古代オリエント

ミタンニ王国はフルリ人が建国した謎の国家

2020年11月14日

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宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細

ミタンニ王国は、フルリ人が建国した国家です。

ただし、資料によってフルリ人が多くいただけで、支配階級はミタンニ人だったような話もありますが、その辺りがはっきりとしません。

しかし、ここでは多くの人が言うように、ミタンニ王国はフルリ人が建国した説で話を進めます。

尚、フルリ人は資料によっては、「フリ人」と記載される事があります。

ミタンニ王国の首都はワシュカンニだとも考えられていて、ユーフラテス川の支流であるバブル川の流域にあった説が有力です。

近年チグリス川の流域でミタンニ王国の宮殿跡が発見され話題になっています。

ミタンニ王国の場所はシリア内陸部であり、全盛期はメソポタミア北部、アナトリア半島の東部にも勢力を拡げています。

ミタンニの名前の由来ですが、周辺国がミタンニと呼んでいた話があり、そこからミタンニの名前が付けられた様です。

意味に関してはよく分かっていません。

尚、ミタンニ王国は他にハニガルバトなどの呼び方もあります。

※近年、エジプト王ツタンカーメンの王墓から隕石で出来た短剣が発見され、接着剤として使われていた成分がミタンニのものではないか?とも考えられ注目されています。

ツタンカーメンの墓から発掘の短剣 隕石から作られた贈り物か(NHK)

