春秋戦国時代

華陽夫人『寵愛はあれど子が出来ぬ時の秘策』

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華陽夫人は、秦の孝文王の夫人であり、華陽后とか華陽太后とも呼ばれた人物です。

華陽夫人は、養子として異人を迎えた事でも有名であり、血は繋がっていませんが、始皇帝の祖母に当たる人物となります。

華陽夫人の事で分かっている事は、楚の出身だという事です。

同じく楚の出身である昌平君昌文君などとも関わり合いがあったのかも知れません。

秦の丞相となり内政で活躍する李斯も楚の出身であり、華陽夫人が呂不韋に口利きをした可能性もある様に思います。

華陽夫人は、楚に対して愛着がある様にも見えるからです。

今回は、秦の孝文王の夫人である華陽夫人を解説します。

尚、史記に登場する女性と言えば、末喜妲己褒姒、呂后などインパクトが強い人物が多いです。

しかし、華陽夫人は、悪女というわけでもなく、あくまでも普通の女性だと考えた方がよいでしょう。

史記の悪女系の女性に比べると、華陽夫人は可愛らしくも見える部分もあります。

 

華陽夫人は楚の出身である

華陽夫人は、先にも述べた様に楚の出身であり、公族だったのではないかと考えられています。

華陽夫人には姉と弟の陽泉君がいた話があります。

ただし、華陽夫人の両親や楚王との関係は明らかになっていません。

秦の王翦が楚王負芻を捕虜にした後に、楚の将軍である項燕は、楚王に昌平君を擁立しています。

昌平君は、楚王になれるわけですから、明らかに楚王と血縁があったはずです。

華陽夫人も楚の公女であれば、昌平君とは何かしらの関係があったのかも知れません。

尚、華陽夫人の「華陽」は、資治通鑑の胡三省注によれば、湯沐邑の名であり、湯沐邑を号したのではないかと考えられています。

華陽夫人は外見が優れていた事で、安国君(公子柱)に寵愛される事になります。

 

子が出来ない悩み

秦の昭王の在位年数は、50年を超え長寿だったわけです。

それ故に、秦の昭王の太子であった悼太子の方が先に亡くなってしまいます。

悼太子が亡くなった事で、安国君が次の太子に指名される事になります。

華陽夫人は、秦の昭王が亡くなれば皇后になるチャンスを得たわけですが、華陽夫人には不安要素があったわけです。

華陽夫人は、妊娠しにくい体質だったのか、いつまで経っても安国君との間に子供が生まれる事はありませんでした。

華陽夫人は男子を出産さえできれば、次の秦王の母になれるのに不安な日々が続く事になります。

 

呂不韋が暗躍する

華陽夫人の話を聞いた大商人の呂不韋は、行動に移す事になります。

奇貨を見つける

呂不韋は趙の首都である邯鄲に行った時に、安国君の子で趙への人質となっている異人を見つける事になります。

異人は人質でしたが、秦が連年の様に趙を攻撃したせいで、異人は趙から礼遇されなかったわけです。

特に、長平の戦いで秦の将軍である白起が趙括を破り、40万もの兵士を生き埋めにした時は、異人の立場はかなり悪くなった事でしょう。

呂不韋は異人を掘り出し物だと感じ、異人の為に1000金を使う事になります。

呂不韋は異人の名を上げさせる為に、諸侯の賓客と交わらせたりさせたわけです。

そうした上で、呂不韋は華陽夫人の元に向かいます。

 

呂不韋が華陽夫人

呂不韋は、珍奇な財物を持ち秦に向かうと、華陽夫人の姉に仲介して貰い、華陽君と会う事になります。

ここで呂不韋は、趙の人質の子である異人が、華陽君や安国君を慕っている事や、異人が優れた人物だと吹き込んだわけです。

呂不韋は華陽夫人に対し「異人は華陽夫人の事を天だと思っている」と最大限の賛辞を贈った話もあります。

華陽夫人は呂不韋の言葉に大喜びし、異人に対し好感を抱く事になります。

 

