三国志

関羽の史実・三国志随一の面倒くさい性格が災いした最後

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関羽の字は雲長であり三国志の中でも、かなりの人気キャラだと言えます。

主君である劉備に対し、忠義を尽くした事や三国志演義で多くの難敵を一騎打ちで破ったりもしています。

三国志の中で武勇に優れた武将と言えば、呂布を思い浮かべる人も多いかも知れません。

しかし、後代に伝わった諺で「関羽雲長の前で大刀を振るう。」という言葉があり、身の程知らずを指す言葉となっています。

他にも「関張の勇」などの言葉もあり、後世に伝わった三国志の代表的な武力の持ち主は関羽と張飛だと言えるでしょう。

ただし、関羽は一言で言えば「めんどくさい性格」が災いして最後を迎えた武将でもあります。

関羽は死後に神様として崇められる事にはなりますが、性格に問題があった事は明らかです。

それでも、好意的に見れば関羽は「義侠心」「剛胆」「武人」と、己の美学に忠実に生きた武将とも言えるでしょう。

残念に感じるかも知れませんが、関羽のトレードマークとも言える青龍偃月刀や赤兎馬などは、正史三国志には使った記録がありません。

尚、関羽は死後に神となり関帝廟として祀られる事になります。

関羽は見事な髭を持っており、美髭公の愛称でも親しまれています。

今回は史実と三国志演義を対比しながら話を進めていきます。

 

関羽が出奔

関羽は司隷河東郡解県の人であり、何かしらの罪を犯して幽州に出奔したと考えられています。

関羽が罪を犯したとされる理由ですが、幽州まで逃亡する間に、字を「長生」から「雲長」に改名しているからです。

さらに言えば、関羽も改名した後の名前だったともされています。

劉邦の軍師となる張良始皇帝暗殺に失敗した時に、改名している事から、中国では罪を犯し名前を変える事は普通にあったとも考えられます。

関羽の出身地である河東郡には解池という塩湖があり、塩の産地だった事から、関羽は塩の密売を行い逃亡する事になったのではないか?とする説もあります。

何かしらの理由で、関羽は中国に北方にある幽州に行くわけですが、ここで運命的な出会いをします。

 

劉備・張飛との出会い

187年に張角による黄巾の乱が勃発し、劉備が馬商人の蘇双や張世平の援助により挙兵します。

関羽は劉備の軍に加わる事となり、張飛と共に劉備の護衛になった話があります。

三国志演義だと桃園の誓いがあり、劉備、関羽、張飛の3人は大志を抱き黄巾賊討伐に出陣します。

しかし、史実では桃園の誓いは無く、劉備が金で関羽と張飛を雇ったとする説が有力です。

尚、初期の劉備軍には関羽と張飛だけではなく、簡雍や田豫などもいました。

正史三国志には劉備、関羽、張飛が義兄弟だった記述はありません。

それでも、3人が同じ寝台で寝た話しもあり、深い絆で結ばれた仲だったのでしょう。

劉備の軍勢は鄒靖の軍に入り、功績を挙げる事になります。

劉備軍は任侠集団であり、強固な結束があり戦いには、すこぶる強かったとも考えられています。

尚、関羽が劉備の配下になった理由ですが、劉備は「劉姓」であり、漢王朝の「劉姓」と同じだったからだとする説もあります。

劉備が中山靖王劉勝の末裔を名乗っていた事も、関羽の心に響いたのかも知れません。

黄巾の乱

三国志演義では劉備軍は初陣で、張飛が鄧茂を討ち取り、関羽が程遠志を討ち取る活躍を見せます。

しかし、正史三国志には鄧茂や程遠志の名前はなく、三国志演義の架空の人物だと考えられています。

史実の三国志で見ると、黄巾の乱で劉備、関羽、張飛がどの様な活躍をしたのかは記録がなく分からない状態です。

ただし、劉備は校尉の鄒靖に従い手柄を立てた事で、中山国安熹県の尉に任命されます。

関羽も張飛と共に、中山国安熹県に行ったのでしょう。

ただし、劉備は督郵とのいざこざにより、短期間で官職を去る事になります。

余談ですが、典略には劉備が功績を認められたのは張純の乱の時であり、黄巾賊討伐には参加してないとする説もあります。

 

汜水関の戦い

三国志演義だと関羽の見せ場として、汜水関の戦いと虎牢関の戦いがあります。

汜水関の戦いでは、董卓軍の華雄が大暴れし、反董卓連合の鮑忠、祖茂、兪渉、潘鳳など名だたる将を討ち取っています。

三国志演義では、ここで関羽が華雄を討ち取ると名乗りを上げ、電光石火で華雄を討ち取った話があります。

さらに、虎牢関の戦いでは劉備や張飛と共に、呂布と戦うなど多くの見せ場があるわけです。

しかし、史実の劉備を見ると反董卓連合に参戦した記録もなく、汜水関の戦いは三国志演義の虚構なのでしょう。

史実の華雄は胡軫の配下として登場し、孫堅との陽人の戦いで登場します。

陽人の戦いでは、胡軫を嫌う呂布が足を引っ張り、結果として華雄が討ち取られています。

史実の華雄は関羽に討ち取られたわけでもなく、呂布の被害者的な側面が強いです。

 

呂布・袁術との戦い

劉備は陶謙から国を譲られる事で徐州の主となっています。

徐州の主となった事で、袁術や呂布との戦いが始まるわけです。

紀霊との一騎打ち(三国志演義)

劉備は麋竺の要請もあり、徐州の主となります。

劉備の元に呂布がやって来ると、劉備は呂布を受け入れる事にしました。

三國志演義では曹操が呂布と劉備を危惧し、荀彧が「二虎強食の計」や「駆虎呑狼の計」を仕掛けたわけです。

駆虎呑狼の計により劉備は袁術討伐に向かいますが、ここで袁術軍の大将である紀霊が登場します。

関羽と紀霊は30合ほど一騎打ちを行いますが、引き分けに終わっています。

三国志演義で紀霊は関羽を相手に、互角に戦った事で評価が高まっています。

ただし、紀霊と関羽の一騎打ちは三国志演義のみの話であり、史実には記載がありません。

関羽との一騎打ちで評価を高めた紀霊ですが、三国志演義では後に張飛に呆気なく討ち取られています。

後に劉備は呂布に国を奪われるなどもあり、曹操の元に身を寄せる事になったわけです。

劉備が呂布に国を奪われて曹操を頼るのは、史実も演義も同じです。

 

