古代オリエント

メソポタミア地方の区分

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メソポタミア地方は、チグリス川ユーフラテス川の間にある地域を指します。

ギリシア語で、メソポタミアの「メソ」は間を意味する言葉であり、「ポタモス」は川を意味し「メソ」と「ポタモス」でメソポタミアになった話があります。

現在のメソポタミアの大部分は、イラク共和国の属します。

メソポタミアの地域に関しての呼び方は、時代と共に変わって行った事が分かっています。

メソポタミア地方の地域に関しては、「メソポタミア」「バビロニア」「アッカド」「シュメール」の言葉を覚えておけば問題ありません。

メソポタミア地方では、シュメール人が築いたシュメール文明からメソポタミア文明が始まったとされています。

ただし、近年の研究ではシュメール人以前にウバイド文化があった事が分かっており、ウバイド文化もメソポタミア文明に入れる事もあります。

文化と文明の定期が曖昧な部分もあり、区分の仕方は人によって違います。

 

メソポタミア地方の区分

メソポタミア地方の区分は、人によって分かれる傾向にあります。

現在の日本で使われている一般的な呼び方は、チグリス川とユーフラテス川の間を地域全体の事をメソポタミアと呼びます。

メソポタミア地方の南部は、シュメール地方であり紀元前3000年頃にはシュメール人が住みメソポタミア文明の発祥とも考えられています。

メソポタミア中部をアッカド地方と呼びます。セム語系民族であるアッカド人がメソポタミア中部にいた事が原因です。

因みに、アッカド人にサルゴン1世が現れ、初のメソポタミア統一を成し遂げる事になります。

尚、メソポタミア南部のシュメールとメソポタミア中部にあるアッカドの境界は、ニップル(都市名)であり、ニップルの北がアッカド地方、南がシュメール地方となります。

メソポタミア北部をアッシリア地方と呼び、セム語系のアッシリア人がいました。

アッシリアは後にアッシリア帝国を築き、エジプトとメソポタミアを合わせた地域であるオリエントを始めて統一した民族でもあります。

シュメール人のウル第三王朝が崩壊してからは、シュメール地方とアッカド地方を合わせてバビロニア地方と呼ぶようになります。

時代が進むと、メソポタミアは北部がアッシリアで、南部がバビロニアと二つに区分される事になったわけです。

現在ではイラクの首都であるバグダートの北がアッシリアとバビロニアの境となっています。

アッシリアには、後にエジプトも含めた古代オリエントを統一するアッシリア帝国が誕生し、南のバビロニアではバビロンを本拠地とする王朝が栄えています。

バビロンを首都にした王朝は、ハンムラビ法典のハンムラビ王で有名なバビロン第一王朝から始り、海の国第一王朝、カッシート王国、新バビロニアなどの王朝が栄えました。

 

 

メソポタミア地域の呼び方の変遷

メソポタミア地方の呼び方は時代と共に変わって行った事が分かっています。

紀元前のメソポタミア地方の区分

紀元前200年から120年頃の歴史家ポリュビオスは、著書である「歴史」では、メソポタミア北部の事をメソポタミアと呼んでいます。

メソポタミア南部の事をバビロニアと呼び書き記しています。

同じくギリシア人の歴史家・地理学者であるストラボンも著者の「地理誌」にも、メソポタミア北部はメソポタミア、南部はバビロニアとあります。

紀元前の段階では、メソポタミア地方は現在のメソポタミア北部を指す言葉として認識されていた様です。

 

大プリニウスのメソポタミア

ローマの政治家である大プリニウス(西暦23ー79年頃)は、ユーフラテス川とチグリス川の間にある土地の全てをメソポタミアと呼んでいます。

ローマの時代になると、現代と同じ様にチグリス川とユーフラテス川の間の地域の全てをメソポタミアと呼ぶようになった事が分かります。

 

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