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宦官を徹底解析

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宦官は去勢された男性であり、後宮などに出入りし、皇帝の身の回りの世話などの仕事を行っていた人々を指します。

去勢された人間である為、臭いなど人々には気持ち悪がられたりした話もありますが、皇帝の側にいる為、絶大な権力を握った宦官も存在します。

宦官は異民族を去勢したり、罪人を宮刑により、宦官にした話もありますが、皇帝の側にいる事で、絶大な権力を得られる可能性もあり、自ら進んで宦官になる人もいたわけです。

尚、宦官と言えば、秦の趙高や三国志の十常侍など悪徳宦官を思い浮かべる人もいますが、実際には紙を発明した蔡倫や、明の永楽帝の元で武功を上げ、7度の大航海を行った鄭和の様な人物もいます。

春秋戦国時代に、趙の恵文王に気に入られ、藺相如を推挙した繆賢も善良な宦官と言えるでしょう。

尚、宦官の制度は日本では、採用されていません。

今回は、宦官がどの様な人々だったのかを解説します。

因みに、最後に記載した「宦官列伝」は、随時更新していく予定です。

 

宦官の始まりは遊牧民だった

一説によると、宦官の始まりは遊牧民からだとする説があります。

遊牧民は、動物を管理したり自分たちに従順にし、自分達の食べる肉を向上させる必要があったわけです。

そこで、遊牧民たちは、動物たちを去勢し、大人しくさせ自分たちに従順にする様に仕向ける事になります。

それを考えれば、宦官の始まりは動物の去勢とも考える事が出来るはずです。

尚、遊牧民と言えば馬に乗っている姿を想像する人が多いようですが、遊牧民が乗る馬は去勢された牡馬であり、非常に従順であり飼い主の言う事をよく聞いた話があります。

遊牧民の去勢技術を人間に使い、大人しくさせ奴隷にした話もあります。

さらに、去勢した男性を官僚として雇ったのが、宦官の始まりとされています。

宦官と言えば中国のイメージが強いですが、去勢された人間の話は、ユーラシア大陸の全般にあり、古代ギリシャや古代ローマでの戦争捕虜などは去勢された話があります。

それでも、宦官は中国が最も有名であり、後宮を管理する役人として重宝され、去勢された男性は古代ローマやギリシア、イスラム諸国、北アフリカなどで各地で存在しています。

古代メソポタミア文明シュメール人の時代にも、既に去勢された男性はいたともされ、宦官の歴史はかなり古いと言えるでしょう。

尚、後宮は皇后や妾などが暮らす宮殿の事であり、万が一に備え生殖器が無い宦官が使われたわけです。

 

玉を取るのが重要

宦官と言えば、男性のサオを取るイメージがある人が多い様に思います。

しかし、去勢する上で大事なのは、サオではなく「玉」を取る事です。

男性ホルモンはテストステロンと呼ばれる事がありますが、テストステロンの95%は「玉」で作られている話もあります。

つまり、「玉」が無くなれば、男性はテストステロンが分泌されなくなり、大人しくなります。

尚、人間の去勢された状態を「浄身」と呼ばれたりもします。

 

日本には宦官の制度が無かった

日本には宦官の制度も奴隷制度も無かった話があります。

ユーラシアの文明の中で、唯一日本だけは宦官制度も男性を去勢する事もなかったとされているのです。

日本は奴隷制度も宦官制度も入らずに、独自の文化を発展させていきます。

日本も中国から律令制度を導入したり、学んでいた部分も多々あり、奴婢の制度が出来た事もありましたが、律令制の崩壊と共に瓦解したとされています。

日本では10世紀に奴婢廃し令も出されたわけです。

因みに、日本で宦官制度が導入されなかった理由は、日本は海に囲まれた島国であり、海産物から栄養を摂取していました。

魚や貝は陸上の動物と違い、言う事を利かせる事も出来ませんし、去勢する事も出来ません。

日本では家畜を管理する必要が余りなく、動物を去勢する技術も発展しなかった事から、宦官が導入されなかった話があるのです。

日本では宦官の文化が合わなかったとも言えるでしょう。

さらに言えば、中国で暴虐な宦官が実権を握り国が傾く様子を知り、遣隋使や遣唐使ら日本の留学生は学んで取り入れなかった説もあります。

尚、海外では宦官が当たり前のようにいて、「何で日本は宦官の制度がなかったんだ」と疑問視する声もある位です。

 