秦宜禄の妻を取られる

西暦198年に曹操や劉備は、下邳に籠る呂布を包囲しました。

蜀記によれば、この時に関羽は曹操に対し、次の様に述べた話があります。

関羽「呂布は秦宜禄を使者とし、各地に援助を求めるべく動いています。

私は秦宜禄の妻を娶りたく存じます。」

曹操は関羽に秦宜禄の妻を与える事を許します。

呂布が捕らえられると、関羽は何度も秦宜禄の妻を娶りたいと、曹操に言上しました。

関羽が如何に、秦宜禄の妻に興味を持ったのか分かる事でしょう。

しかし、曹操は秦宜禄の妻を見るや、美人だと感じ自らの側室にしてしまいます。

これにより関羽は、心が落ち着かなかったとも記述があり、曹操に対して不信感を抱いた可能性も高いでしょう。

後に曹操が関羽を厚遇しますが、関羽や劉備の元に行ってしまったのも、秦宜禄の妻の一軒が尾を引いた可能性もある様に感じます。

尚、秦宜禄の妻の話に関しては、魏氏春秋にも同等の話が掲載されています。

 

張遼の命を救う(三国志演義)

三國志演義の話なのですが、関羽が張遼の命を救った話があります。

呂布が捕らえられた時に、配下の高順や陳宮は潔く斬られたわけです。

しかし、呂布の番になると、呂布は命乞いを始めました。

呂布配下の張遼は命乞いをする呂布に対して、次の様に一喝しています。

張遼「見苦しいぞ。人間死ぬときは、死ぬのだ。」

後に呂布は劉備の助言もあり処刑されますが、張遼の番が回ってきます。

曹操は張遼を処刑しようとしますが、関羽が曹操を止め、次の様に述べています。

関羽「張遼殿は忠義の士でございます。拙者の命に掛けて間違いはございませぬ。」

関羽の言葉を聞いた曹操は張遼の処刑を取りやめ、配下に加えています。

関羽が張遼を救うシーンは、史実にはありませんが、三国志演義の名場面だと言えるでしょう。

尚、史実においても関羽と張遼はウマがあったのか親交を結んだ話があります。

 

関羽の曹操暗殺計画

蜀記の中で関羽が曹操の暗殺を、劉備に進言した話があります。

許昌にいた頃に、劉備は関羽を連れて曹操と狩りをした事がありました。

狩猟を行っている時に、人々がバラバラになり曹操の周りの警護が疎かになります。

この時に、関羽は曹操を殺害する様に、劉備に進言しましたが、劉備は聞き入れる事はありませんでした。

この話が本当なら、関羽は曹操の暗殺を考えていた事になるでしょう。

尚、暗殺を良しとしないのは、劉備らしい所でもあります。

 

劉備が曹操に反旗翻す

袁紹は公孫瓚を破るなど北方で勢力を拡大し、曹操も呂布、袁術を滅ぼすなど勢力を拡大しました。

こうした中で、袁紹と曹操が対立を深めていきます。

劉備は曹操と協調関係にありましたが、劉備は突如として曹操を裏切り、徐州刺史の車冑を殺害し、徐州で独立しました。

この時に劉備は徐州で最も栄えている下邳の太守に関羽を任命し、自らは小沛の小城に身を寄せる事になります。

劉備が一番栄えている下邳を関羽に与えたのは謎であり、劉備と関羽の関係を疑問視する声もあります。

下邳を関羽に与えたのは、劉備と関羽は君臣の関係ではなく、「同盟者」としての関係ではなかったのか?と考える人もいる状態です。

ただし、小沛は曹操と雌雄を決するにあたり、前線基地となり、自ら前線で指揮を執る為に、劉備は小沛に駐屯したとする説もあります。

 

曹操に降伏

劉備は徐州で曹操に反旗を翻しますが、袁紹との対立が起こっていた事もあり、自らは攻撃を仕掛けてこないと考えていました。

しかし、劉備の予想に反して、曹操が自ら親征を行い、徐州に迫っている事を知ります。

劉備は曹操が向かっている事を知ると、戦わずに妻子も置き去りにし逃亡してしまいます。

この時に、関羽は置き去りにされてしまい、曹操の捕虜となったわけです。

三国志演義では、張遼が使者として関羽の元に赴き、関羽は曹操に降伏する条件として、次の要綱を挙げています。

劉備の家族の安全を保障。

自分(関羽)は漢に対して仕える。

劉備の居場所が分かったら、直ぐに向かっても良い。

曹操が条件を呑んだ事で、三国志演義では関羽は曹操に降伏する事になります。

正史三国志の関羽伝を見ると「関羽が捕虜になった。」とする記述があるだけで、条件提示をした話はありません。

ただし、関羽が曹操に降伏し、一時的に配下となった事は確かなのでしょう。

尚、曹操は関羽を高く評価し、過剰なまでに優遇する事になります。

 

曹操配下時代の関羽

関羽は曹操に降伏した事で、一時的ではありますが、曹操配下として戦っています。

関羽の心は劉備にあり

曹操は関羽を偏将軍に任じるなど厚遇しましたが、関羽の気持が自分にない事に気が付きます。

曹操は張遼に関羽の心を探って来る様に命じています。

関羽は張遼に対して、次の様に述べています。

関羽「曹公(曹操)が私を厚遇してくれるのは分かりますが、私は劉将軍(劉備)から厚い恩義を受けております。

劉将軍とは、一緒に死のうと誓った仲であり、あの方を裏切る事は出来ません。

私はここに留まる事はありませんが、必ずや手柄を立てて曹公に恩返しをしてから去るつもりです。」

張遼が関羽の言葉を曹操に告げると、曹操は関羽の義心に関心した話があります。

曹操に対して「手柄を立ててから去る。」というのは、関羽の人間性をよく現わしているとも言えるでしょう。

 

