春秋戦国時代

李信の史実を検証。最後は謎が多いが子孫は皇帝になった

スポンサーリンク

キングダムの主人公は信という男です。

猪武者一辺倒のイメージがありますが、この「信」が史記などによる李信となります。

信が「李信」になる時に、同じ李姓である李牧李斯と関係があるのでは?と考えた人も多かったようですが、全く関係がありませんでした・・。

しかし、李信の史実や、どのような最後になるのか気になる人も多いかと思います。

史実の李信の最後を見ると、斉を滅ぼした時点で記録がなくなっていて、史書からは姿を消します。

始皇帝(政)が崩御して、秦はわずか4年で滅亡している事実もあります。

その間に、秦軍の指揮を執ったのは章邯王離(王翦の孫)が軍勢を指揮した記録はありますが、李信についての記述は一切ありません。

しかし、李信の子孫などの記述は存在します。

ここでは、李信の史実での活躍と、その子孫を見ていきたいと思います。

尚、李信の子孫は皇帝になったという話もあるのです。

名君と呼ばれた唐の李世民は李信の子孫の可能性があります。

唐は日本とも関係があり遣唐使も有名です。

李信の活躍

李信は、史記では列伝がありません。ただし、白起王翦列伝や始皇本紀、刺客列伝などに登場します。

実在した事は間違いありません。

 

李信が太原、雲中に出撃

燕の太子丹は秦に人質に行った時に、嬴政(秦王政)に粗略に扱われた事もあり燕に逃げ帰っています。

太子丹は燕に帰ると、傅役の菊武に秦の禍を取り除く方法を訪ねますが、菊武は自分にはどうする事も出来ないと田光を紹介します。

田光は、友人の荊軻を太子丹に推薦するわけです。

太子丹は荊軻に刺客を依頼しますが、現在の状況を説明する時に、下記の言葉を述べた話があります。

太子丹「王翦は数十万の大軍を率いて漳・鄴の地に攻防し、李信は太原・雲中に出撃しています。

この言葉から分かる事は、王翦が鄴攻めを行っている時に、李信は太原や雲中に出撃していたと言う事です。

さらに、燕の太子丹に口から名前が出ると言う事は、鄴攻めが行われた紀元前236年には李信は名の知れた将軍であり、既に諸侯に名が鳴り響いていたのではないでしょうか。

李信の出自は分かりませんが、この時の李信は既に秦の代表的な将軍だった可能性が高いです。

 

燕を攻撃

荊軻は刺客として、秦に行きますが嬴政の暗殺には失敗しています。

刺客を送った燕に激怒した嬴政は、趙を滅ぼした王翦に燕を攻撃する様に命じます。

王翦は燕を攻撃すると、数カ月後には首都である薊を陥落させた記述があるわけです。

この時に代王嘉が秦が燕を執拗に攻撃する理由は、燕の太子丹が秦に刺客を送り込んが事が原因だとする書簡を燕王喜に送る事になります。

燕王喜は秦に詫びる為に太子丹を討つための刺客を送り込みます。

しかし、李信も太子丹を討つために執拗に太子丹を追い回し衍水で太子丹を討ち取った話もあります。

燕王喜の刺客が太子丹を討ち取ったのか、李信が太子丹を討ち取ったのかは不明ですが、燕との戦いで李信はその武勇により大活躍し、秦王政から大きな信頼を勝ち取ったと言えそうです

 

城父の戦いで敗れる

李信は嬴政から絶大なる信頼を得ますが、思わぬ落とし穴がある事になります。

蒙恬と共に楚攻めを行い敗北を喫する事になります。

当時の情勢

燕王は精鋭を引き連れて遼東に逃亡しますが、燕は既に虫の息です。

さらに、趙も滅び趙の王族である代王嘉が代にいますが弱小勢力と言えます。

ここで嬴政は、南方の楚を攻める決断をします。

楚は西周王朝の時代から記録がある歴史的な大国であり、春秋時代には楚の荘王が春秋五覇の一人になるなど中華で最も強大な勢力でした。

しかし、戦国時代になると改革が進まずに、国力は停滞する事となり、紀元前278年には秦の白起に首都の郢を奪われています。

郢を奪われた楚は50年が経過しても、取り戻す事が出来なかった状態です。

この時には、韓はが滅ぼし、趙は代を残すのみとなり、魏は王賁により滅亡し、燕も既に遼東を残すのみとなっています。

斉が無傷で残っているとはいえ、秦との国力の差は20倍以上はあった事でしょう。

こうした中で、楚攻めが行われる事になります。

 

