三国志

龐統『鳳雛と呼ばれた軍師』

2020年8月16日

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宮下悠史

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龐統は諸葛亮にも匹敵する実力を持ったとされている三国志の武将です。

正史三国志に「若い頃はもっさりとしていて評価する者がいなかった」と記述がある事から、三国志演義を始めとする物語などでは、外見弱者として描かれる事も多いと言えます。

ただし、龐統の外見が悪かったとは書かれていないので、成人になったらまともになった可能性もあるでしょう。

今回は「鳳雛」の名前でも有名な龐統を解説します。

因みに、劉表の後継者である劉琮に降伏を勧めた記録が残っている傅巽は、龐統の事を不完全な英雄だと評価した話もあります。

龐統の最後などを考えると、傅巽の言葉は当たっており半英雄とも言えるでしょう。

龐統の子に龐宏がおり、弟に龐林がいた事が分かっています。

尚、三国志には馬超配下で関羽に敗れた龐徳がいますが、同姓というだけで龐統とは繋がりは無いようです。

後に登場しますが、龐徳公と龐徳は別人です。

司馬徽に評価される

先に話した様に龐統の若い頃は地味で評価する人がいませんでした。

しかし、龐統の従兄である龐徳公は龐統を高く評価し、司馬徽(水鏡先生)に会いに行くように勧めます。

司馬徽は諸葛亮や徐庶向朗韓嵩、孟建らの師匠であり、人を見る目が優れていると言われていました。

18歳の龐統が司馬徽に会いに行くと、司馬徽は桑の木に登っていて、葉を摘んでいたわけです。

司馬徽は桑の木の下に龐統を座らせると、昼から夜まで語り合い司馬徽は龐統を高く評価し、これにより龐統の名が知れ渡る事になります。

司馬徽が桑の木の上にずっといた理由は、よく分かりませんが、龐統の外見が本当に悪かったのであれば、

木の上から龐統を見る事で、龐統の外見ではなく話の内容を評価したいと思ったのかも知れません。

龐統は正面から見るとカッコ悪いが、上から見られると角度によっては、普通に見えた可能性もあるでしょう。

因みに、司馬徽は龐統の事を「南州の士人の中で第一の人物になるだろう」とまで言っています。

余談ですが、龐統の事を「鳳雛」と名付けたのは、龐統の従兄の龐徳公であり、龐徳公が諸葛亮を「伏龍」、司馬徽を「水鏡」と名付けました。

龐統の人物評価

龐統は人物を評価するのが好きだった話があります。

人を高く評価する傾向にある

龐統が人物評価をする場合は、褒め称える時は能力以上に相手を評価したと言います。

龐統には相手を高く評価するのは、下記の理由があったとされています。

今の天下は大いに乱れていて、悪人が多く善人が少ないと感じている。現在の状況だと道徳的意識を高めて風俗を向上させるのは難しい。

この時代であれば、良い部分は大袈裟に褒めてやらねば、本人も名誉を得られず良い事を行おうとは思わないはずである。

自分(龐統)が褒めた人の中で、5人が失敗したとしても、残りの5人が教化を高めて志のある努力をする様になるはずだ。

私(龐統)は、こういう考え方も悪くはないと思っておる。

これを見ると龐統の徳の高さと志の大きさが分かるような気がします。

顧邵の評価

顧邵と龐統の人物評価の話が、陳寿が書いた正史三国志に掲載されています。

顧邵は、後の呉の丞相となる顧雍の息子です。

顧邵は直球で龐統に「龐統殿と私(顧邵)は、どちらの方が優れているのか?」と聞いてみます。

龐統は「世俗を評価し人物の優劣を判断する事においては、自分は顧邵殿に及ばない。ただし、帝王の為に献策し、人間が変転する運命のタイミングを知っている点では、私の方が一日の長がある」と答えています。

