬰を任命し5県を与え、懐王を盱台に置き首都として定める事にしました。

項梁は自らを武信君と号しています。

これにより項梁の軍は、大義名分も得てさらに強力になった話があります。

斉との決裂

項梁の軍は、東阿で秦軍を破る事になります。

東阿はに近い地域であり、その頃の斉の中心人物は田栄であり、田横なども参謀として控えていました。

項梁は田栄に、共に西に向かい秦を討とうと述べたわけです。

しかし、項梁の陣には田栄と敵対し、項梁の軍に逃げ込んだ田仮がおり、難色を示します。

田栄は田仮を処刑すれば、楚と同盟する事を約束しますが、項梁は田仮を殺すつもりもなく、斉との同盟をしませんでした。

斉と同盟を結ばなかった事に対し、范増が何かを述べた記録は残っていません。

項梁の最後

この頃の項梁の軍で、軍を指揮する代表的な将軍は項羽と劉邦だったわけです。

項梁は項羽と劉邦に向かって、濮陽で戦って勝利し、定陶を攻める事になります。

しかし、定陶は堅固に守り陥落させる事が出来ないので、兵を移し雍丘を攻撃し、秦の丞相である李斯の子である李由を斬る大戦果を挙げています。

項羽と劉邦が李由を斬ると、項梁は自ら兵を率いて秦の定陶を攻撃する事にしました。

項梁は定陶の急襲に成功し陥落させると、秦軍を甘く見る様になったとされています。

項梁の態度の変化を見て宋義は「戦いに勝っても将軍が驕り兵が怠ければ敗れる。」と指摘したわけです。

しかし、項梁は宋義の意見を用いずに、宋義は斉への使者として出されています。

宋義は斉へ向かう途中で、項梁の最後を予言した話があります。

この後に、秦の将軍である章邯は定陶を急襲し、項梁の軍を打ち破り項梁を斬る事に成功しました。

ここまでで范増が項梁に、どの様な進言をしたのかは不明ですが、自分の意見を尊重し取り上げてくれた項梁は戦死してしまったわけです。

項梁がここで戦死しなければ、項梁が秦の都である咸陽を陥落させ、違った展開になった可能性もあるでしょう。

一つの戦いに敗れた事で項梁は戦死し、范増の人生の変わった様に思います。

項梁の後継者である項羽は将軍としては、優れていましたが、将の将たる器ではなかった様に感じるからです。

尚、項梁を討ち取った章邯は、楚は瓦解すると思ったのか王離と合流し、趙歇、張耳、陳余がいる北方の鉅鹿を攻撃する事にしました。

范増が末将となる

楚の懐王は、項梁が戦死した事を聞くと盱台から前線である彭城に移る事になります。

そして、軍隊を二つに分けて劉邦と宋義を大将とし、秦を討つ事にしました。

宋義の軍は卿子冠軍とも呼ばれ、上将軍が宋義、次将が項羽、末将が范増となります。

宋義は北方の趙の救援に向かいますが、安陽で46日間もの謎の滞在を続け、怪しんだ項羽により斬られています。

この時も范増が何か助言した記録はありませんが、項羽は范増を亜父とまで呼んだ事実もあり、項羽は末将の范増に相談した上で宋義を斬った可能性もあるでしょう。

尚、項羽は鉅鹿の戦いでは、獅子奮迅の活躍を見せ、王離率いる秦軍を大破し、章邯を殷墟で降伏させています。

後の行動を考えれば、鉅鹿の戦いでも范増は項羽と行動を元にしたと考えられますが、具体的な記録がなく、どの様な献策をしたのかも不明です。

しかし、項羽よりも先に、劉邦が武関を破り秦王である子嬰を降伏し、咸陽一番乗りを決めてしまうわけです。

趙高が秦で暴政を行った為に、秦は滅び劉邦は咸陽に入る事が出来たとも言えるでしょう。

鴻門の会

咸陽一番乗りを果たした劉邦を范増は危険視する様になります。

尚、鴻門の会は教科書には「鴻門之会」として掲載されている事もあり、知っている方も多い事でしょう。

范増の進言

劉邦は咸陽を占拠すると、函谷関の守りを固め項羽の侵入を阻止しようとします。

しかし、劉邦の左司馬である曹無傷が裏切り、項羽に「沛公(劉邦)は関中王になる下心があり、子嬰を宰相とし、の珍宝を自分の物としました」と告げ口を行ったわけです。

項羽は怒り圧倒的な兵力で函谷関を破ると、鴻門に陣を布く事になります。