顔良を斬る

西暦200年に曹操と袁紹の間で官渡の戦いが勃発します。

官渡の戦いの前哨戦として、白馬の戦いがありますが、ここで関羽が武功を挙げる事になります。

袁紹軍の大将である顔良が白馬を攻撃していました。

曹操は別動隊を繰り出し、袁紹軍を釣りだし、軽騎兵を率いた関羽と張遼が顔良を急襲しています。

この時の関羽の無双ぶりは凄まじく、顔良の旗と車蓋を見つけると、馬に鞭打って顔良の本陣に向けて突き進みます。

正史三国志によれば、大軍の真っただ中で顔良を討ち取り、顔良の首を曹操の元まで届けたわけです。

曹操の参謀である、程昱や郭嘉は関羽や張飛を「兵一万に匹敵する」と述べた話があり、言葉通りの武勇を発揮した事になるでしょう。

関羽伝によれば、袁紹軍の諸将で関羽の相手になる者がおらず、白馬の包囲は解かれたとあります。

曹操は関羽の功績を認め、上表し漢寿亭侯に封じました。

関羽は曹操への恩返しが出来た事から、劉備の元に戻る事を考える様になります。

尚、劉備はこの時に袁紹陣営として参戦しており、関羽が顔良を討ち取った事で、袁紹と劉備の関係が微妙になったともされています。

余談ですが、三国志演義だと関羽は顔良だけではなく、文醜も討ち取った事になっています。

しかし、史実では文醜は荀攸の策で討ち取っており、関羽が討ち取った記述はありません。

 

曹操の元を去る

曹操は関羽が自分の元を離れると感じ、関羽に対して重賞を賜わっています。

しかし、関羽は賜わり物に封をし受け取らなかった話があります。

関羽が曹操からの恩賞を受け取らなかったのは、自分の義侠心や美学を貫いた結果なのでしょう。

因みに、史実だと曹操が関羽に赤兎馬を与えた話しも存在しません。

正史三国志の関羽伝には、関羽は曹操に訣別の手紙を残し、劉備の元に向かったとあります。

曹操の側近の中には、関羽を追跡しようと進言した者もいましたが、曹操は次の様に述べています。

曹操「関羽は関羽なりに、主君である劉備の為にしているのである。

関羽を追ってはならぬ。」

曹操は関羽が劉備の元に行くのを黙認しました。

正史三国志に注釈を入れた裴松之は、曹操の態度を「王者・覇者の度量」と賞賛しています。

三国志演義では関羽千里行として、五関を突破し、孔秀、孟坦、韓福、卞喜、王植、秦琪らを討ち取った話があります。

しかし、正史三国志には関羽が五関を突破した話もなく、最後に夏侯惇と一騎打ちを繰り広げた話しもありません。

三国志演義の著者である羅貫中が、民間の関羽人気にあやかって作ったストーリーが、関羽の千里行きや五関突破なのでしょう。

 

関羽が劉備の元に戻ったのは忠誠心ではなかった!?

関羽が劉備の元に戻ったのは、劉備への忠誠心ではなかったとする説もあります。

関羽が曹操からの恩賞に手を付けなかった話などを聞くと、律儀な性格をしていると思うかも知れません。

しかし、律儀な性格のお陰で、関羽は曹操の元に留まらなかった説もあります。

関羽は義侠心が溢れる性格であり、降伏した曹操の元に留まるのはプライドが許さなかった説です。

関羽は自分の生き様を大切に考えており、劉備に忠誠を誓ったのに、曹操に仕えるのはプライドが許さなかったとも考えられています。

つまり、劉備の元に関羽が向かったのは、忠誠心ではなく己の美学に反しない為に、劉備の元に戻ったとも言えます。

関羽本人でないと分かりませんが、曹操陣営を離れて劉備の元に向かったのは、己の美学を傷つける様な事をしたくなかったと言うのもあるのでしょう。

 

水魚の交わり

関羽は袁紹陣営にいた劉備に合流しました。

しかし、関羽が顔良を斬った事で、袁紹陣営では居心地が悪かったのかも知れません。

劉備は周りの空気を察したのか、劉表を説得する名目で袁紹陣営から離脱しました。

劉備は劉表の元に向かい、曹操陣営の最前線である新野に配置される事になります。

この時期に、劉備は徐庶の推薦により、三顧の礼を行い諸葛亮を配下としています。

劉備は諸葛亮が唱えた天下三分の計に夢中になったのでしょう。

劉備は諸葛亮を重用した事で、関羽と張飛は劉備に不満を訴えたわけです。

劉備は「諸葛亮は水で我々は魚の様な存在だ。」と述べ、関羽と張飛を納得させています。

尚、諸葛亮と劉備の話から、水魚の交わりと言う言葉が誕生しました。

 

曹操の南下

曹操が南下し劉表が亡くなると、後継者の劉琮は曹操への降伏を決めました。

劉備は曹操に降るのを良しとせず、南の江陵に向かって移動を始めています。

劉備は関羽に数百艘の船を率いさせ、江陵で落ち合う事にしました。

関羽は長坂の戦いには、傘下ぜず船団を率いて移動させたわけです。

劉備は民衆を引き連れての逃亡であり、長坂の戦いで曹操軍に追いつかれて大敗を喫する事になります。

大敗の中でも、趙雲甘夫人や阿斗(劉禅)を保護したり、張飛が長坂橋仁王立ちを行うなど見せ場がありました。

しかし、結局は劉備軍は徐庶が離脱するなど、手痛い敗北を喫しています。

そうした中で劉備は逃走し、漢津に行き関羽の船団と合流する事になります。

劉備と関羽は、劉表の長子である、劉琦が守る夏口に移動しました。

 

