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構成・文/宮下悠史

前漢 秦末期・楚漢戦争

劉邦は民衆から成り上がり漢帝国を築いた人物

2021年7月20日

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劉邦は前漢を建国した人物であり、楚漢戦争で項羽を破った人物としても有名です。

中国の長い歴史の中でも、民間人から皇帝に昇りつめ天下統一したのは、劉邦と朱元璋の二人だけだと言えます。

楚漢戦争終了後の劉邦は匈奴との戦いで冒頓単于に大敗していますし、功臣を次々に処刑するなど暗さが見えます。

しかし、劉邦も死の間際となり、最後だと悟ると、再び劉邦本来の力を取り戻した様に感じました。

今回は秦末期から楚漢戦争の英雄である劉邦が、史実ではどの様な人物なのか解説します。

尚、劉邦と言えば項羽に何度も負けて、戦下手のイメージがある様に思いました。

実際には項羽が強すぎるだけであり、劉邦の用兵は上手い方ではないかと考えています。

劉邦は自分が項羽を破った理由として、張良韓信蕭何の3人を使いこなす事が出来たからと述べています。

しかし、劉邦が項羽に勝つ事が出来たのは、項羽に何度負けても、心が折れなかったからだとも考えられるはずです。

 

目次

赤龍の子

劉邦は沛県出身の民間人であり、劉太公と劉媼の間に3男として生まれた話があります。

劉邦の出生神話があり、劉邦の母親である、劉媼が大きな沢の畔で休んでいると、神にあった夢を見ました。

この時に天地が暗闇となり、激しく雷が起こり、劉太公が駆けつけると蛟竜が劉媼の上にいます。

劉媼は身籠り生まれたのが、劉邦だったとされています。

この蛟竜が赤龍だったとも言われていおり、劉邦は赤龍の子や漫画のタイトルにもなった「赤龍王」とも呼ばれる様になります。

お気づきの方もいるかと思いますが、劉邦の父親である劉太公や劉媼は本名ではない可能性もあります。

劉太公の「太公」は年長者を現わす言葉ともされ、劉媼の「媼」はおばさんを指す言葉ともされているからです。

尚、劉邦と言う名前も本当の名前かも定かではなく、司馬遷が書いた史記では劉邦という名前は出て来ません。

史記での劉邦は「沛公」「劉季」「高祖」などで呼ばれています。

劉邦の名前が登場するのは、漢書からですが、「邦」は国という意味があり、建国者の名が「邦」では、偶然が重なり過ぎていると、劉邦の本名ではないとする説もあります。

因みに、劉邦の兄は劉伯、二番目の兄は劉喜、異母弟に劉交がいます。

 

劉邦の生い立ち

劉邦の誕生秘話や青年時代の劉邦を解説します。

特徴のある身体

史記によれば、劉邦は生まれつき鼻が高く、額は龍の様で髭は美しく、左の股に72のほくろがあったとされています。

72は1年360日を五行説の5で割った数であり、非常に縁起が良い数字だとされていました。

ほくろの話は、劉邦は吹聴していただけとする説もあり、本当かどうかは分かりません。

ただし、これらの記述を考えると、劉邦は今でいうイケメンであり、劉邦の魅力に関しては外見的な要素も多分に含まれたいたのでしょう。

 

酒と色を好む

劉邦は酒と色を好んだとあります。

劉邦は王媼と武負の酒屋に出かけては、ツケで酒を飲んでいた話があります。

普通であれば「ツケ」で飲むのは嫌がられますが、劉邦が酒場に行くと、なぜか店が繫盛する事で、王媼と武負は劉邦がツケで飲むのを許していました。

劉邦は親分肌で人気があり、劉邦の周りには自然と人が集まったのでしょう。

尚、王媼と武負は劉邦が店にくれば酒が売れる事から、年末になると劉邦の借金を帳消しにした話があります。

劉邦の飲んだ分を差し引いても、劉邦が来る事で酒場は繫盛したのでしょう。

尚、劉邦は遊侠の徒でもあり、ならず者たちからも慕われていた様です。

劉邦が亭長になる

劉邦は成人になると、亭長になった話があります。

この時の同僚には、後の前漢王朝で丞相となる蕭何や曹参がいました。

この頃の蕭何や曹参は、劉邦の事を全く評価していなかった話がありますが、初期の段階で蕭何や曹参がいたのは、劉邦にとってみればかなりの幸運です。

三国志の劉備で言えば、諸葛亮がいきなり、張角が引き起こす黄巾の乱の前に劉備配下になった様なものだとも言えるでしょう。

尚、亭長時代の劉邦は失敗があっても、周りの人間がかなりフォローしてくれたようです。

ここでも、劉邦の人間力が発揮されています。

因みに、劉邦が就任した亭長は宿場を警護する役職であり、治安維持を行ったりもします。

亭長は地元の顔役が務める事が多い役職だった話もあり、地元のならず者達から慕われている劉邦には適性があると思われたのでしょう。

始皇帝の巡行

劉邦が民間人だった時代に、始皇帝の巡行をみた話があります。

当時の劉邦は自分が英雄だと吹聴していた話があり、「始皇帝に処刑されては溜まらん。」と隠れていました。

しかし、始皇帝を見ると、次の様に述べています。

「大丈夫たるもの。あの様で無ければいかん。」

劉邦は始皇帝が堂々と巡行している所を見て、感じる部分があったのでしょう。

尚、後年に劉邦のライバルとなる項羽が始皇帝を見た時は「奴(始皇帝)に、とって変わってやる。」と漏らした話があり、劉邦の言葉と対比されます。

項羽の覇気の強さを現わす話でもありますが、劉邦の方が項羽よりも年上であり、熟練の思考を持っている様にも感じます。

 

呂雉を妻とする

劉邦は呂雉を妻にする事になります。

余談ですが、後に呂雉(呂后)は中国三大悪女の一人に数えられる人物となります。

呂公が沛にやって来る

亭長時代の劉邦に、単父(地名)の有力者である呂公がやってきた話があります。

呂公が沛に来ると、多くの者が歓迎し挨拶に来る事になります。

呂公の受付を県の官吏である蕭何がやっており、諸大夫に「千銭以下の貢物の物は、堂下に座る様に。」と述べました。

この時に、劉邦は何を思ったのか「1万銭を持ってきた。」と言い、奥に入っていったわけです。

劉邦がお金が無い事は多くの人が知っており、劉邦自身も1銭も持っていませんでした。

 

劉邦の人相

呂公は人相を見る事を好み、劉邦を一目見るや驚きます。

呂公は劉邦を丁重に奥に導き、上座に座らせようとしました。

蕭何は呂公に「劉邦はホラ吹きだ。」と述べますが、呂公は気にせず、劉邦を上座に座らせたわけです。

劉邦も諸客を侮っており、堂々と振る舞って酒を飲んだ話があります。

宴もたけなわとなるや、呂公は劉邦に目配せをします。

劉邦も呂公の合図を感じ取り、わざとゆっくりと酒を飲みました。

 

呂公の娘を妻とする

呂公は劉邦の元にやってくると、次の様に述べています。

呂公「私は若い頃から人相を見る事を好み、多くの人の人相をみましたが、あなたに及ぶ人は一人もいませんでした。

私の娘を掃き掃除のはしためとして、貰っては下さいませぬか。」

呂公の娘は沛の県令が貰う予定だった事もあり、劉邦自身も驚いたはずです。

呂公の妻は、劉邦に娘を嫁がせると聞くと猛反対しますが、呂公は次の様に言って周りを説得しました。

呂公「こればかりは、女・子供に分かる事ではない。」

呂公の直感が娘を劉邦に嫁がせるのが最善と判断したのでしょう。

劉邦も呂公の娘を妻として迎えました。

呂公の娘が呂雉であり、後の恵帝(劉盈)と魯元公主を生む事になります。

さらに、呂雉の妹の呂嬃を樊噲に娶らせました。

余談ですが、呂公は戦国時代の秦で宰相をやった呂不韋の子孫だと言われています。

呂不韋は荘襄王を秦王に即位させますが、秦王政(始皇帝)の代になると、嫪毐(ろうあい)の乱で連座し、蜀に流され服毒自殺しています。

 

富貴を予言される

劉邦が亭長をしていた時代に呂雉が草刈りをしていると、老父が通りかかり飲み物が欲しいと言います。

呂雉が飲み物を与えると老父は「あたなは天下を取る貴相がある。」と述べ、劉盈(恵帝)を見ると「あなたが貴くなれるのは、この子のお陰です。」と言いました。

老父は去りますが、この話を呂雉が劉邦にしたわけです。

劉邦は老父に興味を持ち、追いかけて行き、老父を見つけると自分の人相を見て貰う事にしました。

老父「先ほどの夫人やお子さんは、非常に優れた貴相がありましたが、貴方様は格別です。」

これに劉邦は喜び、自分が裕福になった時は、老父にお礼をする事を約束します。

しかし、劉邦が富貴になった時には、老父の行方が分からなかった話があります。

 

職務放棄

劉邦は沛県の仕事で始皇帝陵を建設する為の、夫役の労働者を驪山に送り届ける仕事を任されました。

この仕事は過酷な為か、役人たちは劉邦に選別として三百銭を贈り、蕭何だけは五百銭を贈った話があります。

しかし、始皇帝陵の仕事は過酷で有名だった為か、人夫達が次々に逃亡してしまったわけです。

劉邦は、このまま行くと咸陽に到着する頃には、全員が逃亡してしまうのではないか?と悟ります。

秦の刑罰は厳しく、劉邦自身も刑罰に対象になってしまう事もあり、豊邑の西沢まで来ると、次の様に述べます。

劉邦「お前らはどこにでも立ち去るがよい。儂も逃げる事とする。」

劉邦は職務放棄してしまったわけです。

それでも、劉邦に人望があったせいか、10人ほどが劉邦に付き従う事を願い、劉邦と行動を共にする事になります。

劉邦が逃げてしまった事で、とばっちりを受けたのが呂雉であり獄に繋がれてしまいます。

しかし、獄吏で劉邦と仲が良かった任敖がおり、任敖が乱暴された呂雉を助けた話があります。

 

白帝と赤帝

劉邦は逃亡すると、酒を飲み夜道を歩いていました。

劉邦の集団で先に行った者が、この先に大蛇がいると伝えてます。

劉邦の従者は先に進むのを嫌がりますが、劉邦は構わず前に進むと大蛇がおり、劉邦は剣で大蛇を真っ二つにし、前に進みました。

劉邦は酒が回ってきたせいか、その先で寝てしまうと、従者たちが劉邦を追いかけて来て、斬られた大蛇の前に、涙を浮かべた老婆がいる事に気が付きます。

涙を流す老婆は劉邦の従者に次の様に述べています。

老婆「私の子は白帝の子で蛇に姿を変えここにいたのですが、赤帝の子がやってきて斬り捨ててしまったのです。」

劉邦の従者は老婆の話を信用せず、鞭で討とうとしますが、老婆は姿が消えてしまった話があります。

劉邦に追いついた従者達が、老婆との経緯を話すと劉邦は喜び、大蛇を斬った事を誇った話があります。

尚、秦の襄公や献公は白帝を祀った話があり、秦は金徳を持つ事になり、五行説では金は赤に弱く、劉邦が秦を討ち破るという予言にもなっている話です。

 

