春秋戦国時代

李斯は堕落した宰相なのか?

2021年5月19日

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宮下悠史

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李斯は秦の始皇帝に認められ宰相まで昇りつめた人物です。

漫画キングダムでも、「法の番人」として登場しました。

李斯に関しては、始皇帝死後に趙高の陰謀に加担し、胡亥を二世皇帝に即位させるなどの行動があり、悪いイメージを持っている人も多い様に感じます。

しかし、実際の李斯は低い身分から、の最高位である丞相まで昇った実績もあり卓越した人物でもあります。

今回は、始皇帝の参謀であり法家の代表格でもある、李斯がどの様な人物なのか解説します。

尚、史記では始皇帝の死後に趙高、胡亥、李斯の三人が結託し、胡亥を二世皇帝にしていますが、趙正書では始皇帝が自らの意思で胡亥を後継者に指名しています。

便所の鼠と倉庫の鼠

李斯はの上蔡の人であり、郡の小吏になったわけです。

李斯はある日、便所の鼠を見たわけですが、ネズミは酷く汚れており、人や犬が近づく度に恐れていました。

李斯は倉庫に入った時も鼠を見たわけですが、倉庫の鼠は高く積まれた栗(食料)を食べ、大きな屋根の下に住み、人や犬が近づいても堂々としていたわけです、

これを見た李斯は思わず、ため息をつき次の様に述べています。

「人の賢と不賢の差は、ネズミの様にいる場所の違いによるものだ」

李斯は鼠の姿を見て、能力が同じであってもいる場所により、全然違うという事を悟ったのでしょう。

さらに言えば、郡の小吏の役人をやっていても先がないと考えたはずです。

鼠の姿を見て、李斯は立身出世を思い描く様になります。

荀子の弟子になる

李斯は学問を志し、荀卿(荀子)の弟子となります。

楚の考烈王の時代に宰相となった春申君は、荀子を蘭陵の県令にした話があり、荀子はにいたのでしょう。

尚、荀子の弟子には、の公子である韓非もいたわけです。

因みに、史記の老子韓非子列伝には「李斯は才能において韓非子に及ばないと自認していた」とあります。

ただし、司馬遷の史記は物語的な要素も強く、本当に李斯が韓非子に及ばないと思っていたのかは定かではありません。

李斯は荀卿の元で帝王学を学ぶ事になります。

荀子の元で学業を学んだ李斯ですが、次の様に考えた話があります。

「楚王は仕えるに足る人物ではなく、秦以外の六国では功を立てる事が出来ない。」

この頃は戦国時代の末期であり、秦が軍事力などで他国を圧倒していた状態です。

さらに、秦は商鞅の改革により、実力重視の風潮があったのですが、他国では貴族の権限が強く、李斯を受け入れる器がないと判断したのでしょう。

李斯は荀卿に別れを告げると、秦に入る事になります。

呂不韋の舎人になる

李斯が秦に入った時は、秦の荘襄王が死去し、秦王政(嬴政)が即位した時でした。

それを考えると、李斯が秦に入ったのは紀元前247年となるのでしょう。

秦では荘襄王を即位させるのに大功があった、呂不韋が宰相として実権を握っていましたが、秦王政の代になっても引き続き呂不韋が実権を握ります。

李斯は呂不韋の舎人になりますが、呂不韋は李斯の才能を認め郎に任命した話があります。

呂不韋は戦国四君の様に三千人の食客がいて、呂氏春秋なる百科事典まで完成させています。

呂不韋の周りには、数多くの人物がいたはずであり、その中でも李斯は光るものがあったのでしょう。

呂不韋に李斯は取り立てられた事で、出世のチャンスを掴む事になります。

李斯の進言

李斯が秦王政に、次の様に進言した話が残っています。

李斯「小人はチャンスを簡単に失いますが、大功を成す者は、他人の過失に容赦なく、つけこむ者なのです。

秦の穆公が大きな力を持ちながらも、東国を併呑する事が出来なかったのは、諸侯が多数生き残っており、周王室の徳も残っていて、春秋五覇が現れ周の王室を尊重した為です。

しかし、秦の孝公以降は、併呑を繰り返し関東の諸侯は六国のみとなりました。

現在の六国は弱体化しており、秦の強大な力と大王様の賢明さがあれば、帝道を行い天下統一する事も出来るのです。

今を逃したら、諸侯は再び力を盛り返し、合従の同盟を行い秦に歯向かってきます。

そうなれば、黄帝の如き賢さがあっても、諸侯を征服する事は出来ません。」

李斯の言葉を聞いた秦王政は、長史に任命し李斯の計を用い、李斯は客卿(外国出身の大臣)となります。

秦王政は李斯の他人の過失につけこむなどの言葉が、心に刺さったのではないかと思います。

実際に、秦では離間策を多く採用し、各国を滅ぼした事実があります。

李斯の離間策は、漢の劉邦の軍師として活躍し、項羽范増を離間させた、陳平にも通じる所がある様に感じます。

逐客令

に灌漑工事の技術者として、鄭国がやってきます。

鄭国は溝渠を造れば、秦の農業生産力が大幅に上がると進言し、秦王政に認められ灌漑工事を始めたわけです。

しかし、鄭国は韓の回し者であり、秦の財政を灌漑工事に向ける事で、韓は生き残り策を考えていました。

鄭国が韓の間諜だと告げる者がおり、秦で他国人は危険だと考える風潮が起きる事になります。

秦王政も逐客令を出し、他国人を追放する事にしました。

李斯も秦を去る必要に迫られますが、ここで李斯は秦王政に上書しています。

「逐客令が出されましたが、これは間違いです。

秦の穆公様は他国からも人材を求め由余、百里奚、蹇叔、丕豹、公孫支を得ました。この五人は秦の人間ではありませんが、秦の穆公はこの5人を用いて12カ国を併呑しています。

