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構成・文/宮下悠史

秦末期・楚漢戦争

蒯通は楚漢戦争を生き抜いた弁士

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蒯通は楚漢戦争において、韓信に独立を勧め天下三分の計を勧めた人物として有名です。

天下三分の計は、三国志の諸葛亮のアイデアだと思っている人もいるかも知れませんが、天下を三つに割るという発想は蒯通の方が先に出しています。

蒯通は韓信の最後の言葉である「蒯通の策を用いなかった事で、こんな事になってしまった。」と述べた事でも有名でしょう。

蒯通は韓信に謀反を勧めた人物として、劉邦に煮殺されそうになりますが、劉邦の前でも弁舌を振るい許されています。

今回は楚漢戦争において、韓信に独立勢力になる様に勧めた人物である蒯通を解説します。

因みに、史記によれば蒯通は范陽の人とあり、出身地も記載されていました。

史記には蒯通の伝はありませんが、張耳陳余列伝や淮陰侯列伝に記録が存在しています。

尚、蒯通の読み方は「かいつう」であったり、「かいとう」であったりと人によって分かれます。

武臣が趙を取る

武臣が趙を取りますが、蒯通の献策により、城を降す事が出来たお話です。

弁士蒯通のデビュー戦とも言える出来事となります。

武臣の趙攻略戦

始皇帝が崩御し、世の中が乱れると陳勝呉広の乱が勃発します。

陳勝は陳を本拠地とし、張楚を建国し各地に将軍を派遣しました。

陳勝が趙に派遣したのが武臣、張耳、陳余だったわけです。

武臣らは趙の十城ほどを攻略しましたが、残りの城は堅固に守り落とすのが難しい状況でした。

こうした中で武臣らは、范陽を攻撃しています。

この時に、范陽には蒯通がいたわけです。

 

県令への進言

范陽の県令は武臣らに攻撃されて苦しい立場でしたが、ここで蒯通が范陽の県令に面会を求めます。

范陽の県令にあった蒯通は、いきなりお悔やみの言葉を述べ、続いて祝言を述べた話があります。

「お悔やみ」と「祝言」を同時に述べたのは、県令に興味を持たせる為の蒯通の話術なのでしょう。

県令は蒯通に対し「お悔やみ」を述べるのは何故か?と問うと、蒯通は次の様に述べています。

蒯通「秦の法律は真に厳しいと言えます。

あなたは10年も范陽の県令をしていますが、その間に人の親を殺害し、罪を犯せば足斬りを行い、罪人には入れ墨をするなど数えきれません。

罪を得た者の一族が、あなたに対し仕返しをしなかったのは、秦の法律が厳しかったからです。

しかし、今の状況を見るに天下は大いに乱れ、秦の法律が実行される事はありません。

あなたに恨みを持った人々は、ここぞとばかりに、あなたを刺し殺し名を挙げようとする者が出る事は必定です。

これが、私があなたにお悔やみを申した理由となります。」

蒯通の言葉からは、県令が秦の法律に従い多くの人々に刑罰を与えた事が分かります。

蒯通は范陽県の県令の命が、何もしなければ風前の灯火だと思ったのでしょう。

しかし、蒯通は次の様に述べる事になります。

蒯通「今や諸侯は反秦の兵を挙げ、武信君(武臣)の兵は、この地に攻め寄せています。

あなたは今もなお、范陽の城を堅守しようとしていますが、范陽の若者たちは、あなたを殺害し反乱軍に身を投じようとしています。

ただし、あなたが私を武信君の元に使者として派遣し、武信君に会う事が出来れば、禍を転じて福と為す事が出来るでしょう。

このチャンスは今しかありませぬ。」

范陽県の県令も、このまま籠城していても、民衆に殺害されてしまうだけだと思ったのか、蒯通を武臣の元に派遣したわけです。

 