楚攻めの総大将に任命される

嬴政は楚攻めの総大将を決める段階となります。

次の話が伝わっています

嬴政「李信将軍よ。儂は楚を攻め滅ぼそうと思っておるが、どれほどの兵士が必要であろうか」

李信「20万あれば十分でございます。」

嬴政「流石、李信将軍じゃ。ところで王翦は楚を滅ぼすのに、どれ位の兵士が必要じゃと思うか。」

王翦「60万の兵士いなくては楚を平定する事は出来ませぬ。」

嬴政「王翦将軍は老いぼれてしまったか。何と意気地がないことか。李信将軍の意見が的を得ておる。李信と蒙恬に20万の軍を授け楚を討つ事とする。」

李信は将軍となるや蒙恬と共に出陣する事になります。

王翦は自分の言葉を用いられない事が分かると、故郷の頻陽に引退する事になります。

 

項燕に大敗する

李信は蒙恬と20万の軍を率いて楚を滅ぼす為に出陣しました。

李信は平輿を攻撃し、蒙恬は寝丘を攻撃し二人とも大勝します。

李信と蒙恬の軍は出だしは順調だったわけです。

平輿で大勝した李信と寝丘にいた蒙恬は、軍を一つにする為に城父に向かう事になります。

楚軍の総大将である項燕は、三日間宿営もせずに蒙恬と李信の軍を追い続けて、城父にいた李信と蒙恬を急襲しました。

不意を衝かれた李信と蒙恬は大敗し敗走する事になります。

項燕の活躍により、天下統一目前の秦にとっては思わぬ土が付いたわけです。

尚、項燕が李信や蒙恬を破った事で、楚軍が一時的に優勢となり陳まで進撃し、陳にいた昌平君は楚に降った説があります。

 

王翦が楚を滅ぼす

李信が大敗すると嬴政は王翦の復帰を願い、王翦は60万の大軍を率いて楚を討つ事になります。

王翦を説得する時に、嬴政は「李信は秦軍を辱めた」などの言葉が残っています。

李信が敗れた事で王翦が60万の大軍を率いて出陣する事になります。

王翦は60万の大軍を擁しながらも、戦意がない様に装い項燕が軍を返した所を追撃し大勝しました。

王翦は楚の首都まで進撃し、寿春を陥落させ楚王負芻を捕虜にする事に成功します。

項燕は昌平君を楚王に擁立し戦いますが、王翦と蒙武に敗れ楚は滅亡する事になります。

 

李信の謎

李信は項燕に大敗したにも関わらず、罪を問われた形跡がありません。何事も無かったかの様に再び戦場に出ています。

李信がなぜ失脚しなかったのか考えてみました。

戦いに敗れたのに処罰されていない

李信は先に述べた様に、城父の戦いにおいて楚の項燕に大敗する事になります。

しかし、特に罰せられた様な記録も無く、その後も何事も無かったかの様に、燕や代などを攻撃しているわけです。

秦では過去に、桓騎平陽の戦いで趙の扈輒将軍を破り、10万の趙兵を斬った話があります。

しかし、宣安の戦いで李牧に敗れると桓騎は燕に逃亡した話があります。

秦の法律で戦いに敗れた将軍には厳しい罰があり、それを恐れた桓騎は燕に逃亡したのではないでしょうか?

それを考えると李信であっても、項燕に敗れた時に何かしらの処罰はあってもいい様に思います。

しかし、李信は項燕に敗れたにも関わらず処罰された形式もなく、すぐに戦場に復帰し燕や代を攻めているのです。

李信が処罰されなかったのは、それなりの理由がある様に感じています。

 

