春秋戦国時代

李牧の悲劇

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キングダムの読者で言えば、李牧と言うのは、ちょっとカッコイイ感じで書かれています。

まあ、「龐煖(ほうけん)」の助けもかなりありますが、軍師風のカッコイイ男として描かれています。

キングダムの読者の中には、李牧はどういう最後を迎えるんだろか。もしかして、信に斬られるのでは?とか考えてしまう方もいるかも知れません。

ここでは、史実の李牧がどの様な人物で、どういう活躍をしたのかを見ていきたいと思います。

ちなみに、私はキングダムの世界で史実の名将を3人上げろと言われたら、李牧、廉頗王翦の3人をあげると思います。

桓騎李信蒙恬、王賁などの声を期待した方もいるかも知れませんが、史実の実績だと桓騎、李信、王賁よりは李牧の方が上だと考えられます。

蒙恬に関しては、李牧と同様に匈奴を震撼させた話があるので、場合によっては名将扱いされる事になるでしょう。

尚、キングダムだと春申君と共に合従軍を率いて函谷関を攻めた記述がありますが、史実だと李牧が函谷関の戦いに関与した記述はありません。

余談ですが、楚漢戦争で名将韓信が意見を求めた李左車は李牧の子孫です。

 

北方の守備隊長

李牧は、趙の宰相として登場したりもしますが、史記だと秦王政の言葉で「宰相の李牧が秦に来て誼を結んだ」とする内容があります。始皇本紀の統一後の嬴政(始皇帝)の言葉です。

史記の廉頗藺相如列伝では、李牧は北方にある代の守備隊長として登場します。

代の守備を任されるわけですが、敵が攻めてくると、城に籠ってばかりで戦おうとしません。味方の趙兵でさえも李牧の事を臆病な人だと思っていたそうです。

趙王(趙の孝成王だと思われる)も李牧に戦えと命令しますが、李牧は守ってばかりで戦おうとはしません。

損害も大してないけど、何の手柄も立てない状態でした。趙王もついに李牧を解任して別の人を代の長官にします。

すると、新任の長官は敵が攻めてくるたびに、出撃して戦ったのですが、被害ばかりが増えてしまい、手柄を上げる事が出来ませんでした。

代の地は軍費で消耗し多くの家畜を匈奴に奪われ、農耕も牧畜も出来ない土地になっていきます。

趙王は非を悟り再び李牧を隊長に命じます。この時に、李牧は趙王に「自分のやり方に口を出さない事」を条件に隊長(長官)を引き受けたとされています。

この後、また守備重視の方針でやったとされています。尚、史記によれば李牧は幕府を開き自分の裁量で決められる権利を有していた様です。

李牧が治めた地では兵士の待遇がかなり良かったらしく、兵士が自分から戦いたいと李牧に戦いを望んだ話があります。

それを聞いて李牧は喜んだとされています。

兵士が戦いを望むようになると、李牧は原野を人で溢れさせ大規模な軍事訓練を行います。

その後、北の匈奴が少数で攻めてきた時に、わざと負けて敵を油断させています。

匈奴は李牧は弱いと判断し、大軍で攻めて来ますが、ここで李牧は応戦する事になります。

ただし、李牧は匈奴が突っ込んで来るように、匈奴に略奪させる為に家畜と民衆も用意していたのではないでしょうか。

しかし、李牧は鳥の羽を広げるような陣形を用いて、敵を破ったとされています。

つまり、鶴翼の陣を使ったと言う事なのでしょうか?

西の方ではカルタゴの名将ハンニバルが左右の騎馬隊を重視した戦法を使っているので、同じ時期に東西で名将が鶴翼の陣らしきものを使っていた可能性があります。

その後、北方に攻め込み匈奴などを大敗させ、匈奴などは10年間に渡って趙に手を出せなかったとする話があります。

 

中華の国と匈奴

李牧が名将たる由縁の一つは、匈奴を完膚なきまでに破った事でしょう。

歴代の中華王朝は、漢の劉邦が冒頓単于に敗れたり、西晋が八王の乱で混乱し北方などの異民族が大量に中華の地に押し寄せてきました。

中国では北虜南倭の言葉もあり、歴代中国王朝は北方の遊牧民に苦しめられています。秦の始皇帝が万里の長城を建設したのも匈奴への備えです。

李牧が北方の匈奴に対して、大戦果を挙げ中華を守った事は名将と言われる所以ではないでしょうか。

因みに、蒙恬も秦の統一後に30万の兵士を使い匈奴を破っています。

 

秦軍を相手に連戦連勝

李牧は北方での手柄が認められたのか秦軍と戦う事になります。北方での功績が認められ、中央に召喚されたのでしょう。

尚、廉頗が魏に亡命するなどの事件もあった関係で李牧が呼び出された可能性もあります。

しかし、ここでも李牧は大活躍します。燕の城を落としたり秦軍が攻めて来ても撃退したりと大活躍しています。桓騎を破ったりもしているのです。

紀元前236年に秦の王翦、楊端和桓齮による鄴攻めが行われ趙は多くの土地を失っています。

この時期に秦軍を相手に連戦連勝した李牧の活躍は特筆すべきものがあります。

この時代ですが、戦国七雄の楚・魏・燕・趙・韓・斉などの国がありましたが、秦軍の圧倒的な強さの前に太刀打ちが出来ない状態で、秦軍を撃退出来るのは李牧だけだったとも言えるでしょう。

 

