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構成・文/宮下悠史

春秋戦国時代

公叔座は魏の名宰相なのか?

2021年5月1日

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公叔座は魏の恵王の時代に、宰相として活躍した人物です。

魏の恵王の治世の前半は、魏の文侯や武侯の勢いもあり、戦国七雄の中で魏が最強国でした。

その時代の宰相である公叔座が、どの様な人物だったのか解説します。

因みに、史記を読むと公叔なる人物や公孫座なる人物もおり、同一人物の可能性があります。

これから話すエピソードが同一人物であれば、名宰相の様でもありますが、闇を抱えている人物にも感じました。

尚、公叔座は後に秦の宰相として法治国家を築く、商鞅を魏の恵王に推挙した人物でもあります。

 

澮北の戦い

公叔座は、澮北の戦いで趙と韓を破り、将軍の楽祚を捕虜にする事に成功します。

澮北の戦いで勝利し、公叔座が凱旋すると魏の恵王の喜びは大きく、自ら出迎える事になります。

魏の恵王は褒美として、公叔座に田百万を与えようとしますが、公叔座は辞退し、次の様に述べています。

公叔座「そもそも、士卒が隊伍を乱さず毅然と敵に立ち向かったのは、呉起が魏の軍隊を作り上げてくれたからです。

さらに、地形の険阻を熟知し守りを固め全軍が惑わされる事がなかったのは、魏の家臣である巴寧らの功績です。

賞罰を徹底させて士卒に何をすれば罰せられるか、何をすれば褒賞を得られるのかを理解させたのは、王様の明法のお陰です。

私は、敵の隙を見るや太鼓を打ち鳴らしただけでございます。とても、田百万の功績を挙げたとは思えませぬ。」

公叔座の言葉を聞くと、魏の恵王は喜び、呉起の後裔を探し出し恩賞を与え、巴寧らにも恩賞を与えた話があります。

さらに、魏の恵王は公叔座を高潔な士だと認め、田百四十万を与えたわけです。

戦国策の話になるのですが、戦国策では公叔座は絶賛され老子の言葉を用いて褒めています。

 

商鞅を推薦する

公叔座は魏の恵王からは賢宰相として、重用される事になりますが、自分の命が長くない事を悟ります。

公叔座の配下には、商鞅(公孫鞅)がおり公叔座は魏の恵王に商鞅を用いる様に説いたわけです。

さらに、商鞅を用いるの気が無いのであれば、殺してしまう様に進言します。

しかし、魏の恵王は公叔座がボケてしまったと悲しんだ話があります。

公叔座は商鞅の前に行くと、魏の恵王に推挙した事と、用いる気が無いのであれば処刑する様に言った事を伝える事にしました。

公叔座は商鞅に「殺すには惜しい人物」だと感じ、逃げる様に言います。

しかし、商鞅は「魏の恵王は、言う事を聞かないから処刑される事はない」と言い、公叔座から離れようとはしませんでした。

公叔座は、亡くなりますが、魏の恵王は予想通り商鞅を用いる事も処刑する事もしませんでした。

後に、商鞅は秦に入り孝公に用いられる事となり、秦は大発展し魏を圧迫する様になったわけです。

商鞅が秦で法治国家を作り上げる事で、秦の統一戦争で大きな一歩を踏み出したとも言えるでしょう。

尚、公叔座が亡くなるまで商鞅は魏にいたわけであり、公叔座は商鞅をかなり可愛がっていたとする説もあります。

これを見る限りだと、公叔座は人を見る目もありますし、魏の全盛期を支えた名宰相とも言えそうです。

しかし、気になる記述があったので紹介します。

 

公叔座が呉起を追放!?

呉起は魏の文侯の時代から河西の太守となり、秦に対して優位に戦いを勧めていたわけです。

呉起が魏の宰相になるんじゃないか?とも言われる様になります。

史記によれば「公叔」なる人物が、呉起を陥れる事になります。

公叔は魏の武侯に「呉起が魏に対して忠誠があるなら、魏からの縁談を受け、忠誠心が無ければ縁談を断わる」と吹き込んだわけです。

そうした上で、公叔は、呉起を呼び自分の妻(魏の君主の一族出身)に自分を罵倒させる事にします。

呉起は公叔が妻に叱られる所を見て、君主の一族を嫁に貰ったら大変だと判断し、縁談を断わる事になります。

公叔のやり方が功を奏し、魏の武侯は呉起を信頼しなくなり、呉起は楚の悼王の許に移る事になります。

公叔座と公叔が同一人物なのかは分かりませんが、同一人物だとしたら公叔座のやり方は酷いと感じましたし、魏が衰退する一因を作ったとも言えそうです。

余談ですが、十八史略によると「公叔」と「公叔座」は同一人物となっています。

十八史略の記述を信じるのであれば、公叔座は宰相になってから人が変わったように、まともな人物になったと言う事にもなるでしょう。

さらに言えば、自分で呉起を追放しておきながらも、澮北の戦いでは呉起の子孫が褒賞される様に仕向けた事になります。

 

公叔座の不思議な記述

司馬遷が書いた魏世家の中で、魏の恵王の9年は次の様な記述があります。

魏の恵王の9年

魏が韓を澮で破った

少梁で秦に敗れ魏将・公孫座が虜にされた

秦の献公が亡くなり秦の孝公が立った。

この記述を見ると、魏の恵王の9年に「魏が韓を澮で破った」とあります。

これが戦国策の言う澮北の戦いではないかと思われます。

しかし、その直後に「少梁で秦に敗れ魏将・公孫座が虜にされた」とする記述があるのです。

公叔座と公孫座が同一人物なのかは分かりませんが、同一人物だとしたら、澮北の戦いで勝利した直後に、秦に敗れて捕虜になった事になります。

さらに「秦の献公が亡くなり秦の孝公が立った。」と続く事にも注目するべきでしょう。

史記の秦本紀には、秦の孝公が即位した年に、商鞅が秦に入った様な記述もあるわけです。

ただし、商鞅が改革を始めようとした年は、秦の孝公の3年とする記述もあり謎はあります。

それを考えると1年のうちに公叔座は、澮北の戦いで勝利し、秦に敗れ捕虜となり、魏の恵王に商鞅を推挙するが聴き入れられずに亡くなり、商鞅は秦に移った事になります。

これらの記述が全て公叔座に当てはまるのであれば、かなり慌ただしい1年だったとも言えるでしょう。

それでも、公叔座と公孫座が同一人物とは限らないので、真実は不明だと言えます。

尚、公叔座が宰相をやっていた時代は、魏は最強国を維持したはずであり、公叔座は国政に関しては上手くやったとも言えそうです。

魏の恵王の9年の記述に関しては、史記では1年のずれはあちこちに存在するので、それらを考慮する必要もあるのかも知れません。

 

 

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