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構成・文/宮下悠史

三国志

黄皓(こうこう)は蜀を滅亡に導いた宦官なのか

2021年10月31日

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名前黄皓(こうこう)
生没年不明
コメント蜀を滅ぼした原因とされる事が多い。
年表258年 蜀の政治の中枢に入り込む
262年 姜維を失脚させようと画策
263年 蜀の滅亡

黄皓は蜀を滅亡に導いた宦官とされています。

黄皓は劉禅のお気に入りでしたが、蜀の四相と呼ばれる諸葛亮、蔣琬、費禕、董允が存命中は大して出世する事が出来ませんでした。

陳祗が政治の中枢に入り、姜維が北伐を行う時代になると、黄皓も出世を果たします。

陳祗が亡くなると、黄皓は実権を握り蜀を内部から崩壊させたとも言われています。

蜀の最終決戦では、黄皓が鬼神や巫女の言葉を信じ、防備を固めないなどありえない様な対応も、正史三国志に記述されています。

これらの記述を信じるのであれば、「国は内部から崩壊する。」の典型にも感じました。

ただし、正史三国志を記述した陳寿の個人的な理由から、黄皓を無理やり悪徳宦官にしてしまった説もあるので、合わせて解説します。

尚、黄皓は悪徳宦官だとはされていますが、始皇帝死後に胡亥の元で実権を握った趙高に比べると、インパクトは弱いと思いました。

趙高は自分を支持しない者を次々に粛清しましたが、黄皓にはそこまでの話はありません。

因みに、三国志演義で黄皓は蜀の滅亡と共に最後を迎えますが、史実だと蜀が滅んでも黄皓が死ぬ事はありませんでした。

 

出世を阻まれる

正史三国志の董允伝によれば、黄皓は劉禅に上手く立ち回り、劉禅は黄皓を寵愛する様になったとあります。

劉禅は黄皓に権力を与えるなど、出世させようと考えますが、ここで反対したのが董允です。

董允は劉禅に対しては、厳しい態度で接し過ちがあれば矯正したとあります。

さらに、董允は劉禅に侍る黄皓を咎めた話しもあり、黄皓は董允を恐れていた話もある程です。

董允は西暦246年に亡くなってしまいますが、董允が生きていた時代は、黄皓は思い切った事も出来ず、大人しくしていた話もあります。

董允伝には「黄皓は思い切って悪事を働こうともしなかった。」との記載もあります。

黄皓にとってみれば、董允は目の上のこぶであり、怖い人物だったのでしょう。

因みに、董允が存命中は黄皓の役職は黄門丞に過ぎず、大した役職も与えられていませんでした。

 

黄皓が出世

董允が亡くなると、陳祗が侍中となり、尚書令に呂乂が任命されています。

陳祗が劉禅の側近となり、陳祗は黄皓と助け合って政治を行おうと考え、黄皓が政務に参加する様になったわけです。

董允の死が黄皓に、出世の機会をもたらせたとも言えるでしょう。

251年に呂乂が亡くなると、陳祗が尚書令となり、政治の中心に入り込む事になります。

253年に費禕が郭循に暗殺されると、姜維が軍事の中心となります。

董允は劉禅に対し厳しく接しましたが、陳祗は劉禅に媚びへつらったと正史三国志に記述があります。

劉禅は陳祗が自分の意見を尊重してくれ、黄皓も劉禅に告げ口を行った事で、劉禅は董允の事を恨んだ話もあります。

陳祗の時代に黄皓は出世し、黄門令と呼ばれる宦官たちのリーダー的な役職にまで昇りました。

陳祗の時代になると、劉禅も積極的に政治に参加する様になった話もあります。

劉禅は恩赦を好み数年に1回のペースで恩赦を出してしまい、罪人は直ぐに許される可能性が高く、法律が緩んだともされています。

董允がいない蜀では、劉禅も贅沢になっていったようです。

因みに、陳祗は黄皓を出世させた事から蜀の滅亡を作った軟弱な人物だと思うかも知れません。

しかし、実際の陳祗はバリバリのタカ派であり、唯一と言ってもよい姜維の北伐推進派でもありました。

陳祗が尚書令になった事で、姜維も北伐が行えたとも言えるでしょう。

因みに、陳祗と姜維の北伐は譙周の「仇国論」により批判されています。

 