フルリ人の讃美歌

フルリ人の讃美歌が話題になった事があります。

どこまで正しいのかは不明ですが、ユーチューブにフルリ人の讃美歌があったので掲載しておきます。

フルリ人の讃美歌は、3400年前の世界最古のメロディとも呼ばれています。

シンプルな音楽ですが、興味があれば聞いてみてください。

コーカサス山脈の北にいた

ミタンニ王国を建国したフルリ人は、元はコーカサス山脈の北にいた、インド・ヨーロッパ語族とも、アーリア系とも、アーリア人とも言われています。

紀元前2000年頃になると、フルリ人はコーカサス山脈を越えて南下しました。

フルリ人が南方に移動した理由は、地球規模の環境変化による食料不足だとも考えられています。

南下したフルリ人は、メソポタミア地方に進出し、シリア内陸部にいたアムル人を追い出し、自分たちの国を作る事になります。

フルリ人達は、アムル人から肥沃な三日月地帯の一角を奪う事で、ミタンニ王国を建国する事になったわけです。

フルリ人の南下がメソポタミアに与えた影響

フルリ人の民族移動が与えた影響を解説します。

メソポタミアのバビロニアとエジプトに大きな変化をもたらします。

フルリ人の移動によりメソポタミアの地が大混乱

コーカサス山脈を越えたインド・ヨーロッパ語族はフルリ人だけではありません。

後に、人類で初めて鉄の実用化に成功させたと言われるヒッタイト人もコーカサス山脈を越えて南下しました。

ただし、ヒッタイト人は小アジア(アナトリア半島)に入り、ここを本拠地とする事になります。

フルリ人に故郷を追われてしまったアムル人は、シュメール人達がいるウル第三王朝に雪崩れ込む事になったわけです。

ウル第三王朝では難民となったアムル人達を防ぐために、壁を作った話もありますが、

結局は大規模な飢饉なども重なり、ウル第三王朝は滅亡しています。

ウル第三王朝はシュメール人最後の王朝ともよばれています。

群雄割拠となったメソポタミアの地を制したのが、難民であるはずのアムル人の国であるバビロン第一王朝です。

ミタンニ王国を建国したフルリ人に追い出されたアムル人は、故郷を離れた地で国を建てたわけです。

アムル人がバビロンで建国したバビロン第一王朝は、ハンムラビ王のハンムラビ法典が有名となります。

尚、アムル人が建国したバビロン第一王朝は、強大な軍隊を持ったヒッタイトに滅ぼされています。

バビロン第一王朝が滅びると、再びメソポタミアは大混乱となりますが、カッシート人が建国したカッシート王国が勝ち残る事になりました。

カッシート王国はバビロン第三王朝とも呼ばれています。

余談ですが、バビロン第二王朝もあり、バビロン第二王朝は別名として海の国第一王朝という呼び名があります。

エジプトがヒクソスの手に奪われる

フルリ人がアムル人を追い出した頃に、ヒクソスと呼ばれている謎の民族がエジプトを急襲しました。

ヒクソスはフルリ人やヒッタイトなどのインド・ヨーロッパ語族に土地を奪われた者の集団だとも考えられています。

ヒクソスは強力な戦車部隊を持ち、歩兵しかいないエジプト軍を蹴散らし、エジプトで最も裕福な地であるナイルデルタにエジプト第15王朝を建国する事になります。

エジプトは王朝が出来て以来、異民族に支配されるのは初めての事です。ただし、エジプトはナイル川下流の下エジプトをヒクソスに奪われただけであり、上エジプトは引き続き領有しました。

異民族の王朝であるエジプト第15王朝はヒクソス王朝とも呼ばれています。

尚、ヒクソス王朝は騎馬を使った戦車部隊を駆使したヒクソスがエジプトを征服したわけではなく、傭兵としてエジプトに少しずつ入って来たヒクソス達が、どこかのタイミングでクーデターを起こし、誕生したのがヒクソス王朝だという説も存在します。

因みに、ミタンニ王国も強力な戦車部隊を持っていた事から、ヒクソスとフルリ人は同じ民族だったのではないか?とする説もあります。

フルリ人の生活

ミタンニ王国はフルリ人の国なのですが、言語は日本語やシュメール語と同じように「て、に、を、は」が言語に入る膠着語だったと言われています。

シュメール人と日本人は同じ民族だった説もありますが、ミタンニ人と日本人が同じ民族だった話は聞いた事がありません。

ミタンニ王国では4つの身分があり最上級が戦士、次に平民、貧民、賎民と続く事が分かっています。

戦士が最も身分が高い所が、ミタンニ王国が軍事国家だと分かるような気がします。

尚、フルリ人は性格的には、好戦的だったとも言われています。

因みに、ミタンニ王国は内部の記録が殆ど見つかっていない事もあり、ミタンニ王国の内情は外国の資料に頼る事になるのが普通です。

ミタンニ王国の貴重な資料としてヌジ文書があり、ヌジ文書によればミタンニ王国内で偽装の養子縁組による大土地所有や、女性を男性とみなしての遺産相続などが確認されています。

