春秋戦国時代

蒙驁(もうごう)は史実では秦のエース級の将軍

2021年3月2日

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宮下悠史

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蒙驁の史実を解説します。

春秋戦国時代末期で戦国七雄の攻防を描いた漫画キングダムでは、蒙驁は人がいいおじいちゃん的な存在にも描かれています。

白老などと呼ばれたりもしています。

副将に桓騎王翦の方が将軍としての風格があると言えるでしょう。

しかし、史実の蒙驁を見ると凡将どころか、秦の荘襄王や秦王政の初期においては、秦国で最も活躍したエース級の将軍だと言えます。

蒙驁が名将と呼ばれないのは、信陵君が率いた合従軍で敗れた事が原因です。

それ以外で考えれば、圧倒的な実績を誇るのが蒙驁となります。

尚、蒙驁の息子が蒙武であり、孫は蒙恬蒙毅です。

三代に渡り秦に貢献しのが蒙驁の一族となります。

斉の出身である

史記を読むと蒙驁は斉の出身だという事が書かれています。

蒙驁が斉から秦に移った理由ですが、史記にも戦国策にも書かれてはいません。

そのため、秦に移った理由は不明ですが、兵法などについては斉で学んだのではないかと思っています。

という国は、首都である臨淄(りんし)などは、非常に学問が発達している先進地帯です。

さらに、呉王闔閭の元で活躍した兵法家の孫武も斉出身ですし、孫臏も斉の軍師として活躍しています。

兵法の学問なども充実していた事でしょう。

そうした文化を背景に、蒙驁も斉で兵法を覚えたのではないでしょうか?

斉ですが湣王(びんおう)の時代には、西の秦の昭王と東帝と西帝を名乗るなど、非常に強力な勢力でした。

しかし、燕の昭王の恨みを買い燕将楽毅率いる合従軍()に敗れると壊滅的な打撃を食らっています。

その後、小役人の田単が将軍となると奇計を持って、の旧領地を奪還しています。

しかし、田単も絶大なる功績を挙げたのに、君主である斉の襄王に軽く見られてしまった所もあり、晩年は趙に移ったようです。

その後、斉王建の時代になりますが、これと言った人材は出てきていません。

キングダムだと蒙驁は廉頗に敗北を続けた為に、斉で出世を諦めて秦に移った事になっていますが、実際には斉は王族や貴族の力が強かったのか、出世出来る見込みもなかったため、西の超大国である秦に行ったのではないか?と思っています。

