春秋戦国時代

藺相如を徹底解説!知勇兼備で完璧な人物

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藺相如は趙の名臣です。史記の廉頗藺相如列伝に記録があり、完璧の語源になった話や廉頗との刎頸の交わりは有名です。

藺相如が秦の昭王とやりあった事が語源である「完璧」という言葉はよく使われていますし、日本では日常でよく使う言葉となっています。

尚、完璧の璧という字を「壁(かべ)」だと思っている人がいますが、漢字の下の部分が【玉】になっていなければいけません。

【土】になってしまったら、壁(かべ)という字になってしまいます。

尚、藺相如と秦の昭王の故事からは連城の壁という故事成語も誕生しています。

連城の値は和氏の璧の事であり、高価な物の例えです。

戦国七雄の争いを舞台にした漫画キングダムでも、藺相如は王騎との回想で登場しています。

今回は藺相如の完璧の話、黽池の会、長平の戦いでの最後などを徹底解説します。

尚、司馬遷が書いた史記の廉頗藺相如列伝には、趙奢が閼与の戦いで秦を破った話や李牧が匈奴を破ったり、秦の桓騎を撃破する話も掲載されています。

李牧が最後は司馬尚と共に秦軍と戦うも、郭開の讒言を受けた趙の幽穆王により処刑されるところまで、廉頗藺相如列伝には記載があると言う事です。

ただし、廉頗藺相如列伝の一番の主役は藺相如だと言えるでしょう。

今回は春秋戦国時代・趙の名臣である藺相如を解説します。

完璧の語源

藺相如が上卿になるきっかけとなった和氏の璧と完璧の話です。

和氏の璧と15の城を交換する

秦は和氏の璧が趙にある事を知ると、15の城と交換しようと言ってきました。

趙よりも秦の方が国力が上なので、了承しないと攻め込まれる可能性があります。

しかし、和氏の璧を秦に渡してしまっても、本当に15の城を割譲してくれるかは疑問がありました。

これにより趙の宮廷は揉めに揉めました。

趙としては、和氏の璧を秦に贈り15城を貰うのは悪い話ではないでしょう。

しかし、秦は虎狼の国とも呼ばれ約束を守れない国でもありました。

楚の懐王は、秦と会談をするために、武関に出かけたら捕らえられて幽閉されてしまった事件もあります。

ここで宦官の長である繆賢が推薦したのが、自分の家臣である藺相如です。

過去に、藺相如のアドバイスに従って行動したら、趙の恵文王に許された過去を話し【知勇兼備の士】として、藺相如を推薦します。

 

 

恵文王が藺相如を登用する

恵文王は藺相如と会って意見を求める事にしました。

恵文王「秦から15城と我が和氏の璧を交換したいと言ってきておる。どうすればよいか?」

藺相如「秦は強大、趙は弱いのですから、拒むわけには行かないでしょう」

恵文王「秦王は和氏の璧を与えれば15城は寄こすだろうか?」

藺相如「秦が15城と和氏の璧を交換したいと言っているのに、拒否すれば趙の非になる。趙が和氏の璧の秦に与えたのに城をよこさないのであれば、秦に非がある。秦の要求を入れて和氏の璧を秦に入れるべきです」

恵文王「使者は誰が適任だと思うか?」

藺相如「特にこれと言った方が無ければ、私が使者になりましょう。15城が趙に割譲されれば、和氏の璧は秦において参ります。秦が15城を寄こさなければ和氏の璧は趙に持ち帰ります」

このようなやり取りがあり、藺相如が趙の使者に選ばれました。

藺相如の外交官デビューが決まったわけです。ただし、最初から難題ですよね・・・。

尚、この時までは、藺相如は宦官繆賢の家来に過ぎません。

しかし、秦王への使者が宦官の家来ではまずいので、恵文王が何らかの役職を与えたのでしょう。

これにより、藺相如は恵文王直属の臣下になったはずです。

先にお話したように、秦は楚の懐王を武関で会見する約束をしておきながら、捕らえてしまい連行して死なせてしまった過去があります。

そのため、藺相如が使者になるというのは、死地に赴く事でもありました。

 

