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笮融(さくゆう)は仏教を保護した極悪人

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笮融と言えば、三国志演義では劉繇の部下として登場します。

同僚の張英を庇ったりする場面もありますが、実際の笮融は後漢の時代に中華で最大の仏教勢力を作った人でもあります。

ただし、極悪人と言える人物です。

「北の呂布・南の笮融」と呼ばれた程の人でもあります。

ちなみに、笮融の最後は劉繇に攻められて逃走し滅びますし、なぜ演技の作者である羅貫中は、笮融の仏教の話しを挿入しなかったのか不思議に思う位です。

史実の笮融はハチャメチャな人ですし、ネタになるようなキャラになると感じています。

 

笮融が仏教勢力を作る

史実の笮融がどのような人かと言えば、陶謙の部下で重用されていた事が分かっています。

後に、お寺を作ったり仏教徒を集めているので、人を惹きつける何かがあったのでしょう。

そして、陶謙は広陵、下邳、彭城などの輸送の仕事を笮融に与えています。

この時に、笮融は仏教を知ります。

後漢初期に楚王英が仏教に傾倒していたからです。

楚王英は彭城を首都にしていたので、彭城付近は仏教が残っていました。

 

楚王英が仏教を広めていた

楚王英は、後漢の建国者である光武帝劉秀の子です。

2代皇帝の明帝の弟になります。

楚王英は、仏教を知り仏教を信じ庶民にも広めました。

中国で史上初めて仏教を信奉した王様でしょう。

楚王英は首都を彭城に定めて、そこを中心に庶民にも仏教を広めました。

しかし、この布教活動などが後漢の中央政府に疑いをもたれてしまい、結局、楚王英は自殺しています。

それでも、仏教は民衆の間で残り伝えられていたわけです。

指導者がいない仏教徒に目を付けたのが笮融です。

仏教を知ると「これはイケる!」と思ったのか、陶謙の任務を放棄してしまい仏教を広める活動に傾倒していきます。

 

笮融が仏教指導者となる

笮融は、仏教に目を付けて仏教を広めようとします。

そして、人々は集り財貨も笮融の元に集まってきます。

そこで、笮融は浮屠寺(仏教寺院)を作りますが、3000人を収容できると言う豪華絢爛なお寺でした。

人々も仏教が邪教でない事を知り多くの人が笮融の元に集まってきたわけです。。

ここまでの笮融は、割とまともな所もあるように思います。

しかし、笮融の暴走が始まるわけです。

 

笮融の暴走が始まり悪人となる

笮融は、後漢で最大の仏教保護勢力となります。

ただし、笮融自身が頭を丸めたり、念仏を唱えたのかどうかは分かりません。

記録がなく現在の僧の様な格好をしていたのかも不明です。

あと、笮融がどのようにして、仏教を広めていったのかも不明な点が多いと言えます。

高僧もいない笮融が、仏教徒を多く集めることが出来たのは謎が多いと感じます。。

ただし、笮融が中国一の仏教勢力になった事は事実です。

しかし、笮融の快進撃は長くは続きませんでした。

陶謙が曹操の父である曹嵩を殺した事で、曹操の怒りを買い曹操が徐州を攻めて老若男女の虐殺を始めたからです。

笮融は、曹操を恐れて広陵に移ります。

当時の広陵太守は、趙昱という人物なのですが、部下に襲わせて殺しています。

そして、広陵で略奪を始めたわけです。

つまり、笮融はこの頃から、極悪人の道を進む事になります。

 

信者に愛想をつかされる

これは私の想像なのですが、笮融は略奪により財貨を得る事になりましたが、信者からは愛想をつかされた可能性があります。

慈愛とかを教えているような人が、略奪を始めてしまったら、信者としてみれば「あれ?」と思うのが普通だからです。

「笮融の仏教ってどこか違う」と思っても不思議ではありませんし、「これじゃ盗賊と変わらん」と思った人もいるでしょう。

これにより笮融の元から多くの信者が離れたと思われます。

しかし、笮融にして見れば「お前らを食わせるために俺はやったんだよ!」と思うかも知れません。

後に、劉繇の配下になった事を考えれば、離れた人もいれば残った人もいると考えるのが普通でしょう。

僅かではあるが、悪行の噂を聞きつけて合流した盗賊の様な人もいる可能性があります。

 