中国での宦官の始り

古代中国では、羌族を捕え宦官にしようか神に伺い立てた甲骨文字が見つかっているわけです。

これを考えると、殷王朝の時代には、既に宦官の制度があり、中国の宦官の歴史は3000年以上も遡る事が出来ます。

最初のうちは、異民族を捕えて去勢し服従させる事が多かった様です。

さらに、刑罰としても去勢が用いられ、重罪人は「宮刑」と呼ばれる去勢される刑罰も出来る事になります。

史記を書いた司馬遷も李陵を弁護した事で、漢の武帝の怒りを買い「宮刑」に処されています。

尚、司馬遷は去勢された怒りを執筆にぶつけ、史記を完成させた話もあります。

秦を破滅に導いた趙高は、母親が罪を犯し連座で趙高も幼い頃に宦官になったとされています。

捕らえた異民族を去勢したり、罪を犯した人物を去勢するのは、ペナルティ的な意味合いが強いです。

しかし、中には自分から進んで宦官になろうとする者もあらわれる事になります。

 

自ら率先して宦官になった者もいる

宦官になれば、衣食住の生活が保障されます。

辛い強制労働を強いられた者であっても、宦官になれば暮らしは一変するわけです。

さらに、皇帝や王族に気に入られれば、莫大な富を得る事が出来、権力者として権勢を振るう事が出来る事になります。

貧しい家では、息子を去勢し宦官とし、出世を願う親も現れる事になります。

宦官の中には、貧しい生活を一変させる為に、自ら宦官になった人物もいると言う事です。

尚、前漢の文帝時代の中行説などは、富を得るために自ら進んで宦官になった話があります。

ただし、中行説は匈奴の老上単于に妻となる閼氏のもりやくとして、匈奴に行く事になり、漢を恨んだ中行説は、匈奴の老上単于に盛んに漢を攻撃する様にけしかけた話しもあります。

中行説を匈奴に送った事で、漢は禍を受ける事になります。

尚、明の時代に自ら皇帝になろうとしたとされる、劉瑾も自ら進んで宦官になった話があります。

 

宦官は恥ずべき行為

先に述べた様に、男性が去勢される事を浄身と呼び、宦官になる事が出来たわけです。

しかし、宦官になれば子孫を作る事が出来ず、親不孝であり恥ずべき行為と考えられていました。

宦官になった者は一族の恥として考えられ、家畜以下の存在であり、死んでも一族の同じ墓に入る事が出来なかった話があります。

皇帝や王の中には「宦官を人間として見た事は一度もない」との発言も残っており、皇帝の機嫌一つで簡単に処刑される存在でもあったわけです。

尚、宦官として成功した者は財を成し、晩年は仏教や道教の師を拝し過ごした話もあります。

ただし、後宮を追い出され、野垂れ死んでしまった宦官も多くいたとされます。

宦官は皇帝にそばにいるとはいえ、実家とは絶縁されるケースも多く危うい存在でもあったわけです。

 

宦官の仕事

宦官の仕事を考えると、皇帝の側にいるだけに思うかも知れません。

しかし、実際の宦官は多くの仕事をしていた話があります。

皇帝や皇后、妃たちが食べる物を作るのも宦官の仕事です。

身分の高い人たちは、時には100種類の料理を用意する必要があり、かなりの人数が必要だったとされています。

他にも、後宮の掃除や、皇帝や王族の為の京劇をしたり、軍に従事する宦官もいました。

宦官は後宮にいて、幅広い仕事を与えられていたわけです。

「宦官=楽な仕事」ではありません。

尚、宦官は少しのミスで処刑される事も多く、気の抜けない職場だったとも言えるでしょう。

 