藺相如と秦の昭王の真意を見抜く

藺相如は秦に到着すると秦王と章台という場所で対面します。

そして、秦王に和氏の璧を捧げます。

秦王は受け取ると、周りの侍女や側近に和氏の璧を見せつけ始めました。

周りの人間は、和氏の璧を見て喜びの顔をしていたわけです。

さらに、秦の人間は昭王の宝物が増えたと万歳を唱えます。

これを見た藺相如は秦が和氏の璧を渡す気がない事を判断しました。

つまり、秦は15城と和氏の璧を交換する気はない事を見抜いたわけです。

 

藺相如激怒!怒髪天を抜く

藺相如は秦の昭王に、和氏の璧に傷があるから場所を教えると言います。

そして、秦王から和氏の璧を取り戻すと、怒髪天を抜く勢いで激怒しました。

藺相如「趙において秦は空言を持って和氏の璧だけ手に入れようとしている!城を得る事は出来ないと言う意見が活発だった!」

藺相如「しかし、秦のような大国が欺くはずがないと恵文王は判断し、私に和氏の璧を持たせた!」

藺相如「それなのに、大王の態度はなんだ!使者を前にして城の話しは一切出さずに、侍女や側近に見せびらかすだけの有様!」

藺相如「大王が私に城を与える気がない事を悟り和氏の璧を取り戻したまでだ!」

藺相如「大王が城を渡す気がないのであれば、和氏の璧もろとも自分の頭を打ち付けて死ぬまでだ!」

昭王「ま・・・待て。地図を持ってこい」

昭王は和氏の璧が壊れてしまっては、どうしようもないので地図を持ってこさせる事にしました。

昭王「ここから先の15城でどうか??」

しかし、藺相如は地図を持ち帰っても、昭王が城を明け渡す気がない事を悟り。

藺相如「趙王は和氏の璧を送り出す時に、5日間の斎戒なされました。大王(昭王)にも5日間の斎戒を行い九賓の礼を設けて頂きたい。それが出来れば和氏の璧を必ず献上いたす」

昭王「分かった。言われた通りにしよう」

昭王は藺相如の言葉に従い斎戒に入る事になりました。

 

昭王が斎戒に入る

秦の昭王の不思議なところなのですが、演技とは言え本当に5日間の斎戒に入った記述があるのです。

普通であれば殺してしまって、和氏の璧を奪う事も出来たはずですが、本当に5日間の斎戒を行ったようです。

キングダムでは秦の昭和王は戦神と言われていますが、人のよい所もあるのかも知れません。

しかし、藺相如は秦が城を渡す気がない事を悟り、従者に命令して間道から和氏の璧を持って趙に帰らせてしまいました。

藺相如がいなくなれば、秦は追っ手を差し向ける事は目に見えています。

そのため、藺相如は秦に留まったわけです。

 

藺相如がもてなしを受ける

昭王は5日間の斎戒が終わり9賓の礼を持って藺相如と会う事になりました。

しかし、既に従者に和氏の璧を持って趙に帰らせています。

そのため、死を覚悟して昭王と謁見したわけです。

藺相如「秦は穆公様いらい約束を守った方がおられません。私は大王(昭王)に欺かれる事を恐れて従者に命令して和氏の璧を趙に持ち帰らせました。今ごろは、趙に到着している頃でしょう」

藺相如「もう一度、大王が趙に使者を出して15城を引き渡せば、趙は和氏の璧を差し出します。」

藺相如「私は大王を欺いた罪は重い、ここは処刑してもらいたい」

それを聞いた昭王はビックリして、側近を見渡します。

側近は騙されと思い藺相如を捕らえようとします。

しかし、それを昭和王は止めました。

昭王「藺相如を殺しても、和氏の璧は手に入らない。さらに、趙と誼を断絶する事になる。それよりは藺相如を歓待して帰した方がよい」

このように述べ藺相如は秦で手厚いもてなしを受けて帰りました。

藺相如は難しい外交を見事やり遂げたわけです。

尚、秦の昭王は楚の孝烈王を逃すために、春申君が犠牲となり秦に残った事がありました。

春申君の時は、范雎の進言があたっとはいえ、藺相如の様な自分が犠牲になるような行為が出来る人物を尊重していた様にも思えます。

藺相如が上大夫になる

趙側としては、藺相如が斬られる可能性もあると考えていたわけです。

しかし、最初は従者と和氏の璧が趙に帰ってきて、さらに藺相如も帰還した事で趙の恵文王は大いに喜びます。

そして、藺相如の功を讃えて恵文王は上大夫に任命します。

秦に使者として行く前は、宦官の家来だった男が一度の外交で大臣になったわけです。

驚異的な出世です。

尚、和氏の璧に関しては、秦も城を与えませんでしたし、趙も和氏の璧を手元に置く事になりました。

 