紀元前の段階から人類の生活は、ドロドロとしていた事も窺われます。

尚、ミタンニ王国では紀元前らしく先祖の崇拝が行われていた記録もあります。

因みに、ミタンニ王国のフルリ人は馬の調教が巧みであり、ミタンニ王国のキックリなる人物が、馬の調教術をヒッタイト帝国に伝えた話があります。

後にヒッタイトはミタンニ王国を滅ぼしますが、キックリが伝えた馬の調教術で強力な戦車部隊を組織し、ミタンニ王国を滅亡させた話もあります。

敵国に技術を教える危険さを物語っている話でもあるはずです。

ミタンニ王国の強勢

ヒッタイトはバビロン第一王朝を滅ぼすなど、一時は強盛を誇っていましたがガシュガ族に首都であるハットゥシャを落とされると弱体化します。

ヒッタイトが弱体化した頃に、勢力を広げたのがミタンニ王国です。

ミタンニ王国では複合弓が開発したり、騎馬を使用した強力な戦車部隊を作り強国にのし上がっていきます。

ミタンニ王国はメソポタミア北部にいたアッシリアを服属させ、シリア南部やパレスチナにまでを勢力を拡げました。

ただし、ミタンニ王国が小国を直接支配したわけではなく、宗主国としての地位を獲得し、間接統治を行っていた様です。

3代目ミタンニ王だと言われるバラタルナの時代に、アララハのイドリミがミタンニ王であるバラタルナに臣下になりたいと伝え、

バラタルナはイドリミがアララハ王になれる様に支援した記録が残っています。

中国の春秋戦国時代の覇者(諸侯同盟の盟主)的な立場にミタンニ王はいたのでしょう。

ミタンニ王国の五代目国王であるサウシュタタルの時代には、西はメソポタミア北部のアッシリア、東ではアナトリア半島の東南部を支配するなど、最盛期を迎えた様です。

エジプト新王国との激突

強勢を誇るミタンニ王国ですが、南ではエジプト新王国が勃興する事になります。

エジプト新王国の誕生

ミタンニ王国はシリアやメソポタミアの地で影響力を増しますが、南ではエジプト新王国が興りヒクソスを駆逐する事になります。

エジプト人が再び上エジプトを支配し、エジプト第18王朝を建国するわけです。

エジプト新王国のトトメス1世はエジプトをヒクソスから奪還するだけではなく、パレスチナやシリアにも遠征する事になります。

エジプト新王国のトトメス1世は卓越した軍事能力で、勢力を拡げ北シリアのユーフラテス川付近にあるカルケミシュに境界碑を建てたと言われています。

トトメス1世は、ヒクソスにエジプトを奪われた教訓から、エジプトを守るための先制攻撃としてシリアやパレスチナに手を出したのでしょう。

エジプトのトトメス1世の時代は、ミタンニ王国は後手に回ってしまったようで、勢力は後退した様です。

反エジプト同盟

トトメス1世が亡くなると娘のハトシェプストの時代となります。

ハトシェプストはエジプトで唯一の女性ファラオと呼ばれる人物です。

ハトシェプストは平和政策を貫き、プント国と貿易を再開するなど内政重視の政策を行います。

ハトシェプストが内政を重視している間に、ミタンニ王国ではカデシュ侯を盟主とする反エジプト同盟を締結し、シリア、パレスチナでの影響力を強める事に成功しています。

しかし、ハトシェプストの時代からトトメス3世の時代になると再び劣勢となります。

ミタンニ王国とエジプト新王国の直接対決

エジプトのファラオがトトメス3世に代わると再びミタンニ王国は危機に陥ります。

トトメス3世は古代のナポレオンとも呼ばれる人物であり生涯に17回も遠征を行ったとされています。

トトメス3世の8回目の遠征ではミタンニ王国と直接対決した話があります。

この戦いでトトメス3世はユーフラテス川を渡りミタンニ王国と決戦を挑んだ様です。

しかし、ミタンニ王国軍は決戦を避け軍をシリア内陸部に移動させた事から、トトメス3世の軍は追撃をやめた話があります。

ただし、トトメス3世によりミタンニ王国は、シリア、パレスチナへの影響力を大幅に失いました。

トトメス3世は、トトメス1世と同じようにカルケミシュ付近に境界碑を立てた話があります。

これだけを見るとトトメス3世の圧勝だった様に思うかも知れませんが、これは全てエジプト側の記録であり、エジプト側の記録は勝った時は派手に宣伝し、負けた時は記録しないのが普通です。

トトメス3世がミタンニ王国を退けた後も、何度も遠征を行っている事から、エジプトとミタンニの対決は一進一退の攻防だったのではないか?とする見方もあります。

エジプトとの同盟と破綻

宿敵であったミタンニとエジプトは同盟を結び兄弟の国となりますが、関係は破綻します。

ミタンニ・エジプト同盟

紀元前14世紀の前半になると、アナトリア半島のヒッタイトが再び強大となります。

ヒッタイトがミタンニの東部であるアラハを陥落させました。

ミタンニ王国はヒッタイトの脅威が迫ると、ミタンニ王アルタタマ1世は宿敵であったエジプトと同盟を結ぶ事になります。

ミタンニ王国では、王女をエジプトに送りファラオの妃になるのが慣例化します。

アルタタマ1世の外交政策により、エジプトの後ろ盾を得たミタンニはヒッタイトの脅威から逃れる事に成功しました。

エジプトとミタンニは親密な仲となり、お互いを「兄弟」と呼んだ話もあります。

ミタンニからエジプトに王妃が送られる時は、ミタンニ側は婚資を列挙し、エジプトとミタンニの強固な同盟関係を内外にアピールしました。

ミタンニ王国としては、ヒッタイトを牽制する意味があったのでしょう。

しかし、ミタンニ王国では、王女をエジプトに嫁がせた見返りとして、露骨に黄金を要求した話もあります。

これを見ると、「所詮は金か」と思うかも知れませんが、エジプトのファラオであるアメンホテプ3世が病気に掛かった時に、

ミタンニ王トゥシュラッタが、ニルヴェに祀られているフルリ人の愛と生命の女神であるシャウシュガ像をエジプトに貸し出し、アメンホテプ3世の病気の治癒を願った話もあります。