それか、李斯のように他の6国(斉・・趙・魏・韓・燕)では、国として勢いがないから功を立てる事が出来ない事を見込んで秦に移ったのかも知れません。

しかし、蒙驁が秦で活躍した事を考えれば、秦に移って正解だったと言えます。

韓の成皋を取る

蒙驁は、荘襄王の元年(紀元前249年)に、史書に初めて登場します。

荘襄王と言えば、呂不韋と大きく関わっているので、宰相である呂不韋が蒙驁を将軍に推薦したのかも知れません。

この時に、韓を攻めて成皋と滎陽を抜いたと史書に書かれています。

これが蒙驁が初めて総大将となり采配を振るった戦いになるかと思いますが、結果は大成功だった事は確実です。

尚、成皋というのは、土地は痩せていたようですが、戦略上では重要な拠点となっています。

晋が大臣であるに土地を分割された時に、韓の君主である韓康子は段規という家臣に成皋を必ず取るように進言されています。

その理由ですが、成皋は戦略上の要地であり、成皋を支配下に置けば鄭(国名)がたやすく取れるからだと言うわけです。

実際に、韓はこの策を実践して、成皋を拠点として鄭を滅ぼしています。

その後、鄭の首都であった新鄭を韓の首都にしているわけです。

つまり、成皋というのは、非常に重要な土地と言えるでしょう。

秦が成皋を支配下に治めたという事は、韓の首都である新鄭を脅かす事になり、韓の滅亡も見えて来たはずです。

韓の喉元に刃を突き付けた状態とも言えます。

秦が天下統一する上で、蒙驁が成皋を取ったという事は非常に意味があります。

尚、成皋は楚漢戦争時代に、項羽劉邦が争った地でもあり、その点からも重要性が分かります。

魏と趙を攻めて37城を落とす

蒙驁は、成皋を取った翌年には休むことなく、の高都と汲、の楡次・新城・狼孟を攻めて37城を取ったとされています。

37城を落としたと言うのは、驚異的な事ではないかと個人的には思っています。

もちろん、小さい城もあれば大きい城もあるかと思いますが、37城を落としたというのは驚異的な記録でしょう。

どの様にして、37城を落としたのか内容は分かっていませんが、かなり奮戦した事が分かります。

春秋戦国時代で一度に落とした城の数では、楽毅が斉の70城、白起が魏を攻めて大小61の城を陥落させた記録がありますが、それに次ぐ記録ではないかと考えています。

この事からも蒙驁が優れた将軍だったという事が分かります。

信陵君に敗れる

蒙驁が将軍になってから、最初の2年は絶大なる功績を挙げているわけです。

しかし、3年目に躓く事になります。

趙にいたの公子である信陵君が魏に帰国して、合従軍()を率いて、秦に攻め込んで来ました。

信陵君という人は、孟嘗君平原君春申君と共に戦国四君として多くの食客を集めた事でも有名です。

趙の邯鄲が秦に囲まれた時は、魏の安釐王は傍観するつもりでしたが、信陵君は将軍晋鄙(しんぴ)の兵権を奪い取り趙の救援に駆けつけて、秦を打ち破るなど絶大なる功績を挙げているわけです。