劉繇に重用される

その後、笮融は劉繇と共に孫策を迎え討つ事になります。

太史慈も劉繇に合流しますが、太史慈は重用される事はありませんでした。

許劭が太史慈を嫌ったためです。

しかし、笮融の方は重用されました。

広陵でやった笮融の略奪は、許劭も知っていたでしょう。

しかし、許劭が笮融を批判したような内容は見つかりません。

普通であれば、太史慈よりも遥かに道義に外れた事を笮融はやっているわけです。

太史慈も詔書を破り捨てるなど破天荒な事をやっていますが・・。

しかし、太史慈は殺戮などは行っていない事実があります。

笮融が重用された理由ですが、太史慈は孔融を救うなどの武勇は鳴り響いていましたが、部下の数はほとんどいなかったはずです。

それに対して、笮融は数万の信者を抱えていたからではないでしょうか?

動かせる兵力の差が待遇に差をつけたようにも思います。

 

笮融が孫策を怪我を負わせるが

孫策と笮融は戦場で相まみえるわけですが、この時に孫策を負傷させています。

笮融の方は、孫策が死んだ可能性が高いと思ったらしいのですが、実際にはそれを策略にして孫策に利用されています。

孫策が流した孫策死亡説を笮融が信じた事で敗北し劉繇も孫策に敗れました。

劉繇と共に豫章に逃げ込む事になります。

尚、孫策との戦いを見る限りでは、戦いでの統率力は笮融は低いように思われます。

太平道の教祖で黄巾の乱を起こした張角と同様に、人に教えを広めたり信じさせるのは巧みであっても、戦いでの采配は苦手だったと言うべきでしょう。

悪人魂は抜けない

その後、笮融は劉繇に命令により朱皓の救援に向かいます。

そして、朱皓と争っていた諸葛玄(諸葛瑾、諸葛亮は甥)を破り戦死させています。

笮融は住民を扇動して諸葛玄に対して反乱を起こさせています。

笮融は、仏教を広めたように、軍隊を指揮するよりも住民を扇動する方が向いているように思えてなりません。

しかし、人間関係は得意だったかも知れませんが、笮融は野心家でもあります。

劉繇配下の薛礼と朱皓を殺害して独立の動きを見せます。

劉繇は、討伐軍を笮融に送り激戦となりますが、結局は笮融は敗れ去りました。

そして、山の中に逃げ込んだわけですが、捕らえられて殺されています。

この時に、笮融が「南無阿弥陀仏」と唱えて死んだかどうかは分かりません・・。

しかし、三国志の中でも史実の笮融は異色の人物であるように思います。

ただし、性格の問題もあり孔子やキリスト、仏陀、ムハンマドのように聖人にはなれなかったようです。

宗教系で言えば張角や張魯よりも小粒な感じがします。

尚、三国志の時代ですが、魏の曹操や蜀の劉備などは仏教には無関心だったようです。

孔子などの儒教の方が好まれたのでしょう。

それに対して、孫権は呉で仏教を篤く保護しています。

三国時代は仏教が盛んだったのは呉だと言う事です。

笮融の広めた仏教の影響が江南地方に残っていたのでしょう。

宗教って誰のため?

笮融を見ていると宗教って誰のため?と思えてなりません。

日本にも宗教団体は数多くありますが、教祖は高級車を乗り回したり飲みに行ったりと派手に生活をしている事もあるようです。

そして、信者はお布施をしたり、宗教を広めるために無料で活動している事が多いように思えてなりません。

自分が私腹を肥やすためにやっているのでは?としか見えない事もあるわけです。

その辺りは、どうなっているのかは詳しくは分かりませんが、笮融を見る限りでは私腹を肥やすためにやっているようにしか思えません。

広陵で略奪の限りを尽くす辺りは、仏教とかけ離れた行為だと感じるわけです。

笮融は、三国志の中で変な輝きを見せた人ではあるかと思いますが、宗教については考えさせられます。

張角の黄巾の乱や五斗米道の張魯、徐州の闕宣などもいましたが、天下を取れた人はいません。

日本でも石山本願寺が織田信長の抵抗勢力でしたが、最後は敗北しました。

宗教勢力だけでは、天下を取るのは難しいのでしょう。

宗教の教えは極端なのもあり、刺さる人には刺さりますが、刺さらない人には全く刺さらないのでしょう。

尚、私は仏教と言う事になっていますが、基本は無宗教です

 

 

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