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構成・文/宮下悠史

その他 三国志

王楷(おうかい)は使者となり最大限の譲歩を引き出す

2021年10月30日

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名前王楷(おうかい)
生没年不明
勢力曹操→呂布
コメント袁術への使者となり譲歩を引き出したのは評価できる。
年表198年 袁術への使者となる

王楷(おうかい)は兗州で曹操に対し反旗を翻し、呂布に従った人物です。

西暦198年に呂布が曹操に下邳城を包囲されると、許汜と共に袁術の元に行き救援要請を行っています。

正史三国志を見ると袁術は最初は呂布を見捨てようとしますが、王楷らの言葉により袁術は軍兵に戦争の準備をさせています。

袁術は呂布に対し救援の構えしか見せませんでしたが、袁術も困窮していたはずであり、最大限の譲歩を引き出したとも言えそうです。

今回は正史三国志にも登場する王楷を解説します。

尚、王楷は三国志演義にも登場していますが、内容は正史三国志とほぼ同じだと言えます。

それ故に、今回は三国志演義の記述は記載しておりません。

 

呂布を迎え入れる

王楷は何年頃なのかは不明ですが、曹操に仕えて従事中郎となります。

曹操は興平元年(西暦194年)に、陶謙がいる徐州に侵攻しました。

曹操にとって陶謙は父親である曹嵩の仇でもあり、徐州で大虐殺なども行っています。

この時に、正史三国志には次の記述があります。

「張邈の弟である張超は太祖(曹操)の将軍である陳宮、従事中郎の許汜、王楷らと結託し、太祖に謀反を起こした。」

上記の記述から王楷も、張超、陳宮や許汜らと共に、曹操に対して反旗を翻した事が分かります。

この時に陳宮や張超、王楷らに対し呼応する者は多く、兗州の大半が曹操に対して謀反を表明したわけです。

曹操側として残ったのは夏侯惇、荀彧、程昱など僅かな者達で、曹操の親友である張邈ですら、曹操に反旗を翻す事になります。

陳宮、張邈、許汜、王楷らは呂布を兗州の主として迎え入れています。

王楷らは最初は優勢でしたが、蝗で戦いが中断されるなどもあり、最終的に曹操に破れています。

呂布は劉備を頼る事になりますが、後の事を考えれば王楷も、呂布と行動を共にし徐州に移動した事は間違いないのでしょう。

 

袁術への使者となる

正史三国志に、次に王楷が登場するのは、西暦198年に呂布が下邳で曹操に包囲され危機に陥った時です。

呂布は寿春にいる袁術に救援要請を行い、袁術への使者を許汜と王楷としました。

許汜と王楷は曹操の包囲を潜り抜けて袁術の元まで辿り着き、援軍要請をしますが、袁術は次の様に答えています。

袁術「呂布は娘を儂に寄越すと言いながら与えなかった。曹操に敗れても当然の事だ。

どうして、儂に援軍要請をするのであろう。」

袁術は王楷らの援軍要請に対し、断りを入れたわけです。

この時の袁術は孫策とは手切れとなり、曹操に敗れるなど苦しい立場にあり、援軍を渋った所もあるのでしょう。

しかし、王楷や許汜も引き下がらず、次の様に述べています。

「明上(袁術)におかれましては、今の状態で呂布を助けようともしませんが、呂布が滅びれば、次は明上が滅びる番となるでしょう。」

王楷と許汜は、袁術と呂布の関係が「唇亡びて歯寒し」の関係だと言ったわけです。

実際に王楷と許汜が述べた事は明らかであり、呂布が滅びれば袁術が滅びると言ったのは的確な表現でもあります。

尚、王楷らが袁術の事を「明上」と呼んだのは、この時に袁術が皇帝を僭称していたからだともされています。

袁術は王楷や許汜の言葉を受け入れ、呂布に対して救援の構えを見せる事になります。

しかし、呂布は結局は敗れてしまい呂布、陳宮、高順らは処刑され、呂布配下の張遼、臧覇らが曹操陣営に加わる事になりました。

 

王楷の最後

許汜は劉表の元に逃亡しますが、王楷に関しては、ここで記録が途切れており、王楷の最後がどの様なものだったのかは不明です。

王楷は袁術の使者となった為に、助かった可能性も高い様に思いますが、呂布の元に戻り最後を迎えたのかも知れません。

もしくは、袁術と行動を共にし、最後を迎えた可能性もある様に思います。

どちらにしろ、王楷の記録は袁術の使者となって以降が不明であり、想像するしかない状態です。

 

王楷の評価

王楷は許汜と共に、袁術への使者となりました。

この時の袁術が救援する構えしか見せなかったのは、先に述べた様に、袁術軍が弱体化し過ぎてしまって、呂布を救援する余裕が無かったのでしょう。

袁術自身も呂布が滅びた翌年である199年には、袁紹を頼りますが、その道中で亡くなっています。

許汜や王楷の外交の使者は、呂布に対する救援とまではいきませんでしたが、現時点で袁術が出来る事を引き出したとも言えそうです。

それを考えると、王楷の外交も成功したと言えるでしょう。

王楷に関する記録は少ないですが、実在した人物である事は間違いない様に思います。

王楷の記録は途切れていますが、同じく袁術への使者となった許汜は、荊州では劉表の前で陳登の事で、劉備と議論となり罵倒された話もあります。

それを考えれば、王楷もここで記録が途切れたのは、生き恥をさらさなくてよかったのかも知れません。

参考文献:ちくま学芸文庫 正史三国志2巻 魏書 呂布伝

 

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王楷と許汜は似た様な能力値となっていますが、許汜が劉備に無能扱いされたのに対し、王楷は無能扱いされた記録がありません。

それらを考慮し、王楷に比べると魅力を若干高めに設定してある様に思います。

それでも、王楷は活躍が少ないわけであり、能力値などの評価はしにくい部分もあるのでしょう。

 

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