秦の昭王が趙に報復

藺相如の話しですが、秦の昭王の懐の深さが分かるような気がします

しかし、秦は翌年から趙の領土である藺、、離石、光狼城などの4つの城を白起将軍に攻めさせて陥落させています。

そのため、昭王は、後で思い出して激怒し趙を攻めた可能性もあるかも知れません

攻めさせた地域に【藺】が入っている事が藺相如に対する怨念が籠っているようにも思えます。

秦の昭王は和氏の璧では藺相如にやられてしまいましたが、趙を屈服させる事を諦めたわけではありません。

 

黽池の会で秦を相手に一歩も引かず

黽池の会は藺相如が外交の場で活躍し、趙の威厳を守った出来事でもあります。

藺相如最大の見せ場とも言えるでしょう。

黽池の会のいきさつ

秦の昭王は趙と誼を結びたいと提案します。

そこで、黽池の会を開き会見をしたいと申し出ます。

それに対して、恵文王は難色を示します。

楚の懐王が武関で秦王と会見しようとしたら、捕らえられて幽閉され逃亡しようとしたが、捕らえられ秦に連れ戻されて悶死した事件がありました。

そういう例もありますし、諸侯の間でも秦王は恐れられているだけではなく、信用している人もいませんでした。

その秦王が会見をしようとしても、恵文王が嫌がるのは無理がありません。

しかし、藺相如が諫めます

藺相如「恵文王が行きませんと、天下に趙の弱さを示す事になってしまいます。」

といい、この言葉で恵文王は会見に臨む事にしました。

恵文王としては、渋々会見に挑む事にしたのでしょう。

恵文王が会見場所である黽池に行こうとすると、廉頗(趙の名将)が言いにくい事を言います。

廉頗「1カ月が経っても、お戻りにならない時は太子を王にする事をお許しください。趙を秦から守るためです」

恵文王としては「嫌な事を言う」と思ったかも知れませんが、聞かないわけには行きません。

「許す」とのみ答えて黽池に向かいました。

秦は虎狼の国とも呼ばれていて、何をされるか分からないため、会見に行くだけでも命がけだったことが分かります。

下手をすれば捕らえられて楚の懐王の二の舞になる可能性も十分にあったわけです。

 

黽池の会が始まる

黽池の会が始まるわけですが、会見は普通に終わったようです。

会見の後に、秦の首脳陣と趙の首脳陣の酒の席が設けられました。

宴会の席と言えども、趙王にしてみれば何をされるか分からないため、まずい酒を飲んでいた事でしょう。

酒の席で次のようなやり取りがありました。

秦王「趙王は琴を嗜んでいるとか。琴を奏でてもらいたい」

恵文王は嫌がったと思いますが、渋々琴を弾く事にしました。

秦王「御子(記録係)○月○日、秦王は趙王に琴を弾かせた。と記録するように」

これは秦王の引っ掛け問題というか、嫌らがせだったわけです。

趙の恵文王は嫌な思いをしたと思いますが、相手が大国である秦でしかも、秦の領地で会見を行っているため手が出せません。

しかし、藺相如は違っていました。

藺相如「秦王は秦の音楽を嗜んでいるようだ。缻を打って宴席を設けてもらいたい」

缻というのは、食器であって秦の庶民は飲み会などで酔っ払って叩く事が多かったようです。

もちろん、琴を弾く事よりも程度が低いとみなされる行為です。

藺相如の言っている事は、無茶苦茶なわけです。

昭王はもちろん、嫌がりますし缻を打つのを拒否します。

しかし、藺相如は凄みを聞かせて缻を叩くように昭王に要求します。

藺相如「5歩の距離ですぞ。わたしの血を大王(秦王)に注いでみせましょうか」

つまり、5歩しか距離が離れていないので、ここで昭王の首を刎ねる事も出来ると脅したわけです。

もちろん、秦の臣下は「無礼者!」と襲い掛かろうとしますが、藺相如はそれも一喝しています。

和氏の璧の時と同じように、怒髪天を突くの勢いだったのでしょう。

秦王は気が進まないものの、やらなければ殺されてしまうため、やむなく缻を叩きました。

すると、藺相如は趙の御子に命じます。

藺相如「○月○日趙王が秦王に缻を叩かせると記録するように」

藺相如は怒りを解き

藺相如「秦王さまの余興のお陰で場が盛り上がったわ」

と笑いながら自分の席に戻ったとされています。

私が思うに、場が盛り上がるどころか場は凍り付いていたでしょう。

しかし、趙の恵文王にしてみれば痛快さがあったはずです。

自分は琴を弾くだけでしたが、昭王は缻を叩いたわけですから。

 