李信の隠れた活躍

李信が罰せられずに、将軍を続けられる事が出来た理由ですが、項燕と王翦が戦った時に何かしらの活躍があったからなのかも知れません。

考えられるとしたら、李信と蒙恬が王翦と項燕が対峙している時に、後方を攪乱したなどではないでしょうか。

王翦は60万の大軍を擁しているわけであり、60万の大軍がいたからと言って、項燕は戦意無しとみて軍を返すのはあり得ないとも感じたわけです。

史記によれば王翦は守りを固めた記述があり、巨大な防御施設が築かれ、かなり楚軍にはプレッシャーがあったと感じます。

ここで項燕を破るには、楚軍を東に向かわせる必要があり、李信や蒙恬が戦いに敗れた後も秦に帰らずに、楚に残り戦いを継続した様に感じました。

さらに言えば、魏を滅ぼした王賁は魏の首都であった大梁近くにいた可能性があります。

城父と大梁では比較的距離が近い事もあり、李信や蒙恬は大梁にいた王賁に援助を依頼し、王賁は李信と蒙恬に兵や物資を与えたのかも知れません。

李信や蒙恬が再び楚を攻撃した事で、楚は後方を攪乱され楚王負芻は項燕に李信討伐を命じ、項燕は軍を返した可能性もある様に思います。

軍を返した項燕の軍に王翦が襲い掛かり項燕の軍が壊滅した説です。

楚の首都である寿春を陥落させると嬴政は、郢・陳まで行った話があります。

陳に行った時に、嬴政は王翦や李信と会い、李信の活躍により罪を許したという事も考えられる様に思います。

ただし、嬴政は李信に楚攻めは向かないと判断し李信と蒙恬には、王賁に合流させ北方の燕や代を滅ぼす様に指示したのではないでしょうか。

これはあくまで想像に過ぎませんが、李信は項燕に敗れはしたが、何らかの挽回はあった様に思います。

項燕に負けたとしても、三国志の馬謖街亭の戦いで張郃に敗れた時の様に酷い負け方ではなかった様に感じました。

李信は戦いに敗れるにしても、最低限の事は行ったのでしょう。

それ故に、罪を帳消しにされた様に思います。

 

燕・代・斉を滅ぼす

李信は王賁と共に北上し、燕を滅ぼし返す力で代を滅ぼす事になります。

李信と王賁により北方は完全に平定され、南の楚は王翦に平定されています。

戦国七雄で最後に残った斉を滅ぼしたのは、王賁、李信、蒙恬の3人の将軍だと伝わっています。

斉を滅ぼした記録を最後に李信の行方は史書から消える事になります。

さらに言えば、王賁もこの先が記録がなく秦の統一戦争終了後に直ぐに死去した可能性もあるでしょう。

尚、蒙恬だけは統一後も記録があり、万里の長城の建設や北伐を行い匈奴を震撼させた話があります。

李信の最後

李信の最後ですが、先にも述べた様に記録がなく分かっていません。

嬴政が秦王から始皇帝となり様々な改革を行いますが、紀元前210年に崩御する事になります。

始皇帝が亡くなった時に、趙高、李斯、胡亥の3人が結託した事で、後継者が扶蘇から胡亥に代わっています。

趙高は蒙恬や蒙毅に恨みを抱いていた為に、扶蘇は自刃し、蒙恬、蒙毅らは処刑される事態となるわけです。

始皇帝の死で天下は乱れ陳勝呉広の乱がおきますが、この時には李信は亡くなっていたのか名前すらも登場しません。

王翦、王賁は既に亡くなっていた記述があり、秦軍を指揮するのは、王賁の子である王離や章邯です。

ただし、胡亥が朝廷に出なくなり趙高の暴政が始まると多くの大臣らが粛清された話があります。

趙高の暴政を考えれば、李信が趙高の毒牙に掛かって亡くなった事も考えられます。

しかし、李信クラスの人物が粛清されたのであれば、記録に残る事も考えられ、李信は始皇帝よりも前に亡くなったとするのが妥当だと思いました。

それかキングダムの李信の姿を連想するのであれば、天下統一後は帰農した可能性もある様に感じますが、あくまで想像の域を出ません。

 

李信の子孫

李信の子孫の記録はあり、李信の子孫が皇帝になった記録まであります。

史実は不明ですが、遣唐使で有名な唐の王朝は李信の子孫だとする話があります。

李信の子孫で記録に残っている人物を紹介します。

李信の子が漢の大将軍になった??