関羽が船で移動した謎

先にも述べた様に、劉備と関羽が同盟者であった説の一つとして、長坂の戦い時に関羽が船で移動した話が述べられる場合があります。

長坂の戦いの状況を考えれば、陸で移動するよりも船で移動した方が明らかに安全でした。

陸を移動した劉備は、曹操軍に追いつかれ命からがら逃げているわけです。

主君を逃がす事を第一として考えるのであれば、劉備が船で移動し、関羽が陸を移動するべきだったのではないか?とも考えられます。

この事から劉備と関羽は特別な間柄であり「劉備と関羽同盟者説」が浮かび上がります。

しかし、個人的には劉備が陸を移動したのは、自分が安全な船に乗れば、自分を慕ってくれる者に対して示しがつかないと考えたのでしょう。

劉備は最後に逃亡しましたが、ギリギリまで仁義を貫き通した様にも思います。

さらに、劉備軍に船は絶対に必要であり、義侠心の塊で絶対に裏切らない関羽に船を任せた様に思いました。

様々な説がありますが、個人的には劉備の関羽に対する信頼の高さから、船を任せたと感じます。

尚、関羽は劉備に「許昌にいた時に、自分の曹操暗殺計画を実行していれば、今の苦労は無かったでしょう。」と述べています。

関羽の言葉に対して、劉備は「実行しなかったのは、曹操が英雄だと思っていたからだ。」と述べています。

さらに、劉備は「今日の苦労も決して無駄ではない。」と話します。

関羽も長坂の戦いで味方の多くが苦労する様を見て、愚痴の一つも言いたくなったのでしょう。

 

荊州を取る

劉備達は呉の魯粛と出会い、劉備と孫権は同盟を結び曹操に対抗する事になりました。

張昭を筆頭に呉の重臣の多くが降伏派だったにも関わらず、孫権は開戦を決意したわけです。

曹操陣営との赤壁の戦いでは、周瑜、程普が都督となり、黄蓋の活躍もあり曹操軍に勝利しました。

この時に関羽は逃げる曹操を見逃した話が、三国志演義にありますが、これは正史三国志に記述がなく創作だと考えられています。

三国志演義では周瑜が江陵を攻めているうちに、劉備軍は荊州の韓玄、金旋、劉度、趙範などを攻めた事になっています。

しかし、実際には劉備は荊州南部の平定、張飛は周瑜に加勢、関羽は徐晃や満寵、李通と対峙していたのげ実情の様です。

関羽の役目としては、徐晃や満寵と対峙し、曹仁が籠る江陵を孤立させるのが狙いだったのでしょう。

周瑜は矢傷を負いながらも、曹仁を撤退に追い込み江陵を奪取しています。

 

黄忠との戦い(三国志演義)

三国志演義だと関羽が長沙に進軍した話があります。

長沙太守は韓玄であり、配下には黄忠や魏延がいたわけです。

関羽と黄忠は一騎打ちをしますが、互角の展開であり決着は付きませんでした。

ここで黄忠の乗っていた馬が躓いてしまい、関羽が黄忠に攻撃を仕掛ければ、関羽の勝利は確定的だったわけです。

しかし、関羽は正々堂々とした勝利を願い、そのまま引き返す事になります。

再び黄忠は関羽と戦いますが、弓矢を関羽の兜に当て「借りは返しましたぞ。」と黄忠は述べます。

長沙太守の韓玄は疑い深い性格であり、黄忠が裏切ったと判断し牢に入れてしまいます。

韓玄の行動に怒った魏延が韓玄を殺害し、劉備に城を明け渡した話があります。

魏延の行動に諸葛亮は「反骨の相」があると言い、処刑する様に進言しましたが、劉備は魏延を配下に加えました。

尚、三国志演義では五虎将軍が誕生する時に、関羽が「黄忠と同列になるのは嫌だ。」と文句を言った話があります。

しかし、三国志演義では関羽と黄忠は互角の一騎打ちをしているわけであり、黄忠を関羽は認めていない事への矛盾が生じています。

後述しますが、史実でも関羽は黄忠と同列になるのを嫌がった話があります。

勿論、史実では関羽と黄忠が戦った記録もありません。

 

周瑜の関羽に対する評価

呉の大都督である周瑜は、劉備を危険視していました。

周瑜は劉備、関羽、張飛を別々の地に配置した上で、次の様に述べています。

周瑜「私の様な者が関羽、張飛を手足の如く使い、戦いを進めれば、天下統一も確かなものとなるでしょう。」

周瑜の言葉からは、関羽や張飛への評価の高さが分かります。

周瑜は荊州での関羽や張飛の戦いぶりを見て、噂通りだと判断し高い評価をしたのでしょう。

周瑜の盟友であった孫策も高い指揮能力を持っていましたが、孫策にも匹敵するだけの武勇を、関羽や張飛が持っていると判断したのかも知れません。

周瑜は益州に侵攻し、天下を半分にして治める天下二分の計を進めますが、準備の最中に病死しています。

尚、劉備は魯粛の提案もあり、荊州の大部分を孫権から借用する事になります。

 

劉備の益州侵攻

劉備は龐統を連れて、劉璋を助けて張魯を攻撃する名目で益州に入ります。

劉備の入蜀時に、関羽は諸葛亮と共に荊州の守備を任されています。

劉璋配下の張松や法正は、劉備が益州の主になればよいと考えていました。

しかし、張松の計画は露呈し、張松は殺害され劉備と劉璋は対立します。

劉備軍は李厳が降伏するなど、戦いを有利に進めますが、劉璋配下の張任や劉循の奮戦もあり、軍師の龐統が戦死しました。

龐統の戦死を受けて、諸葛亮、張飛、趙雲などが益州に向かい、関羽だけが荊州に残る事になります。

劉備陣営に馬超が帰順した事で、劉璋は戦意を失い簡雍の説得により、益州を劉備に明け渡したわけです。

これにより劉備の入蜀は成功します。

劉備の入蜀では、関羽は荊州の守備を評価されています。

この時に関羽は荊州における、政治や軍事に対する幾つかの権利を得たとも考えられています。

 

関羽と馬超

劉備が益州を取り馬超が劉備陣営に加わった事を知ると、関羽は諸葛亮に手紙を送っています。

関羽は馬超が、どれ程の人物なのか諸葛亮に聞いてみたわけです。

諸葛亮は馬超は文武両道で黥布や彭越並みの人物だと評します。

その上で、張飛とは同じく位の武勇を持つが、髭殿(関羽)には及ばないと述べます。

関羽は諸葛亮の手紙に大喜びし、荊州の諸将に諸葛亮の手紙を見せびらかした話があります。

諸葛亮は関羽のプライドの高さを知っており、関羽のプライドが傷つかない様に配慮した手紙だったのでしょう。

尚、関羽と馬超の逸話は関羽を非常によく現わしているとも考えられています。

関羽は平素から人を見下す部分がありながらも、権威には非常に弱いともされています。

馬超は趙の名将趙奢の末裔であり、後漢の光武帝に仕えた馬援の子孫でもあります。

馬援の娘は馬皇后として、後漢の明帝(劉荘)の妃となった名門です。

名門中の名門である馬超より高い評価を受けた関羽は、嬉しくて舞い上がってしまったとする説です。

諸葛亮は関羽の性格がよく分かっており、扱いが巧みだとも言えるでしょう。

 

