春秋戦国時代 秦末期・楚漢戦争

胡亥の史実!秦を滅亡させ暗君の代名詞となる!

2021年3月14日

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宮下悠史

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胡亥と言えば、三国志の劉禅と並ぶ暗君の代名詞のような人物です。

父親である始皇帝(政)やの歴代の君主が何百年もかけて作りあげた帝国を、わずか4年で滅亡させてしまったわけです。

もちろん、始皇帝の焚書坑儒や安房宮の建設、徹底した法治主義などやりすぎた部分もあるかも知れません。

そうした反動を胡亥が受けてしまい滅亡したという話もあります。

しかし、胡亥自身も始皇帝以上に苛酷な政治を行った事や趙高を任用したなどの失政もあるはずです。

ここでは、胡亥がどのような人物で、どの様にして秦を滅亡させたのか記載します。

ちなみに、胡亥と趙高は密接に関わっていて、趙の幽穆王郭開の関係にも似ています。

趙の幽穆王が李牧を処刑して戦国七雄の趙が滅びた様に、胡亥が蒙恬を処刑する事で秦も項羽に滅ぼされる事になります。

もちろん、劉禅と黄皓の関係にも似ていて、歴史は繰り返すとしか思えません。

胡亥と趙高は、国が亡びる時のパターンの一つとも言えるでしょう。

ちなみに、上記の画像は横山光輝さんの漫画史記で、胡亥が酒と女で遊び惚けているシーンです。

遊び疲れまで出てしまっているシーンでもあります。

始皇帝の寵愛を受ける

胡亥は始皇帝の末子で、寵愛を受けたと史記に記載があります。

なぜ寵愛を受けたかと言えば、次の2点が考えられるのかな?と思いました。

末子だから可愛がられた

素直な性格だった

自分は親になった事が無いので分かりませんが、子供が多いと末子が可愛く感じられる事が多いとされています。

他の息子たちは成長すると、親との反発があったりしますが、小さい子供であれば言う事を聞いてくれるため、可愛いと思ったのではないかと感じています。

他にも、素直な性格だったのかも知れません。

始皇帝の長男である扶蘇は、法治主義の政策に対して異を唱えているわけです。

そういう事をせずに、素直に始皇帝の言う事に従ったのが胡亥であったようにも思えます。

ただし、言い方を変えれば、他の人の意見に左右される優柔不断な性格とも言えるわけです。

後に、趙高の意見を採用して皇帝になったり、趙高の進言を悉く聞いてしまう辺りは、素直というよりは優柔不断な性格にも映ります。

しかし、バカな子ほど可愛いという話も聞いた事がありますし、始皇帝は胡亥を愛した事は間違いないようです。

三国志の劉備の後継者である劉禅にも似たような所があるように感じています。

趙高と親しくなる

