この記事を書いた人

構成・文/宮下悠史

その他 三国志

苦肉の策(くにくのさく)の語源や逸話

2021年11月4日

スポンサーリンク

計略名苦肉の策(くにくのさく)
コメントわざと味方を痛め付ける事で敵を信用させる策略
年表208年 三国志演義で赤壁の戦い時に使用。史実にはない。

苦肉の策は、三国志演義に登場する計略の一つです。

苦肉の策の意味としては、下記の様になります。

敵を欺くために自分の体を痛めつける計略

苦肉の策の語源としては、三国志演義で赤壁の戦いの時に、周瑜黄蓋を演義で殴打した事に由来します。

ただし、苦肉の策は誤用された使い方もされる場合もあり、誤用としては下記のものがあります。

苦しまぎれの策

赤壁の戦いの時に、周瑜や黄蓋がいる呉軍は圧倒的な大軍である曹操の前に、切羽詰まっていた事実はあります。

しかし、三国志演義を見る限りでは、周瑜や黄蓋は切羽詰まって苦し紛れで行った策ではない事は明らかでしょう。

今回は三国志演義にも登場する苦肉の策を解説します。

尚、魏の曹休と呉の陸遜が戦った石亭の戦いでも、周魴と孫権で苦肉の策の様な事を行っており、合わせて解説します。

 

苦肉の策の語源と逸話

苦肉の策の計画

苦肉の策の出所は、三国志演義です。

三国志演義で北方を平定した、曹操と呉の都督である周瑜が赤壁で戦う事になりました。

曹操軍が圧倒的な大軍なのに対し、周瑜の軍は数万の兵士かおらず劣勢だったわけです。

この時に、呉の将軍である黄蓋が夜中に、周瑜の元を訪れます。

周瑜は黄蓋が夜中に来た事を察し「良き策を持ってきてくれた。」と感じ、黄蓋に尋ねると、黄蓋は次の様に述べています。

黄蓋「敵は多勢、見方は無勢であれば、いつまでも持ちこたえる事は出来ないでしょう。

敵に焼き討ちを掛けて、戦いを終わらせるべきです。」

黄蓋は周瑜に火計を進言しましたが、周瑜は次の様に述べています。

周瑜「儂もその様に考えておるが、敵に偽って降伏する使者を誰にしようか、考えておる所なのじゃ。」

黄蓋は自分が偽って降伏すると述べると、周瑜は次の様に述べました。

周瑜「曹操を信用させる為には、黄蓋殿に痛い目にあって貰う必要があるのじゃが。」

これを見ると周瑜の頭の中には、苦肉の策があった事が分かります。

周瑜は黄蓋に曹操軍から偽って降伏してきている蔡中、蔡和の前で鞭打つ事になるが構わないか?と黄蓋に問います。

黄蓋は次の様に答えました。

「この黄蓋、孫堅様の代より御恩を受けております。どんな酷い仕打ちを受けても恨みは致しません。」

周瑜は黄蓋に感謝し、「あなたのお陰で江東は救われるであろう。」と述べました。

これにより周瑜と黄蓋はお互いが納得した上で、苦肉の策を行う事になります。

 

黄蓋が周瑜に反発

翌日に周瑜は軍議を開き、次の様に述べています。

周瑜「これより、軍議を致す。曹操軍は、百万の軍勢を擁しておる。この軍勢と一日で勝敗を決しようとは思ってはおらぬ。

諸将には三か月分の兵糧を支給するので、これを持って防備に当たって欲しい。」

周瑜が三カ月分の食料を支給すると言った事に、黄蓋は次の様に反発しました。

黄蓋「三カ月はおろか三十カ月の兵糧があったとしても、曹操軍には適いますまい。

今月中に曹操を打ち破る事が出来ねば、何カ月いても破る事は出来ませぬ。

これなら最初から張昭殿が言った様に、武器を捨てて敵に降伏した方がマシでござった。」

黄蓋の言葉に周瑜が激怒しました。勿論、演義なのですが・・。

苦肉の策を行うには、周瑜が激怒し黄蓋を痛めつける必要がわり、黄蓋はわざと周瑜を怒らせたわけです。

尚、黄蓋の言葉から分かる様に、呉では張昭を筆頭とした降伏派が盛んであり、主戦派は魯粛と周瑜位でした。

周瑜は黄蓋に対し、次の様に述べます。

周瑜「儂は孫権様より、二度と降伏を唱える者は斬り棄てろと言われておる。

お主の発言は、我が軍の士気を下げる言葉であるぞ。」

周瑜は黄蓋を斬り捨てると脅しを掛けますが、黄蓋も黙ってはいません。

黄蓋「儂は孫堅様より三代に渡って孫家に仕えておる。

貴様の様な奴が一体どこから頭を出してきおったのか。」

黄蓋は孫堅孫策、孫権の3代に仕えて来た宿老でもあり、周瑜を若造扱いして言い返す事になります。

周瑜は黄蓋を斬ろうとしますが、ここで甘寧が周瑜を止めます。

甘寧は黄蓋が東呉の旧臣だと述べ、寛大な処置を取る様に周瑜に進言しました。

周瑜は甘寧の言葉に激怒し、周瑜は甘寧をも棒で打ち据えています。

それでも、甘寧は怯まずに、次の様に述べました。

甘寧「黄蓋殿は処刑されても仕方がない身ではありますが、現在の状況を考えれば、

罰は与えず敵を打ち破った上で罰するべきだと思います。」

さらに、呉の諸将らが甘寧の意見に賛同し、黄蓋の助命嘆願を行った事で、周瑜は黄蓋の罪を死刑から100の棒打ちに変更しました。

三國志演義には甘寧が苦肉の策が演義だと、知っていたのかの記載がなく、甘寧も演義に参加していたのか本当だと思って周瑜を止めたのかは不明です。

甘寧は恩人である蘇飛の助命を願った話もあり、甘寧の男気を羅貫中が評価し、苦肉の策で黄蓋を救う役に選ばれた様に思います。

 

