春秋戦国時代

蒙武の史実・天下最強の大将軍とは言えない実績・・・。

2021年3月3日

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宮下悠史

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蒙武の史実の実績を紹介します。

尚、キングダムでは天下最強の大将軍で、中華でも最も強い男のような描かれ方をしているわけです。

策を武力で凌駕するなど、常識では考えられない強さを誇っています。

さらに、秦王政(後の始皇帝)には、昭王の頃にあった六大将軍の復活を進言していますし、王騎からも認められる存在となっていました。

王騎が死んだ後は、軍勢を任されるなどもあり、蒙武の事を最強の武人だと思っている人も多い事でしょう。

しかし、史実の蒙武を見る限りでは、キングダムの蒙武は話を盛り過ぎているような気すらします。

実際に、司馬遷が書いた史記では、蒙恬列伝の中に少し記述があり、王翦と共に楚を攻めて項燕を破った事くらいしか書かれていないわけです。

それも蒙武は総大将ではなく、王翦の副将であり軍隊を現場で指揮した描写もなければ、策を進言した姿もありません。

今回は、史実の蒙武がどのような人物だったのかのお話です。

蒙家の武将の中では最も影が薄い存在

蒙武ですが、父親は蒙驁(もうごう)です。

蒙驁は、合従軍()を率いた信陵君には敗れ去りましたが、韓の成皋を奪ったり、趙の37城を落とすなど活躍した名将です。

魏の東部の20城を落として、が東郡を設置出来たのも、蒙驁の功績となっています。

蒙武の息子には、蒙恬と蒙毅がいます。

蒙毅は文官的な役割が多かったようですが、蒙恬は李信王賁などと共に斉王建を降伏させているわけです。

さらに、蒙恬は統一後に秦軍30万を率いて、北方の騎馬民族である匈奴を大いに破っています。

蒙恬は、さらに万里の長城を築いたとも言われていますし、毛筆を作った説(諸説あり)まであります。

蒙驁や蒙恬などの絶大な功績と比べると、見劣りしてしまうのが史実の蒙武です。

ただし、史書という代物は、全ての功績を記載しているわけではありません。

そのため蒙武も記録に残らない功績が、数多くある可能性もあります。

しかし、楚を攻略した程度しか、記載がないので蒙家の中では最も影が薄い存在になってしまうのでしょう。

呂不韋との関係も不明

蒙武と言えば、呂氏四柱の一角を担っています。

これを考えると、史実では呂不韋と仲がよかったのかな?とか考えてしまうわけです。

しかし、蒙武が呂不韋と懇意していたという記録はありません。

もちろん、昌平君と親友だった記述もありませんし、蔡沢李斯との関係も不明です。

ただし、同じ秦の宮廷に出仕しているはずですので、もちろん知り合いだった事は間違いないでしょう。

蒙武は人脈についても、一切不明の人物と言えます。

王翦の副将となる

蒙武ですが、歴史上に記録された功績は、王翦と共にを攻めて大勝した事です。

これだけは、史記にも書かれていますし、史実のはずです。

その頃の秦は、などの三晋を滅ぼして、さらになども滅亡寸前に追い込んでいます。

や燕には、秦に対して抵抗する力を持ちませんし、楚を滅ぼす事が出来れば、秦の中華統一は目前となります。

秦王政は、楚を征伐するのに、李信を最初起用する事にしました。

李信は年若く武勇に優れていて、燕を攻めた時は、秦王政に刺客を放った、燕の太子丹を斬ったとも言われている武将です。

李信は、蒙恬を副将として、20万の軍勢で、楚を攻めたわけです。

この時に、李信が蒙武ではなく、蒙恬を副将としたのは、先輩で年上の蒙武では気を使ってしまうと考えたのかも知れません。

そのため、年下か同年代である蒙恬を選んだのでしょう。

しかし、李信と蒙恬は楚の項燕に大敗してしまいます。

さらに、楚の項燕は秦を攻める気配を見せてきます。

秦王政は慌てて王翦を将軍として、60万の大軍を用意して迎え撃つ事にしました。

王翦の副将として、選ばれたのが蒙武です。