秦の孝公様も商鞅を用いる事で、民の風俗を変え国を富ます事に成功し、楚やを破り領土は千里の地を拡げる事が出来たのです。

秦の恵文王様も他国人である張儀を用いる事で、三川の地や巴蜀を制圧し、北は上郡、南は漢中を奪い、鄢・郢を制して、成皋をも占領する事が出来ました。

張儀は合従の同盟も解体しておりますし、関東の諸侯が秦に仕える様に仕向けております。

秦の昭王様も魏冄を廃し、范睢を用い、公室の力を強め諸侯を徐々に侵略し、秦の力を強めております。

秦の穆公、孝公、恵文王、昭王の四君が、他国人の門を閉ざし受け入れなかったら、秦は強大な力を得る事も出来なかったでしょう。

秦で産出された物でなくても宝になる物は多くありますし、秦で生まれなくても忠義の心を持った者は多くいます。

今の状態で、逐客令を出すのは敵国を強め、秦の国内を空虚にさせ、諸侯には恨みを買っています。

この様な状況にしておいて、国の安泰を願っても難しいと言わざるを得ません。」

李斯の上書を読んだ秦王政は、逐客令を取りやめ李斯を再び呼び戻し、重用する事になります。

秦王政の逐客令の撤回は、秦は王侯貴族よりも、実力主義を採用すると宣言した事にもなるのでしょう。

後に秦王政は、李斯を廷尉に任命しています。

この頃は秦の丞相に昌平君昌文君がいたと思われますが、この頃から、秦王政は李斯を高位に就けたいと思う様になったのかも知れません。

李斯と韓非子

韓非子の記事でも触れましたが、逐客令が出された時に韓非子は秦の牢の中にいました。

韓非子の最後は、史記の部位によっても差異があり、李斯が韓非子を妬んで自殺させた記述もあれば、李斯が韓非子に辱めを受けさせたくない為に、毒薬を渡した話もあります。

さらに、戦国策では韓非子が姚賈を讒言した事で、処刑された事にもなっています。

韓非子の最後は、史記でも書いてある場所によって違いがあり、何が正しいのか分からない状態です。

ただし、韓非子の死は李斯と関係がありそうな事だけは、全ての部分で一致しています。

李斯と韓非子は、共に荀子の元で学んだとあり、後世の想像も入っているのかも知れません。

尚、始皇帝が韓非子の書物を読み感動を覚えると、李斯は同門の韓非の書物だと告げています。

15年で天下統一

李斯の献策を用いてから15年で秦は天下を取った話があります。

それを考えると、秦王政が本当に李斯を重用する様になったのが、紀元前236年であり、秦がを侵略した鄴攻めの辺りだと言えます。

資治通鑑によれば、秦王政は李斯の謀略を用いて、財物を持たせて各国の有力者に使者を送ります。

諸侯の仕える大臣で金を受け取る者には礼物を厚くし、受け入れない者には鋭利な剣で始末したわけです。

切り崩しにより弱体化した各国には、将軍を派遣した事で、秦は数年で天下統一が出来たとあります。

実際に、秦は切り崩し策はかなり行っており、魏の安釐王と信陵君趙の幽穆王李牧などの離間策により、秦は天下統一を速めたとも言えるでしょう。

尚、秦の賄賂を受け取ったのは、斉王建に仕える后勝や趙の幽穆王の寵臣である郭開らになるのでしょう。

ただし、史記では切り崩しを進言したのは尉繚であり、尉繚の計画を李斯が実行したかの様な記述もあります。

この辺りは場所によって、差異があり離間策は李斯の献策なのか、尉繚の策なのかは不明です。

因みに、史記には、李斯が「まず韓を取って他国を恐れさせるべきです。」とする声が掲載されています。

この言葉に従い秦王政は、内史騰に韓の攻撃命令を出し、首都の新鄭が陥落した事では滅亡しています。