趙高は法律に詳しかったと史記に記述があります。

秦の法律や考え方などを、胡亥に教えていたのが趙高です。

つまり、趙高は胡亥の家庭教師のような役割をしていました。

ここで胡亥も趙高の実力を認めて、信任を得たと史書にあります。

ここが滅亡の第一歩になるわけです。

趙高と胡亥の仲が始まる事になります。

秦を滅ぼす者は胡なり

晩年の始皇帝は不老不死を目指しており、盧生に仙人の羨門高を探し出す様に命令しています。

盧生は海から戻ると鬼神のお告げを見つけたと述べ、次の様な記録を発見したと報告しました。

※史記 始皇帝本紀より

秦を滅ぼす者は胡なり

始皇帝は盧生の言葉を聞くと「胡」を北方の匈奴だと考え、蒙恬に30万の軍勢を率いさせて討伐に向かわせました。

しかし、後の事を考えれば、秦を滅ぼす「胡」というのは、胡亥だった事になるはずです。

尚、盧生は始皇帝に人に居場所を知られぬ様にすれば「真人」になれると説くなど、出鱈目を言う様な人でもあります。

それにも関わらず、何故か胡亥が秦を滅ぼす事は的中させたわけです。

この辺りは本当なのか嘘なのかも分からない様な話しでもあります。

秦の始皇帝が崩御する

始皇帝は不老不死に憧れて、水銀を飲んだりしたと言われています。

その他にも、方士の徐福に東方に行かせるなど、始皇帝の晩年はおかしくなってきている所が多々見受けられます。

その中で、体調が悪くなり占うと「巡幸に行くと吉」という結果が出たわけです。

その巡幸に胡亥、趙高、李斯なども同行しています。

蒙毅も最初は始皇帝の共として巡幸に参加しましたが、途中で始皇帝の命令により咸陽に帰り祈祷を行う事になります。

蒙毅が咸陽に戻らなければ、胡亥は後継者になれなかった可能性もあるでしょう。

普通に考えれば体調が悪くなれば寝ていればいいわけですが、始皇帝は巡幸に出て、その最中に亡くなってしまいました。

始皇帝の遺書は趙高に渡されたわけですが、そこには「始皇帝の長男である扶蘇に葬儀を行わせるように」と書かれていました。

葬儀を行わせると言う事は、後継者に指名したと言う意味があります。

始皇帝は当時、蒙恬の元にいた長男である扶蘇を後継者に指名したわけです。

しかし、それを読んだ趙高は丞相である李斯を説得に行きます。

李斯は最初断りますが、趙高は「扶蘇は法治主義を緩める政策を取るから、蒙恬や蒙毅などが用いられて、法治主義者の李斯は遠ざけられる」と熱弁します。

実際に、扶蘇は法治主義を緩めるように始皇帝に進言した過去があり、法律を緩める政策を取る事がほぼ確実だったわけです。

さらに、法治主義者の李斯は、下手をすると扶蘇に誅されてしまうと考えたのか、趙高の話しに乗ってしまいます。

ここが李斯のターニングポイントで、乗ってしまったが故に丞相ではいられましたが、後に酷い事になるわけです。

追記(趙正書の記述)