王翦の副将と言えば、桓騎楊端和羌瘣などがいましたが、楚討伐の頃になると、既に秦を離れたり引退したのか史実では登場しなくなっています。

尚、項燕には、息子である蒙恬が破れ苦杯を味わっていますので、リベンジに燃えていた可能性も高いでしょう。

項燕を破る

王翦は、項燕を破るために特異な作戦を用意します。

秦の兵士には待遇を良くして、守りを固める事を重視するわけです。

兵士は気力がみなぎり、陣地の中では高跳びをしたりして遊びだします。

項燕は、これを見て秦の兵士はだらけていて、に侵攻する事はないと見て軍を返したわけです。

王翦は、この時を待っていて、項燕の軍を追撃しました。

秦の兵士は、気力がみなぎり士気も高かったため、楚軍を忽ち破ってしまいます。

項燕は、軍を返してしまった事が敗北に繋がったわけです。

王翦は、この勢いを持って楚の都を陥落させて、楚王負芻(ふすう)を捕らえる事に成功しています。

蒙武は副将として参加していますが、王翦に何か進言したという記録もありません。

そのため、どの様な功績があったのかは分かりませんが、秦は楚に大勝しているわけで、何らかの活躍をした事は間違いないでしょう。

蒙武が昌平君を破る

楚王が捕らえられて、は滅亡したかと思われたわけです。

しかし、思いがけない人物が楚の君主として立つ事になります。

幼くして秦に行き活躍し相国にまでなった、楚の王族である昌平君です。

昌平君は、昌文君が死亡した年に、秦を出奔している事が分かっています。

その昌平君がどの様にして、楚で立ったのかは分かりませんが、項燕が擁立し昌平君が楚王となります。

昌平君の軍と戦ったのが、王翦と蒙武の軍です。

キングダムでは、昌平君と蒙武は親友のような関係になっていますが、クライマックスで話を盛り上げる為の設定でしょう。

お互いの立場があり、それぞれ目的をもって運命に従った結果、最終的に蒙武と昌平君の戦いとなったように描くのではないかと考えています。

昌平君と蒙武の戦いは、かなり見どころがあるような気がして、今から楽しみです。

最後の中華統一シーンよりも、こちらの方が楽しみなくらいですね。

歴史の結果を分かっている人は、昌平君と蒙武の対決がどのように描かれるか、想像しただけでもワクワクするはずです。

ちなみに、最後は蒙武と王翦が、昌平君と項燕を破り楚は滅亡しています。

ただし、秦を滅ぼしたのは、項燕の孫の項羽だというのは興味深いところです。

王翦の孫にあたる王離は、項羽に趙で大敗しています。

キングダムの蒙武は活躍を盛り過ぎている

キングダムの蒙武ですが、活躍を盛り過ぎていると思いました。

秦の六将の復活を進言するのは、まだよいと思います。

しかし、天下最強の大将軍みたいな扱いですし、武力においては他を圧倒しているように感じるわけです。

さらに、李牧や春申君が主導した函谷関の戦いでは、軍の総大将である汗明も討ち取っています。

他にも、蕞の戦いが終り合従軍が引き上げていくと、追撃までして多くの損害を与えているわけです。

これを「猛進一直線」の将軍として見えますし、圧倒的な武力を見せてくれています。

しかし、この活躍も史実にはありませんし、キングダムでの蒙武はかなり活躍を盛っていると思いました。

ただし、私は蒙武のような熱い人間は嫌いではありません。

最強の武人とはとても言えない

キングダムの蒙武ですが、秦の中で最も武力が高い将軍として描かれています。

下記の画像は、キングダム公式ガイドブックである覇道列紀に書かれていた蒙武の能力値です。

武力99 指揮力92 知力86の数値をつけられています。

さらに、道という部分には「天下最強」とまで書かれているのです。

この数値であれば秦の六将に相応しい人物とも言えます。

ちなみに、蒙武よりも唯一武力が高いのは、龐煖で武力100となっています。

しかし、史実の蒙武を見る限りでは、とても天下最強の大将軍とは言えないと私は考えています。

鄴攻めの首都である邯鄲攻防戦で、李牧司馬尚とも対峙した記録もないわけです。

ただし、蒙恬や李信などと違って、戦いに敗れた記述もありません。

そのため案外、最強の武人だった可能性は残っているでしょう。