宦官になるとどうなるのか

宦官になると身体的な特徴も含めてどの様に変化するのか解説します。

姿勢が猫背になる

宦官になると、前かがみの猫背となり、ちょこちょこ歩くようになり、遠くからでも宦官だと分かった話があります。

宦官になると、テストステロンが分泌されなくなり、筋肉が付かない事が原因で猫背になるのかも知れません。

ただし、普通の女性よりは力仕事が出来た話しもあります。

普通の成人男性よりは筋力が劣る場合が多く、女性よりは力仕事が出来た存在だったのでしょう。

 

髭が生えなくなる

さらに、宦官は髭が生えなくなり、髭があった者も髭が抜け落ちたとされています。

尚、テストステロンと言えば、男性ホルモンを指し、禿げの要因になるという話しもあります。

しかし、宦官になったからと言って、頭髪が生えてきた話も聞かないので、禿げに関しては遺伝の要素が強いのかも知れません。

尚、後漢末期に大将軍の何進を殺害した事で、袁紹は宦官撲滅を計りますが、この時に袁紹の軍は髭のない男性を宦官とみなした話があります。

因みに、元々髭が無かったり、薄かった官僚は宦官と間違えられない為に、ズボンを脱ぎ股間を兵士に見せた話しもあります。

 

美形だが老後は悲惨な容姿

若くして宦官になった者は美形であり、少女の様だったとの話もあります。

ただし、宦官になった男性は太りやすく、年を取ると肉が落ちてしまいシワとなり、実年齢よりも老けて見えたとあります。

宦官は声も高く女性の要素も多く含んだ男性となるのでしょう。

男性でも女性でもない存在とも言えます。

 

宦官は臭い

宦官は臭いとする記録も残っています。

宦官は尿意をコントロールできなかった話もあり、失禁を多発し生活も不便だったわけです。

「宦官は半里の先からも匂う」とか「老公の様に生臭い」などの記録もあり、宦官の臭いは人々から嫌がられたのでしょう。

この辺りは、宦官の気の毒な部分でもあります。

尚、宦官の「臭い問題」もあり、人々からは蔑まれる存在であり、宦官の多くは劣等感が強かった話もあります。

 

性格の変化

動物は去勢すると大人しくなった話がありますが、人間は去勢して宦官になると、少しの事で腹を立てて怒りやすくなったとされています。

ただし、怒ったとしても、すぐに機嫌が直ったとする記録があり、単純な性格になるのかも知れません。

尚、権力者に媚を売り弱者には卑屈になるが、女性や子供に対して愛情を示し、子犬などには可愛がるなどの行為もあったようです、

これを見ると、人間は去勢される事で女性の要素が多々現れる様にも感じます。

 

権力欲が強まる

その一方で宦官は権力欲が強かった話もあります。

悪徳宦官を想像すると、賄賂を要求したりし、宦官への賄賂が少ないと皇帝に言いつけ、官位を剥奪された話もあります。

張角が引き起こした黄巾の乱で、張角の本隊と戦っていた盧植は、視察に来た宦官の左豊への賄賂が少なかった事で、黄巾賊を破る直前で更迭される事態にまで陥っています。

この時の盧植は、宦官の怖さを知ったとも言えるでしょう。

宦官の権力欲の強さが一国を乱したり、民衆を苦しめたり、場合によっては国が破滅に向かうわけです。

 

再生願望が強い

宦官は、一度なってしまえば戻る事が出来ません。

竿や玉を取ってしまえば、再生される事がないからです。

しかし、宦官は再生欲が強く、動物の陰茎が生殖器の再生に繋がると言えば、買いあさり、人間の脳が生殖器の再生に繋がると聞けば、多くの子供を殺害し脳を食べた話しもあります。

犠牲になった人々は可哀そうですが、宦官の中にも、宦官にはなってみたが、思ったような生活ではなく、元の生活に戻りたくて、生殖器の再生を望んだのかも知れません。

強大な権力を握ったのは、秦末期の趙高や三国志の十常侍、明の劉瑾などの一部の宦官であり、宦官になった事を後悔した人々もいたのでしょう。

 

