春秋戦国時代

胡傷が軍略の天才に見えない件!史実の実績を見て思った

2021年3月15日

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宮下悠史

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胡傷は、秦の昭王時代の武将でキングダムではの六代将軍(白起王齕、胡傷、王騎、司馬錯)の一人に数えられます。

しかし、秦の六大将軍の中では、唯一軍師系となっていますが、胡傷の実績を見る限りでは、白起などと同等にするのは無理があるかな?と思うわけです。

今回は、秦の胡傷の実績などを史実を元に紹介してみます。

尚、胡傷の本名は、公孫胡傷のようなので、おじいちゃんが○○公という高い役職に任命されていた可能性が高いです。

○○公の孫という事で、公孫を氏にするのが一般的です。

胡傷は、貴族出身の武将だった可能性が高いでしょう。

しかし、どう考えても「軍略の天才」というには無理がある感じがします。

華陽の戦いに出陣していた

の連合軍がに攻め込みました。

韓は援軍を秦に求めました、使者の陳筮(ちんふ)は、秦の宰相である魏冄と面会して援軍を送る約束を取り付けます。

秦は、魏冄、白起、胡傷が援軍として趙と魏を急襲し13万人を斬首する大戦果を挙げています。

この戦いは、資治通鑑に書いてあり、趙と魏は完全に不意を突かれる形で何も出来ずに大敗したようです。

魏の大将である芒卯が敗走した事や趙の将軍である賈偃を破った事が書かれています。

胡傷が出陣した事は、間違いないようですが、どのように戦うかの戦略や戦術を胡傷が練ったという記録は残っていません。

しかし、キングダムでいえば知略で六大将軍にのし上がった事になっています。

他の5人の将軍には、胡傷の知略で動いていたかのようになっているわけです。

しかし、この13万人を斬首するなどの、やり方は白起の用兵の力が大きかったのではないか?とも感じずにはいられません。

 

閼与の戦いで大敗する

秦の胡傷は、閼与を攻める事になります。

閼与の戦いの内容に関しては、史記の廉頗藺相如列伝に詳しく書かれています。

救援に現れたのが、の将軍である趙奢です。

趙奢と胡傷の戦いが始まるわけですが、戦いを見る限りでは、趙奢や許歴の活躍が目立ちます。

趙奢が策を練り密かに胡傷の軍に近づき、許歴の進言により厚い陣を布いた事で胡傷は趙軍を破る事が出来ません。

情報戦の段階で、胡傷は趙奢に負けたと言ってもよいでしょう。

閼与の戦いが始まると、許歴が趙奢が北山を取る様に進言し、趙奢は兵を割き北山の奪還に向かわせます。

胡傷も北山の重要性を悟りますが、北山に軍を移動させる命令が遅れ、北山を趙軍に占拠された事で閼与の戦いで秦軍は敗れ去る事になったわけです。

名将か凡将かを分けるタイミングとして、一瞬の判断で的確に命令を下す事が出来るのか?と言うものがあります。

それを考えると、趙奢に判断力で後れを取った胡傷が名将とは言い難い様に思いました。

胡傷が知将とか軍師と言うには無理があると感じた次第です。

胡傷が軍略の天才と言うのは無理がある

胡傷は、キングダムでは六代将軍の中で唯一の軍師系の男になっています。

しかし、知将ではなく凡将に見えてしまうわけです。

確かに、相手が三大天の趙奢だと言うのもあるかも知れません。

しかし、史記の廉頗藺相如列伝の記述であれば、趙奢は初めて戦場に出たような人間です。

ある意味、素人に負けたともいえる状態なのです。

正確に表現すれば、将軍の才能がある素人?に負けたになるのかも知れません。

ちなみに、胡傷については、閼与の戦いを最後に記録が残っていません。

そのため、閼与で死んだかも知れませんし、その後に病死した。

秦で粛清された、粛清を恐れて逃亡したなどの可能性があります。

胡傷がいつ死んだかも記録がないのです。

昌平君師匠という設定も史実を知っていると、「これでいいのかな~」となってしまうわけです。

とても知将だとは思えません。

キングダムの昌平君を見ていると、既に生前から昌平君の方が上だったのでは?と思えてきます。

軍略の天才という言葉もありましたが、史実を見ると天才とは思えないわけです。

白起はその後も勝ち続けている

六大将軍の他の5人の知略を担当していたとも言われていますが、白起は胡傷が登場しなくなっても勝ち続けています。

長平の戦いで40万の軍を捕虜にして生き埋めにしたのも、胡傷が登場しなくなってからです。

それでも、胡傷の事を軍師だと言うのであれば、趙奢に敗北した時に気が付いたのかも知れません。

胡傷「俺って、実践で兵士を率いる下手だよな~。これからは表舞台に出ない様にして、ひたすら裏で戦略を練る事に徹しよう」となったのか可能性もあります。

しかし、資料が無いので、その辺りは想像に任せるしかないでしょう。

キングダムの胡傷について考えてみた。

キングダムでは、この記事を書いている時点では、王翦が「ぎょう攻め」を行っている段階です。

李牧王翦が知略でぶつかっている戦いになっています。

現在、藺相如の部下であった堯雲趙峩龍が登場しました。

堯雲は雷雲なる部隊を率いて軍にぶつかっています。

この戦いでは、史実で閼与も攻め落とす事になっています。

胡傷と因縁のある閼与です。

そこで、回想録として胡傷が出てくるのかも知れません。

尚、個人的には閼与を攻めた時に、趙奢の部下であり胡傷の宿敵でもある許歴が守っていたりすれば面白いかと思います。

ただし、閼与の戦いが紀元前269年で、ぎょう攻めが紀元前236年です。

33年も開きがあるので、ちょっと設定が難しいかも知れません。

しかし、胡傷が王翦を認めていた記述もあるので、許歴と戦えば盛り上がるかも知れません。

まず、ありえない設定ですけどね。

しかし、六大将軍に入れられていると、胡傷が聞いたら「俺、こんなに活躍してないよ」「そもども軍略は苦手だったし・・」となるかも知れませんね。

尚、戦いでの実績を考えれば胡傷よりも、の37城を陥落させたり、の信陵君亡きあとに、魏を破り東軍を設置した蒙驁の方が功績は高いと言えるでしょう。

個人的には、胡傷には王齕位の功績は欲しかった様に思います。

追記(鄴攻め)の終了

漫画キングダムの鄴攻めでは、残念ながら胡傷も許歴も登場せずに終わっています。

しかし、楊端和犬戎の対決や王翦の9つの城を取り住民を移しての兵糧攻め、龐煖李信羌瘣の戦い、藺相如配下であった藺家十傑の生き残りである趙峩龍、堯雲と秦軍の蒙恬王賁の奮闘など見所が多かった様に感じます。

閼与の戦いと胡傷や趙奢の回顧録もありませんでしたが、内容自体には満足しております。

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