劉永を讒言

正史三国志の劉永伝に、黄皓が劉永を讒言した話があります。

劉禅は甘夫人の子ですが、劉永は母親が違う劉禅の異母弟にあたる人物です。

理由は不明ですが、劉永は黄皓を憎んでいた話があります。

宦官は皇帝の住まいである後宮の仕事をする去勢された人々であり、劉永の住まいにも宦官はいたはずです。

劉永にとってみれば、劉禅にばかり媚びる黄皓を嫌ったのかも知れません。

それか劉永の側近の宦官が黄皓に関して、悪い話でも吹き込んだ可能性もあるでしょう。

黄皓は劉永が自分を嫌っている事を知っており、劉禅に劉永を讒言した話があります。

劉禅は黄皓の讒訴により、次第に劉永を遠ざける様になり、劉永は10年以上も朝廷に出られなかった話もあります。

劉永は黄皓によって、政治の中枢から外されたとも言えるでしょう。

 

黄皓が姜維に謝る

華陽国志の記述によれば、姜維も黄皓の専横を憎み黄皓を殺害しようとした話があります。

姜維は劉禅に黄皓を処刑する様に求めますが、劉禅は次の様に答えています。

劉禅「黄皓は宮中にいる召使に過ぎない。」

黄皓は劉禅のお気に入りであり、劉禅は黄皓を庇ったわけです。

さらに、劉禅は黄皓を姜維に謝らせに行かせています。

姜維も宮中にいるのは危険と考えたのか、沓中に屯田に行きたいと述べて宮中を出ました。

この話が何年頃なのかは不明ですが、姜維が成都に帰った時ではないかと考えられています。

 

黄皓が実権を握る

西暦258年に陳祗が亡くなると、宦官の黄皓はさらに出世しました。

黄皓は黄門令から中常侍、奉車都尉となり、国の政治に大きく関わる事になります。

諸葛亮伝によれば「諸葛瞻、董厥、樊建が政務を担当し、姜維が外にいたが、宦官の黄皓が政治の実権を欲しいままにした。」とする記述まであります。

さらに、「諸葛瞻、董厥、樊建らは皆で庇いあい、政治を矯正する事が出来なかった。」とする記述があり、黄皓が政治の実権を握り政治が乱れた事を指すのでしょう。

正史三国志には「黄皓が権力を操り、国を転覆させた。」なども記述も存在します。

 

羅憲が左遷

黄皓が実権を握ると、多くの者が黄皓に追従する事になります。

黄皓は劉禅の寵愛を一身に受けていた事から、やりたい放題だったと見る事も出来ます。

しかし、羅憲だけは黄皓に追従せず、黄皓に取り入る事もしませんでした。

黄皓は羅憲を嫌い、羅憲を巴東太守に左遷した話があります。

黄皓が実権を握った時代になると、黄皓を解任する様に求めれば、黄皓が劉禅に取次をして、言った人物を解任したり左遷したりされる様になったとも考えられています。

黄皓が実権を握った事で、群臣は劉禅よりも黄皓に気を遣う様になり、悪循環を生んだと言えるでしょう。

余談ですが、羅憲は蜀漢最後の名将と呼ばれる人物であり、蜀の滅亡時に攻め寄せて来た呉の歩協、陸抗、留平、盛曼らを撃退した人物でもあります。

後に名将と呼ばれた人物でさえ、黄皓は左遷してしまったわけです。

 