龐統の評価に納得したのか、顧邵は龐統と深く交わりを結びたいと言います。

陸積や全琮を評価する

赤壁の戦いの大功労者である周瑜が亡くなり、周瑜の部下だった龐統は、孫権に報告に行きます。

孫権がいる呉に報告に行った龐統が、陸績や全琮、顧邵も評価した話があります。

呉の昌門の前に大勢の人が集まり、龐統は次の様な評価をしました。

陸績殿は駑馬ながら速足の能力がある。顧邵殿は鈍牛ではあるが遠くまで荷物を背負っていける。

全琮殿は、施しを好み名声もあるが知力は多くはない。それでも時代を代表する優れた人物である。

歯切れが悪い評価に感じるかも知れませんが、駑馬である陸績が鈍牛である顧邵よりも優れているという事ではなく、

「駑馬は優秀であっても一人しか運ぶ事が出来ない。鈍牛は1日に三百里しか進めないが、運べるのは一人ではない。」とも語っています。

人それぞれに向き不向きがあると語った事であり、人間の優劣を判断したわけでない様です。

尚、顧邵らは龐統と再会を約束し、天下が平定されたら四海の士を評価しようと語った話が残っています。

荊州で仕官する

正史三国志によれば、成人になった龐統は郡の巧曹になった話があります。

当時の荊州を治めていたのは、劉表であり龐統は最初は劉表に仕えたのではないかと思われます。

龐統は誰の下に仕えるなどの拘りはなく、劉表が荊州を治めれば劉表、曹操が荊州を支配下にすれば曹操、周瑜が荊州の責任者になれば周瑜と言った具合に動いたのでしょう。

赤壁の戦いでの龐統

三国志演義だと赤壁の戦いで、龐統が曹操に連環の計を掛けた話があります。

ただし、連環の計に関しては、正史三国志に記載がなく三国志演義の著者である羅貫中の創作ではないかと思われます。

尚、連環の計は曹操を相手に成功させたかに見えましたが、徐庶に見破られてヒヤッとするシーンなども三国志演義にはあります。

徐庶に対して、龐統は西涼の馬超の備えに行きたいと曹操に言えば、喜んで赤壁の戦いから離脱出来ると助言しました。

龐統のアドバイスにより徐庶は、赤壁の戦いの大敗北の巻き添えを食らわずに済んでいます。

後に龐統は周瑜の部下になった事は間違いないのですが、赤壁の戦いの時に周瑜の部下だったのかは分かりません。

正史三国志を見る限りだと、龐統が赤壁の戦いで、どの様な活躍をしたのかは不明です。

周瑜に仕える

赤壁の前後辺りで、龐統は周瑜の部下となりますが、周瑜は龐統を高く評価していた様に思います。

先にの述べた様に、周瑜が亡くなると龐統が孫権に報告に行っています。

周瑜にかなり近い人間でないと、呉の君主である孫権の報告には行かないはずです。

さらに、後に劉備が龐統に、自分(劉備)を呉に留めて置くように周瑜が孫権に進言したのか尋ねた話があります。

ここで龐統は劉備に「周瑜は劉備を危険視していて、呉に留めて置く計画があった」と話しました。

周瑜の計画を龐統が知っていたという事は、周瑜はかなり近くに龐統を置いた事が分かるはずです。

周瑜は龐統を重用した様に思います。

龐統は劉備の入蜀では様々な献策をしている様に、策を好む周瑜は龐統を重用した可能性があります。

劉備に仕える

赤壁の戦いで周瑜は江陵を曹操軍から奪いますが、周瑜が亡くなると江陵は劉備が領有します。

この時に、龐統は呉から劉備の配下に移ったのでしょう。

三国志演義だと周瑜の後継者である魯粛が龐統を孫権に推薦したが、孫権は龐統を重用しなかった話があります。

さらに、龐統は魯粛と諸葛亮に劉備への推薦状を貰いますが、龐統は劉備に推薦状を見せずに小さな県の県令となり酒ばかり飲んでいました。

劉備が張飛を派遣しますが、龐統が張飛に能力の高さを見せつけて、劉備が龐統を重用する話があります。

この話は正史三国志にはなく、赤壁の戦いの連環の計と同様に、三国志演義の著者である羅貫中の創作でしょう。

しかし、周瑜の死後に龐統は劉備の配下となった事は間違いありません。

劉備の入蜀

龐統の最大の功績は劉備の入蜀です。

龐統は劉備が蜀を奪取する前に、雒城で戦死してしまいますが、龐統の実績を紹介します。

劉備に蜀を取る様に進言

益州(蜀)を長年に渡って治めていた劉璋は家臣団を上手くまとめる事が出来ずに、配下の張松や法正が劉備に内応します。

益州から内応者が出た事で、劉備にとっては益州を取る絶好のチャンスが回って来ますが、劉備は劉璋が同族だからと難色を示しました。

龐統は、物事にはその場に応じた対応が肝要であり、仁義道徳だけではうまく行かないと劉備を説得します。

さらに、「龐統は武力を持って益州を奪ったとしても、正しい方法で維持し道義を持って人に報い、事が定まったら大国に封じてやればよい」と力説しました。

