この記事を書いた人

構成・文/宮下悠史

春秋戦国時代

猛足(もうそく)は晋の太子申生の側近

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名前猛足(もうそく)
生没年不明
晋(春秋)
コメント晋の太子申生の側近

猛足は晋の献公の子である申生に仕えた人物です。

晋の献公が驪姫を得て、奚斉を生むと、晋の献公の愛情が奚斉に移る事になります。

晋の武公の祭祀に奚斉を向かわせるなどの行為があると、猛足は申生に自らの安泰を願う様に意見した話もあります。

しかし、申生は孝に対して、一辺倒であり太子になる為の行動を行いませんでした。

最後に申生は曲沃の新城で自害した話がありますが、猛足を狐突の元に向かわせています。

これを考えると、狐突は申生の側近中の側近だった様に感じます。

今回はかなりのマイナーな人物ではありますが、猛足の解説をします。

 

申生を危ぶむ

晋の献公の時代に、驪姫が寵愛される様になると、太子申生は首都の絳から、曲沃に新城を築き移されてしまいます。

晋の献公は重耳、夷吾などの子らも、絳から外の地に派遣し守らせました。

絳には、驪姫の子の奚斉と驪姫の妹の子である卓子だけが残る事になります。

こうした情勢の中で、晋の武公の祭祀が行われる事となり、晋の献公は病気と称し、奚斉を派遣したわけです。

晋の武公の祀りには、申生も参加しておらず、猛足は晋の献公が奚斉を後継者にしたいと考えている事を悟ります。

猛足は申生も後継者なれる様に何かしらの手を打つ必要があると考えたのか、次の様に述べています。

猛足「長子である貴方(申生)が晋の武公の祭祀せず弟の奚斉が参加しておりますが、あなたも自分の身の安全を考えた方が良いのではないでしょうか。」

猛足としてみれば、申生の身に危険が及んでいる事を察知し、助言したのでしょう。

しかし、申生は晋の献公に対する孝を大事にしており、次の様に述べています。

申生「君主に仕えるには、恭の精神が必要であり、子が父親に仕えるには孝の精神を持つべきである。

父親がここに留まる様に述べているのに、ここを動くのは不孝にあたるはずだ。」

猛足は申生に何かしらの手を打つ様に促した様ではありますが、申生は孝の精神を優先させた事で何もしなかったわけです。

申生の言葉に対し、猛足がどの様に思ったのかは不明ですが、歯がゆい思いをしたのかも知れません。

 

申生の死

申生は孝を優先する余り、手を打つ事も無く、驪姫の策謀により自刃しなければ、ならない状態となります。

申生は曲沃で自刃しますが、この時に猛足を使者として、晋の大臣である狐突の元に派遣した話があります。

申生は狐突や先友と東山討伐を行った事もあり、狐突の事を信頼していたのでしょう。

猛足は狐突に会うと、太子申生は狐突に対し、次の様に述べた事を伝えます。

『あなた(狐突)の言う事を聞かなかったから、私は災難を被ってしまった。

私に罪はあるが、死ぬことは畏れない。

我が主君で父親の晋の献公は高齢であり、国家には難事が多い。

私はあなたが父親を補佐する事を願う。あなたが父を助けてくれるなら、私は死んでも悔いはないし、あなたに感謝するであろう。』

猛足の言葉からは、申生が孝子だと言う事が伝わってきます。

尚、猛足の言葉に対し狐突が何と答えたのかは記録がなく分かっていません。

猛足は晋の懐公に捕まり重耳に従っていた、狐毛と狐偃を呼び出す様に命令された話があります。

この時に、狐突は「父は子に忠義を教えるもの。」と述べて、晋の懐公に殺害されています。

狐突がこの様な性格であった為に、申生は猛足を狐突の元に派遣したのでしょう。

因みに、この後に猛足がどの様になったのかは不明であり、記録がありません。

 

猛足の評価

猛足は記録が少なく、自らの意見を出したのは申生に対し「自らの安泰を願った方がよい。」と進言した事くらいです。

猛足だけではなく、狐突や士蔿なども申生に亡命する様に意見しています。

それを考えれば、申生が太子を廃される事は猛足だけではなく、晋の大臣の多くが感じていた事なのでしょう。

猛足に関していえば、策士だったのかも知れませんが、申生が孝だけを考える人であった為に、活躍の場が少なかった可能性もある様に思います。

猛足は記録が少なく評価に関しては、非常に難しい人物だとも言えるでしょう。

 

参考文献:国語、春秋左氏伝、史記

 

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