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構成・文/宮下悠史

戦国時代(日本)

小田氏治・戦国最弱9度落城しても死なない男【常陸の不死鳥】

2021年4月20日

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小田氏治という戦国武将をご存知でしょうか?

「誰それ?」と思うかも知れませんが、常陸の不死鳥とも呼ばれている人物です。

特に頭がいいわけでもなく、戦下手でもあります。

しかし、9度落城されても大半は奪還しています。

小田氏治は、個人的には好きな武将です。

戦国の歴史ファンは「小田(おだ)」という苗字を見ると、「織田じゃないのか~」とガッカリする人も多い事でしょう。

しかし、小田氏治をよく知ってもらい「小田」は熱いよな~。に変えて頂いたら幸いに思います。

そういう願いを込めて記事にしました。

 

小田政治の子として生まれる

小田氏治の父親である小田政治は、堀越公方である足利政知の子とも、小田成治の三男とも言われています。

出自が明確ではないのですが、小田家の家督を継いだ事は間違いありません。

堀越公方というのは、室町時代初期の足利尊氏の子である足利基氏が任命された、鎌倉公方を引き継ぎ東日本を統治するような存在で、関東管領などもその下にいます。

つまり、この時代の堀越公方は関東及び東北を統治するべき人物でもあります。

その堀越公方と関係も深いとされていますし、小田氏は源頼朝により常陸守護に任ぜられた八田知家が祖です。

つまり、小田氏は武士の中で、名門中の名門だったわけです。

さらに、小田氏治の父親である小田政治は名君でもあり、小田氏を戦国大名化させたり、小田氏の全盛期を築き上げたとされています。

その後継者が小田氏治なわけです。

しかし、もちろん親子二代続けて名君とは・・・・。

 

初陣が川越夜戦

当時は戦国時代なので、小田氏治も武将として生まれたからには戦場に立たなければいけません。

小田氏治の初陣が川越夜戦として有名な、川越城の戦いです。

関東で勢力を拡大し続ける北条氏に対して、古河公方、山内上杉家、扇谷上杉家の3家が連合軍を結成して北条氏康の川越城を攻めた戦いです。

ちなみに、川越城を守っていたのは、名将として名高い北条綱成でした。

しかし、河越城には3000の兵士しかいません。

さらに、後に北条氏康が援軍に駆けつけますが、それも5000の兵力だと言われています。

そのため、北条軍は8000に対して連合軍は8万という大軍です。

誰の目にも連合軍の圧勝を思い浮かべた事でしょう。

小田氏治の父親である小田政治も楽に勝てると見込んで、この戦いを息子である小田氏治の初陣にしたと思われます。

もちろん、小田氏治は連合軍側として戦っていますw

城を落とすには10倍の兵力がいるとも言われていますが、連合軍は10倍以上の兵力がありながら川越城を落とす事が出来ません。

半年が経っても落とす事が出来なかったと言われています。

そうしているうちに城から降伏の使者が来るわけですが、連合軍は大軍で城を落とそうとしてか、却下しています。

さらに、北条氏康が援軍として駆けつけてきますが、これも簡単に破っているわけです。

しかし、降伏も援軍が負けたのも相手を油断させるための策略だったわけです。

連合軍の不意を衝くかのように、突如として北条氏康は夜襲を掛けます。

さらに、川越城からは北条綱成も呼応して、連合軍は大混乱となり扇谷上杉家当主である上杉朝定は討ち取られています。

関東管領の上杉憲政も敗走しているわけです。

この戦いは、関東における扇谷・山内上杉家の衰退と北条家の台頭を決定づけた戦いとなりました。

もちろん、小田氏治も命からがら、自分の居城である小田城に逃げ帰った事は言うまでもありません。

小田氏治は初陣から、圧倒的有利な状況にいながらも、見事な負けっぷりを味わってしまったわけです。

ただし、この敗戦は小田氏治のせいではありません!