孫権の荊州返還要請

劉備が益州を取ると、孫権は劉備に荊州の返還を求めています。

一瞬即発の事態

215年になると孫権は「荊州を返して欲しい」と劉備に伝えます。

これに対して劉備は「涼州を手に入れたら荊州を返す。」と発言し取り合いませんでした。

孫権は役人を長沙、桂陽、零陵の三郡に送り込みますが、関羽に追い払われてしまいます。

孫権は怒り、呂蒙や魯粛に命じて、長沙、桂陽、零陵の三郡を実力で奪い取ろうと画策します。

呂蒙が迅速に動いた事で長沙太守の廖立は蜀まで逃亡し、桂陽は簡単に降伏しています。

抵抗した零陵太守の郝普には、呂蒙が策を持って降伏させています。

孫権に対し、関羽は荊州三郡の奪還に動き益陽に移動しました。

魯粛と関羽が対峙する事になりますが、呉の甘寧が関羽の動きを止めた話があります。

甘寧は猛将として名が通っており、関羽にとっても厄介な相手だったのでしょう。

呂蒙も魯粛の救援に駆け付け、事態を重く見た劉備も公安まで出向き、関羽の応援に向かっています。

劉備も孫権も北に共通の敵である魏の勢力がいた事もあり、本気で戦うわけには行きませんでした。

こうした中で、魯粛と関羽の間で会談が開かれる事になります。

 

単刀赴会

関羽と魯粛は兵士を100歩離れた場所で待機させ、幹部同士が太刀を持ち会見を行いました。

これを単刀赴会と呼びます。

三國志演義だと関羽の剛胆さが強調され、魯粛の活躍はありませんが、史実では魯粛の剛胆さが目立つ内容です。

魯粛が正論を述べた事で、関羽は反論出来なかったのが史実となります。

ただし、魯粛は荊州の三郡の全てを返還させた訳ではなく、長沙と桂陽の二郡を返還させるに留まっています。

魯粛は三郡の全てを返還させてしまうと、劉備陣営から恨みを抱くと判断しての対応だったのでしょう。

尚、この時期に曹操が漢中の張魯を攻撃した事もあり、劉備としても孫権との問題を早く解決したかったはずです。

 

郝普が孫権の配下となる

劉備と孫権の和議が成立すると、孫権は元零陵太守である郝普を蜀に送り返しています。

しかし、郝普は何処かのタイミングで孫権の配下となります。

一説によると呂蒙の策で零陵を奪われた郝普を、関羽が無能扱いして嫌ったのではないか?とする説があります。

郝普は呂蒙の策で降伏した時に、南郡で関羽が孫権に敗れたとする話を信じて降伏したわけです。

関羽にしてみれば、「自分が孫権などに負けるはずがない」と思っていた可能性もあり、郝普を嫌ったのかも知れません。

関羽は諸将の間では、自らがトラブルメーカーになっていた可能性もあるでしょう。

郝普が孫権陣営に移ったのは、219年の樊城の戦いの時ではないか?とする説もあります。

郝普がどこかのタイミングで蜀から呉に移った事だけは間違いありません。

侯音の乱

西暦218年に侯音が荊州の北部にある、南陽郡の宛で反乱を起こした話があります。

侯音は関羽に内通し、反乱を起こしたとも言われています。

ただし、侯音の乱は曹仁と龐徳(ほうとく)により、直ぐに鎮圧されています。

曹仁と龐徳が素早く行動した事で、関羽は兵を動かす間もなく、侯音は鎮圧されてしまったのかも知れません。

 

前将軍となる

劉備は西暦219年に漢中を攻撃しますが、法正の軍略や黄忠の指揮力の高さもあり、夏侯淵を討ち取る大戦果を挙げています。

劉備は負け続きだった曹操から、遂に漢中の地を奪う事に成功し、漢中王に即位しました。

この時に劉備は、前将軍に関羽、後将軍に黄忠、左将軍に馬超、右将軍に張飛を任命しようと考えたわけです。

前後左右将軍の筆頭を関羽としたわけですが、諸葛亮は次の様に危惧した話があります。

諸葛亮「黄忠の名声や人望は関羽や馬超と同じではありません。

それなのに関羽と黄忠を同列の位に就けようとしております。

馬超や張飛は黄忠の活躍を自分の目で見ていますから、前後左右将軍の趣旨を理解するでしょうが、関羽は反発するに違いありません。」

諸葛亮が予想した様に、関羽は黄忠の事を老いぼれ呼ばりし、同格になるのを喜ばなかったわけです。

劉備は費詩を派遣し、蕭何韓信の話をした上で、次の様に述べています。

費詩「確かに黄忠は一時の功績により将軍(関羽)と同等の位となりました。

ですが、漢中王(劉備)は関羽殿と黄忠殿を同格だと思っているのでしょうか。

劉備様の気持を理解し、位の上下で争うべきではありません。」

費詩の説得により、関羽は前将軍の位を受ける事になります。

尚、陳寿が書いた正史三国志には関羽、張飛、馬超、黄忠、趙雲の五人が「関張馬黄趙伝」として収録されており、三国志演義の五虎将軍の元になっています。

ただし、関羽、張飛、馬超、黄忠は前後左右将軍でほぼ同格ですが、趙雲はそれほど出世したわけではありません。

 

仮節鉞

劉備は関羽を前将軍に任命しただけではなく、仮節鉞まで与えた話があります。

仮節鉞には幾つかの説があります。

刑罰の権限を与えただけ。

独自で軍事行動を起こす権利を与えた

上記の両方を与えた

劉備が関羽にどこまでの権限を与えたのかは不明ですが、劉備は仮節鉞を関羽に与えた事で、関羽は独断で動ける範囲が広がった事だけは間違いないでしょう。

 

