春秋戦国時代

孝文王(安国君)は、服喪が終わり僅か3日で死去した秦王

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秦の孝文王は、服喪の期間が終わり、僅か3日で死去した秦王です。

孝文王の名は嬴柱であり、安国君の名でも通っています。

即位してから3日で亡くなるのは、歴代最短の王位とも言えます。

父親である秦の昭王が在位56年と長かった事もあり、即位した時には53才だった話があります。

当時の年齢で考えれば53歳で亡くなるのは、おかしくはないでしょう。

ただし、即位して3日で亡くなったのには、謎があり呂不韋における暗殺説も存在します。

尚、孝文王の子が子楚であり、孫が天下統一し始皇帝となる嬴政です。

今回は、歴代最短で死去した孝文王が、どの様な人物だったのか解説します。

因みに、上記は原泰久先生が描く漫画キングダムで主人公の李信に向かい、嬴政が孝文王の名前を出したシーンです。

 

太子となる

秦の孝文王は元は太子ではなく、安国君を名乗っていました。

秦の昭王の太子は、長子である悼太子だったわけです。

しかし、秦の昭王が長寿だった事もあり、魏に人質に行っていた悼太子は、紀元前267年に亡くなってしまいます。

戦国七雄の中でも、秦と魏は戦い続けたイメージがありますが、紀元前267年頃になると、魏が領有していた西河や元の首都があった安邑などは秦が領有しています。

魏の領地は韓を挟む形で東西に長かったわけですが、西側の部分を完全に秦に奪われてしまい、秦としてはターゲットが韓や趙に移っていたのでしょう。

強国の秦が魏に人質を送った原因の一つは、范雎の遠交近攻策もあり遠くの魏と結び韓や趙を攻めたのではないかと考えられます。

魏に人質に行っていた、悼太子が亡くなって2年が経過した紀元前265年に、秦の昭王は安国君を太子に指名する事になります。

これにより、安国君は秦の正統な後継者になったわけです。

 

華陽夫人と呂不韋の暗躍

安国君は子福者であり、20人を超える子供に恵まれた話があります。

しかし、安国君が寵愛していた華陽夫人との間では、子供が出来なかったわけです。

安国君としては、寵愛する華陽夫人との子を秦の後継者にしたい、しかし、子供が生まれないというヤキモキした状態だったのでしょう。

ここに目を付けたのが大商人の呂不韋です。

呂不韋は安国君の子で趙に人質となっていた異人(後の荘襄王)を「奇貨おくべし」と判断し目を付けます。

異人は趙への人質と言っても、捨て駒の様なもので、秦は趙を攻撃し、異人は趙では丁重に扱われてはいませんでした。

安国君が太子に指名されてから、5年後の長平の戦い白起が趙に大勝し、趙の首都邯鄲を囲んだ事で、異人の立場は益々危うくなった話があります。

因みに、秦の将軍である王陵、王齕、鄭安平などが邯鄲を攻撃している最中に誕生したのが、秦王政だとされています。

邯鄲籠城戦は、趙の平原君の活躍もあり、魏の信陵君、楚の春申君の援軍を得た趙が勝利しました。

この時に、異人は趙に処刑されてしまう可能性もあり、危険な状態でしたが、呂不韋の手引きにより助かったともされています。

呂不韋は異人に大金を与え多くの名士と交わるなど、異人の価値を高める様に努力しました。

異人の名が売れた事を見計らって、呂不韋は華陽夫人に異人を養子にする進言する事になります。

先に述べた様に、華陽夫人は安国君に寵愛はされていましたが、子が出来なかった事もあり呂不韋の提案を受け入れたわけです。

秦の太子になっていた安国君(後の孝文王)も異人の名が知れ渡っている事を理解し、華陽夫人の養子として認める事になります。

この時に、異人は子楚に改名しています。

 