しかし、ここから先の激闘?を予感させるような負けっぷりだった事は間違いありません。

 

海老ケ島の戦い(1回目の落城)

その後、父親である小田政治が死亡したため、小田氏治は小田家の家督を継ぎます。

当時の小田家は周辺勢力である結城家と抗争を繰り返しています。

結城家当主である結城政勝が北条氏康の力を借りて、小田家の支城である海老ケ島城に攻め込んできました。

この時に、小田氏治は後詰の援軍として、海老ケ島城に駆けつけています。

城の援軍に当主が駆けつけると言うのは、川越夜戦と似た光景にも思います。

ここで、小田氏治が川越夜戦の北条氏康になれればよかったのですが・・・。

小田氏治は援軍に駆けつけるわけですが、結城政勝は後詰決戦を挑み待ち構えていました。

敵が待ち構えているとは思わない、小田氏治はパニックになってしまいます。

そこで睨みあいになったとされていますが、小田氏治は何の手段を講じる事も出来ません

この時に、小田氏治の優柔不断さが兵士に伝線したのか、小田軍は混乱していたようです。

そこを敵に攻められたわけです。

地形の有利なども一切ないにも関わらず、小田氏治の軍は大混乱となり、大惨敗を喫する事になりました。

総崩れとなった小田氏治は小田城に引き上げようとして退却するのですが、敵に追い抜かれてしまい小田城まで落とされてしまうわけです。

普通は野戦で負ければ籠城戦になるのですが、小田氏治は逃げ足が遅かったせいか、本拠地まで陥落させてしまいました。

三国志の劉備の逃げ足などを見習って欲しいかなと個人的には思いました。

 

小田城を奪還(1回目)

小田氏治は、本拠地の小田城を奪われてしまったので、家臣の城である土浦城に入ります。

しかし、小田城はすぐに奪還しているわけです。

この奪還に関しては諸説があり北条氏が去った後に、寡兵となった結城軍を破った説と空城に入城した説もあります。

小田城は守りに向かない平城でした。

江戸時代になれば戦争が無くなり、平地に作られた城の方が便利です。

しかし、戦国時代であれば平地に作られた城は守りにくい欠点がありました。

この城を守り抜くのは難しいと判断して結城政勝が城を放棄して、そこに小田氏治が入ったとする説です。

小田城は何度も落城しているわけですから、防備に問題があった事は間違いないでしょう。

尚、先ほどの戦いで海老ケ島城も落城したようですが、すぐに取り返したようです。

もしかしたら、捨てた城に部下が入城しただけなのかも知れませんがw

 

佐竹義昭に敗れる(2度目、3度目の陥落)

1557年には、下妻城主である多賀谷政経が佐竹義昭の協力を得て海老ケ島城に押し寄せてきます。

今度こそ名誉挽回してやると考えたようで、小田氏治が自ら援軍として駆けつけています。

黒子という場所に陣を構えて、応戦しようと考えたわけです。

この動きを察知した佐竹義昭は、小田氏治に攻撃を掛けました。

すると、あっという間に小田軍は大混乱となり、小田氏治は敗走してしまい、その後、小田城まで攻められて、またもや呆気なく城は陥落しました。

これが小田城の2度目の陥落です・・・。

夜戦で敗れても籠城戦にならない所が、小田氏治の弱さなのでしょうw

しかし、この時も佐竹義昭が小田城を守り抜けないと判断した為か少数の兵士を残しただけで去っています。

家臣の土浦城に避難していた小田氏治は、敵が寡兵となると、再び逆襲して小田城を奪還しているわけです。

しかし、翌年になると再び佐竹義昭と多賀谷政経に攻められて小田城は陥落しました。

ここではちゃんと籠城戦を行ったにも関わらず、陥落したようです・・。

小田城は、何度も陥落しているので、防備に問題があった事は明らかでしょう。

普通であれば、これで本拠地を変えるとか、山城を作るなど考えるのかも知れませんが、小田氏治は小田城に執着を見せ、本拠地は小田城から変える事はありませんでした。

しかし、この時点で既に3度の落城しているわけです。

 