左肘の治療

関羽は過去に流れ矢に当たり天気が悪いと、左肘の傷が疼き痛んだ話があります。

関羽は医者に相談すると、矢には毒が塗ってあり、毒が骨に染み込んだ事で痛むと言われました。

医者は治療の為には、手術を行い骨を削る必要があると述べたわけです。

この時に関羽は宴会をしていたわけですが、直ぐに医者に左ひじの手術を行わさせています。

関羽の腕からは血が大量に出ますが、関羽は肉を切り分け平然と酒を飲み談笑していた話が正史三国志にあります。

普通で考えれば、関羽は激痛があったはずですが、痛みを見せないのは関羽のプライドであり、剛胆さを皆にアピールしたかったのでしょう。

因みに、三国志演義では関羽と馬良が碁を行い、名医の華佗が麻酔なしで関羽の手術をした事になっています。

しかし、史実では華佗が関羽の腕を手術した話はありません。

 

孫権との婚姻を断わる

孫権は関羽に使者を出し、孫権の息子に妻として関羽の娘が欲しいと縁談を持ちかけた話があります。

三國志演義だと関羽は「虎の娘を犬の子にやる事が出来ようか。」と述べ断った事になっています。

三國志演義だと関羽は自らを虎に例え、孫権を犬に喩えて辱めているわけです。

正史三国志だと「虎の娘と犬の子」の話は出て来ません。

しかし、孫権が縁談を持ちかけたのに、関羽は孫権の使者を侮辱し、婚姻を許さなかったとあります。

この事から孫権は関羽に対して、「友好を結ぶ気があるのか?」と不信感を抱く事になります。

尚、劉備や関羽の目的は魏を滅ぼす事であり、孫権との友好関係は必須だとも言えます。

それを考えると孫権の息子と、劉備陣営ナンバー2の関羽の娘との婚姻は良い話になるはずです。

それにも関わらず、関羽の孫権との婚姻を断わるのは、余りにも無策だと批判に繋がったりもします。

因みに、関羽が孫権からの縁談を断わったのは、劉備と相談してではなく、関羽が独断で決めたのではないか?と考えられています。

関羽は孫権が好きではなかったのでしょう。

戦略よりも個人的な好悪を優先させるのが、関羽の悪い部分だとも言えます。

こうした関羽の行動が自分の首を絞める事になります。

 

樊城の戦い

関羽は北上し、曹仁が守る樊城を囲む事になります。

関羽が単独で北上!?

219年に劉備が漢中王になると、関羽も3万の兵で北上を始めています。

劉備が曹操の軍勢を漢中で破ったばかりであり、北上する関羽の軍勢には勢いがあったはずです。

ただし、正史三国志の蜀書先主伝によれば、漢中王になった劉備は魏延を漢中の抑えとし、自身は成都に帰ったとあります。

この事から関羽は劉備と連携せずに、北上を始めたのではないか?とも考えられています。

尚、関羽は孫権に援軍要請をした話があり、関羽の構想としては孫権と連合して魏を攻める考えだったのでしょう。

 

于禁を降伏させる

北上した関羽は曹仁や満寵が籠る樊城を包囲しました。

曹操は援軍として、于禁と龐徳に3万の軍勢を授け樊城に差し向けています。

ここで長雨が降り漢水が氾濫を起こしています。

于禁や龐徳は船を持っていないのに対し、関羽は船を持っていました。

関羽は船を持っていない于禁や龐徳を一方的に攻撃し、于禁を降伏させる事に成功しています。

正史三国志にこの時に不思議な記述があり「龐徳が矢を放つと関羽の額に命中した。」とあるわけです。

普通に考えれば額に矢が当たれば重症であり、命を落としても不思議ではありません。

しかし、軍神関羽がチートなのか何事も無かったかの様に話が進められていきます。

龐徳は関羽に降伏しなかった事で、最後は関羽に斬られています。

于禁と龐徳という名将二人を天変地異による運で、関羽は勝利を手にする事になったわけです。

専門家の間では、「歴史を見てもこれほど運は珍しい。」と言われています。

尚、于禁だけではなく荊州刺史の胡修や南郷太守の傅方らも関羽に降伏しました。

ここまでの関羽は順調すぎる程に上手く行っていたわけです。

 

印綬をばらまく

関羽は于禁率いる3万を降伏させると、梁郟、陸渾などの盗賊に印綬をバラまいた話があります。

関羽の狙いとしては、魏の領内で関羽に呼応する者達の、反乱祭りが起こる事を期待したのでしょう。

曹操の本拠地でもある鄴でも、魏諷が仲間を集めて反乱を企てますが、陳禕が曹丕に密告した事で不発に終わっています。

関羽が于禁に勝利した事は、魏を震撼させ曹操は遷都も視野に入れた程です。

遷都に関しては、司馬懿や蔣済が止めた事で取りやめとなっています。

しかし、この時の関羽の勢いは、魏を滅ぼすのではないか?と言った程の勢いだったのでしょう。

尚、関羽が印綬をバラまいたのは、既に関羽が独立勢力になっていたと考える人もいます。

印綬や官位を与えるのは、劉備の仕事であるとも考えられるからです。

関羽にどれほどの権限が与えられていたのかは不明ですが、印綬をバラまくなどは越権行為ではないか?とも考えられています。

因みに、蜀を滅ぼした鄧艾は勝手に人事を行い処罰されています。

関羽と鄧艾の行動は同じだとする考えもあるわけです。

 

兵糧不足

関羽は印綬をバラまき魏の領内で反乱を誘発し、于禁の軍勢を降伏させた事で戦いを有利に進めていました。

ここで樊城を守る曹仁が降伏するか撤退すれば、さらに関羽に追い風となったのでしょう。

しかし、樊城は曹仁と満寵が堅固に守り降伏はしなかったわけです。

関羽は于禁の3万の軍勢を降伏させましたが、処刑もせずに食料を与えるなど振る舞ったとされています。

美学に生きる関羽の中では、降伏した者に危害を加えるなどの、選択肢は無かったのでしょう。

しかし、降伏した兵が暴動を起こされては困りますし、関羽としては降伏した3万の兵に見張りを付ける必要もあったわけです。

これにより関羽軍は、兵士が分散されてしまいます。

さらに、降伏した兵士に食料を支給した事で、関羽の軍は食糧不足に悩まされたとされています。

こうした中で、関羽は孫権に食料の援助を考えた様です。

 