宦官が重用された理由

宦官は重用される事になりますが、それにも理由があります。

宦官は便利な存在

宦官の大きな役目は、後宮での仕事となります。

竿を失った男性と言えども、女性よりは力が強く力仕事にも適していたわけです。

さらに、女官は数年でやめてしまう事も多かったわけですが、宦官は後宮から追い出されたら終わりであり、老人になっても後宮で働きます。

宦官は皇帝や王族に捨てられない為に、献身的に働きますし、皇帝や王族も健気に働く宦官を信頼したケースも存在しました。

他にも、去勢している為、皇后が誘っても行為が出来ませんし、皇帝としても、安心して女性を任される存在だったわけです。

 

信頼できる存在

宦官の役目として、皇帝や王の子を育て教育する任務もあります。

趙高は始皇帝の子である胡亥に、法律を教えていた話もあり、宦官は後宮にいる公子らの家庭教師をしていた話しもあります。

公子らは生まれた時から、身近で献身的に仕えてくれる宦官を信頼したケースも多々ありました。

公子らにとっては、宦官は愛すべき存在だった事もあったわけです。

因みに、皇帝が早くに崩御し、幼帝が即位すると、身近で頼れる者が宦官しかなく、宦官が絶大なる権力を握る場合もあります。

この場合は宦官の権力欲が国を滅ぼす場合すらあります。

 

偽の宦官もいた

後宮にいた宦官ですが、偽の宦官もいた話があります。

つまり、去勢していないのに宦官として後宮に入り宮仕えしたケースです。

始皇帝の母である趙姫は、過去に宰相の呂不韋の妾であり、異人(後の秦の荘襄王)の希望により献上した経緯があります。

荘襄王の死後に、趙姫と呂不韋の男女の関係は復活し、趙姫との関係を清算したい呂不韋は後宮に偽の宦官である嫪毐(ろうあい)を送り込む事になります。

嫪毐は趙姫に気に入られた事で、子を設けたり、嫪国を建国したりと秦では絶大な権力を握ったわけです。

清末期の西太后のお気に入りの宦官である、李蓮英も偽宦官であり、西太后の信頼を得た話があります。

偽宦官の役割は、皇后などの性欲を満たす事だと言ってもよいでしょう。

宦官の結婚

宦官で成功した者は、豪邸に住み妻や妾を持ち優雅な生活をしていた話があります。

宦官は去勢されて、生殖器がないはずなのに、結婚が出来るのか?と思うかも知れません。

去勢された男性は、性欲は減るとされていますが、それでも性欲が完全に無くなる事はなく、女性を欲した話があります。

宦官と結婚する相手は多くの場合が、宮中の女官であり、宦官と女官が結婚する事を「対食」と呼ばれています。

 

宦官の作り方

宦官の作り方を解説します。

宦官のなる為の手術

最初に、下腹部と股の上部をきつく紐で縛る事になります。

ここで宦官を作るための、執刀者は「本当に斬り落として良いのか?」と確認し、地獄の苦しみを味わう事を説明するわけです。

この時点で本人が宦官を望まない場合は、やめる事も出来た話があります。

本人が了承した場合は、男性の陰嚢を切り落とし、尿道には栓が詰められる事になります。

宦官になった者は、執刀者に抱えられ歩き回り、後に横になる事を許されます。

宦官になる為の、手術を行った者は、三日間は水分を取る事も許されず、喉の渇きと傷の痛みにより、のたうち回る事になります。

宦官になる為の手術は、基本的に麻酔を使わない為、激痛を伴う事になったわけです。

三日後に詰めてあった、栓が抜かれ勢いよく、尿が出ると成功とみなされます。

宦官になる為の手術を行った者は、約百日で治った話もあります。

宦官になる為の、手術は手荒い方法を取りますが、亡くなった者はほぼいない様です。

これが宦官の作り方となります。

尚、現在では宦官の制度はありませんし、勝手に人を宦官にしてしまったら犯罪なので、絶対にやらないでください。

 