結城政勝の死で攻めるも大敗(無用の戦いと評される)

周辺国として長年のライバル国だった結城家の当主である結城政勝が死亡した情報が小田氏治に元に入ってきます。

後継者であった結城明朝も1日で亡くなったとされています。

これを大チャンスと見た小田氏治は兵を起こして結城城に攻め込んだわけです。

卑怯に思えるかも知れませんが、戦国時代であれば当然の事でしょう。

結城家の方では兵を集める事が出来ずに、結城城には寡兵しかいません。

小田氏治は圧倒的に有利に戦いを進めたとされています。

しかし、援軍として真壁氏幹がやってくると事態は一変します。

尚、真壁氏幹は「鬼真壁」とも呼ばれている猛将です。

KOEIの歴史ゲームである信長の野望でも武力系の能力値は80を超えているのが普通です。

その真壁氏幹が小田氏治に攻撃を掛けると、小田軍は大混乱に陥り敗走しています。

さらに、真壁氏幹らは追撃を決行して、小田氏治の支城である海老ケ島城と北条城が陥落しています。

尚、小田氏治の結城家を攻めた戦いの記録が「関八州古戦録」に残っていて「無用の戦」と評されています。

 

さらに攻め込むの敗戦

結城家に攻め込んで敗北したわけですが、小田氏治は諦めません。

その年のうちに「大掾貞国(だいじょうさだくに)」を攻めようと画策します。

戦いには大義名分が必要なわけです。

小田氏治は「大掾貞国は驕慢な性格で民心を失っているから攻める事にする」と宣言します。

しかし、実際のところは小田氏治と大掾貞国は仲が悪かったようで、気に入らないから攻め込んだのでしょう。

この時は、今までの反省を生かしたのか、周辺勢力にも自分の味方になるように要請しています。

つまり「大掾貞国包囲網」を作ろうとしたわけです。

しかし、小田氏治の負けっぷりが関東に鳴り響いていた為か、誰も呼応してくれる人はいなかったようですw

誰も味方してくれない状態に、焦った小田氏治は何も出来ずにいました。

すると、逆に大掾貞国に攻め込まれてしまい城を二つ失っています。

これまた「無用な事」をしてしまったわけです。

しかし、小田氏治は大掾貞国に一矢報いようと思ったのか、大掾貞国方の城である手賀沼城に攻め込んでいます。

手賀沼城を攻めて火攻めをしようとしますが、失敗に終わった記録が残っています。

この時に、留守にしてしまった領国を佐竹家や結城家が奪おうとしているという情報が入ってきます。

この時に、小田氏治に迷いが出るわけです。

城攻めをしようか、引き返そうか悩むわけですが、悩んでいるうちに敵に退路を閉じられてしまって帰還が難しくなります。

そこで、大きく迂回して領国に帰ろうとしますが、この動きを読まれて追撃に合い再び大敗北したわけです。

これにより小田氏治は大ピンチに陥るわけですが、幸運な事が起きます。

北条氏康に圧迫されて危機に陥った上杉憲正が越後の上杉謙信(長尾政虎)を頼ったわけです。

上杉謙信が関東に攻め寄せて来ると、関東の諸将は和睦する事になります。

これにより小田氏治は、奪われた城や領地を取り戻す事になります。

ここまで負け続けても死なない小田氏治は凄いと思うわけですが、まだまだこの先には苦難があるわけです。

 