新資料である趙正書では、始皇帝が自らの意思で胡亥を後継者に指名しています。

趙高に関しても、章邯(しょうかん)に殺害されるなど史記の記述との差異があります。

史記と趙正書の記述でどちらが正しいのかは定かではありません。

2世皇帝として即位

趙高と李斯は、胡亥に二世皇帝として即位するように依頼します。

しかし、胡亥は最初は断っています。

始皇帝が扶蘇を皇帝とする遺言に反する行動は、信義に反すると言ったわけです。

趙高は、扶蘇や他の公子が二世皇帝になってしまう事のデメリットを伝えると、胡亥は納得して二世皇帝として即位する事を決めます。

胡亥自身も皇帝になれるという事で、賛同してしまったのでしょう。

皇族及び功臣を大量に殺害する

二世皇帝として即位した胡亥ですが、自分の兄たちを大量に殺害しています。

趙高が進言したのかも知れませんが、胡亥も末子の自分が二世皇帝に即位した後ろめたさがあったのかも知れません。

他の公子にしてみれば「なんで末子のあいつが皇帝なんだ?」と不満を持ってもおかしくはない状況だったからです。

他の公子が胡亥を殺害して、皇帝に即位する前に先手を打っての行動だったのでしょう。

これにより秦の公子の大半は処刑されてしまいます。

さらに、北方にいて匈奴を相手に大功を立てた蒙恬にも死を賜り、蒙毅も殺害しました。

この時に、秦の中枢にいた公子や家臣たちが大量に死んでいるわけです。

昔、春秋時代に覇者となった秦の穆公が亡くなると、大臣達が大量に殉死してしまい、秦は弱体化した話があります。

その時と同じように、胡亥が大量に大臣達を殺害してしまった事で、政治運営が異常事態になってしまったのでしょう。

実際に、李斯は後に胡亥の行動を非難して「二世皇帝のやっている事は滅茶苦茶だ」と言っているわけです。

胡亥としては、自分の権力を守るためにやったのかも知れませんが、秦の統治力などは弱体化した事は間違いないでしょう。

衛を滅亡させる

衛という国は、周王朝の初期に武王が弟の康叔が封じて出来た国です。

西周王朝時代には名君である衛の武公が現れて活躍しました。

衛の武公は周の共和の時代には、執政だったのではないか?とする説もあるくらいです。

春秋時代に入ると、衛の懿公が鶴を愛しすぎて、国を滅亡寸前まで追い込んでしまいました。

その後は、斉の桓公などの援助もあり国として存続するわけですが、戦国時代では魏の属国扱いになっています。

秦の蒙驁(もうごう)が魏を破り東郡宣言をすると、衛は秦の支配下になったようです。

秦が戦国七雄の6国を滅ぼしても、衛だけはなぜか続いていたような記述が史記にあります。

二世皇帝の時代には、「衛君角を庶民に落とした」とする記述があります。

史記の衛康叔世家にそのような記述があるわけです。

これが紀元前209年の事で、胡亥が即位した翌年に当たります。

胡亥の実績として、衛を滅亡させたと言うのがあるわけです。

だったら何?というレベルの事なのかも知れませんが・・。

優旃に諫められる

胡亥は即位すると、宮殿の外壁に漆を塗ろうと考えたわけです。

しかし、優旃(ゆうせん)という人物が冗談を交えて巧みに胡亥に説いたわけです。

すると、胡亥は優旃の言葉に納得して、笑って外壁に漆を塗るのはやめたとあります。

史記の滑稽列伝にそういう話が掲載されています。

ただし、ギャグを交えたようなネタだったらしいのですが、意味が分かりにくいネタで、自分には理解不能でした。

興味がある人は、史記の滑稽列伝を読んでみてください。

二世皇帝と言えば、あらぶってばかりの人で、趙高以外の人の言う事は聞かないイメージもあります。

しかし、滑稽列伝の優旃とのやり取りを見ると、根っからの暗君という感じは無くなります。

ただし、間違いなく名君とは言えないでしょう。

二世皇帝胡亥の政治

二世皇帝胡亥の政治ですが、始皇帝以上に苛酷だったとされています。

李斯自体も過酷過ぎると思ったのか、法令を緩めるように進言した記録が残っているわけです。

しかし、胡亥はさらなる法治主義を加速させる様にしていったとされています。

これに関しては、趙高が進言したのかも知れませんが、二世皇帝の政治は始皇帝以上に苛酷だったようです。

さらに、阿房宮の造営を加速させたり、土木工事に熱中したとあります。

胡亥は、始皇帝の後継者として、当然の事として行っていたのかも知れません。

扶蘇が法治主義を緩める政策を考えていた事への反動かも知れませんが、人民は始皇帝の時よりもさらに苦しんだ事は間違いないでしょう。

この胡亥の政策がを安定させるのではなく、破滅に導いていく事になります。

天下統一後は、守成が大事だと言われていますが、守成に失敗したのが胡亥だったのでしょう。

趙高に政治を任せる

胡亥は、趙高だけは信任していました。

趙高が下記のように胡亥に進言しています。

「龍は滅多に見る事が出来ないから価値があるとされているのです。二世皇帝は若く政治に間違いがあってはなりません。間違いがあっては侮られてしまいます。二世皇帝には宮殿の奥にいて、私(趙高)が必要な時に取り次ぐようにしましょう」