切り取ったモノは大切に保管される

宦官になる為に、切り取ったモノですが、防腐処理をして大切に保管される事になります。

宦官が昇進する為には、モノを見せる必要があった話があり大切に扱われるのが普通です。

宦官になった時に、モノを請求しないと、モノは執刀者の所有物となってしまい、宦官は買い取る必要があったわけです。

尚、切り取ったモノには価値があり、盗まれる事もあったとされています。

宦官の昇進試験には、モノが必要であり、無い場合は宦官仲間から借りて見せた話しもあります。

宦官が亡くなった場合は、モノは棺の中にいれ埋葬される事になります。

宦官は子孫を繁栄させる事が出来なかった罪があると考えられ、モノがないと冥界の王に裁かれると考えられていたそうです。

因みに、モノがない宦官は来世では雌のラバになるとも考えられていました。

 

宦官制度の終焉

中国での宦官は、少なくとも紀元前1000年よりも前である殷王朝の時代から続けられていたわけですが、1912年の清王朝の崩壊と共に制度の終焉を迎えます。

清の正統帝溥儀は、退位後に宦官制度の廃止を決行する事になります。

当時の清の宮廷では、沢山の麻薬吸引所や賭博場があり宦官が運営していたわけです。

これらは法律違反であり、怒った溥儀により、罪を犯した宦官は位を剥奪され、罷免、板うちの刑に処した話があります。

この時に宦官たちは罪を擦り付け合ったとあります。

宦官たちは賭博や麻薬吸引所で莫大な利益を上げた者がいる一方で、多くの宦官は非常に貧しい生活をしていました。

生活が貧しい宦官たちは、宮廷内の財物を盗んで売ったりし、生計を立てていました。

これらの行為が問題になり、一部の宦官を除き溥儀は衛兵に命じて、宦官を強制退去したわけです。

溥儀は宦官の代わりに衛兵を宮廷に入れますが、今度は衛兵が宮廷内の財物を盗む事件が多発しました。

皇后らは宦官がいないと不便だとし、溥儀も納得し100人ほどの宦官を戻した話があります。

ただし、1912年に清王朝が崩壊すると、宦官制度は終焉を迎えた話があります。

 

宦官列伝

宦官は悪というイメージが強いですが、実際には国の為を考えて動いた宦官もいます。

英雄的な宦官もいれば、悪徳宦官もいる状態です。

ここでは様々な宦官を紹介します。

斉の豎刁

斉の豎刁(じゅちょう)は、斉の桓公に気に入られた宦官です。

斉の桓公を覇者に押し上げた名宰相である管仲が亡くなる時に、斉の桓公は後継者として豎刁の名前が挙がった程です。

しかし、管仲は豎刁が自ら率先して宦官になった事を理由に用いてはならないと桓公を諭した話があります。

ただし、斉の桓公は管仲の死後に豎刁、開方、易牙の3人を重用した事で、桓公の死後に、斉の国は乱れ覇者の座から転落していきます。

覇者の座は、晋の重耳の元に収まる事になります。

尚、斉の桓武公と晋の文公(重耳)は春秋五覇に必ず入る人物です。

 

趙の繆賢

趙の繆賢(びゅうけん)は、趙の恵文王に仕えた宦官であり、善良な人物だと言えます。

戦国七雄の中での最強国である、秦は趙の宝である和氏の璧と15の城を交換しようと持ち掛けます。

趙の宮廷では揉めに揉め結論が出なかったわけです。

この時に、趙の恵文王に藺相如を推挙したのが、繆賢となります。

繆賢は藺相如の事を知勇兼備の士だと言い、藺相如は和氏の璧を持ち秦に向かい、見事に役目を果たしています。

廉頗と藺相如は刎頸の交わりも有名であり、繆賢がいなければ藺相如は歴史の表舞台に登場する事はなかったでしょう。

繆賢が藺相如を推挙した功績は大きいと言えます。

 