上杉謙信を激怒させる

上杉謙信のお陰で領土を取り戻す事に成功した小田氏治は起請文を提出しています。

「この御恩は決して忘れない」と書いた起請文を上杉謙信に提出したわけです。

しかし、上杉謙信が越後に帰ってしまうと、北条氏康と手を結びます。

北条氏の力を背景に、周辺大名との戦いを有利に進めようとしました。

これに関しては、上杉謙信はかなり激怒したようで、小田氏治を罵った書状が残されています。

そして、上杉謙信が自ら小田氏治討伐に動いたわけです。

上杉謙信は生涯において戦いでは、一度しか敗北した事がない戦国随一の戦上手でもあります。

それに対して小田氏治は負けてばかりの最弱の戦国大名とも呼ばれています。

ここにおいて最強と最弱の戦いが始まったわけです。

普通であれば北条氏康の援軍をあてにして籠城戦をするわけですが、ここで小田氏治は怯むことなく出陣しています。

しかも、上杉軍よりも小田軍の方が兵士が少ない状態です・・・。

この時に、小田氏治は奇策を設けています。

川を背にして戦う背水の陣を敷いたわけです。

項羽劉邦が争った楚漢戦争において、韓信が趙の陳余を破った戦法です。

逃げ場のない川を背にして戦う事で、兵士は死に物狂い戦いで勝利を収めた戦法となります。

小田氏治も上杉謙信が相手であれば、ここまでしなければ勝てないと思ったのかも知れません・・・。

しかし、戦いが始まると上杉軍に押されまくり大敗しています・・・。

韓信と小田氏治では統率力も兵士からの信頼感も違っていたのでしょう・・・。

それでも、小田氏治は奮戦し小田城に撤退しています。

しかし、すぐに小田城も上杉勢に落とされてしまいました・・。

これが4度目の小田城が落城した瞬間です。

小田氏治は家臣の藤沢城に避難しています。

尚、この戦いは山王堂の戦いと呼ばれています。

しかし、上杉軍が引き上げると小田氏治はすぐに小田城を奪還しました。

よく考えてみると奪還能力は高いようにも見えます。

 

佐竹家の不意を衝いたつもりが(5度目、6度目の落城・・。)

上杉軍から城を奪還した小田氏治ですが、すぐに佐竹家から攻撃されています。

この攻撃に耐え切れずに、小田城は再び5度目の落城を経験するわけです。

城を奪還してから、すぐに攻められたわけで防備を固めたりする余裕もなかったのかも知れません。

しかし、この翌年に佐竹家の当主である佐竹義昭が亡くなっています。

この混乱を利用して、小田氏治は再び小田城を奪還しています。

ここまで来ると城を奪還する能力は、非常に上がっていると思いました。

しかし、小田城に小田氏治が戻った事を上杉謙信はよくは思っていませんでした。

そのため、新たに佐竹家の当主になった佐竹義重に小田城の攻略命令を出しています。

佐竹義重は鬼義重とも呼ばれていて、伊達政宗相手にも一歩も引かなかった名将です。

佐竹義重が小田城に攻めてくると、いとも簡単に小田城は落城しました・・。

これが6度目の落城です。

ただし、小田氏治は上杉謙信に降伏した事で、小田城に復帰が許されています。

この辺りは運がいいと思いました。

 

家臣の意見を聞かずに大敗w(7度目の落城)

