春秋戦国時代

秦の六将(六大将軍)の史実【実在した人物ではある】

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秦の六将(六大将軍)は、キングダムでは将軍職のトップになるような役柄になっています。

かつて、昭王の時代に中華を駆け巡ったと言われている六大将軍を解説します。

尚、六大将軍は実在したのか?という方もいますが、六大将軍という名称は実在していません。

ただし、キングダムの六大将軍に選ばれた、白起、王騎王齕、司馬錯、胡傷の6人は実在します。

しかし、六大将軍と言うと対等な立場に感じますが、史実の実績を見ると白起だけが圧倒的に凄く、1人大将軍でもいい気がする位です。

尚、キングダムの記述で六大将軍には「戦争の自由が許されていた」という記述がありますが、それは絶対にありえません。

今回は、その辺りの記述も含めて簡単に秦の六大将軍を紹介します。

因みに、秦の六将は趙の三大天と呼ばれた廉頗藺相如趙奢らと熾烈な戦いを繰り広げた事になっています。

※現在のキングダムでは、秦の新六大将軍として蒙武楊端和王翦桓騎が選ばれ、六将の最後の一席は空席となっています。

新旧六大将軍を解説致します。

 

旧六大将軍

秦の昭王の時代に活躍したとされる旧六代将軍の実績を解説します。

白起の凄すぎる実績

秦の六大将軍の筆頭と言えば白起です。

中国で実在した史実の名将10人を選ぶとしても、白起は多くの方に選ばれるのではないかと思っています。

秦の宰相である魏冄に引き立てられると、あちこちの戦場で功績を残しています。

斬首した人数をトータルで考えれば100万人を超えているはずです。

特に、趙の趙括(趙奢の子)を破った長平の戦いは有名です。

この時に、趙の兵士40万人を生き埋めにしてしまいました。

ただし、秦の昭王が信任する宰相范雎との仲違いなどもあり、最後は自刎しています。

しかし、三晋(韓・魏・趙)や楚、斉などを討伐して領土を大きく広げました。

これにより戦国七雄の他国は弱体化しています。

秦の始皇帝の統一の礎を築いたのは白起でしょう。

白起だけは秦の六将の中でも実力は別格であり、中国の歴代名将で考えてもTOP5にも入る様な武将です。

 

王騎が六将の生き残り?

王騎はキングダムでは六将の生き残りという事になっています。

キングダムでも屈指の人気キャラクターと言えるでしょう。

王騎は矛を信(李信)に与えた事でも重要なキャラクターとなっています。

ただし、オカマっぽい所があるとか、「ココココ」と笑うなどの記述はもちろん、史実にはありません。

インパクトを付けるために、原泰久先生が付け加えた設定だと思われます。

尚、史実の王騎将軍ですが、史記の始皇本紀によると、昭王の50年に趙の首都邯鄲を囲んでいます。

ただし、平原君や信陵君春申君の活躍もあり落とす事は出来ませんでした。

しかし、韓の太原を取ったりしています。

秦王政(始皇帝)が即位すると、蒙驁麃公と共に将軍に任命されています。

始皇帝の3年に没した記録が残っています。

決して、魏加の弓矢を受けて龐煖に討たれたなどの記述もありません。

史実の王騎は、白起に比べると王騎はかなりインパクトが薄いです。

 

王齕と王騎は同一人物?

王齕は長平の戦いで、最初は総大将として廉頗と戦っていました。

廉頗に対して、決定的な勝利を収める事が出来ませんでしたが、善戦しています。

後に、趙は廉頗が更迭されて、趙括が将軍になると秦の白起を総大将にして、王齕を副将にしました。

長平の戦いは大勝しますが、その後、王陵が邯鄲に進撃します。

王陵は邯鄲を落とす事が出来ずに、将を王齕に変えますが、結局は邯鄲を陥落させる事が出来ませんでした。

しかし、韓の上党を攻めて太原郡の設置に活躍しています。

魏の信陵君が合従軍(魏・趙・韓・燕・楚)を構成して、攻めてくると蒙驁と共に敗退しています。

尚、始皇本紀だと王齕は全く登場しませんが、秦本紀には登場します。

逆に、王騎は秦本紀には登場しませんが、始皇本紀には登場するのです。

そのため、同一人物説も存在しています。

 

司馬錯は六将の長老??