孝公文王の即位

紀元前251年に長く秦王を務めた、秦の昭王が亡くなる事になります。

史記の秦本紀では、秦の孝文王は、罪人を赦し、昭襄王(昭王)時代の功臣を丁重に扱い、一族を厚遇し、苑囿の禁を緩めたとあります。

これを見ると、秦の昭王が亡くなっても、特に混乱は無かった様に思います。

秦の孝文王は、混乱が起きない様に、一族や功臣を重用する事を発表し、無事に即位する流れを作ろうとした様にも感じました。

さらに、子楚を養子に迎えた華陽夫人は、華陽大后となり、子楚の生母である夏姫は夏大后(始皇帝の祖母)となった話があります。

尚、孝文王は秦王であった期間は短いですが、勤勉に善政を行った様な話があり、「諡」としては最高位になる「文」が付いたとする説もあります。

しかし、服喪の期間が終わると、3日後には孝文王が亡くなってしまうわけです。

 

孝文王の最後

孝文王ですが、史記には次の様な記述があります。

孝文王は服喪が終わり、十月の己亥の日に即位したが、3日後の辛丑の日に卒し、子の荘襄王が立った。

つまり、史記によれば孝文王は正式に即位してから、僅か3日後に亡くなった事になります。

秦の孝文王がどの様に亡くなったのかは、記述がなく分からない状態です。

既に服喪の段階から気分が悪く体調を崩していたのか、脳卒中などで突然、倒れて帰らぬ人になったのかは分かってはいません。

尚、東周列国志では、孝文王が即位して3日後に大宴会を開き、宴が終わった後に、王宮に帰ると、すぐに亡くなった事になっています。

しかし、東周列国志はあくまで物語であり、史実として考える事は出来ないでしょう。

尚、孝文王が太子を子楚と指名していたせいか、孝文王が亡くなった時に、特に混乱が起きた様な記述はありません。

ここで、孝文王が太子を指名しておらず、20名の子が一斉に後継者争いを始めてしまったら、戦国七雄の他の国にもチャンスがあったり、延命策が打てたのかも知れません。

 

呂不韋のよる暗殺はあったのか?

秦の孝文王の突然死は謎があり、呂不韋による暗殺があったのではないか?とする説があります。

孝文王が即位して、3日で亡くなった事もあり、怪しむ人もいるようです。

東周列国志では、秦の大臣達は、呂不韋が子楚を早く王位に就けたい為に、孝文王を暗殺したのではないか?と疑いますが、呂不韋を力を恐れた大臣達は、口を出す物がいなかった話があります。

確かに、孝文王が即位して3日で亡くなったのは、怪しいとも考えられますが、呂不韋が犯人だとする決定的な証拠がない状態です。

日本の戦国時代でも、今川義元が今川家の当主になる時に、兄の今川氏輝と彦五郎が同時に亡くなると言う不可解な事件が起きています。

今川家のケースと同様に、秦の孝文王が亡くなった死因はよく分かってはいません。

 

孝文王の死が歴史を変えたのか

孝文王が3日で死去した事が、歴史を変えた可能性があります。

秦の孝文王が仮に5年長く生きたとします。

孝文王の後継者となる荘襄王の在位期間は3年しかありません。

つまり、孝文王が5年長生きしたとすれば、荘襄王が先に亡くなってしまう事になります。

孝文王は後継者の子楚(荘襄王)が先に亡くなってしまえば、20人いる子の中から再び太子を指名しなければならなくなるでしょう。

そうなると、華陽夫人や呂不韋の後ろ盾があっても、嬴政(後の始皇帝)が秦王になれない可能性も十分にある様に思います。

荘襄王が即位しなければ、呂不韋の呂氏春秋も完成しませんし、歴史はかなり変わったようにも感じました。

ただし、嬴政が即位しなくても、秦は六国(趙、魏、韓、燕、楚、斉)に比べると圧倒的に有利な状況にあり、天下統一したのは秦だと考えています。

秦の統一戦争が達成される事だけは、秦王として余程の暗君が即位しない限りは、揺るがない様に感じています。

後継者が胡亥であり、実権を握ったのが趙高並みの人物であれば、滅亡はあるかも知れませんが・・・。

 

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