李斯は、王翦李信の様に軍隊を率いた事はありませんが、法を整備するなど国内を引き締める上での活躍をする事になります。

統一後は政治の中心人物になる

李斯は秦の統一後には、政治の中心人物となります。

皇帝が誕生

秦王政は天下統一後に、丞相の王綰、御史大夫の馮劫、廷尉の李斯に「王」に変わる帝号を考える様に命令します。

李斯らは、次の様に述べています。

「今までに天下が平定された事はなく、五帝も及ばぬところです。いにしえの時代は天皇がおり、地皇がいて、泰皇が最も尊かったのです。

そこで王を泰皇とし、その命を「制」、令を「詔」とし、天子の自称を「朕」としてみては、どうでしょうか。」

これに対し始皇帝は、「制」「詔」「朕」に関しては納得しましたが、泰皇は名乗らず三皇の「皇」と五帝の「帝」で皇帝を名乗る事にしたわけです。

ここにおいて、秦で皇帝が誕生し、秦王政は始皇帝を名乗る事になります。

封建性に反対

丞相の王綰は次の様に述べ、王を置く事を勧めています。

王綰「諸侯が滅んだばかりであり、、楚などの地に王を置かなくては、安定させる事は出来ないでしょう。

陛下(始皇帝)は、諸公子を立てて各地に王を設置すべきです。」

王綰の意見に対し、多くの者が賛同しますが、李斯は次の様に述べています。

李斯「周の文王や武王は一族や功臣を各地に封建しましたが、代が進むごとに周室とは疎遠になり、互いに争う事となり、周王室も制御する事は出来ませんでした。

諸公子や功臣は国家の賦税で功績に報いれば十分であり、制御もしやすいはずです。

天下に異心を起こす者がいないのが安寧の術であり、諸侯を置くのは得策ではありません。」

李斯は封建制に反対し、中央集権化が正しいとも主張したわけです。

始皇帝も「天下が戦乱に乱れたのは、諸侯王がいたからだ」と指摘し、李斯の考えに賛同する事になります。

秦は封建制ではなく、郡県制を採用する事になります。

度量衡、文字、貨幣の統一

始皇帝は統一後に、単位を示す度量衡や文字、貨幣の統一をしています。

戦国七雄の国ごとで違っていた、単位などを全国で統一する事にしたわけです。

貨幣に関しては、秦の恵文王時代から鋳造が始まった半両銭で統一し、秦の公式書体として小篆を採用しています。

様々な違いを統一する事で、国家経営をスムーズにするのが狙いだった様ですが、これらの事業にも李斯が関わっていたとされています。

始皇帝の巡遊と銘文

始皇帝は統一後に各地を巡遊する事になります。

始皇帝の巡遊には、李斯も付き従った話があり、泰山刻石の文字は小篆で李斯が記述したとする説もあります。

正史三国志の劉劭伝に、下記の記述が存在します。

「秦の時代に李斯の篆書は巧みだと称された。各地の山に立てられている石碑と銅人に刻まれた銘文は全て李斯の書である」

どこまでが本当かは分かりませんが、泰山刻石の文章を考えたのは李斯だという可能性は十分にあるでしょう。

さらに言えば、李斯の書家としての能力は高く評価され、三国志の時代になっても李斯が刻んだ文字だと伝わっていた事が分かります。

尚、泰山は現在の山東省にあり、これが真実であれば、李斯は天下統一後にかなり東の方まで行った事になります。

焚書坑儒

始皇帝と李斯が中心となり、焚書坑儒を行っています。

天下統一後に淳于越は、「殷や周の王室が長きに渡って存続したのは、一族や功臣を封じて王室の支えとしたからである」と主張し、王族や功臣を各地に封建する様に主張しました。