武田信玄、北条氏康、今川義元の三大名は甲相駿三国同盟を結んでいました。

しかし、今川義元が織田信長に桶狭間の戦いで戦死すると微妙な感じになってきます。

今川家は今川氏真が跡を継ぎますが、武田信玄は三国同盟を破棄して今川領駿河を手に入れています。

これにより三国同盟が崩壊して、武田信玄に対抗するために、北条氏康は宿敵であった上杉謙信と手を組みます。

越相一和と呼ばれる同盟です。

しかし、これに対して小田氏治は上手く対応することが出来ずに、上杉にも北条にも着けずに孤立してしまいます。

この状況を見た名将佐竹義重は、太田資正や真壁氏幹に攻撃命令を出します。

この時も小田氏治は籠城を選ばずに出撃しています。

攻めて来た真壁氏幹の軍勢を見かけると、思ったよりも兵数が少ない事に気が付きます

しかし、兵数が少ない事に対して、家臣は小田氏治に進言したわけです。

家臣「人数が少ないのは伏兵を置いているからです。城に引き返して籠城して戦うべきです」

このように進言したとされています。

しかし、小田氏治はこの意見を却下して、全軍を前進させて真壁氏幹と決戦を挑みました。

真壁氏幹と戦いが始まりますが、もちろん予定通りに伏兵が現れて大敗していますw

そして、小田氏治は小田城に引き返すのですが、既に真壁氏幹らにより、小田城は攻撃されている最中で城に入る事が出来ません・・。

さらに、太田資正の軍勢もやってきて、小田城の手前で挟み撃ちにあってしまったわけです。

もちろん、小田城も7度目の落城を迎えたわけです。

小田氏治は、家臣の藤沢城に避難しています・・。

しかし、ここまで行くと「なぜこの人死なないんだ?」と不思議に思って来るわけです。

 

大晦日の大忘年会を狙われて(8度目の落城)

再び小田城を奪還するわけですが、今度は家臣が奪還しています。

小田氏治の奪還を何度も見ているうちに、家臣の方も要領を覚えたのかも知れません。

家臣である菅谷政貞は、小田城の奪還に動き小田氏治に味方する者を多く募っています。

これにより小田城内で内通者が増えて、内通者達と協力して城を奪還したわけです。

これには小田氏治も大感激したようで、菅谷政貞に対して感状を与えています。

そして、翌年の大晦日では、盛大な大忘年会を開いたとされています。

小田氏治の案で、家臣など身分に関係なく楽しむ大宴会だったようです。

この大宴会は朝方までやるのが恒例になっていたとされています。

この大忘年会を狙ったのが、佐竹家に属する太田資正です。

大忘年会でみんなが泥酔している時に、太田資正は奇襲をかけたわけです。

もちろん、小田氏治が対応できるはずもなく、小田城は8度目の落城を迎えてしまいます。

元旦に早々と小田城は落城したわけです。

小田氏治は、木田余城に避難しますが、続々と兵隊が集まってきます。

そして、落城から3日後の1月4日には5千を超える兵士が集まり城の奪還に動き出したわけです。

そして、1週間後の1月11日には敵の手に落ちた小田城を攻め立てて落城させています。

この電撃作戦は見事というほかないでしょう。

小田氏治という人は、頭も悪そうですし、戦もかなり下手糞です。

しかも、家臣の言う事を聞かなかったりと、良い所が無いようにも見えます。

不思議な人望があるのか、領民からは慕われていますし、配下の武士団たちの忠誠心も高いわけです。

劉備などの様な不思議な人望を備えていたようにも思います。

ただし、戦の能力や知力などは明らかに劉備よりも下だと思われます。

小田氏治は映画「のぼうの城」の主人公で、石田三成、佐竹義宣、結城晴朝らから、忍城を守り抜いた成田長親に似たようなものを感じます。

関東平野はこういう人物を輩出しやすい背景があるのかも知れません。

他にも、小田氏治は母性本能をくすぐる何かがあった可能性もあるでしょう。

人徳があったのかも知れません。

 

 

家臣が間違えて門を開けてしまい(9度目の落城)