趙の悼襄王に諫言

趙の悼襄王は、美貌で知られる遊女の悼倡后を側室に迎えようとします。

李牧は「悼倡后は過去に嫁いだ家を破滅に導いている」とし、反対します。

しかし、悼襄王は李牧の進言を聞かず、悼倡后を側室として迎えてしまうわけです。

悼倡后が子を生むと、悼襄王は太子を趙嘉から、趙遷に変えています。

趙遷が後の幽穆王であり、悼襄王が紀元前236年に亡くなると趙王に即位する事になります。

尚、紀元前228年に秦が攻めて来ると、悼倡后は郭開と共に李牧を讒言した話があります。

李牧の最後

秦軍は王翦、羌瘣、楊端和に命じて趙を攻めます。別ページでも書きましたが、王翦と言うのは李牧と並ぶ名将です。

趙の幽穆王は李牧と司馬尚に命じて、王翦らの軍勢を防がせています。

王翦羌瘣楊端和対李牧、司馬尚という戦いになるのですが、決着は意外なところで付いてしまいます。

王翦が名将と言えども、李牧には簡単には勝たせてもらえません。もちろん、秦軍は苦戦してしまうわけです。

司馬遷が著した史記によれば、秦の首脳陣は趙の佞臣である郭開という人物にお金を渡して、趙の幽穆王に李牧が反乱を起こすと吹き込ませました。

李牧の能力の高さを恐れていた趙の幽穆王は、郭開の言葉を信じ李牧を解任しようとします。

名君と呼ばれるような人であれば、さっさと郭開の首を斬ってしまったんでしょうが、そうはならずに趙の幽穆王は李牧と司馬尚を解任させようとします。

しかし、李牧の方は自分が解任されてしまったら趙軍が敗れる事は分かっていたのか、解任要求を受けませんでした。

その後、趙の幽穆王はますます李牧を疑い今度は、李牧に刺客を放ち殺してしまいました。

李牧は戦場で死んだのではなく、趙の幽穆王に疑われて死んでしまったんです。

因みに、司馬尚は解任されただけで済んだ話もあります。

李牧呆気ない死にほくそえんだのは、王翦だったのかも知れません。

趙軍は趙葱と顔聚を大将にしますが、王翦にかなうはずもなく大敗しています。そして、李牧が死んだ3か月後には趙の都である邯鄲が落城し趙の幽穆王も捕えられる事になります。

趙の場合は李牧を殺した事で滅亡が決定的になったとも言えるでしょう。

尚、戦国策では李牧の最後は史記と異なり、呂不韋の失脚と共に秦から趙にやってきた司空馬が趙の仮の宰相となり、李牧の死と趙の滅亡を予言します。

司空馬は趙の幽穆王に進言しますが、自分の言葉が用いられない事が分かると、司空馬は趙を去っています。

その後に、李牧は趙の幽穆王の前に現れますが、体が不自由で満身創痍の姿が描かれ、趙王の命により自害する事になります。

史記も戦国策も李牧は悲劇的な最後を迎える事になっています。李牧は悲劇の名将と呼べるでしょう。

尚、李牧が死に趙の邯鄲が落城すると、趙の幽穆王の兄である趙嘉が代の地で代王として即位しました。

代は李牧が善政を行った地でもあり、何とか独立を維持する事が出来たのでしょう。

ただし、代も6年後には秦の王賁や李信らに燕と共に滅びています。

 

李牧の子孫

楚漢戦争で李牧の子孫が登場します。

趙の陳余の配下で登場する李左車は李牧の子孫だとされています。

李左車は陳余に、漢の韓信の後方を討つ事を献策しますが、正面からの勝負を好む陳余には受け入れられませんでした。

陳余は韓信と正面から戦いを挑みますが、韓信の策により大敗北を喫し陳余は斬られ趙歇と李左車は捕らえられる事になります。

韓信は李左車の事を高く評価し、捕えた縄を解き意見を求めています。

李左車は李牧の子という事もあり、高く評価されていたのでしょう。

 

追記

キングダムでは李牧が蔡沢に連れられて斉王建と一緒に秦の都である咸陽に来て秦王政と会談を開いたことになっています。

その席で、李牧は秦王政に秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓の7カ国に使者を送り同盟を結ぶ事を提案しています。

李牧の言うには、国が滅びようとするときは、強い抵抗があり被害が大きくなるから、戦争をやめて中華7カ国で同盟を結ぼうと提案をしたわけです。

しかし、秦王政は自分や李牧は生きている間はいいが、いなくなってしまったら世が乱れるから同盟はしないと拒否しました。

それに対して、李牧は秦のどの将軍が来ても必ず撃退すると声を大きくして言いました。

しかし、史記や戦国策、資治通鑑、諸子百家などの書物では李牧が秦に行って、秦王政と会談をしたなどの事実は一切ありません。

この話はキングダムのオリジナルの話です。

ただし、そこで李牧が秦を討つのに、趙に引き込んで討つと言っていた言葉が印象的でした。

実際に史実だと、趙はかなりこの時点で秦に痛めつけられています。

既に、何十万人も斬られているわけです。

つまり、この当時の趙は秦に攻め込むだけの力はなかったのではないでしょうか?戦国時代の最後の方になると、戦国七雄の諸侯が秦を単独で攻撃する事は出来ない状態になっていたようです。

さらに、春申君率いる合従軍が函谷関で敗れてからは、合従軍も結成されてはいません。

そのため、李牧の言葉の裏には、秦を倒すではなく、趙を秦の侵攻から守り抜くといった要素が強いと思いました。

この後、李牧は何度か秦軍を破ることになるでしょう。

ちなみに、桓騎を李牧が破る事は確実です。

しかし、最後は・・・ですね。

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