淳于越は、封建主義を採用し皇室の支えを作っておかないと、晋の六卿やの田常の様な者が現れた時に、対処できないと述べたわけです。

秦の丞相である王綰だけではなく、淳于越も封建制を主張したのでしょう。

これに対して、李斯は次の様に述べています。

李斯「昔は誰も天下統一出来る者が無く、諸侯は並び立っていました。淳于越の言葉は古代を引用し現実を乱す者です。

現在、様々な学説を述べる者がおりますが、多くは国家の建てた制度を非難するものであり、宜しくはありません。

こうした主張を野放しにしておいては、秦の国家の権威が削がれ、下には党派が作られる事になるでしょう。

諸々の文学や諸子百家の書を廃棄し、従わぬ者には刑罰を与えるべきです。

もし仮に法律などを学びたい場合は、役人を師とすればよいのです。」

これが焚書坑儒の「焚書」の部分であり、思想弾圧を行ったわけです。

ただし、韓非子や孫子、呉子など様々な書物が現代にも残っており、始皇帝の焚書は徹底した思想弾圧ではなかったのではないか?と考える専門家もいます。

それでも、多くの書物が李斯の献策した焚書により、焼かれてしまったと言えるでしょう。

さらに、始皇帝は坑儒と呼ばれる儒者や方士、道士など460名を生き埋めにしてしまい、焚書と合わせて焚書坑儒と呼ばれています。

焚書坑儒は、始皇帝と李斯のやり過ぎ政策だと言われる事も少なからずあります。

李斯の全盛期

李斯は功績が認められ、臣下としての最高位である丞相となります。

長男の李由は、三川の太守となり、李斯の子の多くは秦の公主の配偶者となり、位人身を極める事になります。

三川の太守である李由が休暇を取り、咸陽に帰省すると、李斯は家で酒宴を行い、百官の長たちは皆が李斯の健康を祝福しました。

李斯の門前に数えきれないほどの馬車が並ぶのを見て、李斯は次の様に述べています。

李斯「儂は荀卿から聞いた言葉で『もの事は盛大過ぎるのを戒める必要がある」と言った。

儂は上蔡の平民に過ぎなかったが、主上(始皇帝)は、不才なる私を抜擢してくれたお陰で、今日を迎える事が出来た。

丞相になった事で、人臣の位の中で儂の上にいる者はいなくなった。富貴を極めたとも言ってよいだろう。

世の中の道理で、極限に達すれば衰えるものであり、我が身がどうなるのかは、自分自身にも分からない。」

李斯は秦の最高位に昇っただけではなく、息子たちも秦の公女を妻として迎えた事で、全盛期を迎える事になったわけです。

ここで李斯が引退していれば、無残な最期を迎えずに済んだかも知れませんが、李斯は、転げ落ちる様に落ちていく事になります。

尚、李斯が宰相になった事を知った荀子は「世の末だ」と述べ、自殺してしまった話もあります。

李斯の転落

