秦末期・楚漢戦争

王離『3代続けて名将とはならず』

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王離は秦末期の武将で、楚の項燕や昌平君を破った王翦の孫であり、王離の父親は王賁だと史記に記述があります。

王離の父である王翦(おうせん)、王賁(おうほん)は、秦の統一に大きく貢献をしました。

ただし、王翦や王賁は斉王建が降伏し、秦が天下統一した後に歴史から姿を消しています。

王翦や王賁が生きていたら、秦末期の反乱を鎮圧したと考える人もいます。

秦の始皇帝が亡くなり、秦の二世皇帝胡亥の時代には王翦、王賁は既になく王家も王離の時代になっていました。

王離は、史記や物語などでは、章邯の副将として登場しますが、章邯は囚人たちの寄せ集めの軍勢を率いて戦ったのであり、秦の正規軍を率いたのは王離だったはずです。

結論を言えば、王離は鉅鹿の戦いで趙歇や張耳が立て籠もる鉅鹿を落とせずに、項羽に大敗し秦が滅亡する原因を作っています。

 

蒙恬の後任となる

キングダムでも登場している蒙恬は統一後は秦軍を率いて、北方の脅威である匈奴を30万の軍勢で討伐しています。

蒙恬は万里の長城を建設するなど活躍しますが、二世皇帝胡亥の時代に、趙高により処刑されています。趙高が始皇帝の時代に罪を犯した時に、蒙毅が趙高を庇う事をしなかったのが原因です。

趙高は蒙家を恨み胡亥の時代に実権を握ると、理由を付けて蒙恬と蒙毅を処刑しました。

蒙恬が率いていた30万の軍勢を、蒙恬に代わり指揮したのが王離です。

秦軍30万の精鋭部隊を率いて、秦末期に復興した趙を攻める事になります。

 

鉅鹿の戦い

王離が項羽と戦った鉅鹿の戦いを解説します。

章邯に補給を命じる

史記や創作物だと秦軍を率いたのは、章邯となっていますが、実際には秦の正規軍を率いたのは王離だと言えます。

囚人兵で構成された章邯の軍には、自分の軍勢の補給を命じたのが実際のところでしょう。

章邯は陳勝呉広の乱を鎮圧したり、項梁(項羽の叔父)を破ったりしていますが、秦の名門であり王翦、王賁を輩出した王家の当主である王離が秦軍を指揮したと考えるのが妥当です。

作家の宮城谷昌光さんも鉅鹿の戦いで秦軍の総大将は、章邯ではなく王離だったはずだと述べています。

 

王離の敗北を予言

鉅鹿の城を王離が秦の正規軍を率いて包囲すると、ある人が「王離は秦の名将だから、趙はすぐに滅亡する」と言った話があります

しかし、別の人は「そうはならない、3代続けて将軍になると、必ず敗れる。なぜ敗れるかというと、殺した人数がきっと多い。その祟りが来る」と述べた話が史記の白起王離列伝にあります。

実際に、王離は項羽が救援に来た時に敗れて虜にされてしまい、その後の消息は不明になりますが、王離が敗れる予言は当たる事になります。

 

城を落とせない王離

鉅鹿の戦いは、王離は圧倒的な戦力を保持しながらも、趙の鉅鹿の城を落とすことが出来ません。

趙の中枢のである陳余が諸侯を回り援軍の要請をしました。

秦に反旗を翻した諸侯の援軍は来たのですが、秦軍が大軍でしかも正規軍と言う事もあって戦闘に参加せずに、状況を見守る事しか出来ませんでした。

鉅鹿に立て籠る張耳は、配下の張黶と陳澤に陳余に秦軍の攻撃をする様に使者を出します。

陳余は秦軍の勢いが強く攻撃に反対しますが、張黶と陳澤が熱心だった事もあり、5千の兵を張黶と陳澤に与えて秦を攻撃させています。

しかし、張黶と陳澤は簡単に王離率いる秦軍に敗れています。これを見ると秦の正規軍を率いる王離の采配もよいと感じますが、実際には滅亡寸前の趙の鉅鹿の城を落とすのに手こずっていた様です。