劉邦の雲気

始皇帝は「東南の方に天子の気がある。」と述べ、自らが東南に巡行し、天子の雲気を鎮めようとしました。

劉邦は始皇帝の雲気の話を聞くと、自分が殺されるかもしれないと逃げ隠れする事になります。

劉邦は様々な場所に逃げ隠れしますが、呂雉はいつも劉邦の場所を見つける事が出来きました。

劉邦は「なぜ自分の場所が分かったのか?」と呂雉に聞くと、呂雉は次の様に答えています。

「あなたのおられる場所には、いつも雲気があり、そこに行けばいつもいる事が分かったからです。」

この様な話もあり、劉邦には神秘的な力があると、沛県の多くの者が劉邦を従う様になった話があります。

ただし、劉邦と呂雉の雲気の話は、劉邦と呂雉で事前に打ち合わせておいた説もあります。

当時は迷信が人々に大きな影響を与えていた時代であり、劉邦や呂雉もそれらを利用したのでしょう。

 

始皇帝の死

紀元前210年に始皇帝が崩御します。

この時に、始皇帝は巡行中であり、首都の咸陽にいなかった事もあり、政治的な混乱が発生します。

宦官の趙高が暗躍し、李斯が加担した事で長子の扶蘇は自刃し、末子の胡亥が二世皇帝として即位しました。

二世皇帝は秦の公子の多くを処刑し、趙高は蒙恬蒙毅を殺害し、さらには丞相の李斯や馮去疾なども処刑しています。

秦の宮廷は趙高が取り仕切り、混乱を見せ中華は混乱期に入っていきます。

始皇帝の死は劉邦にとっても転機となるわけです。

 

劉邦の旗揚げ

秦に対する不満は高ぶっており、こうした中で陳勝呉広の乱が勃発します。

農民出身の陳勝と呉広が扶蘇と項燕を名乗り、秦に対して反旗を翻した事が導火線となり、多くの者が挙兵する事になります。

こうした中で、劉邦が沛で挙兵する事になります。

 

県令となる

陳勝呉広の乱は瞬く間に全国に拡がり、陳勝は陳で張楚を建国しました。

沛の県令は反乱軍に殺される事を恐れ、陳勝らに合流しようと考えますが、主吏の蕭何と獄吏の曹参は次の様に述べます。

「あなたは秦の役人ですから、沛の子弟を率いようとしても、子弟は言う事を聞かないでしょう。

秦の法令を犯し外に逃げている者達を集めれば、数百人は集める事が出来ます。

その力を以って人民を脅かせば、皆が言う事を聞くでしょう。」

沛の県令は樊噲に命じて劉邦を呼ばせると、既に劉邦の徒党は数百人になっていた話があります。

しかし、県令の気が変わり秦に背く事をやめ蕭何と曹参を殺害しようとしました。

蕭何と曹参は劉邦の陣に逃げ、県令は城門を閉じて固く守りますが、劉邦は矢文を使い城内で反乱を起こさせ県令を殺害させています。

この時に蕭何や曹参は、劉邦に県令になる様に伝えています。

劉邦は固辞し別の者が県令になる様に伝えますが、蕭何や曹参が強く勧めた事で劉邦が沛県の県令になったわけです。

蕭何や曹参が県令にならなかったのは、天下はまだどう転ぶか分からず、沛の責任者になるのはリスクがあり過ぎると感じたからだと言われています。

尚、史記ではこの時から、劉邦は沛公を呼ばれる事になります。

 

赤色の軍

劉邦は沛公となるや黄帝や蚩尤を祀り、旗は赤色を用いた話があります。

劉邦は先に白帝の子とする蛇を斬っており、自分が赤帝の子であるとし、赤色を尊んだとされています。

尚、この時の劉邦軍には既に蕭何、曹参、樊噲、盧綰、夏侯嬰、周勃などがいました。

劉邦軍は初期段階から、後に天下に名を現わす人物がいた事が分かります。

別の言い方をすれば、これらのメンバーは劉邦に従った事で天下の将相になったとも言えます。

劉邦は三千人ほどの軍となって胡陵や方与を攻め、還って豊邑を守った話があります。

挙兵した劉邦の軍は幸先よく、事が運んだと言えるでしょう。

この頃に、会稽では項梁と項羽も挙兵し北上を始めました。

因みに、項梁は秦の王翦蒙武と最後まで昌平君と共に戦い抜いた項燕の子であり、楚では非常に求心力が高かった人物です。

 

雍歯に裏切られる

張楚を建国した陳勝は各地に軍を派遣する事になります。

しかし、陳勝が送り出した将軍たちは趙で武臣が独立し、燕で韓広が独立するなど纏まりに欠ける事になります。

陳勝配下の周章は函谷関を破り、秦の都咸陽を目指しますが、囚人兵を率いた章邯に敗れました。

この頃に劉邦は秦の「平」という人物と城の外で戦い打ち破っています。

劉邦は雍歯に豊邑を守らせ、自らは薛を攻略し亢父を取り、方与に向かうなど連戦連勝だったわけです。

陳勝も周市を方与に差し向けています。

周市は劉邦軍の豊邑を守備する雍歯に侯にする約束をし、寝返らせる事に成功しました。

周市は魏咎を擁立し、魏王とし自らは魏の相となっています。

劉邦は雍歯が裏切った事を知ると、豊邑に戻り雍歯を攻撃しますが抜く事が出来ず苦戦しました。

そうこうしているうちに、劉邦が病気となり沛に戻る事になります。

この時に劉邦は雍歯を酷く恨んだ話もあり、豊邑での事はかなりのトラウマになっていた様です。

劉邦にとってみれば青天の霹靂でありショックが大きかったのでしょう。

 

張良との出会い

劉邦は回復すると、楚の皇族出身の景駒という人物に6千の兵を借りる事になります。

この時に留(地名)で張良に出会い、劉邦は張良を大いに気に入ります。

張良も兵を集めた事がありましたが、百人ほどしか集まらなかった事もあり、将軍には向いていないと悟っていたのでしょう。

張良は自らの考えを多くの人に進言しましたが、聴き入られる事はなく、劉邦だけが張良の言葉に耳を傾けたわけです。

早い段階で劉邦が張良を得る事が出来たのも、かなりの幸運だと言えます。

 

楚軍に加わる

劉邦は項梁の軍に加わる事になります。

項梁配下時代の劉邦の実績を解説します。

項梁の軍に加わる

この頃は秦の章邯があちこちで、反乱軍を打ち破り、劉邦も章邯と戦い敗れています。

反乱の首謀者であった陳勝も章邯に破れ、命を落としました。

こうした中で、項梁は薛で会合し、今後の方針を決めようとします。

項梁の会合に劉邦も百余騎を従えて参加すると、項梁は劉邦の力を認め、劉邦に5千の兵と五大夫の将を10人ほど与えた話があります。

楚の軍師となる范増も薛に訪れ項梁の配下になった事で、秦を滅ぼす為の役者は薛に集結したとも言えるでしょう。

余談ですが、項羽は劉邦に会うと何故か気に入り義兄弟の契りを結んだ話があります。

劉邦は項羽と義兄弟になるのを嫌がっていたが、しぶしぶ義兄弟になったともされています。

劉邦は項梁に与えられた兵を率いて、豊邑を攻撃し抜く事に成功しました。

項羽も襄城を攻撃し陥落させています。

尚、項梁は陳勝の死を知ると、楚の懐王の孫である羋心を探し出し、楚王に擁立し盱台を首都とし項梁は武信君と号します。

 

この頃の情勢

劉邦が項梁の軍に加わった頃の情勢は、秦の将軍である章邯が猛威を振るっており、魏を滅ぼし魏王魏咎と周市が亡くなり、援軍に来た斉の田儋も討ち取っています。

章邯の軍は戦えば必ず勝ち、連戦連勝で勢いに乗っていたわけです。

斉の田栄が守る東阿も章邯に攻められ窮地に陥っていました。

しかし、項梁が東阿に援軍に行くと、無敵の章邯軍を破り追い払う事に成功しています。

章邯に思わぬ所で、土が付いたと言えるでしょう。

それでも、章邯は態勢を立て直し再び戦う事になります。

 

項羽と劉邦が共闘

後に楚漢戦争で戦い続ける、項羽と劉邦ですが、項梁の配下だった頃は共闘した話があります。

親分肌の劉邦と武闘派の項羽という、似ている様で違う二人が共に戦ったわけです。

項梁は秦軍を破ると、項羽と劉邦に命じて城陽を攻めさせて陥落させています。

さらに、項羽と劉邦は城陽の東の敵をも打ち破りました。

劉邦は濮陽や定陶を攻めますが、落とす事が出来ず、項羽と共に西方に行き雍丘で秦軍を大いに破っています。

雍丘の城下での戦いで、項羽と劉邦は李由を討ち取る大戦果を挙げています。

李由は秦の丞相である李斯の息子であり、秦にとって重要人物でもありました。

 

項梁の死

項梁も2度に渡り秦軍を破り、驕る様子があり宋義が諫めた話があります。

秦の章邯は定陶で項梁を急襲し、大いに打ち破り項梁も戦死しました。

楚の実質的な責任者である項梁の死は、楚軍にとって衝撃は大きかった事でしょう。

項羽と劉邦は陳留を攻撃中でしたが、項梁の死を聞くと彭城まで戻る事になります。

項梁が見識が高い人物と評される事もあり、項梁が戦死しなければ、劉邦も天下を取る事が出来なかったのかも知れません。

尚、項梁を討ち取った章邯は、楚は崩壊に向かうと判断し、北で鉅鹿を包囲している秦の王離の援軍に向かう事になります。

 

関中を目指す

楚の懐王(羋心)は最初に関中に入った者を関中王にすると宣言し、劉邦は関中を目指して戦う事になります。

劉邦は多くの城を降伏させながら咸陽を目指します。

関中王への道

楚の懐王は、項梁が討ち死にした話を聞くと、盱台から彭城に遷都しています。

楚の懐王は強気にも、将兵たちを引き締めるために、前線に近い彭城を首都としました。

懐王「まっさきに函谷関に入り、関中を平定した者を関中王とする。」

この時の秦軍は圧倒的に強く、楚の懐王の言葉に反応した者は項羽しかいなかった話があります。

項羽は項梁を秦軍が殺害した事を恨んでおり、劉邦と共に西行して秦を討つ事を願ったわけです。

しかし、懐王の諸将は項羽の残虐性を危惧し、劉邦を関中に向かわせる様に進言しました。

楚の懐王も項羽を上将軍とせず、宋義を上将軍とし次将に項羽、末将に范増を任じ趙の鉅鹿を救援させています。

この時の鉅鹿は趙歇、張耳、陳余が秦軍を戦っていましたが、王離が率いる秦の正規軍30万の前に絶望的な戦いを強いられています。

楚の懐王や側近たちは、殺戮を繰り返す項羽よりも劉邦に関中を制圧して欲しいと願ったのでしょう。

尚、項梁に張良が横陽君成を韓王にする様に進言し許された事で、張良は劉邦陣営から離脱し、一時的に韓王成に従っています。

 

酈食其が配下となる

秦の首都咸陽を目指した劉邦軍ですが、張良がいなくなった事で精彩を欠いたのか、秦軍の城を抜けないなどの状況が発生します。

劉邦は昌邑で彭越と会い共に秦軍を攻めますが、不利な戦いを強いられてもいます。

劉邦は剛武侯の兵4千を奪い昌邑に攻撃を掛けますが、ここでも昌邑を抜けずに、劉邦は兵を西方の高陽に向かう事にしました。

ここで儒家の酈食其が「沛公(劉邦)は、温厚な長者である。」と述べ面会を求めます。

劉邦は儒家が大嫌いで、儒家の冠に小便を入れた事もあるほどでした。

酈食其がやってくると、劉邦は女性に足を洗わせながら酈食其と話をしようとします。

酈食其は怒り、劉邦の態度の悪さを指摘すると、劉邦は酈食其を面白い奴だと思ったのか、詫びて上座に引き入れます。

酈食其は陳留を降伏させ、交通の要所と大量の食料も手に入れる事になります。

劉邦は酈食其を広陽君とし、酈食其の弟である酈商を将軍として、劉邦は開封を攻めますが、ここでも劉邦は城を抜く事が出来ませんでした。

 