姜維を失脚させようと画策

黄皓が軍事の最高責任者である、姜維を解任させようとした話があります。

黄皓は姜維の役職を解任し、自分と親しい右大将軍の閻宇を軍事の最高権力者にしたいと考えたわけです。

姜維は何度も北伐の軍を出しますが、成功したとは言い難く、段谷の戦いでは魏の鄧艾に大敗し、蜀の軍事力を大きく低下させていました。

黄皓にとっても、軍事で失敗した姜維は解任しやすい存在でもあったのでしょう。

黄皓は姜維を成都に戻らせようとしますが、姜維は成都に戻れば将軍を解任される事は目に見えており、姜維は成都に戻る事も出来なくなったわけです。

ただし、黄皓の時代になると、蜀の北伐推進派は姜維位になっており、周りの空気を読んで黄皓は姜維を解任しようとしたと見る事も出来る様に感じます。

 

宮中の大樹が折れる

正史三国志の杜瓊伝に、黄皓が権力を握っていた時代に、次の様な事件があったと記載されています。

「宦官の黄皓が権力を握り、景耀5年(西暦262年)に、宮中の大樹が理由もないのに、勝手に折れる事件があった。」

折れた木を見た譙周は、不吉な事だと深い懸念を抱きます。

譙周は蜀が滅亡するのではないか?と考えた話があります。

譙周はその様子を木に書き残したともされています。

実際に木が折れた翌年である、西暦263年に蜀は滅亡する事になります。

 

蜀の滅亡

鬼神と巫の言葉

西暦263年になると、司馬昭、鍾会、鄧艾らは蜀を滅ぼす為に、動く事になります。

漢中にいた姜維は魏の動きを察知し、守りを固める様に上奏しました。

ここで黄皓は鬼神や巫の言葉を信じ、劉禅に魏は攻めて来ないと述べて、劉禅も防備を固めなかったわけです。

正史三国志によれば、この時に蜀の群臣は魏が攻めて来るとの情報を知らなかったとも記載があります。

これを考えると、黄皓が政治の全てを決済していたのではないか?とすら思える程です。

鬼神の言葉を信じて防備を固めないなどは、黄皓における最大の失態とも言えるでしょう。

 

綿竹の戦い

魏の司馬昭は鍾会と鄧艾を将軍に任じ、蜀を攻略する様に命じました。

姜維は段谷の戦いで敗れた事もあり、後方からの援軍もなく、要害である剣閣に籠り魏の鍾会の軍勢と戦う事になります。

剣閣の戦いでは、姜維はよく防戦し鍾会の攻撃を防いでいます。

魏将鄧艾は剣閣を落とすのは困難だと判断し、険しい崖などの道を移動し、漢中を抜けて成都を目指す事になります。

蜀では防備を固めていなかった事もあり、魏軍が突然、蜀の領内に現れてパニックとなりました。

蜀の方でも諸葛瞻、諸葛尚、黄崇らが鄧艾を迎え撃つ事になります。

鄧艾も蜀の領内の真中で戦っている事もあり、負けたら死は確実であり鄧忠、師纂らに決死の覚悟で挑むように呼びかけています。

鄧艾と諸葛瞻の間で綿竹の戦いが起きますが、勝利したのは鄧艾でした。

鄧艾は歴戦の猛者ではありましたが、諸葛瞻は初陣だった可能性もあり、経験の差が大きく出てしまったのでしょう。

諸葛瞻の軍に同行していた諸葛尚は、次の様な言葉を発し、敵軍に突撃を掛けます。

「黄皓を斬らなかった為に、戦いに敗れてしまった。」

諸葛尚の言葉からは無念さを感じ取る事も出来ますし、諸葛尚は戦死しますが、最後は壮絶なものだったのでしょう。

尚、諸葛尚の言葉からも、蜀の群臣が黄皓が悪臣だと考えていた事が分かります。

 