武臣を説得

蒯通は武臣の前に行くと、次の様に述べています。

蒯通「あなた(武臣)のやり方を見ると、戦いを行ってから領地を得ています。

しかし、私はやり方が間違っていると考えております。」

蒯通は武臣に対して、趙の城を攻めて降す事で、領地を得ていた武臣のやり方が間違っていると述べたわけです。

さらに、蒯通は次の様に続けます。

蒯通「あなたがもし、私の謀を採用するのであれば、城を攻めないで降す事も出来ますし、戦わないで領地を増やす事も出来ます。

あなたがやる事は、檄文を各地にばらまく事だけです。

これだけで、千里の地方を制圧出来ますが、如何でしょうか。」

武臣は趙の十城は降す事が出来ましたが、秦に帰属する城の堅守に手を焼いていた事もあり、蒯通の言に興味を持ったわけです。

蒯通は武臣に策を述べる事になります。

蒯通「現在の范陽の県令は、本来は兵を整えて戦わねばなりません。

しかし、県令は卑怯にも死を恐れ、貪欲にも財産を追い求めております。

県令はあなたに降伏したいと思っていますが、降伏した後に誅されるのではないかと心配しております。」

武臣らは趙の十城を陥落させた時に、責任者を全員処刑していた事もあり、蒯通の言葉に耳を傾けました。

蒯通は次の様に述べています。

蒯通「現在の范陽の城の中では、若者たちが県令を殺害し、あなたに抵抗しようとも考えている状態です。

今の状態でしたら、あなたは私に范陽の印綬を持たせ、范陽の県令に与えるのが得策となります。

あなたが范陽の県令を新たに県令として任命されれば、范陽の県令は降伏し、若者たちも敢えて県令を殺害しようとは思わないはずです。

さらに、あなたは派手に范陽の県令を持て成せば、降伏した者が重用される事を知り、役人たちも安心する事でしょう。

この話が広まれば、趙や燕の地では、城を攻めるまでもなく、降す事が出来ます。

檄文を送るだけで、千里の地を平定出来る策なのです。」

武臣は蒯通の進言の通りにすると、范陽の県令は降伏し、趙の城で戦わないで降伏した城が三十もあった話があります。

蒯通の策により、30の城を降す事が出来たとも言えるでしょう。

因みに、武臣、張耳、陳余らは趙を制圧すると、燕を制圧しようと考え韓広を派遣しました。

しかし、韓広は燕で独立する結果となっています。

 

韓信の斉攻略

蒯通が韓信をけしかけた事で、韓信は無防備な斉を攻撃し、斉を平定しています。

韓信の配下となる

趙で武臣らに策を授けてからの蒯通は、一旦は歴史から消える事になります。

秦は滅亡しますが、この間に蒯通がどの様な行動を取ったのかは不明です。

蒯通が次に歴史に登場する時は、楚漢戦争の真っただ中で韓信の配下となっていました。

ただし、蒯通がどの様な経緯で韓信の配下になったのかは、はっきりとしません。

蒯通が韓信の配下として進言するのが、斉の攻略前なので、蒯通は趙の付近におり、韓信が趙歇、陳余を破った頃に、韓信の配下になった様にも思います。

 

韓信をけしかける

劉邦は斉の攻略を韓信に命じました。

韓信は軍を率いて斉を目指しますが、劉邦は別に酈食其を斉に派遣したわけです。

酈食其は斉王田広や宰相の田横の前で弁舌を駆使して、斉の70城程を降伏させています。

斉王田広は、漢に帰順した事で防備を解きました。

この時に韓信の軍は平原津におり、酈食其が斉を降伏させたとする情報が入ってきます。

韓信は斉の攻撃を中止しようとしますが、蒯通が次の様に述べています。

蒯通「これは将軍(韓信)が詔を受けて斉を攻撃しているのに、漢王が独自に使者を派遣し斉を降伏させてしまったのです。

ここで将軍が斉を攻撃したとしても、漢王は詔を出して止める事は出来ないでしょう。

将軍としても、斉を独自で攻略すべきです。

酈食其は一介の士に過ぎませんが、口先だけで斉の70城を降しています。

それに対し、将軍は数万の兵を率いて、1年以上の費やし趙の50城を攻略しただけです。

韓信様は将軍たること数年ですが、一介の儒者の小僧にも及ばないのでしょうか。」

蒯通は韓信をけしかけたわけです。

韓信は蒯通の進言を聴き入れて、無防備な斉に攻撃を仕掛け大勝しました。

斉には田横なる優れた人物がいましたが、不意を衝かれた事もあり何も出来ぬまま敗れてしまったのでしょう。

因みに、蒯通にけしかけられた韓信が斉を攻撃した事で、斉王田広は酈食其に騙されたと思い、酈食其を煮殺しています。

蒯通の策の犠牲者が酈食其だったと言えます。

尚、この時の蒯通の頭の中には、韓信を斉で独立させ第三の勢力になる構想があった様に思います。

 

