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李儒は董卓の軍師。正史と三国志演義を徹底解説!

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李儒は董卓に仕えた人物であり、董卓と悪だくみしている姿を想像してしまう人も、多いのではないでしょうか。

冷酷な策士にも見える李儒ですが、意外にも正史三国志を見ると名前が登場しませんし、三国志演義程の活躍もありません。

李儒が登場するのは「後漢書」であり、劉弁(少帝)を殺害したのは事実です。

しかし、後漢書には李儒が長安を遷都する様に、進言した記録もありませんし、董卓の娘婿だった記録も存在しません。

今回は三国志演義では、董卓の軍師とも言える李儒を解説します。

尚、史実と考えられる後漢書と三国志演義の両方の李儒を解説しました。

三国志演義の方が李儒は圧倒的に存在感があり、三国志演義の李儒の記述が長めになっております。

余談ですが、李儒が建立したとする石碑が発見されており、李儒の字は文優だったのではないか?とも考えられています。

因みに、横山光輝さんの漫画三国志では、三国志演義と同様に冷酷な軍師ではありますが、長安遷都後は呂布と董卓の仲を改善させようとする苦労人となっています。

正史三国志の李儒

後漢書の李儒は、三国志演義程の活躍はありませんが、董卓の命令に従っている事は事実です。

郎中令となる

後漢末期に霊帝が崩御すると、少帝が即位しますが、政治は混乱を極めます。

外戚である何進と皇帝の側近とも言える、宦官たちの対立が起きたわけです。

宦官のトップである十常侍らは、何進を殺害してしまいます。

これにより怒った、袁紹らが宮中に乗り込み、宦官たちを皆殺しにしました。

宮中は大混乱となりますが、この時に帝を抑えたのが董卓であり、董卓が政治の実権を握る事になります。

この時には、李儒は後漢王朝に仕えていたようで、少帝(劉弁)の郎中令となっていた話があります。

郎中令は宮中を守る、護衛官的な役職だと思えばよいでしょう。

 

劉弁を暗殺

董卓は「少帝は帝として相応しくない」と判断し、少帝を弘農王に降格し、弟の劉協(献帝)を皇帝に即位させます。

ただし、常識的に考えれば董卓は臣下であり、臣下が皇帝の入れ替えを行ってよいわけがありません。

董卓に対する様々な反発もあり、西暦190年に諸侯が団結し、反董卓連合を結成させるわけです。

董卓は諸侯らが団結し、自分が廃位に追い込んだ劉弁を旗印にして、強硬に攻撃して来る事を恐れました。

ここで董卓は先手を打ち、郎中令の李儒に弘農王(劉弁)の殺害を命じています。

董卓に命令に李儒は、楼上に行き劉弁に毒酒を進めますが、李儒と劉弁の間で、次の様なやり取りがあった話があります。

李儒「この薬を飲めば悪い病気は直ぐに治り回復します。」

劉弁「私は病気には掛かっていない。その酒で私を殺そうと考えているのであろう。」

劉弁は李儒が手に持っている酒が毒手だと見破りますが、李儒も引くわけにはいかず、毒を飲むように強要し、劉弁を殺害しています。

劉弁が李儒に殺された事を知った献帝(劉協)は、椅子からズレ落ちてしまう程の衝撃があり、悲しんだ話があります。

これを考えると、献帝は兄である少帝(劉弁)の事をかなり慕っていたし、愛情があったのかも知れません。

尚、三国志演義で李儒が董卓の参謀として活躍するのは、著者の羅貫中が後漢書で李儒が劉弁を殺害した事から、悪の参謀というイメージを抱い可能性もあるでしょう。

 