この言葉を採用した胡亥は、宮殿から外には出なくなり会うにしても、趙高を介さないと、臣下は意見が出来なくなったわけです。

これにより趙高の言葉に重みがなし、李斯がいましたが、実質的な王朝の最高権力者が趙高になります。

さらに、趙高は胡亥に酒と女を勧めて骨抜きのような状態にしてしまいました。

この頃の胡亥は完全に堕落したダメ皇帝になっているわけです。

胡亥はこの時に、20歳くらいの年齢だったと思われるので、遊びたくなっても仕方が無いのかも知れません。

李斯を処刑する

李斯は胡亥に自ら政務を行うように、意見しようとしますが、これを趙高が妨害しようとします。

胡亥は遊び惚けているわけですが、遊びが盛り上がっているタイミングで、李斯が面会に来たと伝えるわけです。

胡亥としては、遊びが中断されてしまいますので、不快な気分になります。

結局、面会を断るのですが、日を改めて李斯は面会を望んで趙高に話をします。

しかし、またもや趙高は胡亥の遊びが盛り上がっているタイミングで、李斯が来たと告げるわけです。

これを繰り返されて胡亥は、李斯に対して不快な気分を覚えてしまいます。

このタイミングで趙高は、胡亥に李斯は胡亥を舐めているから、こういう事をすると讒言したわけです。

これを信じた胡亥は、でっち上げの罪に李斯を陥れて処刑してしまいます。

さらに、趙高を丞相に命じています。

もちろん、趙高は自分の利益になるような事ばかりを考えたため、秦はどんどん腐敗していくわけです。

各地で反乱が勃発する

二世皇帝の過酷な政治に不満を持った陳勝・呉広が反乱を起こしています。

史上初の農民が打ち立てた王朝になるわけですが、これを決起に反乱が全国に広がっていくわけです。

陳勝と呉広は兵士を集めるために「項燕(秦の王翦に敗れた楚の将軍)と扶蘇」を名乗っています。

の最後の王は昌平君ですが、昌平君よりも扶蘇の方が人が集まると思ったのかも知れません。

始皇帝の長男である、扶蘇の名を名乗っている所は、興味深いところです。

尚、陳勝呉広の乱が起きた事で、秦は統一王朝ではなくなっています。

楚の貴族出身である項梁が、楚王の子孫を立てて懐王としたり、戦国時代の魏の王族である魏咎が王を名乗ったりしたわけです。

他にも、張耳と陳余が趙王室の末裔である趙歇を探し出して趙王となったり、斉では田儋、田栄、田横らが挙兵しています。

二世皇帝に不満を持った人々が、秦に対して反旗を翻したわけです。

反乱軍が函谷関を超えて、咸陽まで迫るわけですが、胡亥や趙高は兵を集める事が出来ませんでした。

秦軍の主力は上郡にいましたので、直ぐに反乱鎮圧に向かう事が出来なかったのでしょう。

この反乱に対して、少府(役職)の章邯は、囚人兵を率いて、反乱軍に当たればいいと献策します。

この時に、胡亥としてみれば逃げる時間を章邯が稼いでくれればいいと思ったのか、出撃を許可しています。

反乱軍も農民中心の兵なので質が良いとは言えませんが、章邯の率いた兵士も囚人兵なので質がよいとは言えません。

しかし、章邯は見事な采配を振るい、反乱軍を打ち破り将である周文をも討ち取っています。

さらに、章邯は各地の反乱軍を倒すために各地を転戦しています。

各地の反乱軍を破り、陳勝や魏咎、田儋なども討ち取っているわけです。

反乱軍の最大勢力である、項梁も討ち取る大戦果も挙げています。

あとは秦の正規軍を率いた王離が趙の鉅鹿を攻め滅ぼせば、反乱はほぼ治まる所まで行ったわけです。

しかし、趙の援軍に楚の項羽がやってくると、項羽率いる楚軍は一人で秦軍10人を相手にするほどの奮戦をします。

これにより王離の軍は壊滅してしまい、秦の主力軍は失われてしまいました。

趙の鉅鹿では首脳部の張耳と陳余が仲違いしていたにも関わらず、王離は敗れています。

章邯が楚に降伏