蒯通の天下三分の計

蒯通は韓信に独立を勧め天下三分の計を進言しました。

斉王韓信

斉王田広が楚に救援を求めると、項羽は龍且を派遣しました。

しかし、韓信は用兵の天才であり斉楚連合軍を打ち破り、田広と龍且を殺害しています。

斉では田横がいましたが、田横も灌嬰に敗れています。

斉を平定した韓信は、劉邦に使者を派遣し、斉王になりたいと述べました。

劉邦は気分を害しますが、参謀の張良陳平は韓信が斉王になれる様に、劉邦に進言しています。

劉邦は張良を使者とし、韓信は斉王になったわけです。

物語などでは、蒯通が韓信に「今なら斉王になれる。」と述べる様な事が多いのですが、史記を見ると「韓信が使者を派遣した。」とあるだけであり、蒯通の名前は出ては来ません。

しかし、蒯通は韓信が斉王を望む様子を見て、「このまま行けば韓信は滅びる」と危機感を持った可能性もある様に思います。

 

韓信に暗に独立を勧める

韓信は斉王となりますが、韓信が斉王になるのは劉邦が望んだわけではなく、劉邦は韓信に対して不満だったわけです。

劉邦は猜疑心が強い部分があり韓信だけではなく、後には蕭何、樊噲、盧綰なども疑っています。

この時に、楚の項羽は劉邦と対峙していましたが、韓信に味方の諸侯を制圧され、彭越に糧道を断たれるなど苦しい立場となっていました。

項羽は武渉を派遣し韓信を味方に付けようとしますが、韓信は劉邦への恩義を優先し、武渉の進言を退けています。

武渉が去った後に、蒯通は天下を決める権限が韓信にある事を悟り、奇策を進言し韓信を感動させたいと思った話があります。

蒯通からしてみれば、この時を逃せば、韓信は劉邦によって、処刑されてしまうと思った可能性もあるはずです。

蒯通は偽って韓信に人相を見させて欲しい述べ、蒯通は韓信に次の様に述べています。

蒯通「人の貴賎は骨相にあり、成功や失敗は決断力にあります。

この事を考えると万が一にも的中しない事はありません。」

韓信は蒯通に人相を見る様に依頼しますが、蒯通は左右の者を遠ざけて二人だけになる事を願います。

韓信が周りの者を下げると、蒯通は次の様な話をします。

蒯通「あなたの顔を見るに、地位は封侯となり、危うく安らかではありません。

しかし、あなたの背中を見るに、とても尊貴であり言葉では言い尽くせない程です。」

蒯通の言葉からは、封侯としては韓信は危険だと述べたのでしょう。

ただし、韓信の背中が尊貴と語っており、天子になれると暗に言った様にも感じます。

韓信は蒯通に話を詳しく教えて欲しいと述べ、蒯通は次の様に答えました。

蒯通「天下が乱れると英雄豪傑が出現し、王侯を称した者が多く現れました。

当時の彼らの目的は秦を滅ぼす事のみに集約されていたわけです。

今の状態を見るに楚と漢が争い、骸骨が野に晒される事は普通にあります。

楚の項羽は彭城から起こり、逃げる敵を追い滎陽に至り、その威勢は天下を震撼させた程です。

しかし、項羽の軍は京・索の間で苦しみ、3年が経過しても前に進む事が出来ません。

漢王(劉邦)は数十万の兵を率いて、鞏や雒で山河の険阻な地形を利用して戦うも、功績を挙げる事が出来ませんでした。

この状態は『智者(劉邦)・勇者(項羽)共に苦しむ。」の状態とも言えます。

天下の者は疲れ困窮し、天下の聖賢に頼らなければ、天下の禍を止める事が出来ません。」

蒯通は韓信に項羽と劉邦が争ってはいるが、どちらも一進一退の攻防を続け、天下の者たちが苦しんでいると述べたわけです。

蒯通の言う「天下の聖賢」というのは韓信の事であり、韓信に天下を救えと述べた事になるでしょう。

蒯通はさらに言葉を続けます。

蒯通「現在の状況で二王(項羽と劉邦)の運命の勝敗を決めるのは、あなた(韓信)に掛かっています。

あなたが漢に味方すれば漢が勝利し、楚に味方すれば楚が勝利する事でしょう。」

この言葉は楚の武渉と同じであり、蒯通も楚漢戦争のキーマンは韓信だと考えていた事が分かります。

 