張良と合流

劉邦軍は酈食其の活躍もありましたが、迷走からは抜け出せておらず、秦軍と勝っては負けてを繰り返していました。

この時に、張良も韓王成を補佐し、韓の故地を攻撃し、数城を得ていますが、張良は単独で秦軍と戦う事になり、結局は奪い返されています。

こうした中で、劉邦は洛陽を南下し、韓王成を助けています。

ここで劉邦は韓王成に頼み込み張良を借りる事になります。

劉邦は自分には張良がいないとダメだと悟っていたのでしょう。

 

破竹の勢いの劉邦軍

劉邦は関中王になりたくて、宛を無視して関中に進軍しようとすると、張良が次の様に進言しました。

張良「劉邦様は急いで関中に進軍しようとしますが、秦兵は多数おり、宛城を無視すると後ろを塞がれる可能性があります。」

これにより劉邦は宛城を夜のうちに何重にも包囲しました。

南陽の太守は絶望し自刃しようとしますが、配下の陳恢が止め、陳恢は劉邦に面会する事になります。

陳恢「宛は大都であり、郡県は数十もの城を連ねております。宛や南陽の諸城には食料も物資も大量にあるのです。

しかし、吏人達は降ったら殺されると思っているので城を固く守り堅守を布いています。

劉邦様が投降した郡守達を許し、郡の守備を命じ、郡の兵士らと共に西を目指すのならば、争って劉邦様に味方する事でしょう。」

劉邦は陳恢の言葉を受け入れ、宛の守を殷侯とし、陳恢には千戸を与えた話があります。

これにより劉邦軍に降伏する者が続出し、劉邦軍は破竹の勢いで咸陽を目指す事になります。

劉邦が丹水まで来ると、高武侯鰓や襄侯王陵も降りました。

劉邦は兵を移して胡陽を攻撃し、番君呉芮の別将である梅鋗に会っています。

劉邦は梅鋗と共に、析と酈を攻略しました。

劉邦は敵を破っても略奪をしなかった事で、秦の民に喜ばれた話があります。

余談ですが、劉邦と共に戦った梅鋗の先祖は、殷の紂王に殺害された梅伯の子孫とされています。

この頃に項羽は、趙の趙歇、張耳、陳余の救援に赴き、秦の正規軍30万を擁する王離の軍を叩きのめし、章邯を殷墟で降伏させています。

項羽も咸陽を目指しますが、項羽軍は劉邦の寛容さがなく、敵を屠りながら前に進んだ為に、進軍速度が遅くなったとする話もあります。

 

秦の滅亡

劉邦は武関から関中に進撃し、秦を降伏させる事になります。

これにより秦は滅亡しました。

趙高を懐柔

史記の高祖本紀によれば、劉邦は魏人の甯昌を使者として秦に派遣した話があります。

史記の始皇本紀にも劉邦が秦に使者を派遣した話があり、これにより劉邦と趙高がコンタクトを取ったのではないか?と考えられています。

この頃になると秦の内部では、趙高が胡亥を殺害しており、趙高は劉邦に関中を二つに分けようと持ち掛けた話もあります。

しかし、劉邦は趙高の言葉を信じずに、武関方面から関中に進撃しました。

劉邦は函谷関からの進撃は守りが固く困難だと感じ、武関方面から咸陽を目指す事になったわけです。

この頃になると、趙高も子嬰に殺害され、子嬰が秦王に即位しています。

 

秦軍を撃破

史記の高祖本紀だと劉邦は武関に入る前に、秦の将軍を酈生と陸賈を使者とし懐柔した話があります。

その上で武関を急襲し抜く事に成功しました。

さらに、秦軍と藍田の南で戦い疑兵の旗幟を使い秦軍を破ります。

劉邦軍は関中でも略奪を禁じた事で、秦の人民は戦意を失い、劉邦はこれに乗じて秦軍を大いに破る事になります。

劉邦軍は北方でも秦軍を破った事で、秦軍は壊滅し、劉邦軍に太刀打ち出来ませんでした。

 

秦の滅亡

劉邦の兵は、遂に覇上に到着し、ここにおいて秦王子嬰は降伏を願い出る事になります。

この時の子嬰は素車を白馬に引かせ、自らは軛をかけ、皇帝の玉璽と符節を函に封じて、軹道亭の傍らで降伏しました。

劉邦軍の中には「子嬰を殺害すべき」とする声もありましたが、劉邦は次の様に述べています。

劉邦「楚の懐王が私を関中に向かわせたのは、自分が寛容な判断を降せると願ったからである。

そもそも、降伏した者を処刑するのは不義である。」

劉邦は子嬰を官吏に渡し監守させましたが、処刑は行っていません。

史記などでは、項羽が子嬰を処刑した事で秦の滅亡とする記述もありますが、実質的には劉邦が子嬰を降伏させた時点で、秦の滅亡と言えるでしょう。

尚、秦は天下統一後わずか16年で滅亡した事になります。

 

樊噲と張良の諫言

劉邦は子嬰を処刑する事はありませんでしたが、秦の後宮の美女や財宝には興味を持ちます。

劉邦は秦の阿房宮の宮殿などで宴を楽しもうと考えますが、樊噲が諫めました。

樊噲が諫めても劉邦は聞く耳を持ちませんでしたが、張良が劉邦を諫めると劉邦は聞き入れ、軍を覇上に戻し駐屯させています。。

劉邦は美女や財宝には手を付けなかったわけです。

 

蕭何の功績

劉邦軍が咸陽に一番乗りした時に、蕭何だけは丞相府に行き図籍を集め全て保管した話があります。

これにより蕭何は、天下の要害や戸籍数や地域ごとの財力などを把握する事になります。

劉邦が天下を取る事が出来た要因の一つに、蕭何の兵站の上手さがありますが、秦の戸籍や地図を保管した事が大きいとされています。

蕭何は実戦に参加しなくても、策謀を練る事が出来なくても、政治に関しては一級品の人材だと言えるでしょう。

 

法は三章のみ

劉邦は秦を降伏させると、「法は三章のみ」と定めた話があります。

秦では商鞅の改革以降は、過酷な法治主義を行っており、劉邦は法律を大幅に緩めた事になります。

劉邦の定めた三章は次の通りです。

人を殺せば死刑

人を傷つければ処罰

物を盗めば処罰

秦の民衆は長年に渡り、秦の法律に苦しめられていた事もあり、劉邦の簡素な法律は喜ばれた話があります。

秦の人々は劉邦に食料などを提供しますが、劉邦は「食料に困っているわけではない。」と受け取る事はありませんでした。

関中で劉邦は略奪もしなかった事で、人々から支持されたわけです。

秦の人民も劉邦が関中王になる事を望んだ話があります。

 

鴻門之会

項羽も関中に向かっており、項羽と劉邦の間で鴻門之会が行われています。

教科書にも登場する項羽と劉邦の会談である、鴻門之会を解説します。

 

函谷関を守る

関中を平定した劉邦に、ある人が次の様に述べます。

「関中の富は天下の10倍はあり、要害の地でもあります。項羽は章邯を雍王とし、関中の王に任命しました。。

項羽が関中に入ったら、劉邦様はこの地を保つ事が出来なくなるでしょう。

函谷関に兵を置き守りを固め、項羽を函谷関に入れてはなりませぬ。」

劉邦は、この言葉に従い函谷関を守備させています。

項羽が函谷関まで辿り着くと、劉邦が既に咸陽を落とし、函谷関を守っていると知ります。

項羽は激怒し、当陽君の黥布(英布)に攻撃を命じ、函谷関を突破しました。

 

曹無傷の寝返り

項羽が函谷関を落とした事を知ると、劉邦の左司馬である曹無傷が項羽に「劉邦は関中で王となろうとしており、子嬰を宰相とし珍宝を悉く領有した。」と連絡を入れてきます。

さらに、項羽の軍師である范増も劉邦に天子の気があると言い、項羽に劉邦軍を攻撃する様に述べています。

項羽は激怒し、士卒に十分な食事をさせ、翌朝に劉邦軍を攻撃させると決断しました。

この時の項羽は40万の大軍であり、劉邦は半分の20万の軍勢を集めるのがやっとだった話もあります。

 

張良と項伯

項羽軍にいた項伯は、過去に劉邦の軍師である張良に助けられた事がありました。

項羽が劉邦の軍に攻撃を仕掛ける事を知ると、項伯や友人の張良の元に行き「共に逃げよう。」と誘います。

ここで、張良は逃げ出す事をせず、劉邦に項伯を面会させたわけです。

劉邦は張良の話を聞くと慌てて、項伯と面会し、項伯には婚姻を約束し、項羽へのとりなしを願います。

項伯は項羽に劉邦のとりなしを行い、劉邦は明朝に項羽に詫びを入れる事になったわけです。

 

鴻門之会で九死に一生を得る

明朝に劉邦は数百騎を連れ、項羽の陣に謝罪に行く事になります。

劉邦は項羽に臣下の礼を取り、項羽に謝罪しました。

項羽は劉邦の言葉に満足し、劉邦を讒言したのは曹無傷だと述べます。

この時に項羽配下の范増は、劉邦の暗殺を狙っており、項羽が劉邦に危害を加えるつもりはなくても、非常に危険な状態だったわけです。

范増は項荘に剣舞を舞い劉邦を刺殺する様に指示します。

しかし、項伯も剣舞を舞い、樊噲や張良が機転を利かせた事で、劉邦は死地を脱出する事になります。

この時の范増の怒りは大きく、劉邦からの贈り物である玉斗を破壊してしまった話がある程です。

鴻門之会では劉邦は、九死に一生を得たと呼べる状態だったのでしょう。

尚、項羽としてみれば、ここで劉邦を殺しておかなかった為に、天下人から転落する事になります。

 

項羽の論功行賞

項羽は咸陽に入ると秦の都を焼き払い、諸侯を分封します。

劉邦も漢中王となりますが、不満だった話があります。

義帝との約束

項羽は西進し咸陽に入ると、子嬰を殺害し秦の宗族も殺害しました。さらに、民衆を屠り宮殿を焼き払った話があります。

項羽は諸侯を分封しようとしますが、楚の懐王は「最初の約束の様にせよ。」と項羽に命令しました。

懐王は劉邦を関中王にする様にと命じたわけです。

項羽は自分を趙に向かわせた上で、秦の咸陽に行くように命じた事を恨んでいました。

項羽は義帝(懐王)を形の上では尊びましたが、言う事を聞く気はなく、項羽は楚の懐王にも制御出来ない存在になっていたわけです。

 

漢中王

項羽は義帝との約束を反故にしましたが、諸将の手前、約束を全く無視するわけにも行かなかった話があります。

そこで項羽は、次の様に述べています。

項羽「巴蜀の道は険阻であり、秦から移住した人々も多く住んでいる。漢中の地もまた関中である。」

これにより項羽は漢中王に劉邦を封じました。

正確に言えば、巴、蜀、漢中の地が劉邦の封地となり、漢中王と呼ばれ、国名は漢中を略して「漢」となった話があります。

後述しますが、劉邦は項羽の待遇に不満を持った様です。

尚、劉邦が与えられた漢中は、中華の中心である中原から見て、左側にあった事から「左遷」という言葉が生まれたとする話があります。

項羽は関中の地を3つに割り、塞王に司馬欣、擁王に章邯、翟王に董翳としました。

さらに、西魏王に魏豹、河南王に申陽、韓王に韓成、殷王を司馬卬とし、常山王に張耳、代王に趙歇、衡山王に呉芮、臨江公に共敖とし、

燕王に臧荼、遼東王に韓広、膠東王に田市、斉王に田都、済北王に田安、九江王に英布とし、自らは西楚の覇王と名乗る事になります。

項羽の論功行賞により18の諸侯が誕生したわけです。

しかし、斉の有力者である田栄が項梁を助けなかった為に、王になれなかったり、陳余も項羽に従って関中に入らなかった為に王になれませんでした。

項羽の論功行賞は不平等が大きく、諸侯は反発した話があります。

 