黄蓋が棒で打たれる

苦肉の策の仕上げとして、周瑜が黄蓋を棒で打ち据える事になります。

周瑜は見せしめの為に、黄蓋を棒で50回殴打したわけです。

苦肉の策は周瑜と黄蓋の演義なのですが、曹操に内通している蔡中と蔡和を信用させる必要があり、周瑜は本気で黄蓋を棒で叩いています。

周瑜が50回黄蓋を叩いた時点で、黄蓋は既に重症であり、呂蒙と甘寧が止めに入ります。

呂蒙と甘寧は再び「黄蓋は呉の為を思って述べた。」と言い、周瑜に黄蓋を許す様に求めています。

さらに、呉の諸将らも周瑜に黄蓋を許す様に述べました。

周瑜は諸将の意見を聞き、ボロボロになった黄蓋に対し、次の様に言います。

周瑜「諸将らの哀願に免じて残りの50本は預けておく、次に役目を疎かにすれば、この程度では済まさぬぞ。」

周瑜は言い終わると、奥に入り退席しました。

黄蓋の傷は深く兵士に助けられて下がる事になります。

周瑜の迫真の演技なども加わり、蔡中、蔡和の二人は、曹操に周瑜が黄蓋を殴打した事を報告しました。

 

呉軍を勝利に導く

周瑜に殴打された黄蓋は皮が剥がれ、血潮がしたたり、黄蓋の見舞いに来た者で、涙を流さなかった者はいなかったとあります。

苦肉の策の演義とはいえ、黄蓋はかなり痛めつけられてしまったわけです。

この後に、呉の闞沢が使者となり、曹操の元で弁舌を振るった事で、曹操は黄蓋の降伏を信じるに至ります。

龐統連環の計もあり、曹操軍は船を鎖で繋いでおり、黄蓋の火計は大成功を納め、呉軍は勝利したわけです。

三國志演義において、苦肉の策は絶大なる効果があった事になります。

尚、三国志演義では呉の周瑜や魯粛などは、劉備諸葛亮の引き立て役となり、損な役回りになっています。

実際の三国志演義では、苦肉の策も諸葛亮には見破られた事になっているわけです。

それらを考慮すると、黄蓋は呉軍にしてはかなり厚遇された役だとも言えます。

同様に苦肉の策で、曹操への使者となった闞沢も、三国志演義では劉備が呉に侵攻した夷陵の戦いで、陸遜を推挙するなど史実にはない活躍が見られます。

 

苦肉の計は史実にあったのか?

苦肉の計ですが、残念ながら正史三国志に記載がありません。

ただし、黄蓋が周瑜に火計を進言した記録はあります。

史実だと龐統が連環の計を仕掛けなくても、曹操軍は船を繋いでおり、それを目撃した黄蓋が周瑜に火計を進言しました。

黄蓋は曹操に、偽りの降伏を申し入れますが、苦肉の策を使ったとする話はありません。

黄蓋は史実だと苦肉の策を使わずに、曹操に降伏を申しれています。

曹操は荊州の劉琮を降伏させた時に蒯越、蔡瑁、韓嵩ら旧劉表の配下の者たちを厚遇していました。

それにより、曹操は黄蓋に対し寝返ってくれるなら、莫大な恩賞を与える事を約束しています。

さらに、曹操は袁紹との決戦である官渡の戦いでは、許攸の寝返りにより烏巣を急襲し、淳于瓊を斬り戦いに勝利しています。

史実では周瑜と黄蓋が苦肉の策を使わなくても、曹操が黄蓋の降伏を信じる下地はあったとも言えるでしょう。

 

孫権と周魴の苦肉の策

正史三国志に苦肉の計に近い話があるので、合わせて紹介しておきます。

魏の曹叡の時代に曹休と陸遜の間で、石亭の戦いがありました。

石亭の戦いの前に、呉の鄱陽である周魴は、曹休に対し孫権への不満を何通も送っています。

曹休も最初は疑いますが、孫権が周魴に対し詰問の使者を送り、周魴に断髪させた事を知ります。

儒教の価値観では、剃髪は非常に重い刑罰だとされており、周魴は屈辱を味わった事になるでしょう。

周瑜と黄蓋の苦肉の策の様に、周魴は殴られたわけではありませんが、孫権から刑罰を受けており、苦肉の策に近い様に感じます。

周魴の内通を信じた曹休は、賈逵が止めるのも聞かずに、軍を進めますが、周魴の内応は曹休をおびき寄せる為の罠でした。

曹休と待ち構えていた陸遜、朱桓、全琮との間で石亭の戦いが勃発します。

魏は王陵が奮戦し賈逵が曹休軍を助けた事で、大敗はしましたが、曹休自身は助かっています。

ただし、石亭の戦いの後に、曹休は賈逵を逆恨みし憤死しました。

石亭の戦いも周魴による苦肉の策を上手く使い、呉軍が大勝利を収めたとも言えるでしょう。

参考文献:ちくま学芸文庫・正史三国志7巻 岩波文庫・完訳三国志

 

スポンサーリンク