春秋戦国時代

王翦は、史実とキングダムで別人のように違う??

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王翦の史実を解説します。

司馬遷が書いた史記では、白起王翦列伝で描かれていて保身術の上手さを見せてくれます。

キングダムでは仮面を付け怖そうな雰囲気が漂っていますが、史実の王翦は親しみやすい感じにも見受けられます。

史実の王翦とキングダムの王翦では別人なのか?と思うくらいの差があると感じました。

史記の記録では、王翦は鄴攻め桓騎楊端和と共に出陣し、鄴を陥落させています。

紀元前228年には、王翦、羌瘣、楊端和の三将で、李牧がいなくなった趙を攻撃し首都の邯鄲を落としています。

しかし、王翦の最大の見せ場は、楚の項燕を破り楚を平定した事でしょう。

春秋戦国時代は、白起、楽毅廉頗信陵君、呉起、田単、趙奢など数多くいますが、王翦は春秋戦国時代のラストを飾るに相応しい様な名将と言えるでしょう。

尚、王翦の子に王賁(おうほん)孫に王離がいます。

 

鄴攻め

紀元前236年に王翦は楊端和、桓騎と共に、鄴を攻めています。

秦の鄴攻めで、王翦は鄴の守備が固いと判断すると、9つの城を落とした話があります。

鄴攻めで9つの城を落とした記述は、史記でも複数の場所で記述でされている為、実際にあった事なのでしょう。

ただし、史記だと王翦が何の為に9城を落としたのか?に対する記述がありません。

真実は不明ですが、キングダム作者である原泰久さんの考えた、兵糧攻めを行う為の布石の可能性も十分にあります。

さらに、王翦は兵士を五分の一とし精鋭部隊だけで閼与も抜く事にも成功しました。

紀元前269年の閼与の戦いは、秦の胡傷が趙の趙奢に敗れた因縁の地でもあります。

王翦、桓騎、楊端和の三将は無事に鄴を陥落させる事に成功し、趙は国土が全盛期の4分の1になってしまった話もあります。

韓非子には燕を攻めていた龐煖(ほうけん)が、急いで鄴に向かったが既に鄴が陥落し間に合わなかった話があります。

龐煖が鄴の救援に間に合わなかった韓非子の記述が、史書における龐煖の最後の記述です。

王翦が鄴を陥落させた年に、趙の悼襄王が崩御しています。

尚、鄴の戦いが終わってから、趙との最終決戦まで王翦は登場しません。

代わりに秦軍を率いて戦うのが、桓騎であり鄴攻めでは、王翦よりも桓騎の方が功績は大きかった可能性もあります。

桓騎は平陽の戦いで趙の扈輒(こちょう)を破り10万人を斬る大戦果を挙げますが、李牧に敗れ燕に逃げた話があります。

 

趙を滅ぼす

先にも述べた様に、紀元前238年に王翦、羌瘣、楊端和は趙の首都である邯鄲を攻撃しています。

趙は李牧と司馬尚を将軍にして、秦軍と対峙しますが、王翦であっても李牧が相手では簡単に勝つ事は出来ません。

邯鄲の戦いは膠着状態になりますが、秦の首脳部が趙の佞臣郭開に賄賂を贈りました。

郭開は趙の幽穆王に李牧に叛意があると讒言したわけです。

趙の幽穆王は郭開の言葉を信じ李牧を殺害し、司馬尚の位を剥奪します。

趙は趙葱と顔聚を将軍に任命しますが、王翦の攻撃に持ちこたえる事が出来ずに邯鄲は陥落します。

趙の幽穆王は平陽に逃げますが、王翦や羌瘣らにより捕えらえる事になりました。

趙の幽穆王の兄である趙嘉が代で代王嘉として即位しますが、邯鄲の落城を以って趙の滅亡と考える人も多いです。

尚、代も6年後に王賁や李信に攻められて滅亡しています。

趙の幽穆王が郭開の言葉を信じたお陰で、王翦は趙を滅ぼす事が出来たとも言えるでしょう。

余談ですが、戦国策で趙の幽穆王と司空馬の話がありますが、その中で李牧の最後の話があり、戦国策の方では李牧を讒言したのは韓倉となっています。

 

 

楚を滅ぼす

王翦の最大の見せ場は、楚を滅ぼした戦いと言えるでしょう。

王翦の引退

秦王政は、韓、魏、趙を滅ぼし、燕を壊滅状態にすると楚を攻める決意をします。

秦王政は、王翦と李信に楚を攻め滅ぼすのに、どれ位の兵士が必要なのか?と尋ねます。

李信は20万で十分だと言いました。この時の李信は燕を攻撃し、太子丹を討つなど大功を挙げ勢いがある将軍でした。

王翦は、楚を滅ぼすには60万の兵力が必要だと言います。

秦王政は、王翦は老いぼれたと思い、李信と蒙恬に20万の兵を与えて楚を攻撃させる事にします。

王翦は自分の考えが用いられ来事を悟ると、故郷である頻陽に引退を願い出て了承される事になったわけです。

李信と蒙恬は、初戦では楚軍を破りますが、楚の項燕将軍に急襲され敗北を喫します。

楚軍が秦の首都咸陽に向かって進撃する話もあり、秦王政は焦りを覚えます。

 