ここで范増が項羽に進言した話が残っています

范増「沛公(劉邦)は、山東にいた時は財貨と美女を好んでいたのに、函谷関に入ると財貨も美女も欲しようともしません。

これはただ事ではありません。劉邦からは五色の精気が龍となった話も聞いております。

これは天子になる精気であり、今のうちに取り除いておくべきです。」

項羽は范増の意見に納得し、翌日に覇上にいた劉邦を攻撃する決断をします。

しかし、項羽の一族の項伯は友人である、張良が劉邦の陣にいる事を知り、張良や劉邦に項羽が攻撃しようとしていると告げます。

劉邦は驚いて張良と共に、項羽に謝罪する事にしました。

劉邦の謝罪

劉邦は翌朝に百余騎を連れて、項羽の陣を訪れる事になります。

項羽は劉邦の事を脅威に感じておらず、許そうとしたわけです。

さらに、劉邦の事を告げ口したのは、曹無傷だとも伝えてしまいます。

孫武が書いたとされる孫子の兵法書の中には、内通者の重要さが語られており、項羽のこうした態度に范増は苦い顔をしたはずです。

こうした中で、鴻門の会が行われる事になったわけです。

范増の謀略

鴻門の会は、史記によれば項羽と項伯が東面し上座に着き、范増が次席として南面しています。

劉邦は北面して三座に座り、張良が西面し下座に座ったとあります。

こうして鴻門の会が始まったわけです。

范増はしきりに項羽に合図を送り、劉邦を殺害する様に求めます。

項羽の怪力を使うか適当に怒りを見せ、劉邦を処刑する事を范増は望んだ事になります。

しかし、項羽は劉邦が自分に恭順した事で、敵視しておらず、范増の合図を無視する事にしました。

范増は項羽が劉邦を殺害しようとしない事を察し、席を立って外に出ます。

范増は外で、項荘に会うと次の様に述べています。

范増「君主(項羽)は憐れみの心があり、劉邦をやる事が出来ない。お前が中に入り長寿を祝い、見世物として剣舞を舞い、

はずみで劉邦を斬る様にせよ。実行できなければ、お前の一族を全て虜にするであろう。」

これを見る限り、范増は項羽にとって劉邦が害になると完全に見抜いていた事になるでしょう。

項荘は鴻門の会で剣舞を舞う事になりますが、項伯は范増が項荘に命じた事に気が付き、項伯も剣舞を舞い劉邦を助けたわけです。

項荘は項伯に邪魔をされた事で、劉邦を斬る機会を失ってしまいます。

さらに、張良も劉邦が危機的な状況にある事に気が付き、外に出て樊噲と話をします。

ここで樊噲が身を挺して、項羽に堂々と意見した事で、場は治まる事になります。

さらに、劉邦は厠に行くと言うと、外に出て自分の陣地まで戻ってしまいました。

これにより、范増の計画は完全に阻止されたわけです。

もしここで、范増の意見に項羽が従っていれば、漢王朝の誕生も無く歴史はかなり変わっていたと言えるでしょう。

鴻門の会は歴史を変えた会とも言えそうです。

范増の怒り

張良は再び中に入ると、劉邦が既に陣に帰った事を項羽に伝える事になります。

そして、張良は項羽に劉邦からだと白璧一対を贈り、范増にも玉斗一対を贈ったわけです。

項羽は劉邦からの贈り物を受け取りますが、范増は玉斗一対を地面に置き剣で突き刺し、次の様に述べています。

范増「豎子(項羽や項荘を指す)は、共に計るに足りない。項羽の天下を奪うのは必ず劉邦だ。一族は劉邦の虜になってしまうであろう」

この言葉を見る限り范増はよっぽど悔しかったのでしょう。

范増は宝物を破壊した事もあり、怒りとも取れますが、実際には嘆きとなるのかも知れません。

范増の言葉は現実となり、劉邦が垓下の戦いで項羽を破り天下を取る事になります。

尚、三国志の龐統は劉備の入蜀の時に、劉璋を暗殺してしまう様に劉備に進言した話があります。

しかし、劉備は龐統の策を退けますが、龐統が激怒した記録はありません。

それを考えると、范増よりも龐統の方が冷静沈着な部分はあるのかも知れません。

それか、劉邦は危険人物ですが、劉璋なら暗殺に失敗しても、幾らでも手立てはあると考えた可能性もありますが・・・。

楚漢戦争へ

項羽は諸侯を分封しますが、世間は騒がしくなっていきます。