秦は反乱平定の直前まで来ていながらも、王離(王賁の子)が、敗れた事で函谷関の外では、反乱軍が優勢となります。

章邯は、対策を咸陽の首脳部に確認するために、司馬欣を派遣する事にしました。

しかし、司馬欣は趙高が実権を握っている事を知ります。

胡亥は遊び惚けていますし、趙高により秦は完全に腐敗した状態になっていたわけです。

さらに、章邯の妻子も殺された事を知ると、章邯は絶望してしまいます。

ここで余裕があり、秦から公子の一人でも逃げてくれば、章邯が擁立すればよかったのかも知れません。

しかし、章邯の前方には史上最強の猛将とも呼ばれる項羽がいて、余裕を与えてくれません。

章邯の軍も大敗はしていませんが、後退をはじめています。

結局、章邯は項羽に降伏する意を伝えて殷墟で盟約を結んでいます。

この時に、章邯は項羽を見ると涙を流したと史記には記載があります。

悩みの中にいて、こみ上げてくるものがあったのでしょう。

章邯が降伏した事で、秦の滅亡は50%は決まったと言えます。

しかし、胡亥にその事を告げる者はいませんし、趙高は内部の粛清に躍起になっているわけです。

こうしている間にも、反乱の規模はますます大きくなっていきます。

馬鹿問答が生まれる

反乱が鎮圧出来ていない事実を隠している事が、胡亥にバレる事を趙高は心配します。

そこで、趙高は自分を味方する者と、胡亥に味方する者を判別する方法を考え出します。

胡亥を宮廷に招き、さらに文武百官を招いたわけです。

趙高は鹿を連れて来て、「これは馬です」と言います。

これに対して胡亥は「鹿だ」と言ったわけです。

趙高は群臣に一人ずつ「馬」に見えるか「鹿」に見えるか聞いて回りますが、正直に「馬」と言った者は胡亥に味方する者と考えて、後に理由を付けて全て殺害しています。

これが馬鹿の語源になったとも言われています。

趙高は、この所作に対して、新しい戯れだと言いますが、この時に胡亥としてみれば、秦の宮廷が異常事態だと気づくべきだったのでしょう。

しかし、胡亥は趙高を信頼してか、ただのお戯れだと思ったようです。

胡亥の最後

反乱軍の楚の将軍である劉邦は兵を率いて秦の咸陽を目指します。

この時期になると、函谷関の外は秦の領土では無くなっていますし、秦の支配地域は函谷関の中だけとなっています。

ここまで来ると、群臣の中でも「まずい」と思ったのか、胡亥に告げる者が現れました。

趙高に従っていても、反乱軍に討たれてしまうと考えて胡亥に訴えたのかも知れません。

そこで胡亥は、激怒して趙高を呼びつけています。

趙高は胡亥が自分を誅するものだと考えて、先手を打つ事にしました。

趙高の記事でも少し書いたのですが、司馬遷の書いた史記では始皇本紀と李斯列伝では、胡亥の最後は内容が違っています。

始皇本紀の胡亥の最後

始皇本紀の胡亥の最後は、趙高は自分の娘婿である閻楽に兵を率いさせて、胡亥の宮殿を囲みます。

不意を衝かれた胡亥は対策を講じる事が出来ずに、閻楽の兵に囲まれてしまったわけです。

窮地に陥った胡亥は、近くにいた宦官「なんでこんな事になるまで教えてくれなかったんだ」と言います。

すると、宦官は「私が真実を告げていたら生きてはいられなかったでしょう。真実を告げなかった為に私は生きていられたのです」と答えています。

この宦官の言葉は非常に奥が深いと思いました。

この言葉は、史記の著者である司馬遷も言いたかった事ではあると思いますが、当時の秦の状況をよく現わしている言葉だと思っています。

話を戻しますが、胡亥は、閻楽に対して趙高に合わせて欲しいと願いますが、聞き入れられませんでした

さらに、皇帝の位は趙高に譲るから自分は「王」にして欲しいと言いますが、それも聞き入れられません。