献帝に殺されそうになる

董卓軍と諸侯連合は軍事衝突に発展しました。

董卓軍は、徐栄が曹操や孫堅を破る活躍を見せますが、洛陽を棄て長安に遷都する事になります。

後漢王朝は首都が長安となりますが、董卓の一族が高官を独占する事になります。

董卓の孫娘で成人もしていない董白が侯になるなど、董卓の一族は大いに栄える事になります。

しかし、女性関係で董卓と呂布が揉め、王允の思惑もあり、董卓は殺されてしまいます。

董卓が亡くなると、牛輔の指揮下にあった李傕、郭汜が賈詡の進言により、王允や呂布を破る事になったわけです。

長安は李傕と郭汜が占拠しますが、この時に李傕は李儒を博士に任命しました。

しかし、献帝は兄である劉弁を殺害した李儒を恨んでおり、詔を出し、次の様に述べています。

「李儒は朕の兄である弘農王劉弁を毒殺した者である。

李儒は郎中令の職務を放棄し、兄を殺害した。李儒には刑罰を加えるのが相応しい。」

献帝は劉弁を殺害した李儒を罰する様に希望したわけです。

これに対して、李傕は次の様に述べています。

李傕「少帝の殺害は董卓がやった事であり、李儒としては絶対に行いたくなかったはずです。」

この後に、献帝が納得したのかは不明ですが、当時の最高権力者でもある、李傕に逆らう事も出来ず、引き下がった様に思います。

これが正史における李儒の最後の記録であり、その後は、どうなったのかも分かりません。

史実の記述だと、李儒は少帝を殺害した事実はありますが、策を献じる事もなく、非常に地味な存在です。

 

三国志演義の李儒

三国志演義の李儒ですが、董卓の軍師として大活躍します。

董卓と都に向かう

大将軍の何進は、宦官の張譲、趙忠ら十常侍を除くために、董卓ら各地の諸侯に呼びかけを行います。

董卓は牛輔に陝西を守らせ、自らは李傕、郭汜、樊稠、張済らを率いて都に登る事になりますが、ここで李儒が進言する事になります。

李儒「詔は頂いておりますが、その中にはわざと隠してある事が多いようです。

人をやって表文を奉らせた方よいでしょう。さすれば、名分正しく、大事を成就する事が出来ます。」

董卓は李儒の意見を聴き入れ、表文を書き何進に送る事になります。

何進は大臣達に董卓の表文を示しますが、鄭泰と盧植が董卓には野望があるとし危険視したわけです。

何進は優柔不断な行動をしますが、結局は十常侍ら宦官の勢力に暗殺されてしまいました。

ここで袁紹、袁術らが、宮中に雪崩れ込み大混乱となりますが、ここで帝を保護したのが董卓であり、実権を握る事になります。

 

董卓を救う

董卓は現在の皇帝である少帝(劉弁)を廃位し、弟の陳留王になっている劉協を皇帝に即位させようとします。

これに反対したのが丁原であり、董卓は丁原を殺そうとします。

しかし、ここで李儒は丁原の後ろにいる呂布に気付く事になります。

李儒は呂布の凄さを一目で分かったのか、前に進み出ると次の様に述べています。

李儒「今日は酒宴の席でございます。国家の政を談じる時ではありますまい。

明日になってから、論議を行っても遅くはないはずです。」

これにより、丁原は馬に乗り自分の陣に戻る事になります。

この時に丁原の後ろには、呂布が目を怒らせており、董卓が丁原に害を加えようとしたら、呂布に討たれていた事でしょう。

三国志演義では、李儒が機転を利かせ董卓を救った事になっています。

史実ではありませんが、見事な李儒のファインプレーだと言えるでしょう。

尚、翌日に丁原は董卓に戦いを挑みますが、呂布に蹴散らされて敗北を喫します。

しかし、董卓配下の李粛が呂布を寝返らせた事で、呂布は丁原を殺害し、董卓の配下となります。

この時に董卓は呂布に赤兎馬を送り、呂布の死後に赤兎馬は関羽の愛馬となっています。

 

蔡邕を推挙する

三国志演義だと李儒が蔡邕を推挙した記述があります。

董卓は相国となり権力を手中に収めますが、李儒は董卓に名士を特別に任用し、人望を集める様に進言します。

李儒は蔡邕を推挙し、董卓は召し出す様に命じました。

蔡邕は出仕するのを渋りましたが、最終的には董卓の脅しもあり、出仕する事になるわけです。

董卓は蔡邕を侍中に任命しています。

 

少帝を殺害

李儒は三国志演義でも少帝(劉弁)を殺害しています。

ただし、後漢書に比べると、内容は過激になっており、何太后や劉弁と罵りあった話しがあります。

李儒は何太后に罵られると激怒し、何太后を引きずり出し、二階から投げ落としました。

さらに、何太后を配下の者に命じて、絞殺したわけです。

李儒は残った劉弁には、無理やり毒酒を飲ませて殺害しています。

後漢書に比べて、三国志演義は物語らしく、生々しく李儒の冷徹さが描かれています。

三国志演義の李儒が何太后を殺害するシーンは、非常によく出来ていて名場面とも言えるでしょう。

 