秦の群臣ともやり合う

その後、秦の群臣が反撃に出ます

秦の家臣「秦王の長寿を祝って15城を献上してはどうか?」

藺相如「そちらこそ、趙王の長寿を祝って咸陽(秦の首都)を献上してはどうか?」

このようなやり取りが続き、秦は趙をやり込める事が最後まで出来ませんでした。

秦王は先ほどの事件があったので、恐懼してしまい何も出来なかった可能性もあります。

さらに、趙の方でも不測の事態に備えて対処していたため秦も手出しは出来ずに終了しました。

 

藺相如が上卿となる

趙王は国に帰ると藺相如を上卿に就けます。

秦王が相手であると諸侯であっても、恐れてしまい口がきけなくなる事が多いわけです。

それにも関わらず、藺相如は堂々とやり合い秦王や秦の群臣を圧倒したからです。

趙の名将廉頗よりも高い位につく事になりました。

藺相如が黽池の会と和氏の璧の外交により恵文王から絶大なる信用を勝ち取ったからです。

宦官繆賢の家来でしかなかった藺相如が、趙の最高位に昇る事になります。

しかし、廉頗からして見ると面白くありません。

数多くの野戦・城攻めで功を挙げている廉頗から見ると、藺相如は口だけで取り入っているようにも見えるからです。

そして、廉頗の藺相如に対する嫌がらせが始まります。

尚、黽池の会で結んだ趙と秦の同盟は8年ほど続きました。

藺相如が斉の平邑を攻めている時に、秦が趙に深々と攻め込み閼与の戦いで趙奢が秦軍を破るまで続いたようです。

秦みたいな同盟を結んでも、すぐに破棄してしまい領土を奪いに来るような国としては長続きした同盟といえるでしょう。

 

廉頗と藺相如の刎頸の交わり

廉頗と藺相如は刎頸の交わりを結び生涯の友となります。

廉頗はなぜ藺相如を妬むのか?

廉頗は、野戦・攻城などにおいて、数々の功績を上げています。

もちろん、戦いの場所に行くので、命がけでやっているわけです。

しかし、藺相如の場合は、外交で出世したわけですから、口先だけで出世したと思ってしまったのでしょう。

和氏の璧の話しや黽池の会での藺相如の活躍を目撃していれば、納得していたかも知れませんが、記述などをみると廉頗は国許にいたようです。

さらに、恵文王の寵臣だったのでしょう。それを藺相如に奪われてしまい悔しかったのもあるかも知れません。

宦官の家来だった藺相如に位で抜かれてしまったのが最大の汚辱に感じた可能性もあります。

 

 

廉頗が怒りを周囲にぶつける

廉頗が藺相如の事を嫌いまくり(逆恨み)悪口を言いまくりました。

廉頗「今度、会ったらあいつ(藺相如)を辱めてやる」

廉頗「あのような卑賤な者の下に就くのは俺のプライドが許さん」

この様な事は普通に言っていたようです。

藺相如は、廉頗が悪口を言いまくっている事を知っていても、言い返したりする事はしませんでした。

むしろ、廉頗と会わないように、避けていたようです。

しかも、朝廷に出仕しなければいけない時でさえ、病気だといい休んだそうなので、誰が見ても分かる避け方をしていたのでしょう。

さらに、車で外出した時に、廉頗を見つけた時は、隠れて避けた話もあります。

これを見ると、藺相如の従者たちは、穏やかではありません。

 