孫権を滅ぼす宣言

典略によると、孫権は援軍要請の使者に対して、ゆっくりと向かわせた話があります。

さらに、別件の使者は急いで関羽の元に向かわせたわけです。

関羽は孫権からの援軍や物資を待ち望んでいたわけであり、援軍と関係のない使者が来た事で激怒し、次の様に使者を罵っています。

関羽「貉(むじな)めが、よくそんな事が言えるな。

樊城を攻め落としたら、次はお前(孫権)を滅ぼしてやる。」

この時の関羽は于禁を破り兵糧が不足しているとはいえ、有利に戦いを進めていた事で気分が高揚していたとも考えられます。

さらに言えば、過去に劉備は孫権に会った時に「二度と会いたくない」と発言した事があり、関羽も孫権の事を嫌っていたのでしょう。

関羽は呉で優れた武将は周瑜と魯粛だけであり、周瑜も魯粛のいない呉では、自分に太刀打ちできないと考えたのかも知れません。

孫権は関羽が自分を侮っていると知り、自筆の手紙を送り関羽に謝罪し、自ら援軍に行くと約束します。

しかし、孫権としてみれば婚姻を断われらた事などから、関羽に対し不信感を抱き荊州を奪う決断に繋がったとも考えられます。

関羽の戦いの姿勢を見ると、「外交」という概念が極めて貧しいと感じました。

 

関羽を嫌う諸将

関羽は後方部隊として南郡太守の糜芳を江陵に駐屯させ、傅士仁を公安に配置しています。

しかし、関羽は日頃から糜芳や傅士仁を見下しており、全力で関羽の軍を助ける事をしなかったわけです。

こうした中で、関羽や糜芳と傅士仁に対し、次の様に述べています。

関羽「帰還したらお前ら(糜芳、傅士仁)を始末してやる。」

関羽の脅しに、糜芳と傅士仁は恐怖しました。

関羽は孫権を罵り、見方の糜芳と傅士仁をも敵に回す様な言動をしたわけです。

関羽は荊州の文官のトップである潘濬(はんしゅん)とも親交を結ばないなど、人に対して選り好みがかなりあった事が分かっています。

こうした態度が孤立を招き、関羽を破滅に導く事になります。

 

孫堅領内から略奪

関羽の兵糧不足は深刻であり、孫権領内からの略奪を行っています。

兵糧の不足だけではなく、援軍を送ると言いながら、援軍を寄越さない孫権への苛立ちもあったのでしょう。

しかし、孫権から見れば、自国内での略奪は許せる事ではなかったはずです。

この頃になると、孫権は完全に関羽を敵視していたと考える事が出来ます。

魏が司馬懿の策で、呉に関羽の背後を衝かせようとした事もあり、孫権は関羽を討つ決断をします。

 

陸遜の手紙

呉の大都督である呂蒙は荊州の奪還を狙っていました。

しかし、関羽は呂蒙に備えは怠らず、兵を配置していたわけです。

呂蒙は自分がいる限り関羽の警戒は解けないと考え、病気を理由に建業に戻っています。

呂蒙に代わり陸遜が荊州の責任者となりました。

陸遜は呉の領内では、山越討伐で功績を挙げていましたが、国外では全くの無名だったわけです。

陸遜は関羽に対し于禁を降伏させた事を絶賛し、関羽に対して従順で謙虚な手紙を送ります。

関羽は気分をよくし、呉への警戒を解き、荊州の守備兵も自軍に加えています。

これにより、荊州は背後が薄くなったわけです。

 

徐晃に破れる

曹操は樊城への援軍として、徐晃に10万の軍勢を与えて樊城の救援に向かわせています。

于禁の3万が敗れても、直ぐに10万の軍勢を繰り出せるのは、魏と蜀の国力の差なのでしょう。

関羽は樊城や襄陽を包囲し、降伏した于禁軍を監視する兵も必要であり、関羽が徐晃に対して応戦出来た兵は5千しかいなかった話があります。

関羽は五千の兵を自ら率いて、徐晃軍10万と戦う事になります。

関羽は曹操陣営にいた時に、徐晃とは気が合ったらしく、戦いの前に話し合い世間話をしています。

蜀記によれば、徐晃は関羽に対し軍事の話は一切しなかったとも伝わっています。

関羽も徐晃の態度に「戦いを回避する事が出来るかも知れない。」と思ったのかも知れませんが、徐晃は馬から降りると次の様に述べています。

徐晃「関羽雲長の首を取った者には千斤の恩賞を与える。」

関羽は徐晃の言葉に驚き、「大兄(徐晃)、これは何事だ。」と述べています。

徐晃は関羽に対し「これは国家の事なのだ。」と述べ関羽に攻撃を仕掛けたわけです。

徐晃の兵力は10万いたと伝わっており、そもそも五千の兵で戦うのは無理があり、関羽は結局は破れています。

関羽は徐晃に敗れた事で撤退するしか無くなり、樊城の包囲は解かれました。

樊城の戦いは関羽の敗北で終わったと言う事です。

 

関羽の最後

義侠心と忠義、剛胆に生きた武将である関羽にも最後の時が訪れます。

荊州を孫権に奪われる

関羽は樊城から撤退しましたが、呂蒙の軍勢が江陵や公安を奪った事で、関羽は帰る場所を失う事になります。

関羽は日頃から糜芳や傅士仁を下に見ており「始末してやる」発言もあり、糜芳や傅士仁は虞翻の説得などもあり呆気なく降伏しました。

糜芳や傅士仁にしてみれば、大半の兵は樊城に送ってしまい、どんなに頑張っても太刀打ち出来ないと考えたのでしょう。

呂蒙は関羽の妻子や将兵などを多数捕虜としたわけです。

呂蒙は占領地では善政を行い民衆の支持を得ています。

これにより荊州の南部は孫権の領地となります。

関羽は帰る場所を失い麦城に籠る事にしました。

 