司馬錯は、史記を書いた司馬遷の先祖に当たる人物です。

戦場で戦ったなどよりも、張儀との韓を討つか、蜀を討つかの議論の方が有名です。

結局、秦の恵文王は司馬錯の意見を尊重して、蜀を攻めて滅ぼしています。

司馬錯は、秦王政の4代前の王様である恵文王の頃から登場します。

そのため、六将の中でも最年長ではないかと思われます。

生没年は不明ですが、最後の記録が紀元前280年に楚の黥中を抜いた事です。

王騎将軍などか活躍したのが、昭王の後半の時代や秦王政の前半なので、時代的に一世代前の人物とも言えます。

それを考えると、史実では六将全員が揃っていた時期はないのではないかと思います。

司馬錯は秦の昭王の時代は前半に活躍した人物だからです。

 

胡傷は六将に入れてよいのか・・・。

胡傷は六将の中では、ただ一人軍師風の人物だったとされています。

キングダムの中では昌平君の軍略の師という設定です。

史実の胡傷を見ると華陽の戦いで魏冄、白起、胡傷で魏を破り13万人を斬首した記録があります。

しかし、それ以外では、趙の趙奢に閼与の戦いで大敗していますし、その後は行方不明になっています。

キングダムでは六将を操っていたという設定ですが、史実にはそういう事実はありません。

実績も少ないので、胡傷を六将に入れていいのか?とすら思うほどです。

 

摎は男です

摎はキングダムの設定では、昭王の娘で王騎に憧れる人物として描かれています。

史実においても、韓を破ったり西周(東周がさらに分裂した)を滅ぼしたりしています。

※注意・ここで言う西周は周王が天下を運営していた西周王朝とは別

分裂した東周が残っていますが、西周に周王がいた事で事実として、摎は周を滅ぼした人物です。

その他にも、魏を破るなどの活躍もしています。

尚、摎は女性という設定になっていますが、史実では男だったと思われます。

楊端和、羌瘣などもキングダムでは女性になっていますが、史実では男でしょう。

因みに、史記の始皇帝本紀に楊摎なる人物が秦の天下統一後に名前が見える為、摎が天下統一後まで生き残っていた説も存在します。

さらに、楊摎が本名であるなら楊姓となり、楊端和と同一人物説もある程です。

想像の域を出ませんが、摎と楊端和が同一人物もしくは同族の関係もある様に感じています。

 

新六大将軍

キングダムで新六大将軍の5人までが決まりましたので解説します。

蒙武は史実だと実績が少ない!?

新の六将に蒙武が選ばれる事になりました。

蒙武は蒙驁の子であり蒙恬や蒙毅の父親でもあります。

キングダムで言えば、中華最強の武を持つ男として描かれていますし、春申君や李牧が主導した函谷関の戦いでは楚の汗明を破るなど実績十分だと言えます。

しかし、史実の蒙武を見ると実績の記録は少なく蒙恬や李信が楚の項燕に敗れた後に、王翦と共に楚を攻めて楚王負芻(ふすう)を捕えた事と楚との最終決戦で勝利した事位です。

尚、キングダムの連載前に読み切りで「蒙武と楚子」なる原泰久さんの読み切りがあり、最後に昌平君と戦う事までも描かれています。

意外に思うかも知れませんが、既にキングダムの漫画では最後がネタバレしている状態となっています。

 

楊端和は謎が多い

楊端和は史記で実在が確認する事が出来ます。

先に述べた様に、摎と同一人物説があります。

キングダムでは女性であり山の民を率いている武将ですが、史実では女性だった記述も山の民や異民族だった話も存在しません。

蕞の戦いで嬴政を救った記録も史記や戦国策、資治通鑑などには見当たりませんでした。

楊端和が鄴攻めで王翦と桓騎と共に鄴を取った記録はありますが、楊端和が犬戎と戦った記録は存在しません。

因みに、楊端和は紀元前228年に趙を王翦、羌瘣らと共に趙を攻撃し李牧、司馬尚らと対峙しています。

趙の幽穆王が趙の佞臣である郭開の言葉を信じた事で、李牧は処刑され司馬尚は庶民に落とされ趙の首都である邯鄲は落城する事になります。

尚、邯鄲を落城させた後に楊端和の名前は歴史書から姿を消す事になります。

 

騰は韓を滅ぼす

は史記などでは内史騰の名前で登場します。

内史の位は秦が天下統一後に蒙恬が任命された役職でもあります。

始皇帝は蒙恬を重用し、万里の長城を築かせるなども行っている為、内史の位は秦では高位だと言う事が分かります。

キングダムでは六将の生き残りである王騎の副官となった事や函谷関の戦いでは臨武君を討ち取る活躍を見せています。

しかし、これらの活躍は史実ではありません。

史実の騰は紀元前231年に南陽の太守となり、紀元前230年には韓の新鄭を抜き韓を滅ぼしています。

尚、睡虎地秦簡(すいこちしんかん)にも名前が登場する為、史記の内史騰と同一人物ではないか?とも考えられています。

 