小田城の奪還に成功した小田氏治ですが、奇妙な噂が流れてきます。

自分の家臣である、上曽氏俊と小幡入道が謀反を起こすと言うのです。

もちろん、情報操作に弱い小田氏治は激怒します。

重臣である菅谷政貞と信田重成を呼びだし、今後の対策を練ります。

信田重成は次のように語っています。

「上曽氏俊と小幡入道が謀反を起こすとは思えません。これは我々の戦力を削ごうとする策略だと思われます。まずは、使者を派遣して二人の様子を探る所から始めるべきです」

このように正論を言ったとされています。

しかし、怒りに身を任せている小田氏治は聞く耳を持たずに攻撃態勢に入ります。

小田氏治の言うには、「謀反を企んでないのなら、直ぐに降伏するはず」だと言うのです。

兵を向けられると上曽氏俊は「謀反など企んでいない」と使者を送ってきます。

しかし、この使者に対応したのが、小田氏治の子である小田守治です。

小田守治は、次のように言ったそうです

「謀反が露見した為に、その場しのぎで言っているのであろう。使者を討首にしろ!」

この親にしてこの子あり!と言った状態だったわけです。

謀反を起こす気もなった上曽氏俊と小幡入道ですが、兵を向けられたために戦わざるを得なくなります。

ちなみに、これは太田資正が仕組んだ謀略だとされています。

つまり、いとも簡単に小田氏治は引っ掛かってしまったわけです。

それも親子二人で・・・。

上曽氏俊と小幡入道は佐竹家に援軍を依頼すると、真壁氏幹と太田資正が援軍として現れています。

小田氏治にとっては、何度も辛酸を嘗めさせられている真壁氏幹とあってかなり燃えていたようです。

この小田氏治の精神が兵士に乗り移ったかの如く、小田軍は勇敢に敵に突入していきます。

しかし、前線部隊が突出しすぎてしまった為に、後方が手薄になってしまいました。

名将真壁氏幹はこのチャンスを逃さずに、火縄銃や弓矢などで後方に攻撃を掛けていきます。

これにより後方にいた小田氏治の本陣は、大混乱を期し大敗北を喫するわけです。

今までの小田氏治は逃げ足が遅く、何度も城を奪われていますが、この時の撤退スピードは速かったようです。

真壁氏幹は兵士に追撃をしないように、並走して走り城に行くように命令します。

真壁氏幹の兵士が城に近づくと、小田氏治の振りをして「小田氏治だ!門を開けよ!」というと兵士は開門してしまいました。

これにより小田城内に真壁軍の兵士が殺到して、またもや落城してしまったわけです。

門番にはもう少し機転を利く人物を配置した方がいいと個人的には思いました。

これにより小田氏治は9度目の落城を経験したわけです。

尚、小田氏治は手子生城に避難しています。

ここまで来て死なない所は尊敬に値すると思っています。

 

軍師・天羽源鉄斎の遺言に背いて野戦を挑む

この頃になると、織田信長は本能寺の変で死んでいますし、羽柴秀吉(豊臣秀吉)は明智光秀を山崎の戦いで破り、賤ケ岳の戦いでは柴田勝家を破り天下統一に向けて邁進している時代です。

豊臣秀吉は、小牧長久手の戦いで戦った徳川家康や織田信雄を懐柔していますし、四国の長曾我部元親や九州の島津義久を降伏されています。

天下統一の最後の総仕上げとして、小田原の北条征伐に動いている時代です。

その時代になっても、小田氏治は生きているわけです。

1588年に小田氏治の軍師である天羽源鉄斎が死亡しています。

小田氏治に軍師がいたと言うのも驚きですが、天羽源鉄斎のお陰で城を奪還出来たのか、それとも天羽源鉄斎の言う事を聞いたから連戦連敗だったのかは定かではありません。

天羽源鉄斎は死ぬ直前に小田氏治に遺言を残しています。

「決して平地で戦う事はしないでください。城を強固に守り援軍を待つ事で必ず勝機は見出す事が出来ます。むやみに出撃せずに固く守っている事が大事です」

このように遺言したとされています。

天羽源鉄斎の死んだ情報を、佐竹家がキャッチすると攻撃を仕掛けてきます。

家臣の大半は、天羽源鉄斎の遺言通りに城に籠って守りを固める事を主張するわけです。

しかし、小田氏治は聞こうとせずに、城の外に打って出て、野戦で決着をつけるべく出撃しました。

佐竹軍に太田資正がいた事から、戦意に燃えていたのかも知れません。

小田氏治は今までの敗戦を生かしてか、城を背後にして戦っています。

負けても、すぐに逃げ込める事も考えておいたのだと思われます。

さらに、目の前には鬼怒川が流れていて、川を渡って来た佐竹軍を倒そうとする戦法です。

戦いが始まると、小田氏治は戦いを優位に進めて鬼怒川の反対側まで敵を追い散らしています。

そして、優勢のまま戦いを進めますが、伏兵が現れてしまうわけです。

いつもの様に、小田氏治の軍は大混乱に陥り大敗を喫してしまいました。

しかし、城は何とか持ちこたえて落城を免れています。

城にちゃんと逃げ込んだり、持ちこたえる辺りは小田氏治の成長を感じずにはいられません。

 