劉邦の怒り

先に述べた様に劉邦は関中王にされますが、怒り心頭だった話が資治通鑑にあります。

劉邦は項羽への攻撃を考え周勃、灌嬰、樊噲の三将も挙兵に賛成した話があります。

蕭何が劉邦を次の様に諫めています。

蕭何「漢中王にされたのは許せない事ですが、死ぬよりはマシでしょう。

今の劉邦様では項羽に及ばず100戦すれば100敗する事は確実です。

殷の湯王や周の武王らは、一人の元に屈し万乗の上に伸びる事が出来ました。

劉邦様は漢中に赴き、民を養い賢人を招き、巴蜀の富で国力を増幅させるべきです。

その上で三秦の地を征服すれば天下を得る事も出来ましょう。」

蕭何の言葉に納得した劉邦は漢中に向かう事になります。

 

漢中に向かう

項羽の命令により、劉邦は漢中の地に向かう事になります。

劉邦に従った者の中には、梅鋗の様に侯に封じられた事で離脱した者もいました。

ただし、劉邦が漢中に行く事が決まると、劉邦に従った兵は半数以下になった話もあり、劉邦の求心力がかなり低下した事が分かります。

項羽はこの時に士卒3万人を劉邦に従わせ、漢中に送った話があります。

楚兵や諸侯の兵の中で劉邦に従う事を希望した者達と共に、劉邦は杜南から蝕中に入った話があります。

張良は襃中まで劉邦を見送り、棧道(木で造った橋)を焼き払う様に進言しました。

張良が棧道を焼き払うのを進めた理由としては、諸侯が攻めて来るのを抑えるためと、項羽に反旗を翻す意思がない事を示す為だと伝わっています。

張良の頭の中では、項羽に劉邦を危険人物だと悟られない様にする必要があると考えたのでしょう。

さらに、張良は天下はまだまだ乱れるし、劉邦が天下人になる可能性も十分にあると考えたはずです。

 

天下が乱れる

項羽の論功行賞に対して、各地で不満が噴出し天下が乱れる事になります。

韓王成は軍功が無かった事で、項羽は不満を感じており、韓王成を国に行かせませんでした。

さらに、韓王成を自分の本拠地である彭城に連れて行き殺害しました。

張良は韓王室の復興を目指していたわけであり、項羽に対し恨みを抱いた事でしょう。

さらに、項羽が燕王に命じた臧荼が燕に行くと、元の燕王である遼東王の韓広と戦いとなり、臧荼が打ち破っています。

臧荼は燕と遼東を領有する事になったわけです。

斉では田栄が田市を膠東に遷し、田都を斉王に立てた事を知り激怒し、田栄は斉の総力を以って田都を攻撃し敗走させています。

ただし、田市が項羽を恐れ膠東に遷ろうとした事で、田栄の怒りを買い、田市は殺害されています。

田栄は済北王の田安も破った事で、田栄が斉王となり斉の地を治める事になります。

田栄は功績があったのに褒賞を授けられなかった彭越に将軍の印を預け、楚の地で反乱を起こしました。

項羽は蕭公角に兵を預け、彭越の討伐に向かわせますが、蕭公角は彭越に大敗しています。

張耳と陳余は過去に刎頸の交わりを結んでいましたが、鉅鹿の戦い以降は憎しみ合う間柄となっています。

陳余は田栄に兵を借りて、自分の領地である南皮の兵と共に張耳を攻撃しました。

張耳は大敗し劉邦の元まで逃亡しています。

陳余は元の趙王であった趙歇を趙王に戻し、趙歇は陳余の功績を認め代王としています。

項羽は18の諸侯を分封しましたが、反発もあり、国に入れなかった人物までいた程です。

こうした中で、劉邦も力を蓄え動き出す事になります。

 

韓信を将軍に任ずる

劉邦が巴蜀の地に入ると、韓信も楚を離脱し劉邦配下の連敖(接待係)になっています。

韓信はある時に、罪を犯して処刑される事になりますが、夏侯嬰の目に留まり許されています。

夏侯嬰は韓信の能力を認め劉邦に推挙しますが、劉邦は韓信を重く用いず、蕭何の配下としました。

蕭何は韓信と語り合ってみると、能力の凄さに驚き、劉邦に再三に渡って推挙しますが、劉邦は重く用いる事はなかったわけです。

時が立つと劉邦陣営の多くの者が逃げ出し、韓信も逃亡してしまいます。

蕭何は驚き韓信を追い連れ戻すと、劉邦を説得し韓信を将軍に任じたわけです。

ここにおいて大将軍韓信が誕生しました。

韓信を大抜擢した事に多くの者が驚いた話があります。

尚、韓信は張良や蕭何と並ぶ漢の三傑に数えられる人物となります。

用兵の天才と言ってもよい人物でしょう。

因みに、韓信と韓王信は同名ではありますが、別人なので注意が必要です。

 

劉邦が東進を決意

韓王信が劉邦に次の様に述べた話があります。

韓王信「項王(項羽)は諸将で功績のあった者を王としましたが、漢王(劉邦)様だけが、南鄭におられます。

これは左遷と同じであり、軍吏や士卒たちは皆が山東の出身なので故郷に帰りたがっています。

その矛に乗じて動けば大功を立てる事も出来るのです。

天下が完全に定まってしまえば、人々は安寧を求め動こうとはしないでしょう。

東進する事を決断し、天下に覇を争うべきです。」

韓王信は劉邦に東進する事を進言したわけです。

尚、先ほどの韓王信の言葉は、漢書だと韓信の言葉となっていますが、史記だと韓王信になっており、漢書の韓信の記述が間違いではないか?と考えられています。

 

三秦の平定

劉邦は関中に侵攻し、雍王章邯と陳倉で戦いますが、劉邦軍が勝利を収めています。

章邯は態勢を立て直し、好畤で劉邦を迎撃しますが、再び敗れています。

章邯は廃丘に籠りますが、結局は孤軍奮闘となり、最後は自刃しました。

項羽は田栄を討伐する為に、斉におり章邯に援軍を送る事が出来なかった話もあります。

さらに言えば、過去に章邯は殷墟で項羽に降伏しますが、項羽が秦兵20万を生き埋めにしてしまった事で、章邯と配下の司馬欣、董翳らは秦人から恨まれていたともされています。

これにより劉邦は易々と章邯を倒す事が出来たわけです。

尚、塞王司馬欣と翟王の董翳は劉邦に降伏しました。

劉邦は、隴西、上郡、北地にも兵を出し攻略する事に成功しています。

劉邦は、これにより三秦を平定し、関中を完全に手中に収めたと言ってもよいでしょう。

さらに、劉邦は項羽が韓王成の後釜として、韓王にした鄭昌も破っています。

劉邦は韓王信を韓王に任命しました。韓王信は劉邦が任命した初の諸侯王となります。

劉邦の勢いは止まらず、河南王の申陽、西魏王の魏豹、殷王の司馬卬も漢に降りました。

司馬卬が漢にあっさりと降った為に、陳平は項羽の怒りを恐れ魏無知を頼りとし、劉邦の配下となります。

こうした中で、陳余に敗れた張耳も劉邦軍に加わる事になります。

劉邦軍は瞬く間に勢力を拡大したわけです。

 

劉邦の元に人材が集まる

この頃に劉邦は、薛歐と王吸を武関から出し王陵を味方とし、劉太公(劉邦の父)と呂后を沛から迎えさせています。

項羽との決戦を視野に入れた劉邦は、自分の家族を手元に置いておきたかったのでしょう。

しかし、項羽は夏陽で劉太公や呂后との合流を阻止した話があります。

先に述べた様に、項羽は韓王成を封地に向かわせず、侯に落とした後に、殺害しました。

これにより韓王成の配下である張良は項羽を恨み、劉邦に合流したわけです。

張良は今までは立場上は韓の配下であり、劉邦の客将でしたが、ここから先は正式に劉邦の臣下となります。

さらに、劉邦陣営には韓信、曹参、周勃、樊噲、陳平、蕭何など人材の宝庫だったわけです。

 

義帝の死

劉邦の軍勢は勢いに乗りますが、董公が義帝(楚の懐王)の死を劉邦に告げる事になります。

劉邦は項羽が理由を付けて、義帝を長沙の郴県に遷し、衡山王呉芮、臨江公共敖、九江王黥布らに義帝を殺害した事を知ります。

義帝の死を知った劉邦は、喪に服し三日間の謹慎を行い、天下の諸侯に使者を送り、次の様に述べています。

「天下の者が義帝を天子とし、北面して仕えたのである。義帝を江南に追いやり殺害した項羽は大逆無道である。

私は義帝の為に、諸侯王らと共に、楚の義帝を殺害した者(項羽)を討ちたいと思う。」

項羽を非難した劉邦は、諸侯らと共に楚の首都である彭城を攻撃する事になります。

 

彭城の戦い

劉邦は彭城で項羽と戦いますが、歴史的な大敗北を喫する事になります。

劉邦軍56万が項羽軍3万に敗れた彭城の戦いを解説します。

 

張良の書簡

張良は項羽に次の様な書簡を送っています。

「漢王(劉邦)は先に蜀を失ったので、関中の地を得ようとしたのです。項王が約束を守ってくれるなら、あえて東に進む事はありません。

本当に危険なのは、斉であり趙と共に楚を滅ぼそうとしております。」

張良の手紙を見た項羽は西にいる劉邦に兵を差し向ける事もなく、東の斉に自ら兵を率いて討伐に向かいます。

この時に項羽は九江王の黥布にも出陣要請しましたが、黥布は自らは病気だと言い部下に数千の兵を率いて、項羽に援軍を派遣しただけでした。

これにより、項羽と黥布の心に隙が生まれる事になります。

 

張耳の首

劉邦は項羽の本拠地である彭城に狙いを定めますが、趙にも彭城を攻撃する様に要請します。

趙の実権を握っていた陳余は「劉邦の元にいる張耳の首を持って来れば援軍要請に応じる」と述べます。

これに対し、劉邦は罪人の中で張耳に似た人物の首を斬り、陳余の元に送る事にしました。

劉邦のやった事は詐欺ですが、これにより趙の軍勢も彭城に向かって進撃する事になります。

 

劉邦が彭城を奪う

項羽が田栄を討つために、東方に向けて出陣します。

項羽は田栄を討つ事に成功しますが、田栄の弟である田横が田広を斉王に擁立し、兵士をまとめ抵抗を続けました。

項羽は田横に完勝する事が出来ずに手こずります。

劉邦は項羽が斉に向けて出陣し、首都の彭城がガラ空きになった事を知ると、劉邦は陳余、魏豹、司馬卬、申陽らの諸侯と共に彭城を攻撃します。

この時の劉邦軍は諸侯の軍が集まった事で、56万もの大軍となり圧倒的兵力で彭城を奪う事に成功しました。

劉邦ら諸侯連合が彭城に兵を向けた事を知った項羽は、黥布に彭城を守る様に命令しましたが、黥布は動かなかった話があります。

これにより、項羽と黥布の仲は益々悪くなっていったわけです。

黥布が項羽の命令に従わなかった理由は、項羽が分封を行った時に、恩賞が不平等であり少なかった事が原因とされています。

項羽は黥布を九江王にしましたが、領地が狭く黥布は不満だったのでしょう。

 