黄皓の最後

三國志演義だと蜀の滅亡時に黄皓が最後を迎えた話があります。

しかし、史実だと黄皓は蜀の滅亡時に亡くなっていません。

鄧艾は蜀を制圧すると、黄皓の邪悪、陰険ぶりを聞き知り逮捕幽閉して、黄皓を殺害しようとした話があります。

黄皓は窮地に陥りますが、鄧艾の側近に賄賂を贈った事で、死を免れた話があります。

鄧艾の側近に賄賂を贈るだけの資金があった事を考えると、黄皓は蜀でかなりの蓄財に励んでいた事にもなるでしょう。

残念に思う人もいるかも知れませんが、正史三国志に蜀の滅亡時に黄皓が斬られたなどの記述は一切ありません。

蜀が滅亡してからの黄皓は記録がなく、どの様な最後を迎えたのかも不明です。

 

黄皓は悪徳宦官ではなかった

黄皓は陳寿により、無理やり悪徳宦官にされてしまったとする説があります。

孫盛の異同記によれば、正史三国志の著者である陳寿は、諸葛瞻の部下だった話があります。

陳寿は諸葛瞻から恥辱を受けた事があり、諸葛瞻の事を恨んでいました。

陳寿は諸葛瞻の評価を下げたいと考え、宦官の黄皓を蜀を悪の権化と記載し、諸葛瞻を政治を正す事が出来なかった者として書いたとされています。

陳寿の人間性を考えると、正史三国志を書くにあたって丁儀や丁廙の子孫に賄賂を要求したが断られた事で、丁儀や丁廙の伝を正史三国志に置かなかった話もあるわけです。

前漢の劉邦に仕えた陳平の様に、仕方なく賄賂を取ったケースもあるのかも知れませんが、陳寿が清廉潔白な人物だとは言えない部分もある様に思います。

それを考えると、陳寿の意図は諸葛瞻を貶める事であり、社会的な身分が低いのに、皇帝の傍にいる宦官の黄皓に白羽の矢が立ったのかも知れません。

さらに、郤正伝によれば郤正と黄皓は30年に渡り屋敷を並べて、共に働いた話があります。

郤正は黄皓に対し、気に入られる事も恨まれる事も無く、黄皓に讒言される事もなかったと記載されています。

それを考えると、黄皓は秦を滅ぼしたとされる趙高の様に、自分を支持しない者は徹底的に粛清を行う様な人物ではなかったのでしょう。

真実は不明ですが、黄皓が蜀を滅ぼした悪徳宦官ではなかったとも考えられます。

 

黄皓の評価

黄皓ですが、三国志のゲームなどでは全ての能力が極端に低く設定されており、評価の低さが分かります。

特に蜀の滅亡の戦いでは、鬼神や巫女の言葉を信じ、姜維に援軍を送らないなどは言語道断だと言えるでしょう。

しかし、先にも述べた様に、本当に黄皓が悪徳宦官であったのかは不明な部分も多く、蜀滅亡の責任を押し付けられた様に思います。

実際の黄皓は後漢の霊帝に仕えた呂強の様な正義漢の強い宦官ではなかったが、十常侍の張譲や趙忠の様な権力欲が強い宦官でもなかったのかも知れません。

ただし、蜀は滅んでいるわけであり、黄皓が政治を上手く機能させる事が出来なかったのも事実なのでしょう。

参考文献:ちくま学芸文庫 正史三国志5巻 蜀書 画像・三国志14

 

コーエーテクモゲームス三国志の能力値

三国志14統率1武力1知力30政治10魅力1

三国志14の全武将の中でワースト1位になったのが黄皓となります。

統率、武力、魅力と能力値1という最低の設定となっています。

個人的には黄皓は劉禅に気に入られているわけであり、流石に魅力1は低すぎると感じました。

宦官は筋力が付かない話しもありますが、統率1,武力1は余りにも低すぎると感じており、せいぜい5とかでもいいのでは?と感じた次第です。

因みに、上記の動画は軍神と呼ばれた関羽が兵力差100倍で黄皓に勝てるのか?という動画です。

これは非常に面白い取り組みだと思いました。

関羽と黄皓の三国志13での戦いに興味があれば、ご視聴してみてください。

 

 

 

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