小田城奪還作戦ファイナル

1590年になると、豊臣秀吉が大軍を率いて小田原征伐に動きました。

20万を超える大軍を率いて北条氏政・氏直親子が守る小田原城に軍を派遣したわけです。

この時に、小田氏治は、気にする素振りも見えずに小田城奪還に燃えています。

当時の小田城は佐竹家が支配下として治めていて、梶原資晴・資武の兄弟が守っていました。

しかし、小田城奪還に燃える小田氏治は勇敢に小田城を攻めたわけです。

優勢に戦いを進めますが、小田城の援軍として最大のライバル?である太田資正が援軍としてやってきます。

太田資正は老齢にも関わらず、自ら兵を率いてやってきました。

長年戦ってきた、小田氏治と太田資正の最後の戦いの舞台が訪れたわけです。

二人の中には、今までの様々な思いが蘇ったのかも知れません。

しかし、戦いが始まるとやはり太田資正が優勢となり・・・結局は小田氏治は撤退しなければならなくなるわけです。

小田氏治は、豊臣秀頼の小田原征伐には最後まで参戦しなかったようです。

豊臣秀吉に素早く臣従した佐竹家を攻めた事も問題になってしまいます。

そのため戦後に、豊臣秀吉に睨まれてしまい領土は没収されてしまいました。

ここにおいて、鎌倉時代から続いた名門である小田家は滅亡する事になります。

しかし、小田氏治はしぶとく生き残り、徳川家康の次男である結城秀康の側室に娘が嫁ぐことになりました。

これにより小田氏治は、結城秀康の家臣となっています。

関ケ原の戦いの時に、上杉家の抑えとして結城秀康は活躍します。(何もしなかったような気もするが・・・)

そのお陰で越前に加増転封する事になり、小田氏治も越前について行っています。

そして、1年後の1601年に越前で亡くなっています。

大名では無くなってしまいましたが、ここまで負け続けて最後まで戦で死なないのは凄いと思いました。

常陸の不死鳥の名に相応しい人生だったと感じています。

 

常陸の不死鳥(負け続けても死なない理由など)

小田氏治ですが、本拠地である小田城は9度も落城させていますが、天寿を全うしています。

最後は、畳の上で死んだようです。

野戦も合わさればかなり負けていますし、連戦連敗で戦国最弱の男とも呼ばれているわけです。

それでも、死なないのはやはり理由があります。

小田氏治は能力は低いかも知れませんが、人から愛される不思議な能力を兼ね備えているわけです。

家臣の菅谷政貞は小田城を奪還して主君に返しているわけです。

これは忠誠心が高いと言わざるを得ないでしょう。

家臣が勝手に小田城奪還を企画して実行してくれたわけです。

他にも、小田氏治は領民にも愛されていたとされています。

小田氏治が領主になると、現れて年貢を払うが小田氏治が去ると、隠れてしまい年貢を払わない農民もかなりいたようです。

人から愛されると言うのは、特殊能力と言えるでしょう。

逆に言えば、戦も上手かったけど、性格的な問題を抱えていた竜造寺隆信辺りは、部下に戦場に置き去りにされているわけです。

それを考えれば、無駄に突撃しても、最後まで小田氏治を見放さなかった家臣団は忠義に篤いと言えるでしょう。

しかし、ここまで負けながらも心が折れない小田氏治は鋼のメンタルを持った鉄人だと思いました。

凄い戦国大名がいたものだなと感じました。

小田氏治は、個人的にもお気に入りの武将です。

尚、ポンコツ武将列伝の書籍では最初の一人目が小田氏治となっています。

 

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