項羽自身も反秦のシンボルであった楚の懐王を殺害してしまいます。

南皮にいた陳余が、斉の田栄に兵を借り恒山王の張耳を襲撃したり、黥布が項羽の命令に背く様になるなどもあったわけです。

他にも、劉邦が章邯、司馬欣、董翳らを降し三秦の地を平定しました。

張良の策もあり項羽は斉に遠征しますが、その隙を衝き項羽の本拠地を劉邦が諸侯の軍と合わせた56万の大軍で奪うなども行っています。

しかし、斉から戻った項羽により、劉邦は大敗し、諸侯は再び項羽に味方する事になります。

こうした中で、項羽が范増を疑う事になります。

范増の最後

陳平は項羽の配下として、殷王・司馬卬を降伏せますが、司馬卬が劉邦に攻撃されると、すぐに降伏した事もあり陳平は身の危険を感じ劉邦の許に逃亡する事になります。

劉邦は陳平を重用し、大金を与え楚の諸将である范増、鍾離眜、龍且、周殷などと項羽を引き離す離間策を採用しました。

陳平は過去に項羽の軍にいた事もあり、范増を項羽軍から引き離せば、楚軍は弱体化すると考えたのでしょう。

漢では楚からの使者が来た時に、盛大に持て成し、項羽からの使者だと分かると「亜父(范増)からの使者だと思った」と述べ、扱いを粗末にしたわけです。

この話を使者から項羽に聞かされ、項羽は范増が漢に内通していると疑う様になり、范増の意見を聞かなくなります。

陳平の策略に引っ掛かった項羽に対し、子だも騙しの様な手に引っ掛かった指摘する人もいます。

范増は滎陽の城を落とし劉邦に止めを刺そうとしますが、項羽は言う事を聞こうとはしません。

范増は項羽が自分を疑っている事を知ると、激怒し次に様に述べています。

范増「天下はもはや大いに定まりました。我が君が自ら治めてください。私は故郷に帰らせて頂きます。」

こうして范増は項羽軍を離脱する事になったわけです。

范増は一兵卒に戻り彭城に向かったとされていますが、途中で背中に腫れ物が出来てしまい命を落とす事になります。

范増の背中に出来た腫れものは、項羽に対するストレスやショックなどもあったように感じます。

中には、范増の怒りが背中の腫物だったとする話もある程です。

尚、范増の死は官渡の戦いの後に、袁紹田豊を処刑した事と比較される事があります。

范増は名軍師と言えるのか?

范増は最初に述べた様に、劉邦は楚で最も優れた人物として認識していた様に感じます。

しかし、名軍師なのか?と問われると分からない部分も多いでしょう。

ここまでの話を見てると、范増は優れていたとする理由は、劉邦を危険人物だと見抜いていた事になるはずです。

他の功績と言えば、項梁に楚の懐王を擁立する様に意見した事位しかありません。

これだけだと范増が名軍師と言えるのか?と疑問が湧いてくるはずです。

しかし、項羽が范増を亜父(父に次ぐ者)と呼んだ事を考えると、記録に残っていないだけで様々な献策があったように思います。

功績が無い人物を項羽は亜父と呼んだりはしないでしょう。

項羽が戦いで強かった理由は、范増の智謀と項羽の武力のお陰かも知れません。

ただし、項羽は楚の義帝(懐王)の殺害や虐殺なども行っているわけです。

それらは、范増も容認して行ったのか、項羽が勝手にやったのかは不明な部分もあります。

それを考えると、范増は本当に名軍師なのか?と思える部分も出て来る事でしょう。

范増は史記に列伝が無い事もあり、項羽の軍師としてインパクトはありますが、謎の部分が多いと言えます。

尚、范増は70歳を超える老人であった事から、楚の宋義の軍で末将になった記録はありますが、兵は率いなかった様に思いました。

因みに、范増が項羽の軍師ならば、劉邦の軍師は張良ですが、二人とも苛烈な部分がある様に思います。

軍師というのは、冷静沈着だけではなく、内面には苛烈な性格を持っているものなのかも知れません。

軍師と言えば、三国志の諸葛亮周の文王や武王を補佐した太公望なども思い浮かびますが、范増は悲劇の軍師とも言えそうです。

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