藺相如が廉頗から逃げる理由

藺相如の従者たちは、秦での活躍を知って家来のなった人も多かったと思われます。

ついに、家来たちは我慢の限界に達してしまい藺相如に言います。

家来たち「私たちが家を捨ててまでご主人様(藺相如)にお仕えするのは、ご主人さまのご高義をお慕いすれば、こそでございます。」

家来たち「いまご主人様は、廉頗将軍と同列の身でありながら、廉頗将軍を恐れひたすら逃げ回っておられます」

家来たち「普通であれば匹夫でも潔しとしない態度です。しかし、ご主人様は少しも恥じておられぬようです」

家来たち「我々はもう我慢の限界です。お暇を取らして頂きたい」

藺相如の家来たちは、ひたすら逃げ回っているようにしか見えなかった為に我慢の限界に達しました。

ついには、藺相如を見限って家来を辞めると言い出したわけです。

しかし、藺相如は言いました。

藺相如「廉頗将軍と秦王はどちらが手ごわいと思う?」

家来たち「秦王でございます」

藺相如「私は駄馬の如くであろうが、秦王と2度に渡って堂々とやりあった。その私が廉頗将軍を恐れようか」

藺相如「強大な秦が趙を攻めないのは、廉頗将軍と私がいるからなのだ」

藺相如「今、私の廉頗将軍が争ってしまったら、それこそ秦の思うつぼ。私が争いを避けるのは、個人の争いよりも国家を優先したいからだ」

この言葉に家来たちも納得して、今まで通りに藺相如に使える事になりました。

めでたし、めでたしとなるはずですが、この話が外に漏洩してしまったわけです。

この話が廉頗将軍の耳にも入ってしまいました。

 

廉頗の誠実さ

廉頗は藺相如の話を聞くと多いに反省します。

ここが廉頗の偉い所だと思いました。

自分の心の狭さを痛感し藺相如の事を認める事になるのです。

廉頗は、反省しただけではなく知人を通して藺相如に面会を申し上げます。

しかも、上半身は裸でいばらの鞭を背負って現れたと言います。

罪人の格好で、藺相如が現れると土下座した記述があるのです。

廉頗「ここにる卑賤も者(自分の事)は、あなた(藺相如)の深い心も知らずに、愚かな行動を取りました」

廉頗「願わくば、この鞭で心行くまで叩きください」

藺相如「何をおっしゃられますか。廉頗将軍がいるから他国は趙に手出ししないのです。ささ、早く服を着てくだされ」

そして、藺相如はすぐに部下に酒席の準備を命令させました。

廉頗の誠実さと藺相如の寛大さが分かるエピソードでもあります。

 

藺相如と刎頸の交わりを結ぶ

藺相如と廉頗は酒を飲みかわし大いに語りあったそうです。

そして、二人ともお互いのためなら、首を刎ねられても悔いはないという刎頸の交わりを結びました。

この二人の結束は固く、廉頗と藺相如が元気なうちは秦も迂闊に手が出せなかった話もあるほどです。

実際に秦は藺相如が活躍した黽池の会が終わってから8年間は趙を攻めませんでした。

秦は8年後に趙を攻めますが、漫画キングダムでいう所の三大天である趙奢が秦の胡傷を閼与の戦いで破る活躍を見せています。

尚、長平の戦いでも廉頗が更迭されそうになると、趙の孝成王に藺相如は更迭を考えなおすために重病にも関わらず宮廷に出かけて行きました。

しかし、残念ながら若くて血気盛んな孝成王は言う事は聞きませんでした。

体調がよい藺相如が出れば、孝成王も気を使う存在で、解任の話し自体がそもそも出なかった可能性もあります。

藺相如の耳に、廉頗が更迭される話が入れば、途端に激怒していた事でしょう。

廉頗と藺相如の関係は生涯に渡って続いたようです。

余談ですが、秦末期に張耳と陳余も刎頸の交わりを結んでいますが、後に大喧嘩してお互いを憎しみあいました。

張耳と陳余は鉅鹿の戦いで秦の王離章邯に城を包囲された時には、仲違いしています。

張耳と陳余の関係は修復される事もなく、陳余は井陘の戦いで陳余が韓信、張耳、曹参らに討たれています。

刎頸の交わりを結んでも、途中で破綻する事もあるのが現実なのでしょう。

日本ではロッキード事件の時に、小佐野賢治氏が国会の証人喚問で田中角栄氏との関係を問われた時に「刎頸の友」という答え方をしました。

この事で日本でも刎頚の友という言葉が知られるようになりました。

 

 