 

趙は内部分裂していた

趙の方は鉅鹿が落ちれば滅亡とあり一致団結して必死に戦ったんだ。と思うかも知れません。しかし、実際の趙の内部では、宰相の張耳と将軍の陳余が既に反目しあっていて、とても一致団結しているような状態には思えません。

廉頗や藺相如と同じ様に、刎頸の交わりを結んだ張耳と陳余は、既に反目しあっていたのです。

結局、楚軍を率いた項羽が趙を救うのですが、その後に、張耳と陳余は大喧嘩をし絶縁しています。

この事からも分かるように、趙の方でも内部分裂を起こしていました。

最初に楚軍を率いたのは宋儀ですが、趙の救援に行きながら、46日間も助けに行かずに、同じ場所に滞在した記録もあります。

結局、宋儀は項羽に斬られてしまうわけですが、46日間の同じ場所での滞在により、楚軍が到着するのもかなり遅かったことが分かります。

鉅鹿の城を落とすのに最高の状態が整っていたのではないかと感じています。

 

項羽に敗れる

王離は鉅鹿の城を落とせずに、救援に来た項羽の3万の軍勢に30万の軍勢が敗れるという事態に陥っています。

これを見る限りとても名将とは言えないでしょう。

その当時の秦の宮廷では趙高が牛耳っていて腐敗しまくっている事もあり、次々と粛清されている事を知り、やる気がなかったとか、どうすればいいのか分からない状態になっていた可能性もあります。

それか、秦の公子が王離のところまで逃げて来て、秦の公子を立てて30万の軍勢で秦の首都である咸陽を陥落させる狙いがあった可能性はあります。

しかし、王離には名将というイメージはありません。

王離の名誉のために行っておけば、鉅鹿の城に対して王離の猛攻は凄かったという話もあります。

陥落寸前だったという話もあるのです。それでも、やはり城を落としていませんし、秦の正規軍を大敗させた責任があるので、名将とは言えないと思いました。

実際に、ここで王離が勝っていれば歴史は大きく変わったでしょう。

尚、王離が鉅鹿で戦った相手が史上最強の猛将とも呼ばれる項羽だった事もあり、相手が悪すぎたと同情的な意見もあります。

鉅鹿の戦い後に王離がどの様になったのかは分かりません。

王離を破った項羽は、章邯を殷墟で降伏させ秦の本拠地である咸陽に向かいます。

秦の首都である咸陽は劉邦が既に、秦王の子嬰を降伏させていましたが、項羽は函谷関を破り劉邦を降伏させ子嬰を斬り秦を滅ぼしています。

因みに、王離の祖父である王翦は項燕を破り楚を滅ぼしていますが、項燕の孫の項羽は王離を破り秦を滅ぼしています。

孫の代で結果が逆になるのは因果を感じます。

 

王離は世渡りは上手かった??

王離は先にも述べた様に、圧倒的に有利な状況にありながら、鉅鹿の城を落とせないなど名将と呼ぶことは出来ません。

しかし、世渡りの方は上手かった可能性があります。

始皇帝が亡くなると胡亥と趙高により粛清の嵐が吹き荒れています。

先にも述べた様に、始皇帝の寵臣であった蒙恬、蒙毅は処刑されていますし、宰相の李斯、元の太子であった扶蘇や多くの公子が殺されています。

王離も名門王家の人物であり粛清の対象になってもいい様な気もするのですが、王離は粛清される事もなく生き延びています。

それを考えると、王離は世渡りは上手く趙高や胡亥とも上手くやっていたのかも知れません。

それか、胡亥や趙高は多くの功臣を粛清した事実はありますが、言われている程は悪くはない可能性もあるでしょう。

尚、王離という名前は「王から離れる」とも読めるわけであり、秦から離れる事を王翦、王賁が望み名前を付けたのではないか?と考える人もいます。

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