李斯は、始皇帝の死により転落したと言ってもよいでしょう。

李斯がどの様にして、転落したのか解説します。

始皇帝の末期の状況

秦の始皇帝の末期の状況ですが、始皇帝の長子である扶蘇は、始皇帝を何度も諫言した為に、上郡にいる蒙恬の所にいました。

扶蘇は修行の意味もあるのかも知れませんが、左遷されていたわけです。

政治の中枢には、李斯、蒙毅がおり、始皇帝の信頼を得ていました。

始皇帝の末子である胡亥は、始皇帝に可愛がられている状態です。

始皇帝は健康に自信があったのか、「死」を極端に恐れたのか、晩年になっても後継者を決めていませんでした。

これが後に、李斯にも禍を招く事になります。

始皇帝の死

史記の李斯列伝によれば、始皇帝の37年に会稽に遊行し、海岸沿いに移動し琅邪に至ったとあります。

この時には、始皇帝の共として代表的なメンバーは李斯、蒙毅、胡亥、趙高などがいたわけです。

始皇帝の一行が沙丘に行くと、始皇帝は重病に掛かってしまったとあります。

この時に、始皇帝は蒙毅に命じて、山川の祈祷を行う様にと、秦の首都である咸陽に帰らせています。

しかし、始皇帝の病状は回復せず、遂に始皇帝も死を悟ったのか、書簡を作り長子である扶蘇に届けようとした話があります。

始皇帝は趙高に命じて「扶蘇に我の葬儀を主催せよ」と書かせたわけです。

始皇帝の遺書が使者に渡る前に、始皇帝は崩御してしまいます。

ここで趙高が暗躍する事になります。

李斯の転落の始り

趙高は始皇帝の書簡も御璽も持っている状態であり、長子の扶蘇ではなく末子の胡亥を擁立しようとします。

趙高は胡亥を説き伏せると、胡亥を皇帝にする為には、丞相の李斯を巻き込む必要があると考えます。

趙高の誘いに李斯は最初は、難色を示し反対します。

ここで趙高が畳みかける様に、次の言葉があったとされています。

趙高「あなた(李斯)と蒙恬を比べて、才能、功績、政治力、人望、扶蘇からの信頼で、どちらが勝っているでしょうか?」

李斯「全て蒙恬には及ばない」

趙高「秦では解任された丞相や功臣で、2代続けて封爵を得た者を見た事がありません。

扶蘇は剛毅で武勇のある方です。扶蘇が皇帝に即位すれば、蒙恬を必ずや丞相に任命する事でしょう。

そうなれば、あなたは丞相ではいられなくなります。

胡亥様は、慈しみ深く財を軽んじ士を重んずる心がある方です。

秦の公子の中でも、匹敵する人物はおりませぬ。胡亥様は秦の世継ぎに相応しい人物に思えます。

胡亥様が皇帝に即位されれば、あなたの位も安泰なのです。」

李斯も簡単には趙高の説得には応じず、後継者問題を誤った事で、国が乱れた晋の太子申生の話や斉の桓公の兄弟、殷の紂王が比干の諫言を聞かなかった事を例に出し、難色を示します。