平邑攻め

史記だと藺相如が戦いに参加した記録は1回しかありません。

「趙の恵文王の28年に藺相如が斉の平邑まで行った。」と書かれています。

藺相如が斉を攻撃した事は間違いなさそうですが、平邑を抜いたのかどうかは定かではありません。

ただし、次の記述が北九門まで退き大城を建てたとあります。

北九門は河北にあったとされていますが、藺相如が北九門の城を建てる責任者になったのかも知れません。

 

藺相如の最後

藺相如の死は、記録として残っていません。

残念ながら、史実の藺相如の最後は、残っている記録がないのです。

藺相如の最後の記録は、長平の戦いの時に、趙の孝成王が廉頗を更迭して趙括を大将にした時に反対した事です。

この時の藺相如は重病だったようで、重病を押して趙の孝成王に面会を求めた説と書面を奉った説に分かれています。

しかし、重病だった事には変わりがありません。

藺相如「趙括は、父親の残した兵法書を丸暗記しているだけで、臨機応変という言葉を知りません。これでは戦いに勝つ事は出来ません」

藺相如「再考をお願い出来ませぬでしょうか」

孝成王「もう決めた事じゃ。再考しようとは思わぬ」

そして、藺相如は引き下がったのですが、これが史実での藺相如の最後の記録です。

多くの専門家も長平の戦いの最中か負けた直後辺りに藺相如は死亡したと考える人が多いです。

私も史書に登場しなくなると言う事は、長平の戦いの最中に藺相如が病死したと考えています。

 

 

 

キングダムでの藺相如の最後(おまけ)

キングダムでの藺相如は幻の三大天という扱いになっています。

「三大天・藺相如は実力が絶頂の時に突然、病に伏しそのまま絶命した」という言葉もあります。

これが長平の戦いの時を指すのかが分かりません。

それか、藺相如は死亡した月日がはっきりしないので、作者にとってみれば都合がいいのかも知れませんね。

尚、三大天というと武力に秀でているイメージがあるかも知れませんが、藺相如は史実を見ると1回しか戦った事になっていません。

紀元前271年に斉の平邑まで攻め込み引き返したという記述があるだけです。

私は、キングダムでは、長平の戦いでの藺相如を考慮せずに、斉の平邑まで攻め込んだが、藺相如が病死して引き返した事にしたのかな?とも考えました。

しかし、堯雲の「慟哭は邯鄲中の人間が聞いたという」という記述があったので、キングダムでも藺相如は趙の都である邯鄲で亡くなったようです。

 

藺相如の役割

藺相如の残っているエピソードは、和氏の璧と黽池の会で趙の恵文王を補佐した事。

長平の戦いで廉頗解任を阻止しようとした事。斉の平邑まで攻め込み引き返した事。くらいしか分かっていません。

藺相如は文官として活躍したために、大した話が残っていないのでしょう。

しかし、廉頗将軍が戦争に行っている時は、宮廷をまとめて廉頗将軍が不利にならないように計らったりしていたと思われます。

この時代に限らず、王に讒言する人がいて将軍が更迭されたり、殺されたりした事件も少なくありません。

そういうのを防止していたのも、藺相如の役目だったと思われます。

あと、秦に対して戦争をしないように、配慮していたのではないかと思われます。

黽池の会以降は、8年間ほど秦と趙は戦いをしませんでした。

次に秦と趙は閼与の戦いで、趙奢が胡傷を破ります。

しかし、前年に藺相如は斉の平邑に遠征に行っていましたので宮廷にはいなかった可能性があります。

藺相如が宮廷を開けた事で、秦との戦争になった可能性もあります。

藺相如は反秦派を抑制する効果があったようにも思えるわけです。

実際に、藺相如が元気だったうちは、秦と趙はほとんど戦争をしていません。

秦はもっぱら韓・楚・魏と戦争を行っています。

藺相如が秦と戦争になる抑止力を果たしていた可能性は高いでしょう。

藺相如の最大の功績は、趙と秦の全面戦争を抑止した事にあるもかも知れません。

尚、秦の宰相である范雎と白起は長平の戦いで趙を破っていますが、後の事を考えれば廉頗と藺相如の様な関係にはなれなかったと言えます。

藺相如は知勇兼備の完璧な人物も様にも感じました。

藺相如の動画

藺相如のゆっくり解説動画となっています。

興味があればご視聴してみてください。

 

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