天下三分の計を述べる

蒯通は韓信に「我が謀を述べたいが、聴き入られれない事を恐れる。」と述べた上で、韓信に次の様な献策をしています。

蒯通「ここでの最良の策は二王を両立させ、天下を三分し鼎の足の様に、三方に割拠させるべきです。

あなたの賢聖で多くの甲兵を率いて、斉に割拠し趙や燕を従わせるべきだと存じます。

さらに、漢楚の戦いがない地域を平定し、漢と楚の背後を制すのが良策です。

民衆の為に楚漢の戦いを止めさせ、士卒の命を救うのであれば、天下にあなたの命令を聞かぬ者などいないはずです。

こうした上で強国を割き、弱国を弱めて諸侯に立てるのがよいでしょう。

徳で諸侯を手懐け儀礼を恭しく行えば、天下の諸侯は争って斉に参朝する事になります。

私は『天に与えられたものを受けなければ、咎めを受ける』と聞いております。

『時宜にあった事をしなければ、かえって禍を受ける。」とも言われております。

願わくば御熟慮なさいますように。」

蒯通は韓信にはっきりと独立を勧め、韓信が独立勢力になった後に、どの様にすればいいのかの指針も示したわけです。

蒯通は韓信に、項羽にも劉邦にも無いような徳で、天下の心を掴むように述べた事になるでしょう。

尚、蒯通の言葉からは天下三分の計が出ている事も分かるはずです。

 

拒絶する韓信

蒯通は天下三分の計を韓信に勧めますが、韓信は蒯通の進言を却下しました。

韓信は武渉の時と同様に、劉邦への恩義を口にし、劉邦が自分を信頼してくれていると述べたわけです。

しかし、蒯通もここで引き下がらず、刎頸の交わりを結んだ張耳と陳余であっても、後には刎頸の交わりを解消し憎しみあったと述べます。

蒯通は張耳と陳余よりも、韓信と劉邦の関係が親しいのかと問う事になります。

さらに、春秋時代末期に越王勾践の配下の范蠡と文種は、勾践が覇者になったら、范蠡は逃亡し文種は処刑された事を述べます。

蒯通は韓信は魏豹、陳余、龍且を破った功績は大きく、劉邦を恐れさせるには十分だと伝えました。

韓信は蒯通に考えさせて欲しいと述べ、下がらせたわけです。

数日後に韓信は蒯通を呼び出しますが、「劉邦を裏切る事は出来ない。」とする決断を降しました。

史記によれば、この時の韓信は独立勢力になるのは忍びないし、自分には功労が多いから処刑される事はないと考えていた話があります。

蒯通は韓信が自分の策を採用しなかった事で、身の危険を感じ狂人の振りをして逃亡しました。

韓信は蒯通の策は退けましたが、楚漢戦争終了後に謀反を起こそうか悩んだ話があります。

 

韓信の最後

楚漢戦争は劉邦の勝利で幕を閉じますが、楚漢戦争の終了後に韓信は斉王から楚王に移されたわけです。

韓信は鍾離眜を匿うなどの行動もあり、劉邦に疑われ捕らえられてしまい、楚王の位を剥奪され淮陰侯に降格されています。

韓信は陳豨を使い謀反を企てますが、呂后や蕭何の策により捕えられて命を落とす事になります。

韓信は処刑される時に、次の様に述べた話があります。

韓信「蒯通の策を用いなかった為に、こんな事になってしまった。これも天命なのだろう。」

韓信の言葉からは、無念の心情が出ており、蒯通の進言は最後まで頭の中にあったのでしょう。

韓信も蒯通が進言した時に、独立していれば展開は変わっていたかも知れませんが、劉邦の天下が定まってからの謀反は時期が遅かったと言えるでしょう。

 