ミタンニとエジプトの関係をよく現わしている話だと感じます。

同盟の破綻

トゥシュラッタはエジプトに女神像を貸し出し、アメンホテプ3世の回復を願ったわけですが、アメンホテプ3世は亡くなってしまいます。

エジプトでは、アメンホテプ4世がファラオに即位しますが、国内の宗教改革に熱心で、シリアやパレスチナなどのアジアへの関心はありませんでした。

エジプトの傘下のビブロスがヒッタイト傘下のアムル国に攻撃されても、援軍を出さなかった程です。

エジプトの援軍が来なかった事でビブロス王・リブ・アッディに対する反乱が起き、リブ・アッディは追放される事になります。

アメンホテプ4世はアクエンアテンの名でも知られ、宗教改革では一定の成果を挙げましたが、アジアの勢力バランスが崩れる原因を作っています。

アメンホテプ4世の時代に半世紀に渡って継続した、ミタンニ王家との婚礼も終焉を迎えます。

これ以後のミタンニ王国では、エジプトの後ろ盾のない状態でヒッタイトと戦わねばならなくなったわけです。

ミタンニ王国の滅亡

ミタンニ王国はエジプトとの同盟が解消されるわけですが、ヒッタイトでは英雄的な君主であるシュッピルリウマ1世が即位します。

シュッピルリウマ1世は紀元前1355年に即位すると、過去にヒッタイトの首都であったハットゥシャを奪還するなどの功績も挙げています。

シュッピルリウマ1世は、ミタンニ王国の制圧を狙い攻撃を仕掛けてきますが、ミタンニ王トゥシュラッタがヒッタイト軍を撃退した話が残っています。

ヒッタイト王であるシュッピルリウマ1世は、ミタンニに敗れるとカッシート王国から王女を娶り関係を強化しました。

シュッピルリウマ1世は、ミタンニ王国の背後にあるカッシート王国と同盟を結んだわけです。

シュッピルリウマ1世の遠交近攻策とも呼べるでしょう。

さらに、シュッピルリウマ1世はミタンニ王国の西部の都市の切り崩しを図り離反させる事に成功しています。

ミタンニ王であるトゥシュラッタもヒッタイト傘下の都市であるイスワ国にちょっかいを出します。

イスワ国を挑発したとして、ヒッタイトはミタンニ王国に攻撃を掛けると、ミタンニ軍は脆くも敗れ首都であるワシュカンニも呆気なく陥落した様です。

ミタンニ王であるトゥシュラッタは自分の息子に殺害された話もあります。

ミタンニ王国が壊滅状態になると、ミタンニ王国の東部はヒッタイトが領有し、西ではヒッタイト傘下にあったアッシリアが独立する事になります。

ミタンニ王国は弱小国となりヒッタイトとアッシリアの緩衝地帯になった話があります。

ミタンニは取るに足らない国となりますが、紀元前13世紀末にミタンニの末裔がハニガルバトという国を建国しますが、呆気なくアッシリアに滅ぼされています。

ハニガルバトがアッシリアに滅ぼされた事で、ミタンニ王国は歴史から姿を消す事になります。

ミタンニ王国は滅びますが、地中海から海の民が押し寄せた事で再びエジプト、メソポタミアは混乱の時代に突入します。

現在でも続くように、オリエント地方は争いが紀元前の段階から絶えません。

尚、ミタンニ王国を滅ぼしたアッシリアは紀元前8世紀頃に、初のオリエント統一という偉業を成し遂げる民族です。

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