家族との再会

劉邦は彭城を占拠すると、項羽により捕えられていた劉太公や呂后、魯元公主、劉盈ら家族と再会した話があります。

ただし、この時は劉邦には既に寵愛する側室である戚夫人がいた話があります。

戚夫人は劉邦に寵愛された事で、呂后の恨みを買い、後に不幸な最後を迎える事になります。

しかし、劉邦としては父親や家族を項羽から取り戻し、一安心したと言えるでしょう。

 

劉邦の油断

劉邦は諸侯連合とはいえ、56万もの大軍がいた事で、すっかりと油断してしまった話があります。

秦が滅亡した時に、秦の宮殿にあった財宝や美女は彭城に移されていた様で、劉邦は財宝や美女に目が眩んでしまいます。

この時に、劉邦の傍に張良がいなかったらしく、劉邦も諫めを聞く事はありませんでした。

諸侯も56万もの兵に油断し、美女や財宝を目にし心が曇ります。

連合軍の諸将は必然と連日の大宴会を催した話があります。

劉邦や諸侯の兵士らもすっかりと油断してしまったわけです。

普通で考えれば劉邦が56万もの軍勢を得た事で、項羽は詰みなのですが、項羽は逆境を跳ね返す事になります。

さらに、56万の大軍が諸侯連合であり、劉邦の作戦も一本化出来ずに、纏まりが悪かった話があります。

 

項羽が劉邦を急襲

項羽は劉邦が彭城を占拠し、黥布が彭城を守らなかった事を知ると、斉から引き上げ彭城に向かい進撃しました。

この時の項羽は西方から夜間に、劉邦軍を攻撃した話があります。

彭城にいる劉邦が率いる諸侯連合は、項羽が西から攻めて来る事を予想しておらず、不意を衝かれます。

劉邦軍は大軍でありましたが、油断していた事もあり大混乱となります。

大軍が故に一旦崩れてしまうと、立て直しが出来ずに、諸将は次々と打たれ劉邦も彭城から外に脱出する事になります。

劉邦は56万もの大軍を活用する事が出来ずに大敗し、逃げた漢兵が一斉に睢水に入った事で、睢水の流れが止まってしまった逸話もある程です。

劉邦は猛将項羽の前に歴史的大敗北を喫し、逃亡しなければならない状態となります。

この時に、趙の陳余は張耳が生きている事を知り漢に背き、魏豹も後に漢の背くなど、多くの諸侯が劉邦を離れ項羽に味方しました。

さらに、呂后や劉太后などの家族も再び項羽に捕らえられてしまった話があります。

 

子供を投げ捨てて逃亡

劉邦は夏侯嬰の兵車に乗り脱出する事にしました。

楚軍は劉邦の首を狙っている事は確実であり、劉邦として漢軍は曹参や周勃に任せて、自らは逃げる事に専念した様です。

史記の樊酈滕灌列伝によれば、夏侯嬰は劉邦の子である劉盈(後の恵帝)と魯元公主を見つけ、兵車に乗せています。

しかし、楚軍の追撃が急であり、夏侯嬰や劉邦が兵車を急がせ過ぎた事で、馬が疲れてしまい楚兵に追いつかれそうになります。

この時に劉邦は劉盈と魯元公主の二人を、馬車から蹴落とそうとしたわけです。

夏侯嬰は劉盈と魯元公主が、劉邦に蹴落とされそうになると、拾い上げる様にしてかばい、最後は二人の子を抱きかかえたままで兵車を走らせました。

劉邦は夏侯嬰の態度が気に入らず、10度余り夏侯嬰を斬ろうとした話があります。

しかし、劉邦は夏侯嬰を斬る事はせず、夏侯嬰も追手を振り切り、劉盈と魯元公主を豊邑まで送り届ける事に成功したわけです。

現代人の感覚からすれば、「劉邦は酷い奴だ。」と思うかも知れませんが、当時は儒教が盛んであり儒教では子供よりも親の方が大事だとされており、史記を書いた司馬遷も劉邦の態度に、とやかく言ってはいません。

ただし、恵帝や魯元公主を守り抜いた、夏侯嬰は忠臣と言ってもよいでしょう。

尚、劉邦自身は正気を取り戻した時に、56万の兵士を置いて逃げ去った事になり、自分の事を「情けない。」と思ったのかも知れません。

 

黥布、彭越、韓信を活用

劉邦は張良の進言により、黥布、彭越、韓信の三将を活用していきます。

張良の進言

項羽に敗れた劉邦は張良に向かい、次の様に発言しました。

劉邦「儂は項羽に破れ関東の地は断念しようと思う。

関東の地を断念する代わりに、儂と功業を共にする者はいないだろうか。」

これに対し、張良は次の様に述べています。

張良「九江王の黥布は楚の猛将ですが、項羽とは折り合いが悪く上手く行っていません。

彭越は過去に斉王田栄と共に楚に反旗を翻しています。

また、漢王(劉邦)様の配下の中では、韓信将軍だけが一方を託す事が出来ます。

関の東の地を断念するのであれば、黥布、彭越、韓信を派遣する事が出来れば、楚軍を破る事が出来ます。」

劉邦は張良の言葉を最もだと感じ、黥布に随何を派遣する事になります。

 

黥布を寝返らせる

劉邦は黥布を寝返らせる為に、随何を派遣しました。

随何は巧みに黥布を説得した事で、黥布は項羽を裏切り劉邦に味方する事にしました。

ただし、項羽が龍且と項声を黥布討伐にやると、黥布は破れ九江の地を失います。

黥布は随何と共に間道を通り、劉邦の本営まで訪れました。

この時に劉邦は配下の者に足を洗わせたままで、黥布に引見します。

黥布は劉邦の態度の悪さに愕然としますが、劉邦は黥布の為に豪勢な宿舎を用意しており、劉邦と同レベルの暮らしが出来る様に配慮してあったわけです。

黥布の配下の者達も優遇し、黥布を淮南王としました。

これ以降の黥布は劉邦軍として戦う事になります。

 

彭越が楚の後方を脅かす

彭越は元は漁業をしたり、時には群盗となり生計を立てていた者です。

秦末期に彭越は各地で戦い、秦が滅亡した時には1万以上の兵を有していました。

彭越は秦を滅ぼすのに協力した功績があるのに、項羽は彭越に恩賞を与えなかったわけです。

これにより彭越は項羽に対し恨みを抱き、劉邦は彭越の力を認め、彭越を魏の相としています。

彭越は劉邦の器の広さに感謝し、劉邦軍の遊撃隊として、楚軍の後方に現れ、幾度も楚の糧道を断っています。

ゲリラ戦においては、最強を誇る彭越も劉邦に味方したわけです。

項羽は戦いを優勢に進めながらも、彭越が後方に現れて糧道を断った事で、何度も引き返す羽目になります。

 

国士無双と呼ばれた韓信

韓信は劉邦と別行動を起こす事になりました。

劉邦が項羽の本隊をぶつかり、韓信の軍は、項羽に味方した諸侯を討つ作戦です。

劉邦は項羽に負け続けますが、韓信が魏豹を破り、井陘の戦いでは趙の陳余を破るなどの活躍をしています。

劉邦が負け続けても、韓信が各地で勝ち続けた事で、全体的に見れば戦況は劉邦が有利となっていきます。

韓信、張良、蕭何を漢の三桀と呼んだりしますが、最大の功績は韓信にあったと考える人も少なくありません。

 

滎陽の戦い

劉邦自身は滎陽で態勢を立て直そうとします。

蕭何が関中から援軍を劉邦に寄越した事で、劉邦は京と策の間で楚軍を破る事になります。

ただし、劉邦が派遣した韓信は各地で敵を撃破しますが、劉邦は項羽の本隊を相手に大苦戦する事になります。

 

滎陽を包囲される

滎陽の戦いでは、劉邦は最初は滎陽の南に軍を駐屯させ、甬道を黄河に繋げ敖倉の食料を運んでいました。

しかし、項羽は何度も漢の甬道を攻撃した事で、劉邦軍は食料が欠乏し、滎陽で項羽の軍に囲まれたわけです。

劉邦は窮地に陥り、項羽に滎陽以西を漢の領地とする様に、項羽に和睦を求めました。

項羽は劉邦の和議を退けています。

項羽が和議に応じなかったのは、范増が劉邦を危険視しており、討ち取れる時に討ち取っておいた方がよいと判断した為でしょう。

 

范増の死

劉邦配下の策士である陳平は、劉邦に項羽と范増の仲を裂くように進言します。

劉邦は陳平に金四万斤を預け、項羽と范増・鍾離眜・龍且・周殷らを反間させたわけです。

項羽は范増を疑い、范増は項羽に別れを告げ、楚軍から離脱し故郷に帰る事になります。

尚、范増は故郷に帰る途中で、背中に 腫瘍が出来てしまい命を落としました。

これにより項羽陣営では、精彩を欠くようになり、戦いに勝っても有利な状況を作り出せなかった話があります。

范増の死により項羽軍の迷走が始まったとも言えるでしょう。

 

滎陽から撤退

項羽軍から范増は離脱しましたが、劉邦は 滎陽の城を囲まれ、依然として不利な状況でした。

劉邦軍は食料が完全に切れた事で、夜半に女子を東門から出しています。

これに甲冑を被る者が二千ほど後に続き、劉邦に成り代わった武将の紀信も続きます。

この集団に楚兵が四方から攻撃を仕掛けている隙に、劉邦は西門から逃げたわけです。

この戦いで紀信は討死し多くの女性が犠牲になりますが、劉邦は無事に関中まで逃げる事に成功しました。

関中に入ると蕭何が再び兵士や物資を劉邦に補給する事になります。

尚、劉邦は自分が去った後の滎陽の城を周苛、樅公、魏豹、韓王信に守らせますが、魏豹は劉邦に背き韓信に敗れた事で、漢に帰順しており、周苛と樅公は魏豹を殺害しています。

滎陽の戦いは、最終的には項羽は勝利しますが、范増を失い劉邦を取り逃がす結果となっています。

尚、周苛と樅公は抵抗を続け、項羽に楽に勝たせる事は無かったようです。

 

 

袁生の進言

劉邦は関中で兵士や物資を補給すると、函谷関から再び関東に出ようとします。

ここで袁生が劉邦に次の様な進言をしました。

袁生「漢と楚は1年ほど、滎陽で戦いましたが、漢は常に不利な状態でした。

この度の漢王様(劉邦)は、武関から出撃すべきです。

劉邦様が武関から出撃すれば、項羽は南に兵を移動させる事でしょう。

その時に、劉邦様は塁壁を高く積み上げて守り、暫くの間は成皋と滎陽の間で兵を休ませるべきです。

その隙に北方を遠征している韓信に、河北や趙の兵を集めさせ、燕や斉と連合した上で再び項羽軍と戦えばよいでしょう。

この策であれば楚は守る所が多く兵を分散させる事となり、漢は休息できるはずであり、次に楚と戦えば漢が勝利出来るはずです。」

劉邦は袁生の策に従う事にしました。

 