秦の趙高

史上最悪の宦官と呼ばれるのが、秦の始皇帝と二世皇帝胡亥に仕えた趙高です。

史記によれば、趙高は始皇帝の遺言を変えて、長子の扶蘇ではなく末弟の胡亥李斯を巻き込んで擁立しました。

趙高は蒙恬蒙毅、李斯など秦の重要人物を誅殺していきます。

陳勝呉広の乱から始り、項梁、項羽、劉邦らが挙兵し天下は乱れる事になります。

秦の将軍である章邯は、陳勝、魏咎、項梁などを討ち取りますが、秦の正規軍を率いた王離が鉅鹿の戦いで項羽に敗れると、趙高は二世皇帝による責任追及を恐れ二世皇帝を殺害しています。

趙高は秦の王族である子嬰を秦王に擁立しますが、子嬰により暗殺される事になります。

始皇帝死後に胡亥と趙高が実権を握ると僅か4年で秦が滅びる事になりました。

それ故に、趙高は史上最悪の悪徳宦官と呼ばれたのでしょう。

 

前漢の司馬遷

司馬遷は宦官とは言えませんが、宮刑を受けた事実があり、掲載しておきます。

司馬遷は匈奴に敗れた李陵を弁護した事で、漢の武帝の怒りを買い宮刑に処せられています。

ただし、漢の武帝は司馬遷の能力を認めていた話もあり、中書令とする役職を作り任命する事になります。

これにより司馬遷は、再び官職に就く事が出来、宮廷の書簡を自由に見られる様になったわけです。

司馬遷は太子公書(史記)を執筆しました。

司馬遷の憤りの気持が大きく反映されたのが、史記とも考えられています。

尚、史記には出処進退に関する話が多いのも、司馬遷が些細な事で宮刑に処された事の気持の表れとも言えるでしょう。

 

後漢の蔡倫

後漢の蔡倫は宦官にも関わらず、紙を発明した事でも有名な人物です。

後漢の蔡倫が紙を作る前は、木簡か絹織物に文字を書いていました。

しかし、木簡は重く絹織物は高価すぎる悩みがあったわけです。

蔡倫が発明した紙は実用的であり、世の中に多大な貢献をしたとも言えるでしょう。

ただし、蔡倫は権力闘争の場にいた事で、安帝の時代に廷尉への出頭を命じられ、毒を飲み亡くなった話があります。

紙を発明し世の中に多大なる貢献はしましたが、最後は残念な終わり方だった様に感じます。

 

後漢の曹騰

曹騰は、曹操の祖父にあたる人物であり、宦官だったと伝わっています。

曹騰は宦官でしたが、曹崇を養子に貰っています。

曹嵩の子が曹操であり、曹操は「宦官の孫」と言われ発奮した話は有名です。

曹騰は優れた人材を抜擢しており、それでいて自らを誇る所がなかったと言われています。

尚、曹騰が推挙した一人である張温は後漢末期に、涼州で韓遂・辺章の反乱が起きた時は、孫堅陶謙を従えて討伐に行き、董卓とも合流しています。

曹操が三国志演義で乱世の奸雄とされ、悪役になっている為、曹騰も悪徳宦官だと思うかも知れませんが、史実の曹騰は優れた宦官だったと言えるでしょう。

尚、曹騰の曾孫にあたる曹丕は、後漢王朝から禅譲と言う形で、魏の皇帝に即位しています。

 

後漢の十常侍

三国志の物語は後漢王朝の末期から始まりますが、この時に政治を牛耳っていたのが十常侍と呼ばれる宦官たちです。

十常侍は、10人いた様に思うかも知れませんが、史実では12人いた話があります。

十常侍の中でも、張譲と趙忠は霊帝に気に入られ「我が父、我が母」とまで言われ絶大な信任を得た話があります。

ただし、張譲や趙忠は表向きは霊帝に対して、忠誠を誓っていましたが、裏では賄賂を取ったり莫大な富を築いていた話があります。

十常侍は霊帝の死後に、大将軍の何進を殺害しますが、怒った袁紹により皆殺しにされています。

余談ですが、霊帝が西園八校尉を作った時に袁紹、曹操、淳于瓊などを抜擢しますが、西園八校尉の筆頭を蹇碩(宦官)にしました。

霊帝の宦官愛が分かる話でもあります。

 