李信に関しては、新唐書に記述があり秦の大将軍になった記述もあります。そして、隴西侯になったとされています。

李信の子は李超といい漢の大将軍になったという記述があるのです。

しかし、李信や李超が秦末期や項羽と劉邦が争った楚漢戦争の時に、どのような行動を取ったのかは一切わかりません。

李信に関しても、何歳で死んだかも、何年に亡くなったかも出てきません。

記録がある新唐書は、李信たちの時代よりも1000年以上も後に書かれています。そのため、信憑性がないと指摘する専門家もいます。

李超が漢の大将軍になったのであれば、漢書や史記などの記述があってもよさそうですが、一切の記述はありませんでした。

 

飛将軍李広は悲運の名将

李広は、漢の文帝や景帝、武帝時代に活躍した名将です。

李信の孫にあたります。

飛将軍とも呼ばれ、匈奴からも恐れられています。

漢の文帝と狩りをしていた時に、トラだと思って李広が弓を放ったら、石で弓矢が石に突き刺さっていたという話があります。

「石に立つ矢」の語源になったお話です。

※石に立つ矢・一念を込めてやればどんな事も達成出来るという意味

それを見た文帝は「高祖(劉邦)の時代に生まれたのであれば大諸侯になれた」と残念がったとされています。

しかし、武帝の時代になると、年を取ってしまったせいか活躍が思うように出来なくなってしまいます。

武帝自身は派手好きな皇帝なので、李広のような老人は好まなかったのかも知れません。

名将の割に出世が出来なかった悲運の武将ともいえるでしょう。

 

李陵をかばった司馬遷が罪を問われる

李広の孫は李陵という人物です。

楚の屈強の兵士5000人を連れて出陣しますが、運悪く匈奴の3万の軍勢と遭遇しています。

本来遭遇するはずだった漢軍の本隊と匈奴の本隊はすれ違いになってしまい、別動隊の李陵の部隊と匈奴の本隊が遭遇してしまったわけです。

それでも、李陵は諦めることなく奮戦するわけですが、最後は矢尽き刀折れ、降伏してしまうわけです。

降伏した事に武帝は激怒したわけですが、司馬遷は李陵を庇います。

その事で、武帝の怒りを買い司馬遷は宮刑にされてしまいました。

宮刑というのは、男根を切除してしまう惨い拷問です。

しかし、それに奮起した司馬遷は史記を完成させる偉業を成しています。

 

李信の子孫が唐を建国

李信の子孫はその後、西涼を建国した李暠に繋がり、その子孫が詩人として有名な李白になると伝承されています。

さらには、唐を建国した李淵も李信の子孫とも言われています。

唐という国は、日本とも交流があり遣唐使としても有名です。

さらに、2代皇帝である李世民に関しては、貞観政要などのやり取りで有名な名君です。

しかし、これらの系譜は箔をつけるための捏造とも言われています。

本当に李信の血が流れているのかは分かりませんが、唐の皇帝は李信の子孫を名乗っています。

それが本当であれば、李信の一族は、かなり出世したと言えるでしょう。

 

キングダムの信はどのような最後を迎えるのか?

キングダムの信ですが、どのような最後を迎えるのか興味があります。

一つは斉を倒した後に、天下統一されたという事で将軍をやめて田舎生活を満喫するというものです。

他にも、考えられるのは、河了貂か羌瘣と夫婦になって終わり??や楊端和あたりと行動を共にし、山の民になるなど様々なストーリーが考えられます。

可能性が低いと思うのは、秦に残る設定です。

統一後には、文官となり始皇帝となった政を助ける役目にかわるという最後です。

しかし、統一後の政は蒙恬に命じて万里の長城を築かせたり北方に攻め入るなどしています。

民を慰撫したなどの気配はありません。

焚書坑儒なども行った記録があります。

始皇帝となった政の様々な性急な改革が秦の滅亡を早めたとも言われているわけです。

それを李信が止めないのも変な話でしょう。

辞めて欲しいと思う最後は、2世皇帝時代まで生き残ったけど、宦官の趙高によって無実の罪を着せられて殺されるパターンです。

流石に、このパターンはないと思いますが、その可能性もゼロではありません。

やはり、斉を討伐した後に、秦には戻らず帰農したなどの設定が普通かなと感じました。

尚、キングダムですが、中国を統一して秦が滅亡するまで描いてくれたら個人的には嬉しいです。

 

 

スポンサーリンク

-春秋戦国時代,