曹操の董卓暗殺事件

曹操は董卓の暗殺を考え、董卓に近づきますが、呂布がいる事に気が付き、とっさに「剣を献上するつもりだった」と述べています。

曹操は、この場を去ったわけですが、董卓と呂布は曹操の行動を不思議がります。

ここで李儒が董卓の元に訪れると、次の様に述べています。

「曹操は都に妻子を置かず一人で下宿をしております。人をやって曹操を呼び寄せるべきです。

曹操が直ぐにやってくれば本当に刀を献上したのであり、理由を付けて曹操が来ないのであれば、暗殺を狙ったのでしょう。」

董卓は李儒の意見に納得し、曹操を呼び出しますが、曹操は逃げ出した後でした。

李儒は、さらに曹操を捕える様に董卓に進言した事で、曹操は指名手配を受けたわけです。

曹操が逃げ出した時に、曹操を救ったのが陳宮であり、袁紹を盟主とした反董卓連合に繋がっていきます。

 

汜水関の戦い

董卓は権勢を極め酒池肉林の生活を送っていましたが、李儒の元に反董卓連合が結成された情報が入ってきます。

李儒は董卓に反董卓連合が結成された事を述べて、協議する事になります。

呂布が反董卓連合と戦う様に名乗り上げますが、最終的には華雄が「鶏を殺すのに牛刀を用いる必要はない。」と述べ、胡軫(こしん)、李粛、趙岑らを引き連れて出陣しました。

華雄は汜水関の戦いでは、鮑信の弟である鮑忠、孫堅軍の祖茂、袁術配下のの兪渉、韓馥軍の潘鳳などを討ち取る活躍を見せます。

この時に連合軍総大将の袁紹は「顔良文醜を連れて来るべきだった。」と後悔した話があります。

しかし、華雄は劉備配下の関羽に一騎打ちを挑まれると、呆気なく斬られています。

 

袁隗を殺害

董卓は汜水関の戦いで華雄が斬られた事を知ると、呂布や李儒を集めて協議する事になります。

この時に、李儒は次の様に述べています。

李儒「華雄が討たれた事で、連合軍は意気盛んになっております。

諸侯連合は袁紹を盟主としておりますが、袁紹の叔父である袁隗は都で太傅をしております。

袁隗がこれを機に袁紹に内通したら、不都合な事態となるでしょう。

まずは袁隗を亡き者にする事が先決です。董卓様が自ら兵を率いて袁隗を捕える様になさいませ。」

董卓は李儒の進言を受けると、董卓は袁隗を殺害する事になります。

 

長安に遷都

汜水関の戦いの後に、虎牢関の戦いが起きます。

虎牢関の戦いでは、呂布が奮戦し王匡や方悦、孔融配下の武安国、公孫瓚らを破りますが、張飛、関羽、劉備に攻撃されると退いています。

董卓は李儒に意見を求めますが、李儒は次の様に答えています。

李儒「兵を率いて洛陽に帰り、皇帝を長安に遷すのが良いでしょう。

漢の高祖劉邦が西の都である長安で十二帝が続き、光武帝が洛陽を都として十二帝が続きました。

天運は元に帰るべきであり、長安に遷都するのがよろしいはずです。」

董卓は李儒の言葉に喜び、洛陽を棄て長安に遷都する事を決定します。

この時に董卓は焦土作戦を実行し、民家を焼き払い洛陽を廃墟にしてしまった話があります。

 

曹操を大敗させる

董卓軍は洛陽を棄て、長安に移りますが、連合軍では曹操がただ一人追撃する様に、進言しました。

しかし、曹操は諸侯の支持を得る事が出来ずに、夏侯惇、夏侯淵、曹仁、曹洪、李典、楽進を引き連れて追撃します。

李儒は曹操の追撃を読んでおり、李儒は徐栄と呂布を伏兵として、曹操軍を待ち構えていたわけです。

曹操が追撃してくると呂布は「李儒の言った通りになった。」と述べ戦いの火ぶたが切られます。

この時に曹操は大敗し、曹洪に助け出され、命からがら逃げる事になります。

廃墟となった洛陽で孫堅が玉璽を見つけ、袁紹らも戦意が無かった事から、連合軍は解散する事になったわけです。

ここまでの李儒を見ると董卓に的確なアドバイスをしているだけではなく、李儒の進言であれば董卓は全て受け入れる事が出来ています。

三国志演義の李儒は、劉邦における張良、斉の桓公における管仲の様な存在になっています。

しかし、董卓にも李儒の意見が聞けなくなる時が来てしまう事になります。

ここから先の李儒は、董卓の呂布の仲を取り持とうとしますが、報われない苦労人へと姿を変えて行きます。

 

