古代オリエント

バビロン第一王朝(古バビロニア)『アムル人の国である』

バビロン第一王朝(古バビロニア)はアムル人がメソポタミアの地で建国した国です。

元々アムル人はメソポタミアの地にいたわけではありません。

ミタンニに押し出される形で移民となり、シュメール人のウル第三王朝に流れ込んでくる事になります。

難民であったはずのアムル人が、どの様にしてメソポタミアで繁栄し滅亡したのかを解説します。

因みに、バビロン第一王朝の6代目の王がハンムラビ王でありハンムラビ法典を制定した事でも有名な王様です。

尚、アムル人の呼び方ですが、シュメール語で「西から来た人々」という意味があります。

 

アムル人の民族移動

アムル人はセム系の民族です。

セム系の民族は元は、アラビア半島にいました。

しかし、気候変動が起きた事でアラビア半島からメソポタミアを含む肥沃な三日月地帯に移動します。

肥沃な三日月地帯の一角で生計を立てていたアムル人ですが、紀元前2000年頃になると北方からミタンニ人が押し寄せてきます。

アムル人は、ミタンニに敗れた事で難民となり、シュメール人が治めるウル第三王朝に雪崩込む事になるわけです。

この時にシュメール人から見て西側からやってきた民族だった為に、「西から来た人」という意味のアムル人と呼ばれる様になります。

尚、大量に押し寄せて来るアムル人に対してシュメール人が壁を作り防ごうとした話もあります。

 

バビロン第一王朝の建国

バビロン第一王朝の建国に関してのお話です。

ウル第三王朝の滅亡

アムル人が押し寄せる前のメソポタミア地方は、シュメール人が統治するウル第三王朝が治めていました。

シュメール人は、高度な文明を持っていたとも言われていますが、大量の難民の前に社会混乱が引き起ります。

さらに、大飢饉やウル第三王朝の将軍であったイシュビエラがイシン第一王朝を建国した事でウル第三王朝は衰退に拍車が掛かります。

ウル第三王朝は、結局は東から来たエラム人の侵攻により滅亡します。

エラム人もイシン第一王朝の攻撃を受けたりして、メソポタミアの地に根付く事が出来ずに、メソポタミアは群雄割拠となります。

 

バビロンでアムル人が建国

こうした戦乱の中でアムル人は、バビロン(都市名)を本拠地としたバビロン第一王朝を建国します。

バビロン第一王朝は、ミタンニに土地を奪われて難民だったはずのアムル人がメソポタミアの地で建国した国となります。

尚、バビロンという呼び方とバビロニアという呼び方がありますが、バビロンは都市名でありバビロニアは周辺の地域を指します。

バビロニア地方と言えば、メソポタミアの中部と南部を合わせた地域だと覚えておきましょう。

メソポタミア文明の初期にシュメール人とアッカド人がいた場所がバビロニア地方となります。

 

 

ハンムラビ王の躍進

戦乱が続いたメソポタミアですが、バビロン第一王朝に英雄的な君主が現れます。

ハンムラビ王の富国強兵策

それがハンムラビ王(在位紀元前1792年~紀元前1750年)です。ハンムラビ法典を制定した王様と言えば分かる人も多いはずです。

ハンムラビ王が即位するまでのバビロン第一王朝の領地は、それほど大きくはありませんでした。

ウィキペディア・ハンムラビ王より

しかし、ハンムラビは兵士を優遇するなどの政策を取り富国強兵を実現します。

結果として、ハンムラビの軍は強くバビロン第一王朝がメソポタミアを統一し覇者となっています。

ハンムラビは25の戦いで勝利し広大な領地を手に入れた記録もあるほどです。

広大な領地を手に入れたハンムラビ王は、ハンムラビ法典を制定し国の安定を図ります。

 

宗教改革も行う

ハンムラビ王と言えば、ハンムラビ法典ばかりに目が行きますが宗教改革も行っています。

バビロン第一王朝の支配者側であるアムル人は、マルドゥク神を祀っていましたが、

支配される側のシュメール人は、エンリル神を祀っていたわけです。

ハンムラビは、マルドゥク神が神々の最高位に登る資格がある事を立証しようと考えます。

そこで、ハンムラビは天地創造の物語である「エヌマ・エリシュ」を作り上げたとされています。

ハンムラビの宗教改革も成果を挙げてバビロン第一王朝の首都であるバビロンは宗教都市になった話もあるほどです。

バビロンでは宗教行事も盛んになり新年祭などは12日間に渡って行われ、祭りの終盤では王や神官が行進した話も伝わっています。

 

バビロン第一王朝の滅亡

バビロン第一王朝は、ハンムラビが亡くなると急激に衰えていき滅亡に向かっていきます。

カッシート人の侵入

バビロン第一王朝はハンムラビが亡くなると反乱が勃発し、国力を大きく落とします。

バビロン第一王朝の栄華は僅か20年しかないとも言われています。

こうした状況の中で、東の方からカッシート人がバビロン第一王朝に入ってきます。

カッシート人は、メソポタミア南部に居住し人口を増やして行きます。

カッシート人は最初は日雇い労働などをして暮らしていました。

カッシート人の事は詳しくは分かっていませんが、専門家によってはカッシート人の侵入がバビロンの衰退に拍車をかけたと指摘する人もいます。

尚、バビロンの言葉でカッシートは「日雇い労働者」の意味です。

因みに、バビロン第一王朝が滅びた後に、カッシート人がバビロンを首都としたカッシート王国を建国する事になります。

 

ヒッタイトの侵攻により滅亡

衰えたバビロン第一王朝にヒッタイトの軍が遅い掛かります。

小アジアにいたヒッタイトがバビロン第一王朝まで遠征してきたわけです。

一説によるとこの時にヒッタイトは、ヒッタイト王ムルシリ1世が自ら指揮を執りバビロン第一王朝に攻めて来たとも言われています。

バビロン第一王朝の王であるサムス・ディターナとヒッタイト王ムルシリ1世の戦いとなるのですが、ヒッタイト軍が圧倒的な戦力で勝利します。

バビロンの軍は青銅器の武器が主流でしたが、ヒッタイトは鉄の武器を持っていました。

青銅器は高度があるのに折れやすい欠点があり、ヒッタイトの鉄の武器を青銅器で受けてしまうと、青銅器は折れて壊れてしまいます。

鉄は金属ですが柔軟性があり曲がる事はあっても折れる事は少ないです。

その為、武装度の違いが勝敗の差となりバビロンは首都も陥落し多くの捕虜と財宝をヒッタイトに取られて滅亡しました。

尚、バビロン第一王朝を滅ぼしたヒッタイトですが、バビロンを放棄し本国である小アジアに引き上げています。

ヒッタイトは強力な武器を持ちながらも領土獲得意欲がない国だったとも考えられています。

 

カッシート王国の建国

バビロン第一王朝は滅びたわけですが、滅ぼしたヒッタイトが小アジアに撤退した為に権力の空白地となります。

この時に、メソポタミアの南方にいたカッシート人が団結しバビロンを抑えてカッシート王国を建国しました。

カッシート王国の首都はバビロンでありバビロン第一王朝と同じです。

カッシート人が台頭した原因として、ヒッタイトに痛めつけられたアムル人ではバビロン第一王朝を復興する力が無かったのかも知れません。

 

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