彭越の活躍

劉邦は黥布と共に出撃し、宛と葉の間に兵を繰り出し、城壁を固くして守備に専念しました。

項羽は軍を繰り出して、劉邦が籠る城を落とそうとしますが、手を焼く事になります。

こうしている間に、彭越が睢水を渡り楚軍の項声と薛公と戦い大勝しています。

項羽は糧道を彭越に断たれた事で、自ら兵を率いて彭越を討ったわけです。

彭越は項羽に敗れますが、その間に劉邦は北上し軍を成皋に移しました。

周苛と樅公は滎陽を守っていましたが、ここにおいて項羽に城を抜かれた話があります。

周苛と樅公は処刑され、韓王信が捕虜になった話があります。

周苛と樅公も粘りましたが、結果だけを見れば項羽の勝利だと言えるでしょう。

ただし、滎陽を落としても項羽は漢軍に翻弄されており、楚軍は疲弊して行く事になります。

項羽は劉邦がいる成皋を包囲しますが、劉邦は夏侯嬰と二人だけで成皋の玉門から抜け出し、黄河を渡り韓信の陣に向かう事になります。

尚、韓王信は項羽の降伏しますが、後の項羽から逃亡し漢に帰順しています。

韓信の兵権を奪う

この時の韓信は魏豹を破り、趙の陳余や趙歇を撃破した事で勢いに乗り修武に駐屯していました。

劉邦は韓信の陣を訪れると、韓信の寝床に行き印綬を奪った話があります。

尚、劉邦がいた滎陽と韓信がいた修武は距離的には、それほど遠くなかった話もあり、楚軍を背後から衝かなかった韓信に対し、この時点から既に劉邦は不信感があったとする説もあります。

韓信の軍には張耳もいましたが、突然現れた劉邦の姿を見て、さぞかし驚いた事でしょう。

ここで劉邦は配置換えを宣言し、趙王に任命した張耳には趙の鎮定を忙し、韓信には斉を平定する様に命令しました。

韓信と張耳には寡兵しか与えず、韓信軍の兵の大半は劉邦が握る事になります。

韓信の方でも劉邦の行動に対して、不信感を抱いた事でしょう。

 

韓信が斉を取る

韓信は劉邦の命令により斉を取る為に、東に向かいますが、劉邦は別に酈食其を派遣し、斉を降伏させています。

斉王田広や宰相の田横は武装解除しますが、蒯通の進言を受けた韓信が無防備な斉を攻撃し大勝しています。

斉王田広は敗残兵をまとめると、楚に対し援軍要請をしました。

項羽は龍且と周蘭を派遣しています。

韓信率いる漢軍と斉楚連合軍の間で、濰水の戦いが勃発しますが、楚軍の総大将である龍且が韓信を舐めていた部分があり、韓信の軍が大勝しました。

龍且は灌嬰の軍に討ち取られ、副将の周蘭は曹参により捕えられています。

斉の地は韓信により平定される事になります。

楚は龍且が韓信に敗れた事で、20万の軍勢を失った事になり、大損害を被った事になるでしょう。

この時点では、漢と楚の形勢は逆転したはずです。

 

楚の後方を脅かす

劉邦の方では、修武で韓信から兵を奪い補給が完了すると、項羽と再び戦おうとします。

ここで劉邦配下である鄭忠が塁を高くし、塹壕を深く掘り、楚軍と戦わずに防御に徹する様に進言します。

鄭忠の進言を聴き入れた劉邦は守りを固め、その間に盧綰と劉賈に士卒2万と騎兵数百を与え、項羽の後方である楚の地に向かわせています。

盧綰と劉賈は彭越に協力し、楚の後方を荒らしまわり、燕郭の西で楚軍を破り梁の地にある十余城を降しました。

この時に項羽は大司馬の曹咎に「決して戦わない様に」と命じ、項羽は自ら彭越らの討伐に向かう事になります。

漢軍は曹咎を挑発しますが、曹咎は応じませんでした。

そこで漢軍は人を出して楚軍を侮辱すると、曹咎は我慢が出来ず兵を率いて汜水を渡りますが、士卒が渡り切らないうちに漢軍は曹咎を急襲し大勝しています。

項羽は海春侯曹咎が敗れた事を知ると、再び兵を率いて戻ってきました。

この時に、漢軍は鍾離眜がいる滎陽の攻撃中でしたが、項羽が戻ってくると陣を退け広武山に移動しています。

項羽は彭越らの討伐が出来なかった事もあり、後方に不安を抱えた状態です。

 

広武山の戦い

広武山において劉邦は項羽と対峙しますが、これが天下分け目の戦いとなります。

項羽の罪

劉邦と項羽は広武山の谷間を挟み共に語った話があります。

ここで項羽は劉邦に単身で決戦を行おうと持ち掛けます。

それに対して、劉邦は10の罪を項羽に突きつけました。

楚の懐王は最初に関中に入った者を関中王にすると言ったのに、項羽は従わずに自分(劉邦)を漢中王にした。

卿子冠軍(宋義)を王命と偽り殺害し、項羽が自ら大将軍になった。

項羽は趙を援けた後は、戻って楚の懐王に報告すべきなのに、勝手に諸侯の兵を強制し函谷関に入った。

関中に入ってからは、楚の懐王は暴掠するなと言ったのに、項羽は秦の宮殿を焼き始皇帝陵から財物を奪い自分の物とした。

秦の降伏した子嬰を勝手に処刑した。

秦の兵士20万を偽って穴埋めにし、章邯らを王とした。

項羽は自分の部下の諸将を上地の王とし、元の主君を僻地に移し、臣下に反逆を起こさせた。

項羽は義帝を放逐し、自らは彭城を首都とする国を建国し、韓王を殺害し韓、梁、楚の地を合わせた王となり、自ら広大な領地を取った。

項羽は人をやり義帝を殺害した。

臣下なのに主君を誅殺し、降伏した者も処刑し、政治も不平等を極め、誓いを破り不義を犯した大逆無道な人物である。

言い終わると、劉邦は次の様に述べます。

劉邦「儂は義兵を率いて諸侯を従えているのである。

刑罰を受けた罪人にお前を撃たせれば十分であり、なぜ儂が自ら好んでお前と決戦する必要がある。」

劉邦の話を聞いた項羽は激怒する事になります。

 

劉邦が負傷

項羽は劉邦の言葉を聞き終わると、強弓で劉邦を狙い、劉邦を射た話があります。

劉邦は項羽の弓を胸で受けてしまい、大けがを負う事になります。

ここで劉邦は強がり「戎が矢を指に当てた。」と強がった話があります。

しかし、実際の劉邦は項羽に受けた傷により、床に臥せた状態で起き上がれなくなります。

ここで劉邦が項羽に弱みを見せるわけにはいかないと判断した張良は、劉邦に行軍して軍を労い士卒を安堵させる様に願います。

劉邦は重症でしたが、張良の意見を聴き入れ、行軍しますが、怪我が悪化した事で劉邦は成皋で安静する事にしました。

傷が癒えると劉邦は再び広武山に戻り、項羽軍と対峙する事になります。

この間にも、関中の蕭何は劉邦の軍に続々と援兵や物資を送り続けた話があります。

しかし、項羽の軍は背後に彭越、盧綰、劉賈らがおり、後方をおびやかした事で苦しくなっていきます。

 

斉王韓信が誕生

斉を平定した韓信は、蒯通の進言もあり、劉邦に斉王の位を望みます。

ここで劉邦が激怒し韓信を攻めようとしますが、張良や陳平が諫止しました。

張良や陳平は、韓信が項羽に味方する事を恐れ、韓信の要求を入れる様に劉邦を説得しています。

劉邦は張良を使者として韓信の元に派遣し、韓信を斉王に任命したわけです。

項羽の方でも武渉を派遣し、項羽に味方する様に促しています。

蒯通は項羽に味方とし、天下を韓信、劉邦、項羽で分ける天下三分の計を提案しますが、韓信は聞き入れる事はありませんでした。

韓信は自分を斉王にしてくれた劉邦に対して、恩義も感じていたのでしょう。

ただし、劉邦が韓信に対する不信感が募るばかりだった様です。

 

項羽の提案

彭越は楚軍の糧道を断ち、斉王になった韓信も楚軍を討った事で、項羽は窮地に陥ります。

斉の生き残りである田横も彭越に従いました。

項羽は劉邦に人質である劉太公や呂后ら妻子の返還と、鴻溝以西を割譲し漢の領土とし、天下を二分しようと劉邦に持ち掛けます。

劉邦は項羽の提案を受け入れた事で、人質の劉太公と呂后が帰ってきました。

劉邦軍では万歳が起きた話があります。

 

項羽追撃戦

劉邦軍は和睦を破棄し、項羽軍を追撃する事になります。

しかし、項羽も奮戦し楽には勝たせてはくれません。

項羽軍を追撃

項羽は軍を解き東に還り、劉邦も西に帰ろうとしました。

ここで、張良や陳平が次の様に進言しています。

「今の楚軍は疲れており、今の楚軍なら破る事が出来ます。

講和を破棄し、項羽の軍を追撃すべきです。」

張良と陳平の言葉に従い、劉邦は項羽を追撃し、韓信や彭越の軍と合流し、項羽を討つ事にしました。

陽夏で韓信と彭越の軍と合流し、項羽を討つ予定でしたが、韓信や彭越は一向に現れません。

 

領地の約束

韓信と彭越が来なかった事で、劉邦は焦ります。

さらに、項羽が反撃を行い劉邦の軍は敗れてしまいました。

劉邦は項羽をあと一歩の所まで追い込みながらも、彭越と韓信がやってこない事で、勝利を得られなかったわけです。

項羽の反撃にあった劉邦は陽武の城に退却する事しか出来ませんでした。

ここで劉邦の軍師である張良が次の様に述べています。

張良「楚軍をあと一歩で破る事が出来るのに、韓信と彭越の領地が定まっておりませぬ。

劉邦様が韓信や彭越に土地を分ける事が出来れば、韓信や彭越は直ぐにでもやってきます。

陳よりも東の海に当たるまでの地域を韓信に与え、睢陽から北の穀城に至るまでの地域を彭越に与え梁王としてください。

そうすれば、直ぐにでも韓信と彭越はやってくるはずです。」

張良の言葉を実行すると、韓信と彭越の二人は大軍を率いて援軍に来た話があります。

ただし、褒美を約束せねば従わない態度は、劉邦にとってみれば不信感があり、統一後に韓信と彭越は危険人物として扱われる事になります。

 

垓下の戦い

項羽に対して、百戦百敗したと言われる劉邦がたった1度の勝利を得た事で天下人になります。

垓下の戦いを解説します。

劉邦軍が大軍となる

韓信や彭越だけではなく、劉賈や黥布も到着しました。

さらに、楚の大司馬である周殷も項羽を裏切り漢に味方しています。

これにより、劉邦軍は圧倒的な大軍となったわけです。

さらに、劉邦は斉王韓信に指揮を執らせる万全の体制を布いて最後の決戦に挑んでいます。

 

項羽と韓信の戦い

ここにおいて、項羽と韓信の名将同士の戦いとなります。

この時に、韓信の指揮する兵士の数は30万に対し、項羽が指揮する軍は10万だったと伝わっています。

ただし、項羽の軍は疲労困憊であり、気力で戦っている様な状態でした。

最初に韓信が軍を進めて項羽と戦いますが、韓信は項羽の軍に押されて後退します。

万全の項羽軍であれば、後退した漢軍を一気に敗れたのかも知れませんが、疲労が強く突破力がなかったわけです。

韓信は左右に配置した孔将軍と費将軍に左右から項羽軍を挟撃し、韓信の本隊が前に出た事で漢軍の勝利が決まりました。

項羽は自ら兵を指揮した場合は、負け知らずだったわけですが、垓下の戦いでは、遂に敗れ去ります。

 

四面楚歌

項羽は城に籠りますが、張良は城の四方から楚の歌を流す事になります。

項羽は楚の漢の軍に攻略され、多くの楚兵が漢軍に加わったと悟ります。

項羽の軍では逃亡兵が相次ぎ、戦える状態では無くなってしまいました。

項羽は愛妾である虞美人の前で歌を歌い、劉邦軍の包囲から脱出を試みる事になります。

 