追い打ちを掛ける様に、奪える時に奪っておかないと結局は、他人が得するだけであり仁義に拘っている場合ではないと言ったわけです。

これにより劉備は、漢中の張魯を討伐する名目で益州に入る事になります。

劉備の入蜀には、龐統が同行する事になり、諸葛亮、関羽、張飛などは荊州に残っています。

劉璋との会見

益州に入り込んだ劉備と龐統ですが、成都の北にある涪城で劉璋と会見を行っています。

劉備と龐統は名目上は、劉璋を助け張魯を討伐すると言っていたからです。

この時に、龐統は会見で劉璋を捕えてしまえば、軍隊を使わなくても益州を平定出来ると劉備に進言しました。

しかし、劉備は自分はまだ益州に入ったばかりであり、恩愛が行き届いていないと却下します。

ただし、涪城の会見で劉備は劉璋から兵士三万、戦車、甲冑、武器等を援助して貰っています。

劉璋は劉備を信頼しきっており、白水関の守備まで任せてしまったわけです。

劉璋が如何に劉備を信頼し頼りにしていたのかが分かります。

龐統伝だと涪城の会見の前に、龐統が劉備に上策、中策、下策を進言した事になっていました。

しかし、先主伝の記述を見ると、龐統は一度に上中下の3つの策を提示した様には思えませんでした。

むしろ、状況によって策を出したと言うのが正しい様に思います。

成都急襲策を進言

涪城での会見が終わると劉璋は成都に帰ってしまいます。

ここで龐統は、劉璋は備えをしていないから、精鋭の兵士を使い昼夜兼行で成都を急襲するべきだと劉備に進言しました。

龐統は劉備に「ここで劉璋を攻めれば1回の戦闘で益州が取れる」と言います。

龐統は、これが最上の策だと力説したのですが、劉備はここでも却下しています。

龐統にとってみれば、かなり歯がゆい展開だったのかも知れません。

劉備は劉璋の依頼の通りに北上し、張魯討伐の構えを見せます。

龐統にとってみれば、劉備が本当に張魯を討伐してしまうのではないかと、ハラハラしたのかも知れません。

しかし、劉備は北上すると、劉璋から預けられた資金を使い益州北部の豪族や名士の懐柔を行っています。

彭羕(ほうよう)を推挙

劉備の入蜀とは、直接関係ありませんが、龐統が益州にいる時に彭羕と出会っているので紹介します。

この時の彭羕は、人々に悪く言われた為に、労役囚に身を落としていました。

彭羕は、龐統に会うといきなり、龐統の寝台に寝転んだとも言われています。

龐統は彭羕に食事を出し、語ってみると優れた人材だと認めて二晩も話し込んだと言われています。

龐統は彭羕の実力を認めて劉備に推挙しました。

劉備も彭羕の実力を認めて配下として重用しています。

ただし、彭羕は性格に問題があり、段々と態度が傲慢になっていき、後に劉備や諸葛亮により左遷されてしまいました。

彭羕は馬超を誘って謀反を企てた話しもありますが、最後は処刑されています。

人物評価を好んだ龐統であっても、人の全てを知る事は出来なかった様です。

劉備が益州を乗っ取る事が露見

劉備は北上したのですが、ここで孫権や関羽が曹操や楽進と戦っているからと援軍要請が来ます。

劉備は劉璋に、さらに援助を要請しますが、劉璋は希望の半分しか与えませんでした。

この頃から劉璋も張魯と戦おうとしない劉備を怪しんだのかも知れません。

因みに、劉備は荊州には帰りませんでしたが、濡須口の戦いでは呂蒙の活躍があり孫権は単独で勝利し、関羽も青泥で楽進を退ける事に成功します。

張松の兄である張粛が劉璋に、劉備に内通している事を暴露した為に、劉備や龐統の計画が露見してしまいます。

ここにおいて、劉備陣営と劉璋陣営の間で全面戦争が勃発しました。

龐統の策

劉璋との戦いを渋っていた劉備ですが、計画がバレてしまった以上は戦わないわけには行きません。

劉備は龐統に策を求める事にします。

龐統は白水関を守る高沛、楊懐の軍勢を奪い、南下して成都を攻撃するのがよいと言います

劉備は高沛と楊懐は、自分を怪しんでいるから、警戒して軍勢を奪えない事を心配しました。

龐統は高沛、楊懐が怪しんでいるのであれば、劉備が荊州に帰ると言えば、高沛、楊懐は喜んで挨拶に来るから、そこで軍勢を奪えと進言しています。

劉備達のいる場所よりも白水関は北にあり、劉備が劉璋に反旗を翻した情報は入っていない事を予測した策です。

龐統は劉備に、白帝城まで退き荊州に移動しながら状況を見て策を決めるのは下策であり一、番やってはいけない事だとも付け加えています。

劉備は龐統の進言を入れて、高沛と楊懐をおびき寄せて斬り軍勢を奪って南下し成都を目指しました。

付け加えておきますが、劉璋との戦いで大活躍したのが黄忠です。

劉備と龐統のやり取り