異人を養子とする

呂不韋の言葉により、華陽夫人は異人を養子に迎える決断をします。

姉の説得

呂不韋は、自分では華陽夫人の最後の一押しが出来ないと思ったのか、華陽夫人の姉に頼み込み異人を後継者に立てる様に説得する事になります。

華陽夫人の姉は、妹に次の様に述べています。

姉「容姿のよって王に仕える物は、容姿が衰えれば愛情の薄らぐものです。現在、華陽夫人には子がおりません。

容姿がよく王の寵愛を受けている時に、諸子の中から養子を迎え太子に立てる事が出来れば、容姿が衰えたとしても邪険には扱われません。

趙に人質になっている異人は賢才ではありますが、兄弟の中では中頃であり、太子に立てる身分ではありません。

もし華陽夫人が異人を養子として迎えれば、夫人は子がない状態から子が出来る事になり、異人も国がない状態から国を持つ事が出来るのです。」

華陽夫人は、姉の言葉に納得し、異人を養子として迎える決断をします。

 

安国君を説得

華陽夫人は、異人を養子として迎える決断をしましたが、太子である孝文王を説得する必要があったわけです。

華陽夫人は、機会を探し安国君に次の様に述べる事になります。

華陽夫人「趙の人質である異人は、絶賢であり、諸侯の賓客達は皆が褒めたてています。

私には不幸にも子がいません。私は異人を養子として迎え、妾(華陽夫人)の身を託したいと思います。」

この時の華陽夫人は泣きながら安国君に訴えたとされています。

安国君は寵愛する華陽夫人が涙を流した事で、即決し異人を太子に立てる約束までしたわけです。

異人は安国君の太子になった事で、趙に財物が送られる事になります。

子が出来なくて困っていた華陽夫人の悩みは消え、普段の生活にも困っていた異人は、呂不韋と出会った事で人生が好転していきます。

 

異人と会う

異人は華陽夫人の太子になる事は決まりましたが、まだ趙からは出国していなかったわけです。

この時に、秦の王齕、鄭安平、王陵らが趙の首都である邯鄲を囲む事になります。

呂不韋は異人の見張りの兵に賄賂を渡し、異人を連れて秦軍の中に逃げる事になります。

その後に、秦の首都咸陽に行った異人は、華陽夫人と面会する事になります。

この時に、異人は華陽夫人の故郷である楚の服を着て現れた話があります。

呂不韋が華陽夫人に気を遣って、異人に楚の服を着る様に進言したのかも知れません。

楚の服を着た異人を見た華陽夫人は、次の様に述べています。

華陽夫人「私は楚人です。あなたを私の子として迎える事にしましょう。」

これにより異人は、完全に華陽夫人の子として認められた事になります。

華陽夫人は、異人の名を子楚と改めさせています。

子楚と名乗らせる辺りは、華陽夫人が楚を大切に思っていた事の表れではないかと感じています。

夏姫との関係

華陽夫人の養子として異人は迎えられる事になりますが、異人の生母である夏姫はまだ生きていたわけです。

孝文王が亡くなり子楚が荘襄王として秦王に即位すると、華陽夫人は華陽太后と呼ばれ、夏姫は夏太后と呼ばれる事になります。

これを見ると分かる様に、荘襄王は自分を養子にしてくれた華陽夫人も生母の夏姫も大事にした様に思います。

華陽夫人と夏姫の関係は「金持ち喧嘩せず」であり、良好だった可能性もある様に思います。

夏姫は子供はいるが秦の孝文王には愛されていなかった。華陽夫人は孝文王に愛されてはいたが子がいなかった。状態でお互いが欠けていた物を補う事が出来た様にも思いました。

華陽夫人も夏姫もお互いに感謝しあっていた可能性もあるでしょう。

 

華陽太后の最後

史記には、華陽太后(華陽夫人)が亡くなった年が記録されています。

西暦にすると紀元前230年に華陽夫人は亡くなった事になります。

紀元前230年は秦のが、韓を滅ぼした年でもあります。

戦国七雄の一角を占めていた韓が滅んだ年に、華陽夫人も亡くなったと言う事なのでしょう。

尚、夏太后(夏姫)は、華陽太后に先立つ事、紀元前240年に亡くなっています。

因みに、紀元前240年はハレー彗星の記録がある年であり、秦の将軍である蒙驁諸子百家の陰陽家の始祖とされる騶衍も亡くなっています。

華陽太后と夏太后は、秦の天下統一までは見られませんでしたが、天下統一を成し遂げる事になる秦王政に会う事は出来たはずです。

言うまでもないと思いますが、荘襄王の子である秦王政は、統一後は始皇帝を名乗っています。

中華で初めて皇帝が出現する事になります。

 

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