しかし、趙高は胡亥を皇帝にすれば、李斯だけではなく代々の子孫に至るまで、安泰だと説き伏せたわけです。

李斯も趙高の言葉に、最後は従い、涙を流し次の様に述べています。

李斯「ああ、ひとり乱世に遭い、死ぬことも出来ず、どこに我が命を託せばよいのだろうか。」

李斯は、遂に折れて趙高の謀略に手を貸す事になったわけです。

ここで、李斯は趙高の言葉に従ったせいで、趙高に頭が上がらなくなってしまった部分もある様に思います。

二世皇帝が即位

趙高、胡亥、李斯の三人が結託し、胡亥を二世皇帝に即位させます。

胡亥が即位した事で、李斯は丞相の位を保つ事が出来たわけです。

しかし、胡亥や趙高の暴政が始まる事になります。

趙高は蒙恬、蒙毅に恨みがあった為、処刑していますし、秦の公子達も胡亥により虐殺されて行く事になります。

李斯は二世皇帝に諫言した事もありましたが、聞き入れられる事はありませんでした。

胡亥は始皇帝の事業を完成させようと、阿房宮の建設や過酷な政治を行う事になります。

優旃なる人物が胡亥を諫めた事で、漆の城は取りやめた話はありますが、胡亥は圧政を敷く事になります。

こうした中で、陳勝呉広の乱が勃発します。

秦の天下統一が崩れる

陳勝呉広の乱が勃発すると、反乱軍は瞬く間に拡大する事になります。

陳勝呉広だけではなく、会稽で項梁と項羽が挙兵したり、陳勝の勢力から別れた趙の武臣、張耳、陳余などの勢力。

斉では田斉の後裔である田儋、田栄、田横などが立ち上がったわけです。

秦では兵士を直ぐに集める事が出来ず、少府の章邯(しょうかん)が囚人兵を率いて戦う事になります。

函谷関の外では、激戦が繰り広げられる事になります。

李斯の最後

二世皇帝の時代は、外では反乱軍が暴れ回り、内では胡亥や趙高が暴政を働く末期状態となります。

こうした中で、李斯も最後を迎える事になります。

二世皇帝を助長させる

陳勝と共に反乱軍の首謀者となった呉広は、李斯の長子がいる三川郡に兵を進める事になります。

李由は呉広が三川郡の西部を攻撃した時に、阻止する事が出来ず、章邯の軍が敵を追い払っています。

李由は大して動かせる兵を持っておらず、呉広らと戦う事が出来なかったのでしょう。

しかし、これが問題となります。

李斯の長男の李由が郡盗を鎮圧する事が出来なかった事が問題になり、李斯は次の様に責められる事になります。

「君(李斯)は、三公に位にいながら、盗賊共をはびこらすのはどうしてか。」

李斯は立場が危うくなった事を悟り、自分の爵位が失われる事を恐れますが、どうすればいいか分からなかったと史記にあります。

ここで、李斯は保身を考え二世皇帝に、阿る書簡を出し、二世皇帝を喜ばせています。

尚、二世皇帝は李斯の書簡を読むと、政治を益々厳しくし、民から多く税を取る物を明吏とし、刑罰を受けた者の数は、道路の道を歩く者の数に匹敵したとあります。

人を多く殺した者を忠臣と扱った話があるので、李斯の書簡による上表のせいで、多くの人の命が失われたとも言えそうです。

李斯の失脚

趙高は二世皇帝が政務に顔を出さない方が、やりやすいと判断し、理由を付けて二世皇帝を後宮の奥に追いやります。

この時の李斯には、まだを立て直そうとする意志があったのか、二世皇帝を諫言しようとした話があります。

しかし、二世皇帝に諫言するには、趙高を通さねばならず、趙高は丞相の李斯を邪魔に思っていたわけです。

李斯は胡亥に意見したいと、趙高に述べます。

趙高は胡亥の遊びが盛り上がっている時に、李斯が面会を求めていると伝えます。