項羽の最後

項羽は劉邦軍の包囲を破ると、最後の最後まで戦い抜きます。

項羽に最後まで従った兵は、僅か28騎ですが、項羽は漢軍に28騎で突撃を掛ける事になりました。

項羽と配下の28騎は、散々に漢軍を破り、項羽が再び数を数えた時には、2騎減っているだけだった話があります。

しかし、項羽は昔なじみの呂馬童が漢軍として戦っている所を見つけると、自刃して果てる事になります。

項羽の死体には、漢兵が群がり数十人の使者が出ました。

劉邦は項羽を魯公の号を以って、穀城で丁重に葬った話があります。

項羽の最後は泣ける部分ではありますが、虞美人との別れのシーンから見ても名場面となっています。

史記を書いた司馬遷は敗者を美しく描く傾向があります。

ただし、司馬遷は評の部分では項羽を批判している状態です。

 

劉邦が皇帝に即位

項羽が亡くなると、諸将らは劉邦に皇帝になる様に要請しました。

劉邦は「自分は帝位の昇る資格がない。」と答えますが、群臣らは劉邦が皇帝になる事を望みます。

劉邦は3度辞退しましたが、4度目で承諾し、氾水の北岸で皇帝に即位しています。

ここにおいて、劉邦は史上初の農民から皇帝にまで昇りつめた人物となります。

最初にも述べましたが、中国の長い歴史の中で、一般人から皇帝にまで昇りつめて天下統一したのは、劉邦と明の朱元璋だけです。

 

韓信を楚王に移す

統一後の劉邦は諸侯王を定める事になります。

劉邦は韓信に対して、次の様に述べています。

「義帝が亡くなってから、楚には治めるべき君主がいない。

斉王韓信は楚の風俗に慣れている。」

劉邦は韓信を斉王から楚王に移しています。

劉邦は斉王には自分の長子であり、卑賎の身であった頃に妾であった曹氏の子・劉肥を斉王として70余城を与えています。

韓信は楚王となり故郷に錦を飾る事になりますが、斉に比べて楚は城の数も少なかった事で、不満だったとも考えられています。

劉邦は韓信に下邳を楚の都として定める様に指示しました。

 

諸侯王を定める

劉邦は皇帝になると、下記の様な諸侯王を定めた話があります。

楚王韓信(首都は下邳)

梁王彭越(首都は定陶)

韓王信(首都は陽翟)

衡山王呉芮(首都は臨湘)

燕王臧荼

淮南王黥布

趙王張敖

統一後の劉邦は諸侯を定めましたが、呉芮以外の諸侯王は全て滅びるか王の位を剥奪されています。

尚、劉邦は統一直後の時点では、漢帝国の首都は洛陽に定めています。

因みに、臨江王の共尉は、項羽が封建した共敖の子ですが、項羽が滅んでからも漢に降伏しなかった事で、劉邦は盧綰と劉賈を派遣し、共尉を洛陽で殺害しました。

共尉は寡兵で奮闘し、数カ月の期間を耐え抜いた話があります。

 

論功行賞

劉邦は統一後に論功行賞を行いますが、蕭何、曹参、周勃の様な功臣は処遇が直ぐに決まりますが、論功行賞が進展しなかった話があります。

この時に劉邦は張良の進言により、劉邦が最も憎んでいる雍歯を什方侯に任じました。

劉邦が雍歯を什方侯に任じた事は、効果覿面であり多くの臣下が「雍歯でさえ重用されるなら心配はいらない。」と考え反乱を未然に防いだ話があります。

張良が機転を利かせた事で、漢王朝は安定していく事になります。

 

天下取りの秘訣

劉邦は天下統一後に、洛陽の南宮で酒宴を催し、臣下たちに「儂がどうして天下を取れたか。項羽がどうして天下を失ったか。遠慮なく述べてみよ。」と問うた話があります。

これに対して、王陵は次の様に答えています。

王陵「陛下(劉邦)は人を馬鹿にするような態度をとる事があり侮りますが、項羽は仁慈で人を愛します。

しかし、陛下は功績を挙げた者や降伏した者に対し、地を分け土地を与えますが、項羽は功績を立てた者を憎み、賢者を疑い功績があっても人に下賜する事を知りません。

これが陛下が天下を取り、項羽が天下を失った理由です。」

それに対し、劉邦は次の様に答えています。

劉邦「公らは一を知って二を知らない。謀を帷帳(とばり)の中に巡らし、勝利を千里の外に決するのは、儂は子房(張良)に及ばない。

国家を鎮め人民を撫し、糧道の確保においては、儂は蕭何に及ばない。

百万の軍を率い必ず勝つ事においては、儂は韓信に及ばない。

張良、蕭何、韓信は人傑であるが、儂はよく使う事が出来る。これが儂が天下を取った理由である。

項羽は一人の范増すら用いる事が出来なかった。これが項羽が儂に敗れた理由である。」

劉邦は人材を使いこなす事が出来たから、項羽に勝つ事が出来たと言ったわけですが、楚漢戦争においての劉邦の戦い方を見れば、的を得ていると言えるでしょう。

項羽が楚軍を率いれば、必ずと言ってよい程に勝つ事が出来ましたが、項羽が率いない楚軍は極めて勝率が低いと言えます。

項羽と劉邦を見るに、自分の力を生かす以上に、組織の人材を生かす事が大事だという例になる様に感じます。

 

長安に遷都

劉邦は洛陽を長く都とするつもりでしたが、劉敬が「関中を首都に定めるのが最善である。」と述べます。

劉邦は劉敬の言葉を群臣に議論させています。

劉邦配下の多くの大臣が関東の出身だった事で、洛陽には堅固さがあるから、洛陽を首都にした方が良いと述べます。

ここで張良が洛陽の土地が狭い事を指摘し、関中の防御の固さや輸送の便が良い事を述べます。

劉邦は張良の言う事を聞きいて、長安を漢王朝の首都としました。

因みに、劉邦が建国した前漢は王莽が簒奪し皇帝の昇り滅びるまで、一貫して長安が首都だった話があります。

後漢王朝を建国した劉秀は洛陽を首都にしますが、後漢末期の混乱時に董卓が洛陽から長安に遷都しています。

長安は唐などの後世の王朝でも首都になるなど、中国の有力都市として発展しました。

 

燕王臧荼を討伐

異性の諸侯王の一人である燕王臧荼が漢に反旗を翻し、代を攻撃した情報が入ってきます。

劉邦は自ら親征し、燕王臧荼を討伐しました。

臧荼は捕らえられて、劉邦に処刑されています。

劉邦は燕王に盧綰を任命しています。

盧綰は劉邦と同じ沛の出身であり、同じ日に生まれた竹馬の友でもあり、盧綰に軍功があった事で燕王に任命しやすかったのでしょう。

ただし、盧綰は後に劉邦に対して、反旗を翻し匈奴の地に逃亡する事になります。

尚、臧荼の反乱は代にも影響を及ぼし、代は樊噲が平定しました。

 

韓信の楚王剥奪

韓信は楚漢戦争で最大の功績があったとも言われています。

しかし、韓信は過去に斉王の位を劉邦にねだるなど、劉邦は韓信を疑っていたわけです。

そうした中で、韓信は楚の将軍であった鍾離眜を匿い、謀反を起こすという情報が入ってきます。

劉邦の諸将らは韓信に対し武力討伐を望みますが、軍師の陳平は戦場での駆け引きは、劉邦は韓信には及ばないと諭します。

陳平は劉邦が雲夢に遊幸すれば韓信がやってくると述べ、力士を使い韓信を捕える様に進言しました。

韓信は鍾離眜の首を持参し、劉邦の元に現れますが、劉邦は韓信を捕えて長安に護送しています。

劉邦は韓信から楚王の位は剥奪しましたが、軍功が多かった事から処刑するのは忍びないと考え、淮陰侯とし軍事指揮権などは取り上げています。

因みに、楚の地は二分され劉賈を荊王とし、劉邦の弟である劉交を淮東王に任命しています。

 

将の将たる器

韓信は淮陰侯に落とされましたが、ある時、劉邦と会話をしていたわけです。

劉邦は韓信に「自分が、どれ位の兵を操れる事が出来るか?」と聞くと韓信は「せいぜい10万」と答えます。

それに対して、韓信は「自分は兵士が多ければ多い程に上手くやれる。」と言います。

劉邦が「ならばお前(韓信)が儂の虜になったのはなぜか?」と尋ねると、韓信は次の様に答えています。

韓信「陛下(劉邦)は兵の将たる器ではありませんが、将の将たる器を持っております。

私が陛下の虜になってしまったのは、その為です。」

自分の中では、韓信が劉邦に言った「将の将たる器」と言うのは、劉邦にとって最高級の賛美となる様に思います。

尚、韓信も淮陰侯で満足できる人物ではなく、謀反を企てる様になります。

 

冒頓単于に破れる

楚漢戦争で項羽と劉邦が争っているうちに、北方では冒頓単于が隆盛を極め大勢力となっていたわけです。

韓王信は劉邦とのすれ違いもあり、匈奴に味方し、漢を攻撃しました。

劉邦は自ら32万の大軍を率いて、冒頓単于の討伐に向かった話があります。

この当時は韓信、彭越、黥布などの武断派の武将もいましたが、彼らに兵を与えるのは危険だと判断したのか、劉邦が自ら匈奴討伐に乗り出したのでしょう。

劉邦は冒頓単于の策に引っ掛かり、白登山で冒頓単于の40万の大軍に包囲されています。

劉邦は冒頓単于の妃である閼氏に賄賂を贈り、陳平の策もあり窮地を脱出しました。

ただし、漢は匈奴の弟分の国となり、毎年、貢物を匈奴に送るという屈辱的な条件で和平を結ぶ事になります。

尚、劉邦は匈奴に勝てない事を悟り、金で安全を買ったとも言われています。

漢と匈奴の力関係が逆転するのは、漢の武帝の時代に、衛青や霍去病、李広などの将軍が現れるのを待たねばなりません。

因みに、代の地は樊噲が平定し、劉邦の兄の劉仲が代王となったわけです。

ただし、代の地は匈奴の地に近い事から不安定であったのか、劉仲は代を棄てて洛陽に逃亡しています。

 

劉邦暗殺未遂事件

劉邦の娘である魯元公主は、趙王の張敖(張耳の子)に嫁いでいました。

劉邦は匈奴討伐の帰りに趙によりますが、張敖に対して驕慢な態度を取ったわけです。

趙の丞相である貫高や配下の趙午は、劉邦の態度が許せず、劉邦を殺害する様に張敖に進言しますが、張敖は劉邦に恩を感じており、取り合いませんでした。

しかし、貫高や趙午の腹の虫は治まらず、柏人で劉邦を暗殺しようと企みます。

劉邦は柏人で滞留する予定でしたが、胸騒ぎを憶え柏人を通り過ぎた事で、貫高や趙午の禍から逃れる事が出来た話があります。

後に貫高の劉邦暗殺計画が露見し、劉邦は張敖や貫高らを捕えています。

貫高が命を賭して「劉邦暗殺計画は自分達が勝手にやったのであり、張敖様は無関係。」と述べた事で、張敖は許される事になります。

この時の貫高は拷問をし過ぎて肌が痛み拷問する場所が無くなってしまった話しもある程です。

劉邦は貫高も忠義の臣として認め許しますが、貫高は張敖の無罪が確定した事で満足し自刃した話があります。

 