尚、秦における腕力が高かった人と言えば、秦の武王を思い出してしまいます。

秦の武王は、秦の昭王の異母兄です。

武王は腕力が大変あり、周に行き力持ちの孟説と腕力を競いあったわけです。

非常に重い鼎の持ち上げ合いの勝負をしたわけですが、鼎を持ち上げた時に、武王は脛骨を折ってしまい死亡してしまいました。

腕力があっただけに、過信してこのような事になってしまったのでしょう。

ちなみに、秦の武王は天下の物笑いになってしまったそうです・・・。

蒙武も腕力がありますし、似たような事をして死なないか心配な所でもあります汗

ちなみに、史書では蒙武がいつ亡くなったのか分かっていません。

力自慢を過信しすぎて、死亡するような死に方はキングダムではして欲しくないとは感じています。

尚、蒙武の息子である蒙恬と蒙毅は始皇帝に非常に信頼され重用された話があり、蒙武の後継者の育成に関しては、上手くいったと言えるでしょう。

蒙武の最後

蒙武の最後ですが、史記などでは死亡した時がいつなのかは分かっていません。

最後の記録が、紀元前223年の楚を滅ぼした記述です。

紀元前221年に、李信、蒙恬、王賁がに侵入して、斉王建を降伏させています。

これを考えると、急死しない限りは秦の天下統一を見れたのではないかと思っています。

始皇帝(秦王政)が崩御して、趙高や李斯が扶蘇を廃して胡亥が二世皇帝に即位しています。

この時期になると、蒙恬や蒙毅は生きている事は確認されていますが、蒙武については記載がなく登場していません。

陳勝呉広の乱が起きた時も、章邯が鎮圧に行った記録はありますが、蒙武が軍を率いた形跡はないです。

史記によると、蒙恬・蒙毅を始めとした蒙家の一族は全て、趙高により殺された事になっています。

そのため、始皇帝死後まで生きていたとしても、趙高に殺されてしまった可能性が高いです。

普通に考えれば始皇帝が崩御する前に、蒙武も死亡したと考えるのが普通だと思いました。

尚、王翦や蒙恬は史記の司馬遷の「太史公曰く」の部分で、「戦いによる大功は立てたが始皇帝を諫める事は出来なかった」と辛辣な事が書かれているわけです。

同じように、蒙武も始皇帝に対しては、法を緩めるなど人民を労わるように、諫言する事は出来なかったのではないかと考えています。

しかし、史実のを見ていると、中華統一の情熱に燃えると言うよりは、どこか法に縛られたような冷たさを感じてしまいます。

史実が、法治国家の冷たさがあるだけに、キングダムでも蒙武は熱く感じるのかも知れませんね

最強の強さを持った部下を持ってこそ真の将軍だと思う

個人的に蒙武について思った事を書いてみたいと思います。

蒙武はキングダムを見ると確かに非常に強いと思いました。

あれを見ていると武力では最強ですし、体力も恐ろしい程もっていると感じます。

しかし、実際の戦いであれば将軍自体が武力に優れている必要はないはずです。

三国志演義では、関羽張飛趙雲などは、顔良文醜華雄をはじめ様々な武将と激しく一騎打ちを行っています。

しかし、史実を見ると一騎打ちというのは皆無なわけです。

将軍が討たれてしまったら軍は崩壊してしまいますし、そもそも一騎打ちはリスクが高すぎてやる必要はないでしょう。

ちなみに、日本では武田信玄と上杉謙信が一騎打ちをした事になっていますが、あれも虚構だとも言われています。

日本で戦国時代で最強の剣豪といえば、将軍である足利義輝だったと思われます。

しかし、足利義輝は松永久秀や三好三人衆に謀反を起こされてしまうと、奮戦しますが命を落としているわけです。

それを考えれば、将軍自体が武芸に優れている必要はないはずです。

むしろ、武力に優れた武将を数多く持ってこそ、真の将軍と言えるのではないでしょうか?

それを考えると、蒙武もあそこまで強い必要な無いかと思いました。

現実的に考えてみれば、蒙武みたいな人を「無駄に強い人」と言うのかも知れません。

この話を蒙武が聞いたとしたら「大きなお世話だ」と言われそうですが・・・。

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