黄忠の活躍もあり連戦連勝だった劉備軍ですが、成都の北にある涪まで来た時に、気を良くしたのか大宴会を催しています。

ここで劉備は龐統に「行く先々で戦いで勝利し、これほど楽しい事は無い」と言います。

それを聞いた龐統は「他人の国を奪って喜んでいるのは、仁者の戦いではない」と諫めました。

劉備は周の武王の例を出して、「お前(龐統)の言う事は的外れだ」と怒り退出させます。

しかし、劉備は少しすると自分の過ちに気が付いたのか、再び龐統を呼び「先ほどの話は、どちらが間違えていたのか?」と龐統に問います。

すると龐統は「君臣ともに間違っていました」と答えた為、劉備は笑った話があります。

龐統の最後

連戦連勝で、益州を取る一歩手前まで来ますが、ここで龐統が戦死する事になります。

三国志演義の龐統の最後

三国志演義だと、諸葛亮が馬良を使いとし、龐統の死を予言します。

しかし、龐統は諸葛亮が自分の活躍を嫉んでの言葉だと考え、劉備にさらに軍を前進させる様に進言しました。

龐統は魏延を先方にして細い道から進軍し、劉備は黄忠を先陣にして大きな道より軍を前進させる様に意見します。

劉備は前日の夢の中で、神人が出てきて劉備の肘を打ったと言い、さらに出撃前に龐統の馬が暴れ出し、龐統は落馬します。

三国志演義だと龐統の身に禍が及ぶ前兆が起きていたわけです。

劉備は龐統に自分の馬である的盧を貸す事にしました。

雒城に向かって龐統は進言しますが、途中で劉璋配下の張任が待ち構えていて、龐統を一斉射撃します。

地名が落鳳坂だった為に、龐統は死期を悟り絶命しました。

張任は、的盧を見た事で劉備を龐統だと思って射殺したわけです。

これが三国志演義の龐統の最後でありドラマチックに演出されています。

正史三国志の龐統の最後

正史三国志の龐統の最後は下記の記述があるだけです。

「進軍して雒を包囲した。龐統は軍勢を率いて城を攻撃したが、流れ矢に当たって亡くなった。時に36歳だった」

これだけだと龐統は城攻めの最中に亡くなった事だけが分かり、正確な最後はよく分からないと言えるでしょう。

あくまで想像なのですが、この時の劉備軍は戦えば勝ちましたし、綿竹を守っていた李厳の様に劉備に寝返る者も少なくありませんでした。

その中で龐統が雒城を攻めたのですが、城を落とすのに手こずったと言うのが正しい様に思います。

雒城を守っていたのが、劉璋の子である劉循と張任だったのも運の悪さがあります。

劉循と張任の奮戦があり、龐統は手こずり城を落とせない事を恥じた龐統が、兵の士気を上げるために前線に行った事で流れ矢に当たり討ち死にしたのではないでしょうか。

尚、正史三国志の記述だと張任は度々出撃した記述もあるので、出撃した張任軍の攻撃を受けて龐統は戦死したのかも知れません。

劉備は龐統の死を悲しみ、龐統の話を聞くたびに涙した話が残っています。

劉備は龐統の功績の大きさが分かったいたのでしょう。

因みに、龐統が亡くなり悲しむ劉備に「龐統は君臣の道に反した」と述べた張存がいましたが、張存は劉備の怒りを買い免官としました。

張存の話を見ても、劉備が龐統の死をどれだけ惜しんだのかが分かるような気がします。

尚、龐統の弟に龐林がおり、龐林は夷陵の戦の時に、黄権と共に魏に降伏しました。

龐統の子の龐宏は、劉禅の時代に権力を握った陳祗に嫌われ、左遷された話があります。

龐統の評価

龐統に関して思った事を幾つか記述したいと思います。

龐統は、正史三国志の劉備にした進言を見ても明らかに軍師タイプとなるでしょう。

かなりの知力を持っていた様に思います。

龐統が雒城を落とせなかったのは、城を守る劉循と張任に隙が無かったからだと感じました。

策は相手に隙があれば、役に立ちますが、内応する者も出ずに士気が高い城であれば落とすのは難しいはずです。

周瑜が江陵の曹仁に苦戦して矢傷を受けたのも、曹仁に隙が無く苦戦したのでしょう。

尚、龐統が戦死せずに劉備の入蜀が成功していたら、蜀の丞相には龐統がなっていのたかも知れません。

定軍山の戦い法正ではなく龐統が同行し、夏侯淵を討ち取る策を考えた可能性もあるでしょう。

龐統の死が無ければ三国志は大きく変わっていたのかも知れません。

諸葛亮も関羽と共に荊州の守備に就いたはずです。

それを考えれば、龐統の死が蜀漢で如何に大きかったのかが分かります。

尚、龐統が生きたまま入蜀する事になれば、蜀の丞相は諸葛亮ではなく龐統がなっていた可能性も十分にあるはずです。

諸葛亮の北伐ではなく、龐統の北伐もあり司馬懿と龐統が激突した可能性もあるのかも知れません。

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