後漢の呂強

後漢末期の宦官と言えば、十常侍を始めとした悪徳宦官を思い浮かべる人も多い事でしょう。

しかし、呂強は宦官ではありましたが、明らかに善良な宦官だと言えます。

呂強は霊帝に対し、汚職官僚の追放や処刑、党錮の禁で捕えられた人々を許す様に進言しています。

霊帝は呂強の意見を採用し、党錮の禁で捕えた者に大赦を出す事にしたわけです。

ただし、汚職宦官の追放は採用しませんでした。

呂強は十常侍から見れば危険な存在であり、宦官の趙忠や夏惲は呂強を讒言します。

呂強は助からない事を悟ると自刃した話があります。

後漢末期で善良なる宦官が呂強と言えるでしょう。

 

蜀の黄皓

蜀の黄皓も悪徳宦官として有名です。

諸葛亮亡きあとに、蔣琬、費禕と繋がっていきますが、最終的に蜀の劉禅は宦官の黄皓を信任する事になります。

黄皓は姜維を嫌い、諸葛瞻や董厥らと共に閻宇を大将軍に任命しようと画策した話があります。

尚、魏の鍾会や鄧艾が蜀に攻め込んで来ると、姜維は成都に援軍要請しますが、黄皓は巫女や鬼神の占いを信じ、劉禅に援軍を出さない様に要請しました。

蜀の首脳部が守りを固めなかった事で、鄧艾の急襲を受けると呆気なく蜀は滅亡します。

因みに、蜀の滅亡の時に黄皓は、鄧艾の側近に賄賂を贈った事で、死罪にならなかった話があります。

 

明の鄭和

鄭は明の時代に南海遠征を行った事で有名です。

鄭和は7回もの南海遠征を行う事になります。

尚、鄭和はイスラム教徒であり、雲南省の出身で宦官だった話があります。

南京を出発した鄭和は、広州に行き、ジャワ島のマジャパヒト王国にまで行きパレンバンにも寄っています。

鄭和はさらに、スリランカのコロンボに行き、バスコダガマが初めてインドの到達したカリカットにも鄭和は到達する事になります。

鄭和の南海遠征の3回目までで、インドに到達しているのです。

さらに、第四次航海ではアラビア半島のアデンに到達し、第五次ではアフリカのマリンディに到達し、第7次でメッカにまで到達しました。

マリンディでキリンを見つけ中国の伝説上の生物である麒麟であると判断し、明に持ち帰った事で明の永楽帝は大喜びした話もあります。

明の鄭和は宦官でもありながら、ヨーロッパに先駆けて大航海時代を行った優れた人物だと言えるでしょう。

鄭和の例をみれば、宦官にも偉大な人物がいる事が分かります。

 

明の劉勤

劉勤は明の時代の宦官であり、自分から志願して宦官になった話があります。

明では正徳帝が即位する事になります。

正徳帝は14歳で皇帝になりますが、幼い頃から劉勤と共に遊んでいたりしたわけです。

その事から正徳帝は、劉勤を信頼する様になります。

正徳帝は、まともに政治を行う気もなく、国の政治は劉勤に任せる事にしました。

これにより権力が宦官の劉勤に集中する事になります。

劉勤は自分の富を増やす為に、民衆に重税を掛けたり、国家の資金を自分の物にしたわけです。

劉勤に対して反対勢力も出ますが、劉勤が正徳帝の信頼を得ていた事で、反劉勤派の大半は処刑されています。

劉勤は絶大な権力を握りますが、皇族が反旗を翻したり民衆が反乱を起こしたりと、明の国は乱れていったわけです。

劉勤は正徳帝も倒し、皇帝になろうとしますが、事前にバレてしまい処刑されています。

尚、劉勤は宦官であり皇帝になった後に、自分の跡継ぎをどの様にしようと思っていたのかは不明です。

因みに、劉勤が処刑された時に財産を没収しますが、劉勤の財産は明の歳入の10年分に相当し、劉勤が現役の時代は劉勤が世界で最もお金があった人物とも考えられています。

 

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