連環の計

後漢王朝の司徒になっていた王允は、董卓を除く事を考えます。

王允は兵法三十六計の一つである連環の計を使う事にしました。

王允が可愛がっていた貂蝉なる女性を使い、美人の計と離間の計で呂布と董卓の仲を裂く事を考えます。

貂蝉が上手くやった事で、呂布と董卓は険悪な仲になっていきます。

呂布が董卓に対する不満を李儒に述べた事で、李儒は慌てて董卓の元に向かい次の様に述べています。

李儒「董卓様が天下をお取りになるには、呂布と仲違いしては万事休すとなるでしょう。」

董卓「ならば、どうするべきであろうか。」

李儒「呂布を明朝に呼び出し、引き出物を贈り詫びを入れる事です。

優しい言葉を掛けてあげれば、何事もなく終わるでしょう。」

董卓は李儒の言葉に従い、呂布に引き出物を贈り、詫びる事で和解しようとしました。

しかし、数日後に再び貂蝉が上手くやった事で、呂布と董卓の仲は決裂し、董卓は呂布に檄を投げつける事態にまで発展します。

董卓と呂布が争っている姿を李儒が目撃すると、李儒は慌てて董卓にぶつかり、董卓を突き倒しています。

董卓は李儒に「お前は何をしに来たのだ。」と言いますが、李儒は楚の荘王の絶纓の会を例に出した後に、次の様に述べています。

李儒「貂蝉はたかが知れた女一人でございます。それに引きかえ呂布は天下の勇将であり、得にくいものです。

ならば、呂布に貂蝉をくれてやるのが最善でしょう。さすれば、呂布は大師様(董卓)に大恩を感じる事でしょう。」

董卓は少し考えますが、李儒の言葉を最もだと思い、呂布に貂蝉を嫁がせようと考えます。

しかし、貂蝉が再び暗躍した事で、董卓は李儒の言葉を実行しなくなります。

李儒は吉日を選び董卓に貂蝉を呂布にやる事を進言しますが、董卓は次の様に述べます。

董卓「呂布と儂は親子の契りを結んでおる。女をやるのは不都合じゃ。

儂は呂布の罪を問わぬ事にするから、お前(李儒)は、儂の心を呂布に伝えてくれ。」

李儒が反対すると、董卓は次の様に述べています。

董卓「お前は自分の妻を呂布にやる事が出来るのか。二度と言うな。

これ以上、貂蝉の事を言ったら、お前を死罪にする。」

三国志演義の董卓は李儒の言葉であれば、心を動かしていたのに、遂に李儒の進言を聞かなくなってしまったのです。

李儒の言っている事は正論であり、李儒は自分が破滅に向かっている事を悟り、退出すると次の様に述べています。

「我らは婦人の手で死ぬ事になるのか。」

この時の李儒は天を仰いで言ったのでしょう。

李儒が言った「我らは婦人の手で死ぬ事になるのか。」は三国志演義の名シーンの一つでもあります。

この後に、董卓は呂布に殺害される事になります。

 

李儒の最後

三国志演義では李儒の最後も描かれています。

呂布は董卓を殺害すると、次の様に述べています。

呂布「董卓の無道な行いに油を注いだのは李儒だ。

李儒を生け捕って来い。」

呂布は董卓の腹心である李儒を生け捕ってくる様に命令しました。

しかし、李儒は自分の家の奴隷に捕らえられて、呂布や王允の前に引き渡されたわけです。

王允は李儒を市場に引き出し、打ち首にする様に命じました。

李儒は命を落とす事になります。

三国志演義の李儒は、董卓の暴虐ぶりを増長させた部分はあるにせよ、最後まで董卓に忠誠を誓っていたと言えるでしょう。

董卓は李儒の進言が聞けなくなった時点で、詰みだったとも言えます。

 

李儒の建立した石碑が見つかった

184年に張角が黄巾の乱を起こします。

この時に、郃陽の土地が大いに荒れますが、後漢王朝の朝廷では曹全を県令に命じて黄巾賊の鎮圧に向かわせています。

曹全は見事に黄巾賊を鎮圧する事に成功します。

郃陽の博士をやっていた李儒達は、曹全の功績を讃え、石碑を作る事になります。

これが「郃陽令曹全碑」と呼ばれる事になったわけです。

郃陽令曹全碑には、博士李儒文優の名前があり、李儒が博士をやっていた事から、李儒の字が文優だったのではないか?と考えられています。

ただし、後漢書に記録された李儒と郃陽令曹全碑の李儒が、同一人物なのか同姓同名なだけなのかは、はっきりとしません。

尚、郃陽令曹全碑は、何故か地中に埋められる事となり、明代に掘り起こされて発見された経緯があります。

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