胡亥は遊びが盛り上がっている時に、李斯が面会を望んだ事に気分を害する事になります。

これが数度に渡って繰り返されたわけです。

胡亥は普段は暇な事から、李斯は自分への嫌がらせでやっていると判断します。

ここで趙高が李斯は胡亥に対して、不満を抱いていると讒言し、さらに長男の李由が反乱軍に内通していると述べたわけです。

胡亥は李斯を嫌っていた事もあり、李斯の取り調べを行う事を決定します。

ここにおいて李斯は、趙高が邪悪な心を持った佞臣であり、趙高を放置して置いたら謀反が起きると進言します。

しかし、趙高を信頼している胡亥の耳には届かず、趙高は忠臣だと言い、李斯を捕える事になります。

李斯の取り調べは、趙高が行う事になったわけです。

李斯の嘆き

李斯は獄に繋がれる事になりますが、次の様に述べた話があります。

「悲しいかな。無道の君とは共に計る事が出来ない。夏の桀王は、関龍逢を処刑し、紂王は比干を殺害し、呉王夫差は伍子胥を殺した。

関龍逢、比干、伍子胥は不忠者だったのであろうか。殺されたのは、関龍逢、比干、伍子胥が原因ではなく、君主が無道だったからである。

今の私の賢さは、関龍逢、比干、伍子胥に遠く及ばず、二世皇帝の無道さは桀王、紂王、夫差の比ではない。

さらに言えば、二世皇帝のやっている事は滅茶苦茶ではないか。

公子や忠臣を次々に処刑し、趙高の様な邪悪な者を取り立てている。天下に重税を掛けて安房宮の建設に夢中になり、天下は怨嗟に声に覆われている。

秦は危機的な状況に陥っているのに、二世皇帝は目が覚めず、趙高を頼りとしている。

これでは、秦が滅びるのは当然ではないか。」

獄に繋がれた李斯の頭の中では、秦の滅亡が見えていた様です。

しかし、李斯も保身に走った部分もあり、対処するのが遅れたとも言えるでしょう。

趙高の尋問

李斯は獄の中から二世皇帝に上書する事になります。

自分の功績を罪に置き換えて上書したわけですが、趙高が二世皇帝に取り次ぐ事はせず、次の様に述べています。

趙高「囚人の身となった李斯の上書が許されるわけもない。」

これにより李斯の運命は決まったとも言えます。

趙高は自分の食客を使い李斯の取り調べを行う事になります。

この時に趙高は自分の食客を「御史」「謁者」「侍中」と偽らせて、代わる代わる李斯を取り調べたわけです。

李斯は趙高の食客だと分からず、真実を告げた事で、趙高は人をやって李斯に鞭を打たせた話があります。

二世皇帝も李斯に使者を出しますが、趙高の食客達によるダメージで精神が衰えていたのか、訴えようともしませんでした。

これにより、李斯の罪が確定し処刑される事になります。

李斯が処刑される

李斯は咸陽の市場において、五刑を受ける事になります。

五刑は残虐な刑罰でもあります。

李斯は一緒に処刑される次子を見て、次の様に話しかけています。

李斯「私はもう一度、黄犬を連れて故郷の上蔡の東門を出て、兎を追いたかったが、今となっては適わぬ事だ」

そして、李斯と次子は声をあげて泣き、一族は根絶されたわけです。

李斯が亡くなると、趙高が中丞相となり、秦の全てが趙高により決済される事になります。

李斯の死後に鉅鹿の戦いで項羽率いる楚軍に王離が敗れ、殷墟で章邯が降伏し、秦は函谷関の外での支配権を完全に失う事になります。

趙高は胡亥に責任を追及される事を恐れ、胡亥を殺害し、秦の王族である子嬰を秦王に即位させますが、子嬰は機転を利かせ趙高を殺害します。

子嬰は秦を正常な状態に戻そうとしますが、時すでに遅く武関を破った劉邦に降伏し、鴻門之会で項羽と劉邦が会合をし、項羽が咸陽に到着すると子嬰を殺害し、秦は滅亡しました。