兵士に見捨てられる

関羽は麦城に入城しますが、麦城の名前は「城」ですが、実際には砦に近く大した防備はなかったと考えられています。

こうした中で、呂蒙が降伏した者を優遇している話が伝わると、兵士達は関羽を見捨てて逃亡しました。

関羽は兵士は可愛がったようですが、兵士らにしてみれば家族の生活や自分の暮らしが一番であり、関羽の元を離れたのでしょう。

関羽は上庸の孟達や劉封に援軍要請をした話もありますが、郡内が動揺する事を理由に断られています。

蜀の劉封、孟達の援軍も来なかった事で、関羽は完全に孤立したとも言えるでしょう。

 

関羽が斬られる

関羽は孫権に降伏する振りをして逃走しました。

孫権は関羽の退路を読んでおり、潘璋や馬忠を伏兵として配置していたわけです。

関羽は臨沮において、子の関平と共に捕らえられ処刑されたと伝わっています。

ただし、蜀記によれば捕らえた関羽を孫権が用いようとした話があります。

孫権は関羽を使って劉備や曹操と戦わせようと考えますが、側近達は次の様に述べて反対しました。

「狼の子を養ってはいけません。ここで関羽を生かしたら後日に災いをもたらす事になります。

曹操は関羽を始末しなかった為に、遷都を考える程の大難を招きました。

関羽を生かしてはなりませぬ。」

側近たちの言葉により、孫権は関羽の処刑を決断したと蜀記にあります。

ただし、蜀記の関羽の最後の話は、裴松之はデタラメだと一蹴しています。

因みに、曹操や孫権は関羽を諸侯の礼で埋葬しました。

尚、三国志演義では関羽が死ぬと周倉が自殺した話がありますが、周倉は三国志演義の架空の人物とも考えられており、史実ではないとされています。

中国には周倉の墓が存在しますが、何が入っているのかは不明です。

 

関羽の評価

関羽の行動を見ると、よく言えば男らしいと言えます。

関羽の行動原理を見ても「義侠心」「忠義」「剛胆」などの言葉が相応しい人物です。

しかし、その反面で性格に問題があった事もまた事実でしょう。

特に人間関係では、全く上手くやれなかったとも言えます。

関羽は張遼や徐晃と仲が良かった話から、自分が人間的に気に入った人とは敬意を持って接したはずです。

兵士らに対しても優しかったと伝わっています。

しかし、能力がイマイチだと感じるのに、高官にいる様な人物に対しては毛嫌いしていたのでしょう。

先にも述べた様に、荊州の文官トップとも言える、潘濬と親交を結ばなかったのは問題です。

自分が気に入った人しか付き合わない関羽の性格が、最後は身の破滅を招いたとも言えるでしょう。

関羽の性格は一言で言えば「めんどくさい」に尽きるのかも知れません。

それでも、関羽の生涯は信念を貫いた人生だった様にも感じました。

楚漢戦争で項羽を破った劉邦に韓信が「将の将たる器」と評した言葉がありますが、関羽を見てみると「将の将たる器」とは言えないと感じています。

それでも、兵士を率いるのは上手く「兵の将たる器」ではあるのでしょう。

関羽に取って一番幸せだった時期は、劉備軍団がまだ小さく任侠集団だった頃ではないかとも感じています。

関羽の実績を見るに能力は高かった事は明らかです。

それだけに人間関係でしくじっているのは残念に思いました。

 

関羽の祟りはあったのか?

三國志演義では、関羽討伐で大活躍した呂蒙は関羽に祟られて亡くなっています。

さらに、関羽が亡くなって数カ月後に曹操も亡くなったわけです。

これだけだと、偶然が重なったと思うかも知れません。

しかし、樊城の戦いから夷陵の戦いまでの間に、呉の孫皎、蒋欽なども亡くなっています。

それを考えると、関羽の祟りだとも言えなくはありません。

ただし、関羽を手紙で欺いた陸遜が亡くなっていないなどもあり、関羽の祟りとするのは無理がある様に感じます。

陸遜は関羽に対して、偽りとは言えべた褒めの手紙を送っている事もあり、恨みの対象にはならなかった可能性もあるのかも知れませんが・・・。

 

関帝廟

関羽は死後に神として祀られる事になります。

神として祀られる事になった理由としては、関羽の出身地が塩の産地であり商売が盛んだった事が原因だともされています。

関羽は忠義に厚い武将であり「決して裏切らない」という話しから、商売の神様になった話もあります。

それ以外にも、関羽が神として祀られる原因は、義侠心や仁義に生きた事も原因なのでしょう。

尚、関羽を祭った関帝廟には、中央に関羽、左右に関平と周倉が祀られています。

関帝廟は日本の横浜や神戸にもあるので、気になる方は見に行ってみると良いかと思います。

 

関羽の子孫

関羽の子に関平、関興、関索がいたとする話があります。

関平は三国志演義では養子になっていますが、正史三国志には養子とする記述がなく実子だと考えられています。

ただし、先に述べた様に関平は関羽と共に処刑され生涯を終えました。

関羽が亡くなると関興が後継者となります。

三國志演義だと関興は張飛の子である張苞と共に、夷陵の戦いで大活躍します。

しかし、実際の関興は能力を認められながらも、若くして亡くなった様です。

関興が亡くなると、関統が後継者となり公主を娶ったとあります。

関統が亡くなると子が無かった事で、庶子の関彝(かんい)が跡を継ぎました。

西暦263年に魏の鍾会と鄧艾が蜀に攻め寄せています。

鍾会と鄧艾の軍に関羽が過去に討ち取った龐徳の子である龐会がおり、蜀を制圧すると関羽の一族を皆殺しにしたと伝わっています。

この話が真実だとすれば、関彝も龐会に討ち取られた事になるのでしょう。

因みに、関索は、関羽と胡金定の子だとされています。

ただし、関索は「花関索伝」や「三国志演義」などの物語に登場する架空の人物と考えられています。

尚、史実とは考えられていませんが、水滸伝に関羽の子孫を名乗る太刀の関勝なる人物が登場します。

関勝も関羽と同じように、青龍偃月刀を武器として戦った話があります。

水滸伝では林冲が張飛愛用とも言える、蛇矛の使い手として登場しています。

関羽人気が水滸伝で関羽の子孫を名乗る、関勝なる人物を登場させた様に思いました。

 

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