王翦と秦王政

秦王政は、今の状況だと老獪な将軍を起用するべきだと判断し、頻陽に出向き王翦の将軍復帰を懇願しました。

王翦は60万の兵を用意する事を条件に、将軍復帰を果たす事になります。

王翦率いる秦軍の副将には蒙武がなっています。

蒙武は蒙恬や蒙毅の父親であり、それなりに年を取っていた可能性もあり、老いぼれ扱いされた意地で蒙武を指名したのかも知れません。

王翦は秦王政に再三に渡り「美田が欲しい」と伝えた話があります。

楚への移動中であっても、秦王政に使者を派遣し、良質な土地が欲しいと懇願した話まで残っています。

秦王政は王翦に「将軍に貧乏はさせぬ。心配はいらぬ。」と使者に伝えました。

王翦の部下が「王翦将軍の秦王政への態度は度が過ぎる」と忠告しています。

王翦は秦王政は疑い深い性格で、謀反を疑われる可能性があるから、土地目的で行っている事にしているのだ。と部下を納得させたわけです。

王翦のこの様な態度が功を奏し、王翦、王賁は秦王政から疑われる事もなく、天寿を全う出来ています。

 

項燕を撃破

楚王負芻(ふすう)は、王翦が60万の大軍で攻めて来た事を知ると、楚の全土から兵士を集めて項燕将軍に預けています。

王翦は楚の項燕と対峙すると、徹底的に守りを固め戦おうとはしませんでした。

項燕が幾ら挑発しても、王翦は守りに徹しています。

項燕は、王翦が楚と戦う気はないと判断すると、軍を東に返して撤退を始めます。

王翦は項燕が退却した所を見定めると、突如動き出し項燕の軍を攻撃しました。

項燕は戦いに敗れたわけでもないのに、追撃戦を行われてしまった事になります。

項燕の軍は壊滅し、王翦は楚の都である寿春を陥落させています。

王翦は楚王負芻を捕虜にしました。

 

項燕との戦いの考察

王翦と項燕の戦いで不思議な点は、なぜ項燕は目の前に王翦の大軍がいるのに軍を東に返したのか?という点です。

目の前に60万の軍勢がいて、塁壁に籠っていたら、かなりのプレッシャーがあったのではないでしょうか?

李信や蒙恬が楚攻めで失敗したのに対し、罰せられた感じもなく将軍を継続している点を見るに、蒙恬や李信が楚の後方を攪乱した可能性もある様に感じています。

魏を滅ぼした王賁が大梁にいた可能性もあり、王賁が李信と蒙恬を援助し、楚の後方を攪乱させたの可能性もあります。

他にも、楚の大臣が楚王負芻を見限り、王翦に内通したなどもあるのかも知れません。

過去にユーチューブの動画で視聴者様の考えをまとめた、新説楚の滅亡を作ってあります。

ゆっくり解説動画ですが、興味があればご視聴してみてください。

 

昌平君を破る

王翦は楚の首都である寿春を抜き楚王負芻を捕えましたが、項燕はまだ諦めてはいませんでした。

秦で相国だった昌平君を楚王とし、王翦に決戦を挑んでいます。

王翦や蒙武の軍は、昌平君や項燕を破り楚を平定しています。

楚は正規軍を失っているわけであり、王翦と昌平君・項燕の戦いは物量で秦軍が圧倒的に勝っていて、圧倒的戦力を武器に勝利した可能性もあります。

王翦は楚の隅々まで制圧に乗り出し、百越の部族も討伐し東の海まで王翦は行く事になります。

王翦の楚攻めは秦の首都である咸陽から東の海の果てまでであり、大遠征だった事は間違いないでしょう。

王翦が楚を滅ぼすと、王賁と李信は、燕と代を攻めて燕王喜、代王嘉と捕虜とし、翌年には王賁、李信、蒙恬が斉を攻撃し斉王建が降伏した事で、紀元前221年に秦の天下統一が達成されたわけです。

尚、王翦の最後は記録が無くて分かってはいません。

しかし、始皇帝(秦王政)が崩御し、二世皇帝胡亥が即位した時には、既に王翦と王賁が亡くなっていた事は明らかです。

王翦の場合は天寿を全う出来たと考えるべきでしょう。

 

司馬遷の評価

史記の白起王翦列伝の最後に、司馬遷の王翦の評価が述べられています。

白起王翦列伝の本文の中では、老獪な王翦のやり方を褒めている様にも見受けられます。

しかし、最後の太史公曰くの部分では、王翦は秦の宿将として始皇帝も師事した程の人物であったが、秦王を輔弼して徳を固める事は出来なかった。

始皇帝に迎合するだけで、生命を全うしたに過ぎない。

王翦の孫である王離が項羽に捕らえられる事になったのは、当然の事だと論じています。

司馬遷としては、王翦は始皇帝も師事する程の人物なのだから、始皇帝の大して諫言し人民を労わるようにと言いたかったのでしょう。

尚、司馬遷は項羽、蒙恬、白起など本文では同情的に描きながらも、最後の太史公曰くの部分では批判する事が多いです。

ただし、王翦は始皇帝は諫言しても無駄だが、始皇帝の長子である扶蘇には期待していた可能性もある様に思います。

尚、私が過去に作った王翦のユーチューブ動画は下記となっております。

 

 

 

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