秦が崩壊した原因は、胡亥と趙高の責任にされる事が多いですが、李斯も趙高の企みに協力した事実もあります。

それを考えると、秦の滅亡の原因は李斯にもあると言えるでしょう。

李斯は忠臣と言えるのか。

李斯が忠臣と言えるのか考えてみました。

李斯は始皇帝が生きている間は、忠義の臣だと言えた様に思います。

焚書坑儒などの原因も作っていますが、国の為を思っての政策にも感じるからです。

史記の蕭相国世家では、蕭何を救おうとした王衛尉との問答において、劉邦の口から下記の言葉が出ています。

「李斯が秦の皇帝の宰相であった時は、善事があれば皇帝の徳とし、悪い事があれば自らのせいにした。」

この言葉を考えれば、始皇帝の存命中は李斯は忠臣であったと感じます。

しかし、李斯が出世を志した鼠の話を見ても、李斯は権力欲が強い人間であり、権力欲が李斯の目を狂わせた様にも感じました。

尚、司馬遷は李斯列伝の最後で、李斯が趙高の邪説に迎合しなければ、李斯は周公旦や召公奭にも比肩する者になったとの記載もあります。

それを考えれば、李斯の欲が道理を乱し、秦を滅亡に向かわせたとも言えそうです。

出処進退を誤った

史記を見ると出処進退成功組の范蠡、范雎、張良、蕭何、陳平などがいて、出処進退失敗組として越の文種、呉起、商鞅、白起韓信などがいる様に思います。

史記や資治通鑑の記述を見る限りは、李斯も出処進退失敗組となるでしょう。

ただし、李斯の場合は、始皇帝が亡くなった時点で、引退したとしても反乱軍に殺害された可能性があります。

天下は始皇帝の政治に不満があり反乱を起こしたわけであり、反乱軍が始皇帝の政治の中心にいた李斯を引退したからと言って、許すとは限らないからです。

胡亥と趙高が政治を行っていれば、李斯が引退しても反乱軍に殺害された可能性も高いと思いました。

始皇帝が沙丘で亡くなった時に、趙高の陰謀を断わり、扶蘇を即位させたのであれば、李斯は生き残った可能性もあります。

扶蘇が即位すれば、法治主義を緩める可能性が高く、李斯は重用されなくなるはずです。

この時点で引退すれば、無残な最期を迎える事も無かった様に思います。

秦に対して反乱を起こす、陳勝と呉広は扶蘇と項燕を名乗っており、扶蘇が皇帝になれば、反乱軍が組織される可能性は低くなる様にも感じるからです。

当時の人の感覚でないと分かりませんが、李斯のターニングポイントは趙高の陰謀に加担した事が原因とも言えそうです。

キングダムの李斯の名言(おまけ)

春秋戦国時代を題材にした漫画であるキングダムで、李斯の名言があったので紹介します。

キングダムでは李斯は呂氏四柱の一人です。

昌文君、蒙武蔡沢は秦王政に靡いたりしますが、李斯だけは最後まで呂不韋に従っています。

嫪毐の乱で呂不韋が失脚すると李斯は、獄に繋がれますが、嬴政の側近である昌文君は「法の番人」と呼ばれた李斯の力が欲しく、獄を訪れる事になります。

ここで李斯は「そもそも、法とはなんだ。」と昌文君に問います。

昌文君は返答しますが、李斯は昌文君の答えに納得する事が出来ず、法に関して次の様に述べています。

李斯「バカな!刑罰とは手段であって法の正体ではない!”法”とは願い!国家が国民に望む人間の在り方の理想を形にしたものだ!

この全中華の人間にどうあって欲しいのか どう生きて欲しいのか どこに向かって欲しいのか それをしっかりと思い描け!」

法の番人たる李斯の名言だと感じました。

法律と聞くとルールであり破った者には、罰が与えられる感じがしますが、人間の在り方まで指摘し、考えさせられた人も多い様に思います。

因みに、キングダムではの貴族たちが「逐客令」を出しますが、李斯の一喝で取りやめとなっています。

キングダムでは、李斯の今後の活躍が期待出来そうです。

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宮下悠史

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