貴族でいいと言ったり、一役人でも構わないと、胡亥はどんどん妥協し、最後は妻子と共に庶民にして欲しいと願いますが、聞き入れられませんでした。

最初は「王」を希望し、最後は「庶民」を希望すると言う、少しずつ妥協していく辺りが、胡亥らしいとも思いました。

しかし、助からない事を胡亥は悟ると自害しています。

これが始皇本紀の胡亥の最後です。

李斯列伝の最後

李斯列伝の最後ですが、胡亥が趙高を誅しようとした話ではなく、趙高が皇帝になろうとした野望の話しが掲載されています。

それによると、趙高は胡亥がいる宮殿を自分の兵士で囲ませています。

それを見て、胡亥はビックリするわけですが、趙高が宮殿に入ってきて、山東の反乱軍が咸陽に押し寄せてきたと偽情報を流したわけです。

胡亥にすかさず自刃するように勧めています。

胡亥も絶望して自害して果てた事になっていました。

これが李斯列伝の最後です。

李斯列伝では、李斯の死後は趙高にスポットライトが当たっている為、胡亥の最後については簡略に書かれているだけです。

この後、趙高が玉璽を帯びて皇帝になろうとしますが、宮殿が崩れそうになる事があり、天が皇帝になる事を許さない事を悟り、秦の公子である子嬰(しえい)が秦王になります。

尚、趙高は子嬰に暗殺されています。

皇帝を取り下げて秦王を名乗った子嬰ですが、武関を破った劉邦が咸陽に迫ると降伏しています。

趙高が腐敗させまくった秦では、劉邦に対して抵抗する術がなかったのでしょう。

さらに、項羽が函谷関を抜けて到着すると、子嬰は斬られてしまい、ここにおいて秦王朝は滅亡したわけです。

漫画キングダムのファンからすれば、李信王翦、王賁、昌文君などが、廉頗李牧などと戦い続けて得た天下だと考えれば納得できない人も多いのではないでしょうか?

しかし、始皇帝死後に、胡亥が即位するとわずか4年で秦は滅亡しているわけです。

胡亥が秦を滅ぼしたのか?

胡亥が秦を滅ぼしたと思っている人は多い事でしょう。

実際に私も全てが胡亥のせいだとは言いませんが、大半は胡亥に責任があるように思えてしまうわけです。

ただし、胡亥が政治に対してやりにくい環境にあった事は事実でしょう。

陳勝・呉広の乱の時に、陳勝や呉広は項燕と扶蘇を名乗った経緯があります。

項燕は、楚の将軍として李信や蒙恬を撃破するなどの活躍もしています。

王翦に敗れはしましたが、楚のシンボルでもある将軍であり名乗るのも分からないでもありません。

しかし、扶蘇は、秦の始皇帝の長男ですし、秦側の人間です。

それにも関わらず扶蘇を名を使っているのは、天下の人が扶蘇が皇帝になる事を望んでいた証なのでしょう。

始皇帝の行き過ぎともいえる様な、法治国家の大勢を緩めてくれると、天下の人は期待したはずです。。

しかし、実際には、扶蘇は皇帝にならずに死んでいますし、代わりに胡亥が2世皇帝として即位したわけです。

これに対しては、民衆の反発が大きかったのではないでしょうか?

始皇帝が死に、扶蘇が皇帝になる事を天下の人々は望んだだけに、胡亥に対する風当たりは強かったと考えられます。

そのため、胡亥としてはムキになり、始皇帝の政策をさらに厳しく実行した可能性もあります。

しかし、を滅亡させた責任は大きいでしょう。

尚、胡亥の幸せを考えると、皇帝になるよりも扶蘇が皇帝になった方が幸せかなと感じています。

扶蘇は、孝子の塊のような人物ですし、胡亥に政治に参加させるかは分かりませんが、邪険には扱わなかったのではないでしょうか?

さらに、各地に王をおく政策をしたとすれば、胡亥もどこかの国の王になっていたかも知れません。

胡亥は、趙高と密接な関係になった事で、人生を大きく狂わせてしまったと言えるでしょう。

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