蒯通と劉邦

韓信の最後の言葉を聞いた呂后は、劉邦に次の様に述べています。

呂后「韓信は最後に、『蒯通の策を用いなかった事が残念だ。』と述べていました。」

劉邦は蒯通の事を『斉の弁士だ』と述べ、詔を出して蒯通を捕え、自分の前まで連行したわけです。

劉邦の言葉からは蒯通の事を知っていた事が分かり、「韓信をそそのかして、斉に攻撃を加えさせた人物」としての認識があった様に思います。

劉邦は蒯通に「お前が韓信に謀反を教えたのか。」と尋ねると、蒯通は次の様に答えています。

蒯通「いかにも、その通りです。私が教えた事に間違いありません。

ただし、韓信の小僧は私の策を用いなかったので、自ら死を招く結果となったのです。

韓信の小僧が私の策を用いていたら、陛下(劉邦)は、どうして韓信を殺害する事が出来たでしょうか。」

劉邦は怒って「蒯通を煮殺せ。」と命じますが、蒯通は次の様に呟きました。

蒯通「ああ。無罪の罪で煮殺されてしまうとは。」

劉邦は激怒し「お前は韓信に謀反を教えたではないか。何が無実の罪だ」と述べます。

蒯通は負けじと、次の様に答えました。

蒯通「秦の政令が崩れた時に関東は大いに荒れる事になりました。

天下の英雄豪傑は鳥の如く集まり、秦は天下を失い、足の速い傑物(劉邦)がこれを仕留めたのです。

盗跖の犬が堯帝に吠えるのは、堯帝が不仁だからではありません。

ただ単に主人でない者に、吠えたに過ぎないのです。

あの当時の私は韓信は知っていましたが、陛下(劉邦)の事は知らなかったのです。

今の天下には、精鉄を研ぎ陛下の真似をしようとする者は非常に多いと言えます。

ただ顧みるに、自らの能力が足らぬ事を思うだけです。

こうした者達を悉く、煮殺す事が出来るでしょうか。」

劉邦は蒯通の言葉を聞くと、「処刑をやめよ。」と述べ、蒯通の処刑を取りやめています。

蒯通が述べた盗跖は古代の大盗賊であり、悪行三昧の生活をしたと伝わっており、堯は五帝の一人に加えられる伝説の聖人とも呼べる人物です。

蒯通が述べた「盗跖の犬が堯に吠えたのは、主人でない者に吠えたに過ぎない。」の例えは、非常にうまいと感じました。

 

蒯通の評価

蒯通が劉邦とのやり取りにおいて、韓信の事を小僧と呼んでいるのは、自分の策を取り上げなかった無念さもある様にも感じています。

韓信は最後に蒯通の言葉を用いなかった事を後悔したようですが、蒯通も自分の策を聞き入れなかった韓信を残念な奴に思ったのかも知れません。

韓信は後悔しましたが、蒯通は策を用いない韓信に対し憤慨する気持ちもあった様にも思いました。

蒯通は明らかに策士であり、韓信の鈍さを思い出すと腹が立った様にも感じています。

蒯通の進言で仮に韓信が独立を果たしていたら、蒯通も名はもっと有名になっていた事でしょう。

尚、三国志で諸葛亮が劉備に天下三分の計を説いていますが、蒯通の方が先に天下三分の計を説いている事も分かるはずです。

さらに言えば、項羽配下の武渉の方が先に天下三分の計を説いています。

それでも、蒯通は秦末期から楚漢戦争を己の知略と弁舌で堂々と生き抜いた策士だと言えるでしょう。

楚漢戦争を彩る人物の一人だと感じています。

尚、史記の淮陰侯列伝には、蒯通が韓信に述べた言葉が長々と記載されており、興味があれば全文を読んでみるのもよいでしょう。

司馬遷は戦いに関する記述は簡略ですが、出処進退に関わる記述は詳しく掲載する傾向にあります。

それ故に、蒯通と韓信のやり取りも長々と掲載したのでしょう。

蒯通の子孫

蒯通の子孫ですが、三国志で劉表に仕えた蒯良や蒯越は蒯通の子孫だとも考えられています。

蒯越は何進、劉表、曹操に仕え、曹操からは「荊州を得たよりも蒯越を得た事の方が嬉しい。」とする手紙を荀彧に出した話があります。

蒯通も策士でしたが、蒯越も蒯通に負けない位の策士だったとも言えるはずです。

蒯越は曹操の配下となるや光禄勲となり列侯に任命され、重用された話があります。

 

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