未央宮の建造

劉邦が匈奴討伐から長安に戻ってくると、蕭何が壮麗な宮殿である未央宮を建造していました。

劉邦は不機嫌になり「匈奴との戦いに苦しんでいるのに、立派な宮殿を建ててどうするつもりじゃ。」と述べます。

蕭何は次の様に述べます。

蕭何「天下がまだ定まっていないからこそ、壮麗な宮殿を造る必要があるのです。

この宮殿を見れば諸侯は漢の力を思い知り、謀反を起こそうなどとは思わない事でしょう。

さらに、後世の子孫にこれ以上の壮麗な宮殿を造らせない為に、立派な宮殿を建てたのです。」

劉邦は蕭何の言葉に満足し、喜んだ話があります。

 

武断派を処分

劉邦の天下統一に大きな功績がある韓信、彭越、黥布の3人が劉邦により命を落とす事になります。

韓信の最後

韓信は楚王から淮陰侯に降格されますが、欲求不満だったのでしょう。

韓信は陳豨に代の地で反乱を起こす様に依頼し、陳豨が謀反を起こし劉邦が討伐に向かうと韓信が謀反を起こす予定でした。

劉邦は韓信が思った通り、郭蒙や周勃らと陳豨討伐に向かいます。

ここで韓信が都で謀反を起こそうとしますが、計画は蕭何や呂后に知られてしまい、韓信は捕らえられて処刑されています。

劉邦は陳豨を破り代を平定すると、自分の子である劉恒(文帝)を代王としました。

劉邦は韓信の死を知ると、一方では喜び、一方では憐れんだ話があります。

尚、過去に韓信に独立を進めた蒯通も、劉邦により処刑されそうになりますが、弁舌を駆使し切り抜けた話があります。

韓信の死は劉邦にとっては複雑が想いがあったのでしょう。

 

彭越の死

彭越は劉邦の陳豨討伐に出陣する様に命令されていました。

しかし、彭越は病と称して、部下を派遣しただけで済ませたわけです。

劉邦は彭越の態度に怒り、彭越を問責する使者を派遣しました。

彭越は劉邦に詫びを入れに行こうとすると、配下の扈輒が謀反を起こす様に進言します。

扈輒の言葉を聞いた彭越は、劉邦の元に出かける事もなく、病気と称して何もしませんでした。

劉邦は彭越が謀反を起こそうとしている情報をキャッチすると先手を取り、彭越を不意打ちで捕えています。

劉邦は彭越を庶民に落し蜀に住ませようとしますが、途中で呂后に会います。

呂后は彭越の前では救いの手を差し伸べると言い、劉邦の前では彭越は危険人物だと言い処刑する様に進言しました。

これにより彭越は処刑され、彭越の宗族も皆殺しにされ滅んでいます。

 

黥布が反旗を翻す

黥布は韓信、彭越が処刑された事を知ると、不安になり劉邦に反旗を翻す事になります。

武断派の3人の中では、黥布だけが兵を率いて劉邦と戦う事になります。

劉邦は自ら兵を率いて、黥布討伐に向かいました。

この時に黥布は項羽とよく似た陣形を使い、劉邦を刺激した話があります。

劉邦と黥布の軍は激戦となりますが、最後は劉邦軍が勝利しています。

劉邦は武断派の最後の一人である黥布も滅ぼしました。

尚、黥布との戦いで劉邦は負傷し、その傷が元で崩御する事になります。

劉邦の最後の相手は黥布だったと言えるでしょう。

 

故郷に錦を飾る

劉邦は黥布討伐が終わると、生まれ故郷である沛を訪れた話があります。

劉邦は沛宮で酒宴を設けて、人々を集め無礼講の酒盛りをしています。

劉邦はこの時に、沛の児童百二十人を集めて歌を教え、宴たけなわになるや、筑を鳴らし次の様に歌った話があります。

大風起こって雲は飛揚す

威は海内に加わって故郷に帰る

いずくに猛士を得て四方を守らん

高祖はさらに舞いを披露すると、沛の人々と昔を語り合い涙を流した話があります。

劉邦は沛の賦税を免除し、劉邦が育った豊邑の賦税も免除しました。

この時に、劉邦は沛侯劉濞を呉王とした話があります。

余談ですが、劉濞は漢の景帝の時代に、呉楚七国の乱の首謀者となります。

沛の父兄らは劉邦に長く沛に留まる様に伝えますが、劉邦は「自分は従者が多いから、長く留まれば皆の迷惑になる。」と言い長安に戻った話があります。

秦の始皇帝が生まれ故郷である趙の邯鄲にやってきた時は、恨みのある者達を穴埋めにしてしまった話があります。

それに対し、劉邦は故郷の人々と無礼講の酒盛りをしたわけであり、始皇帝と比べると根が明るかったのではないか?と思えてなりません。

 

始皇帝を祀る

劉邦は「始皇帝、楚の隠王陳勝、魏の安釐王、斉の湣王、趙の悼襄王は子孫がいない。」と述べます。

楚の隠王陳勝、魏の安釐王、斉の湣王、趙の悼襄王の墓守として、十戸を与えた話があります。

戦国七雄の国々を滅ぼした始皇帝は別格だと判断したのか、二十戸を与える事にしました。

臣下の中では魏の信陵君に五戸を与えています。

信陵君は戦国四君の一人であり、最強と呼ばれた秦軍を2度破った人物で、劉邦が尊敬していた話しもあります。

尚、劉邦は晋の文侯重耳も君主の手本にした話がありますが、重耳に関しては特に配慮した話はありません。

劉邦は、陳豨や趙利の反乱に加担した者も許しています。

この時の劉邦は黥布戦の傷が悪化したのか、死期を悟ったのか殊勝な行いが目立ちます。

 

盧綰討伐

劉邦は長安に戻りますが、審食其から「燕王盧綰に謀反の兆しがある。」と告げられます。

劉邦は傷が悪化しており自ら討伐に向かう事が出来ず、樊噲を盧綰討伐に向かわせました。

樊噲が出陣すると、劉邦に讒言する者がおり、劉邦は樊噲を斬り周勃が将軍になる様に命令を出します。

劉邦の命令を受けた陳平と周勃は、樊噲の陣に行き樊噲を捕えて、周勃が将軍となり燕征伐軍を引き継ぐ事になりました。

陳平や周勃は樊噲を斬る様に命令されていまいたが、樊噲が劉邦の古い友人だと言う事を考慮し、樊噲を捕えて都に送っただけとしています。

尚、盧綰討伐が完成する前に劉邦は死去し、劉邦の死を聞いた盧綰は匈奴に投降しています。

劉邦と同じ日に生まれた竹馬の共である盧綰も匈奴に身を投げる事になったわけです。

盧綰は劉邦であれば詫びれば許して貰えると考えていた様ですが、劉邦が崩御した事で絶望したのでしょう。

 

後継者問題に終止符を打つ

劉邦は病が重たくなると、自分の後継者を劉盈から寵愛する戚夫人の子である劉如意に変更しようとします。

劉邦が後継者を変えようと思っていたのは、昔からだった様で周昌が何度も諫めた話があります。

劉邦は病が重くなってくると、いよいよ後継者を劉盈から劉如意に変えようとしました。

この時に張良が反対しても聞かず、太傅の叔孫通が命がけで諫めた事で、劉邦は「戯れを言っただけだ。」と述べますが、内心では太子を変えたいと思っていたとされています。

張良が劉邦が尊敬する東園公、甪里先生、綺里季、夏黄公を招き、太子である劉盈の配下とした事で、劉邦は「虎に翼が生えた」と判断し、太子の変更が出来ない事を悟ります。

これにより、劉邦の後継者問題は完全に決着したわけです。

戚夫人は自分の子が皇帝になれない事を知ると、すすり泣き劉邦が歌った話があります。

尚、劉邦は劉如意を趙王とし、趙堯の進言もあり、周昌を趙の宰相に任命しています。

劉邦は周昌を使って、劉如意を守ろうとしました。

劉邦の最後

劉邦ですが、統一後は粛清を行ったり、暗さが目立ちますが、亡くなる直前になると昔の力が蘇ってきた様に感じます。

再び名君としての資質が浮かび上がってきます。

医者を断わる

劉邦の容体は徐々に悪化していきました。

漢書高帝紀によると、呂后は名医を呼び寄せ劉邦を診察すると、医師は「治る」と言いますが、劉邦は次の様に言い放っています。

「私は布衣の身でありながら、三尺の剣を持ち天下人になった。

これが天命ではないと言うのか。

命は天にあり扁鵲(伝説の名医)がいたとしても、治す事は出来ない。」

劉邦は医者の治療を断わり、黄金五十斤を与えて去らせています。

この時には、劉邦も完全に死期を悟ったのでしょう。

 

劉邦の遺言

死を覚悟した劉邦に呂后が次の様に問います。

呂后「陛下が100歳まで生き相国の蕭何が亡くなったら、誰に変らせるべきでしょうか。」

劉邦は呂后の問いに対し「曹参」を指名する事になります。

呂后が曹参の次は、誰に政治を任せるべきかと聞くと、次の様に答えています。

「曹参の後は王陵に任せるのがよい。ただし、王陵は愚直過ぎるから陳平に補佐させるのが良いだろう。

陳平は知恵はあり過ぎる程だが単独で任せるわけにはいかない。

周勃は重厚少文だが、劉氏を安定させるのは周勃となるであろう。」

呂后は、周勃の後を聞きますが、劉邦は「それ以降は、汝の知る所ではない。」と述べています。

劉邦の預言は的中し、劉邦の死後に呂氏が力を持ちますが、陳平や周勃の活躍により、劉氏を守る事に成功しています。

劉邦は天下統一後は粛清をしたり、太子を変えようとした暗さが目立ちますが、最後の最後で力を取り戻し、人を見る目が蘇ったというべきでしょう。

 

劉邦の死

劉邦は夏四月甲辰(二十五日)に長楽宮で崩御した話があります。

劉邦の死は紀元前195年となります。

劉邦は漢書高帝起、資治通鑑は劉邦は53歳で崩御したと書かれています。

しかし、帝王世紀では62歳で亡くなった説と63歳で亡くなった説が紹介されています。

劉邦が崩御すると恵帝が即位しますが、実権は母親である呂后が握る事になり、呂氏の天下がやってきました。

しかし、呂后の死後に陳平や周勃が呂氏を排斥し、劉邦の子の一人である劉恒が文帝として即位します。

呂后は劉邦の子や愛妾、功臣などを粛清の対象としましたが、劉恒の母である薄姫は劉邦から寵愛されておらず、劉恒も僻地の代の王であった事から、呂氏に睨まれる事もなかったわけです。

文帝が即位した事で劉氏は安定し、前漢は全盛期に向かって行く事になります。

文帝の時代に周勃が亡くなった事で、劉邦時代の功臣たちも文帝の時代に、は全員が世を去った事になるでしょう。

 

劉邦の評価

劉邦は人望の人と言われています。

武力も知力も政治力も際立った者を持っておらず、人望だけで天下を取ったと言われています。

軍事に関しても項羽に負け続けたりして、名将と呼べる程の実力はないはずです。

しかし、劉邦は天下を取っており、誰も相手にしなかった様な張良や韓信を見出したのは、優れた眼力を持っていたというべきでしょう。

尚、劉邦は三国志の劉備に似ていると言われる事があります。

劉邦が天下を取れて劉備が天下を取れなかった理由ですが、相手の悪さがあるとも感じました。

劉邦の相手が曹操だとしたら、項羽の様な単純さがなく人材を愛すべき人なので、劉邦が天下を取れたのかは分かりません。

それを考えると、劉邦は運にも恵まれた部分が大きい様に思いました。

それでも、劉邦は民衆から成りあがった人物であり、支持基盤も小さく天下を取るには、不足している資源も多かったはずです。

秦末期に一斉に天下取りのレースが始り、多くの者が名乗り出ては消えたわけですが、最後に残った劉邦は偉大な人物だと言えるでしょう。

 

 

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