その信陵君が合従軍を率いて、秦に攻め込んできました。

秦は蒙驁と王齕(おうこつ)に信陵君と対峙させますが、史記によると蒙驁は黄河の外で破れたとあります。

さらに、信陵君は函谷関まで攻め込みましたが、ここで兵を引きました。

蒙驁が名将扱いされないのは、信陵君に敗れたのが大きな原因でしょう。

信陵君という人は不思議な人で、いきなり将軍となっても兵を自在に扱えるのか、戦いでは滅法強い人なわけです。

信陵君に敗れた戦いは、蒙驁が凡将と言うよりは、信陵君が強すぎたと言ってよいのかも知れません。

尚、当時最強と呼ばれた秦軍を、2度も破った信陵君の武威は天下に鳴り響いています。

晋陽の反乱を平定

蒙驁は、信陵君に敗れはしましたが、粛清をされたわけでもなく、翌年も戦争に明け暮れています。

晋陽で反乱が起きたのを鎮圧しているわけです。

晋陽の反乱というのは、信陵君が五カ国連合軍(合従軍)を使って秦を破った為に、秦の支配力が低下した事で起きた反乱なのかも知れません。

尚、晋陽という土地は守りやすい地域なのか、春秋時代末期にの趙襄子が智伯の大軍を破った因縁の地でもあります。

この戦いにより晋は趙・魏・韓の三国に分割されていますが、この戦いを境に戦国時代の始まりとする史家も多いです。

そういった三晋と因縁の深い土地も秦の領土になっている事を考えれば、秦以外の諸侯の弱体化した様子は明らかと言えるでしょう。

晋陽あたりの土地は、秦に対する反発が大きかったのかも知れません。

蒙驁は、こうした反乱も平定しているわけです。

韓の13城を落とす

紀元前244年に蒙驁はを攻めて13城を落とした記述が史記にあります。

韓は蒙驁に、成皋も落とされているわけですから、既に国として呼吸が苦しい状態になっていたはずです。

さらに、蒙驁は13城を落としているわけですから、韓は国として維持するのが大変な状態になっていた事でしょう。

韓には韓非子がいましたが、韓王には用いられていませんので、秦に対する打開策を打てる人物もいなかったのではないかと思われます。

鄭国が治水工事を理由に、秦の財力を使うなどの政策がやっとだったようにも考えられます。

尚、韓を滅亡させたと言うと秦の内史であった騰(とう)の功績が大きいように感じている人が多いかも知れません。

しかし、実際には韓を壊滅寸前まで追い詰めたのは、蒙驁だとも言えなくはないでしょう。

蒙驁は、韓の滅亡にも大きな貢献をしています。

この時には、秦王は昭王、孝文王、荘襄王、秦王政(嬴政)と代替わりしていますが、左遷されたり粛清される事もなく、蒙驁は秦の為に戦い続けた事が分るはずです。

魏の東部を奪う

秦は秦王政(始皇帝)の時代になりますが、蒙驁は引き続き将軍を続けています。

は天下統一を目指しているわけですが、信陵君が邪魔な存在でした。

そこで、魏の安釐王と信陵君の離間策を図るわけです。

この策が的中して、安釐王は信陵君を疑い上将軍を解任しています。

さらに、信陵君は酒と女に入り浸りアル中で亡くなってしまいました。

信陵君が死んだ事を知ると、秦は蒙驁に命じてを攻撃させています。

この戦いで蒙驁は、魏の酸棗を始めとする東部の20城を抜いているわけです。

魏は秦の東にある国ですから、その東部を奪った事で壊滅的な打撃を食らっています。

魏も滅亡が見えて来た状態になったと言えます。

もはや魏も単独では、秦に抵抗する事は出来ない状態になった事でしょう。

さらに、魏の東部を奪った事で秦とが国境を通じる事になったとする記述もあり、中華の半分は秦の支配地域になったとも言えます。

秦は、この勝利で東郡を設置しているわけです。

尚、キングダムですと、この時に魏軍を率いたのは廉頗という事になっていますが、これは史実ではありません。

史実の記録によれば、廉頗は魏に移ったが、魏王は信用せずに将軍にはしなかったようです。

蒙驁の最後

蒙驁は、紀元前240年に死亡したとされています。

前年である紀元前241年は、春申君が合従軍を形成して、秦の函谷関に押し寄せた戦いでもあります。

春申君に連動してか、龐煖(ほうけん)が秦を攻めて蕞の戦いも起きているわけです。

もしかしてですが、函谷関の戦いで蒙驁が指揮を執った可能性もあるかと思います。

ただし、翌年に亡くなっているわけで、既に引退して病気か何かで床に臥せていた可能性もあるはずです。

合従軍に攻められたと言う事で、信陵君との戦いがトラウマになっていて、体調を崩して、そのままポックリ逝ってしまった可能性もありますが・・・。

しかし、函谷関での戦いを勝利した事を目にして蒙驁はこの世を去ったのではないかと考えています。

蒙驁の頭の中では、肉眼では見る事が出来なかったが、秦が天下統一する場面が見えていたのかも知れません。

尚、余談になりますが、蒙驁が死んだ紀元前240年は、でハレー彗星が観測されています。

世界最古のハレー彗星とも言われていて、それが蒙驁が死亡した年に確認されているのです。

彗星が現れるのは何かの吉兆であると言われたり、不吉な事が起こるとも言われています。

しかし、偉大な人物が亡くなる時に、流れ星は流れるとも言われているわけです。

当時の人は、蒙驁が亡くなったのはハレー彗星が原因だとか、蒙驁の死を天が悲しんでいるとか、言った人もいるかも知れません。

尚、三国志諸葛亮孔明も死ぬときに、彗星が流れたと言われています。

これは縁起が悪い凶星とされていますが、英雄の死と流れ星は関係が深いようです。

蒙驁は名将とは言えないかも知れませんが、凡将とも言えないのではないでしょうか?

李牧王翦白起、廉頗などよりは格下感がありますが、桓騎などと比べると実績は上のような気がするわけです。

さらに、子孫が蒙武・蒙恬・蒙毅ですから、後継者の教育も上手く行っていたように思います。

蒙家は2世皇帝胡亥の時代に、趙高により滅亡に追い込まれていて、それが残念に感じるところです。

史実の蒙驁は、決して人がいいだけの爺さんではなかったのではないかと考えています。

ちなみに、蒙驁の将軍として活躍した記録は10年ほどしかないわけです。

その関係もあり老将だとは限らないのではないかと思っています。

想像を膨らませれば、若かりし頃の蒙驁は、長平の戦いで白起の部下として参加していた可能性もある様に感じています。

蒙驁の兵法書は伝わってはいませんが、蒙武や蒙恬に受け継がれた可能性もあるでしょう。

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