王翦は楚を滅ぼした名将

王翦は始皇帝の代で活躍した実在の人物です。

司馬遷が書いた史記にも白起王翦列伝がある事で有名な人物となっています。

史実の実績を考えれば、秦の六大将軍の筆頭とも呼べる人でしょう。

キングダムでは仮面を被り怖そうなイメージですが、史実の王翦は始皇帝にかなり気を遣った人でもあります。

蒙恬や李信が項燕に敗れると60万の軍勢を率いて蒙武と共に項燕と戦う事になります。

この時に王翦は秦王政の猜疑心をかわす為に、美田が欲しいとおねだりしています。

史実の王翦を見るとキングダムとは別人ではないか?と思える様な人物となっています。

尚、王翦の子が魏や楚を滅ぼした王賁であり、孫が王離です。

王翦は項燕を破りますが、項燕の孫である項羽に王翦の孫である王離が敗れた事は有名です。

 

桓騎は野盗の親分ではない

桓騎はキングダムでは野盗の親分だった事になっていますが、史実ではありません。

桓騎は王翦、楊端和と趙の鄴を攻めて抜いた記録があります。

鄴の戦いが終わると、趙の扈輒平陽の戦いで破り10万人を斬首する大戦果を挙げます。

しかし、李牧が出て来ると大敗し、それ以降は記録がなく行方不明となります。

尚、桓騎と樊於期の同一人物説があります。

李牧との戦いで敗れた桓騎が燕の太子丹を頼って燕に亡命した説です。

因みに、キングダムのラスボスは桓騎ではないか?と予想する人もいます。

 

戦争の自由はありえない

六将は特権として、戦争の自由が許されていたとされています。

つまり、独自の判断で自由に戦争が出来ると言う事です。

しかし、普通で考えれば絶対にありえません。

戦争というのは莫大な経費が掛かるわけで、無駄に攻め込んでしまったりすれば、莫大な予算が失われてしまうわけです。

さらに、秦は遠交近攻策が范雎の時代から採用されています。

基本戦略として、近くの国を攻めて、遠くの国(斉など)と同盟を結ぶ事です。

昭王の時代であれば、魏冄、甘茂、樗里疾、范雎などが首脳となり、どこを攻めるか?などを考えていたはずです。

将軍が勝手に考えて戦争をしていた形跡は、見当たりません。

 

六将でなくてもいい気がするが・・・。

秦の六将ですが、何も六人に固定しなくてもいい気がします。

趙にしても三大天で3人の将軍がトップに君臨しています。

なぜ、6人なのか?なぜ3人なのか?については、余り触れられませんが、理由も解説して欲しい気がします。

ただし、6将にも関わらず7人いたら間抜けな気もしますが。

有能な将軍が7人いれば7将でいいのではないでしょうか?

普通で考えれば6人に拘る事はないでしょう。

尚、新六将の最終メンバーは、王翦、蒙武、李信、王賁、蒙恬は確実ではないかと思います。

桓騎、楊端和、騰が現在は秦の六大将軍に名を連ねてはいます。

楊端和、羌瘣は趙を攻略してしまうと、史実では登場しませんし、騰は韓を滅ぼすのを最後に登場しなくなります。

桓騎に至っては、趙を攻略する前に李牧に敗れて行方不明となる状態です。

そのため、6将と言っても、時期により交代もある事を予想します。

それを考えると、最後まで残る六将は王翦、蒙武、李信、王賁、蒙恬が堅いと思った次第です。

あと、一人は・・・また考えて記事にしたいと思います。

しかし、六将と言いながらも、5人しかいなかったと言うのも、やっぱり。。間抜けに感じますが・・・。

それと同時に趙の新三大天が誰になるのかも楽しみだと感じます。

鄴攻めの最後に龐煖が姿を消し、三大天も三人が揃うのか暗雲が立ち込めています。

李牧と司馬尚は確実の様ですが、最後の一席は戦国策にしか登場しない司空馬がなるのか、傅抵がなるのかは不明です。

ただし、司空馬は史実では戦いに参加した記録もありませんし、傅抵も戦いに勝利した記録がありません。

その為、秦の六将以上に困難を極めているのが趙の三大天の様に思いました。

 

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